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あと5センチ  作者: あじろ けい
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第4話 遠い横顔

「じゃあ、月曜日に」

 街灯の下に太一を置き去りにし、奈々子はすたすたと歩き始めた。背後から、パタパタと太一が駆けて来た。

「アジさ、俺の分、持ってくか? アジフライ、ダメになったし」

「いいよ。どうせおろせないから」

 魚売り場ではおろせると言ったんだったと奈々子ははっとしたが、太一は奈々子の嘘に気づいていなかった。

「台所を貸してくれたら、おろしてやるぞ」

 奈々子は足を止めた。太一は足を止めた奈々子に気づかずに数歩進み、ついてこない奈々子を振り返った。

 「台所を貸してくれたら」とは、奈々子の部屋にあがりこむつもりでいるのか。奈々子は太一の意図をさぐろうとその顔を凝視した。けげんな表情の奈々子の視線を受け、太一は何だとばかりに小首を傾げてみせた。下心はまるで感じられない。それはそれで、女としての魅力がないのかとさびしい気がしないでもない。

「アジフライの気分じゃなくなった」

 奈々子は再び歩き出した。奈々子が追いつくのを待って、太一は奈々子と並んで歩き出した。

「晩飯、どうすんの?」

「適当にすませる」

「カップ麺?」

 今さら見栄を張る必要はない。奈々子はうなずいた。

「作るの、めんどくさいし」

「駅前に、安くてうまい定食屋があるぞ。今度……」

 突然、太一が足を止めた。その場でレジ袋をのぞきこみ、太一はがっくりと肩を落とした。

「トイレットペーパー、買い忘れた。トイレットペーパー買いに『横綱』に行ったのに……」

「まだ開いてるんじゃないの? 今から戻って買ってきたら……」

 振り返った奈々子の視線の先に男がいた。野球帽にサングラス、顔の半分が隠れるほどの大きなマスクをしている。つい数分前、奈々子たちを追い越していった男がどの道をどう通ったのか、今は奈々子たちの後ろを歩いていた。

 暗くなってきたというのにサングラスをしているなんて、と妙に思ったから同じ男に間違いない。

 マスクとサングラスで顔はまともに見えない。不気味だと感じて奈々子は背筋が寒くなった。

 奈々子の見据える先を追って太一が振り返った。男はすっと脇道に姿を消した。

「明日にするわ」

 太一が奈々子の隣に歩み寄ってきた。凍りついている奈々子の腕を取り、「歩けるか」と声をかけた。恐怖で声を失っている奈々子はかろうじて首を横に振った。奈々子の手からレジ袋を取り、太一は奈々子の手を自分の腕にひっかけた。

「気づかないふりで歩いて」

 奈々子はおとなしく太一の指示に従った。怯える奈々子の歩調に合わせる太一は歩きにくそうだ。

「家、どこ?」

「この先の角を右に曲がって、二つ目の角を左に曲がったところ」

「遠回りするからな。あの男がまだうろうろしているかもしれないし」

 奈々子は素直に太一に従うしかなかった。

 溺れる者の藁をもつかむ思いで太一の腕につかまる。藁どころか、太一の腕は大木に等しいほどたくましい。

 曲がるはずの角を曲がらず、まっすぐに進む。

「『横綱』を出て、となりの薬局で買い物をして出てきたら、上原があの一本道に入っていくところだった。そのすぐ後にさっきの男が入っていったんだ。気になって後を追った。あの男、上原を追い越すわけでもないし、上原が止まると止まるんで、上原をつけているんだとわかったんだ。まずいなと思ったから、途中で追い越して牽制したんだけどなあ」

「それなら、怪しい男につけられていたって教えてくれたってよかったのに」

 男と奈々子の間に入った太一を、何も知らなかった奈々子はちかんと誤解してしまったのだ。

「怖がると思ったからさ……」

「そうだけど……」

 ゆっくり歩きながら、太一は時々背後を振り返った。奈々子は怖くて振り返ることができなかった。

 ふたりの足音は一つに重なって、背後には誰の気配も感じられなかった。

 並んで歩きながら、奈々子はそっと太一の横顔をうかがった。隣に並ぶと太一は余計に背が高く感じられる。横顔が遠い。

 眉根にむかって跳ね上がるしっかりとした眉、切れ長の目。三角定規をあてたような鼻。

 太一ほど背が高いと、昼間であっても前を歩く女性は後ろを警戒してしまうかもしれない。まして夜道ならなおさらだろう。普通に女性の後ろを歩いているだけなのに、ちかんか何かのように誤解されて、嫌な思いをしたこともあったかもしれない。

 ちかんかと思ったとつい口に出してしまったことを謝ったほうがいいかもしれない……。

「あのさ……さっき、ちかんかと思ったとか言っちゃって、ごめんね……」

「ああ……。こっちこそ、悪かったよ、怖い思いさせて……」

 太一は歩きながら背後を振り返った。

「残業して帰りが遅くなった時なんかにさ、前を歩いている女の人が急に早足になるのって、そういうことだったんだな」

「気、悪くしないで」

「女の人は用心するに越したことはないと思うし」

「うん……」

「怖がられたことは何度かあるけど、立ち向かわれたのは今日が初めてだったな」

「だって、悔しいじゃない。逃げ回るだけだなんて」

「相手が俺だったからよかったものの、どうなっていたか、わかんないんだぞ」

 太一の忠告に、奈々子はあらためて背筋が凍る思いだった。サングラスの男は中肉中背だった。とはいえ、奈々子より十センチから十五センチは背が高い。いくら奈々子の気が強くても、奈々子を襲おうという悪意を持った人間の力は強い。仮に、サングラスの男が太一ほどの背の高い人間だったら、奈々子に決して勝ち目はない。今さらながら、無鉄砲だったと反省すると同時に、太一が知り合いでよかったと奈々子は胸をなでおろした。

「つけられている様子はないみたいだけど……」

 太一が足を止め、背後を振り返った。つられて止まった奈々子は恐る恐る振り返った。暗い夜道には奈々子と太一の他に人の歩いている気配はなかった。

「ここ、どこよ?」

 太一の発した一言にはっとし、奈々子は前に向き直った。

 サングラスの男をまこうとして適当に角を曲がったりしているうちに、見慣れない場所に足を踏み入れていた。住宅街はどこも似たようなつくりで、考えようによっては迷路のようなものだ。

 奈々子はスマホを取り出し、自宅マンションを探しだした。

「こっちだって」

 スマホ片手に奈々子は先頭切って歩き出した。アプリが示す道順をたどっていけば自宅マンションに着くはずだ。

「あみだくじ、みたいだな」

 道順を示す画面を見下ろしながら、太一が言った。奈々子のマンションまでの道のりは角にぶつかるたびに曲がるを繰り返している。サングラスの男の尾行をまくために、角を曲がるを繰り返していたせいだろう。

「なにもさ、アプリ通りでなくても、こっちを通っていけばいんじゃないの?」

 太一は遠回りとなる直線の道を指さした。

「また迷ったら嫌だから、アプリ通りに行く」

 不満げな太一だったが、しぶしぶ奈々子の後をついて歩き始めた。

 引き返し始めてから二十分ほどが経った。とっくにマンションに着いていないといけないというのに、奈々子と太一はいまだに住宅街を彷徨っていた。

「上原……ここ、さっき通ったぞ」

 少し背後を行く太一が声をかける。

「そんなはずないよ、勘違いじゃない?」

「確かに来たぞ」

「住宅街はどこも似ているから、同じ場所にいるように思えるんじゃない?」

 奈々子はスクリーンを睨みつけながら、歩き始めた。太一は続かなかった。

「左側のコンクリート塀にペンキのいたずら書きが、右側の家の車庫にある車は左のヘッドライト部分が割れている。その先の家の玄関先には犬の置物……。まだ続けるか?」

 太一の声だけが奈々子を追いかけてきた。太一の言葉は、奈々子の行く先に繰り広げられる光景を的確に描写していた。玄関先に犬の置物がある家は太一の視界から遠く離れている。見えているはずがない。予言しているわけでもない。

「さっきの角を曲がったらダメだったのかも。戻ってまっすぐにいけば――」

 奈々子はくるりと背をむけたかと思うと来た道を引き返し、立ち止っている太一の横を通り過ぎた。

「迷ってるんじゃないの?」

 またしても太一の声だけが奈々子を追ってきた。

「アプリの通りに歩いていて、どうして迷うのよ」

「アプリの通りに歩いていないから、迷っているんだろ」

 ゆっくりした足取りで太一が奈々子に追いついた。

「かしてみ」

 太一は奈々子のスマホを取り上げてしまった。夜道にぼうっと淡く光るスマホの画面に太一は見入っていた。手元を見ようと前傾姿勢でも、太一の端正な横顔は遠い。

「よし」

 そう言うなり、太一はスマホを奈々子に返し、さっさと歩きだした。奈々子は慌てて太一の後を追った。

「地図、見ないで大丈夫なの?」

「見たって大丈夫じゃなかっただろうが」

 太一の皮肉にむっとするも、一人にされる恐怖から奈々子はぐっとこらえた。

 夜道をいく太一の足取りはしっかりしていた。まるで知っている道を歩いているような確かな足取りだ。サングラスの男がついてきていないと知っているので、ぐんぐんと前を向いて歩いていく。歩幅の大きな太一に、奈々子はついていくのがやっとだった。

 遅れまいと太一の背中を見続けていた奈々子の目が見慣れた景色をとらえ始めた。いつの間にか、自宅マンションの近くまで来ている。さっきまで抱えていた心細さが掻き消えていった。

 見知った場所を歩くのに時間はかからない。あっという間に奈々子はマンションに着いてしまった。

「ここ、私のマンション」

 買い物をしに外出しただけなのに、一日中出かけていたような疲労感がどっと押し寄せてきた。そうだ、買い物だと奈々子は思い出し、レジ袋をさがした。

 レジ袋は太一が持っていた。

「忘れてた」

 太一は持っていたレジ袋を差し出した。カップ麺やらスナック菓子やらの入ったレジ袋はまるで奈々子の胃袋のようだ。

「ありがとう」

 レジ袋を受け取った奈々子がエントランスへの階段をのぼろうとすると

「もう、あの近道を使わないほうがいいぞ」

 背後から太一の声が追いかけてきた。

 振り返った奈々子は、小さくうなずいた。

「じゃ、俺んち、この先だから」

 太一はすたすたと夜道に消えていった。背が高い分、歩幅も広い。送ってもらったお礼を言っていないと後ろ姿を追ったときには太一はすでに遠くを歩いており、奈々子のマンションを少し行った先の曲がり角の先に消えてしまっていた。

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