2章 : 王からの手紙
(ふふっ。お目覚めのようだな)
(お前は……?)
またか、またなのか。
ボクは起き上がると、辺りを見回した。
なにもない。
ただ、どこまでも、果てしなく闇が続いている。
闇がボクを飲み込もうと絡みついてくる。
ボクを包む闇、ボクのカラダを包む闇、ボクのココロを包む闇。
これが日常。これが現実。
それでもボクがこの空間に馴染むことはない。
ボクは駆け出す。
失ってしまった何かを求めて――
ボクは叫ぶ。
失ってしまった大切なモノを求めて――
大キライだった友人でも、ボクを見るとよく吠えた犬でも、道端に転がっている石でも。
今のボクにとっては何でもよかった。
何かに触れることで、この漆黒の闇を振り切りたかった。
そして、ボクが生きている意味を掴みたかった。
ボクは走る。走り続ける。
だれか!
だれか教えてくれ!
無限の空間にボクの声だけが木霊する。
ふと足と止める。
ボクは走っていたのだろうか?
この世界には何も存在しない。
地面だって、空だって、そしてボクのカラダだって存在しない。
それなら、ボクってなんなのだろう? どうしてこんなところに居るのだろう?
自分という存在の意味――それはいったい何なのだろう?
――どうしたの?
突然、ボクのココロの中に何か暖かいものが流れ込んできた。
ボクは驚いて顔を上げる。
まばゆい光がボクを包む。
その時、ボクは自分の目を疑った。
そこには、今まで見たこともないような天使が立っていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「どうしたの、どうしたの、ライザ!」
「うう……」
「ライザ、ライザったら!」
「――はっ!」
ライザは飛び起きると、何かを求めるように辺りを見回した。
(闇の世界じゃない。ここは――現実?)
ふう、と安堵の溜め息を漏らす。
ライザにとって、こうしてうなされることは常日頃となっていた。
ライザには過去の記憶がない。
気づいた時には、土砂降りの雨の中、寂れた街の片隅に立ち尽くしていた。
その時見上げた空は、自身の心を表しているようで気に食わなかった。
何も覚えていなかった。
自分の家族のことも、自分の故郷のことも。すべて忘れてしまっていた。
あれから四年半ほど経つが、唯一思い出したのは自分の名前だけだ。
だから、失われた過去、欠落した記憶の隙間が自分を闇へと誘うのだ。そう考えていた。
改めて見回してみると、見慣れた顔の少女が心配そうな面持ちでこちらを見つめていた。
「なんだ。居たのか、リーナ」
「…………」
(あれ、反応がないな。いつもなら『バカっ!』とか言って、風船みたいに顔を膨らませるのに)
彼女は滅多にしない、渋い顔をしていた。
「どうしたんだよ?」
「…………」
「……リーナ?」
「ライザったら、またうなされていたんだよ? リーナ、すっごく心配したんだから……」
ライザは、リーナの顔を見つめる。その幼い顔は真剣そのものだった。
その顔を見ていると、からかおうとした自分が恥ずかしくなってきた。
「悪かった。そんなに心配してくれてるなんて思わなかったんだ」
「気にしてないからいいよ。でも、本当にだいじょうぶ? ここの所、毎日のようにうなされてる」
「心配かけてごめんな。ガキでもないのに、迷惑ばかり掛けて」
ライザは、リーナの頭を優しく撫でてやった。
すると、途端にリーナが満面の笑みを浮かべた。
「えへへっ。そのことなら気にしないで! だってリーナは、ライザのラヴァーだもん♪」
「なんだ、ラヴァーって?」
「分かんない?」
「ああ、さっぱり」
「全部言わせちゃう気? もう、ライザって恥ずかしがり屋さんなんだね」
「だから何なんだって」
「コ・イ・ビ・ト・だ・よ♪」
それを聞いた途端、ライザは「またか」とばかりに頭を抱える。
「ちょっと待て。どうして、そうなるんだ?」
すると、リーナは待ってましたとばかりに瞳をキラキラと輝かせながら話し始めた。
「忘れもしない。あの日はすごく雨の強い夜だった。リーナがマカオの悪い人達に因縁をつけられて、あわや乙女の貞操のピンチという時に、さっそうとライザが登場して命懸けでリーナのことを守ってくれたよね。あの時、リーナは感じたんだ。この人がリーナの――」
「はいはい、ストップストップ。皆まで言わなくてもいい。どうせ『白馬にまたがった王子様』とでも言いたいんだろ?」
「え、どうして分かっちゃったの? ライザってすごい!」
「あのなあ、いったい何回その話を聞かせれば気が済むんだ? いい加減、それはもう聞き飽きた」
「そうだっけ?」
「そ・う・だ・よ」
こちらが顔をしかめると、リーナはきょとんとしていた。
(……本当に驚いているのか? まったく、こいつはいつもこうなんだな)
実際、リーナの言っていたことは妄想ではなく事実だ。
確か数年前の雨の日だったと思う。
ロスタリカ共和国の港湾都市マカオで、深手を負わせたターゲットを追っている時だった。
ひとりの少女がチンピラ共にからまれていたんだ。
ここで奴を見失ったら、取り逃がす可能性が高かった。
今回の仕事は久々に舞い込んできたもので、どうしても失敗する訳にはいかない。
けど、襲われている少女が居るのに、見て見ぬ振りは出来なかった。
ライザはターゲットの追撃を諦めて、少女の救出に向かった。
おかげで、その後ラスタの奴に大目玉をくらったのは言うまでもないが。
相手は所詮、街のチンピラだったから、簡単に追い払うことは出来た。
だが、奴ら以上にしつこく食い下がってくる奴がいた。
ライザが助けてやったその少女だ。
その手強さは尋常じゃなかった。
なぜか妙に気に入られてしまったらしく、なんと、自分達と一緒に旅をしたいとまで言い出したんだ。
まったく、とんでもないことを考えるものだ。
仕方ないので、夜も更けた頃に彼女を残してそっと宿を抜け出した。
自分達がいなくなってしまえば、彼女も諦めるだろうと高をくくって野宿したんだが、朝起きたらその少女がその場にいて当然のように朝食を作って迎えてくれたのさ。
それほどまでに彼女の気持ちは真剣なものだったらしい。
それがこいつ、リーナだ。
あれ以来、ずっと一緒に旅を続けている。
最初は足手まといになるかと思っていたけど、蓋を開けてみたらなかなかの魔導師だったんでこっちが驚いた。
この世界で魔術を使えるものはほんの一握りに過ぎない。
魔族の連中が使う秘術を人間が使おうというのだから、風当たりが良くないのは当然のことだろう。国によっては禁忌の技として、使っている者には処刑を命ずる所もあるくらいだ。
それに誰もが使えるという訳ではなく、家系(血)や本人の潜在能力も関係してくる。俺のように魔術を使えない人間は、魔術が練り込まれた武器(俺の場合はアンサラー)を使うしか手がない。
ロスタリカの都心部では、魔術は比較的迎合されており、彼女の叔父が経営している魔導道場で修行していた部分も大きかったのだろう。リーナは、家系的な面、環境的な面において、申し分ない存在だったのだ。
おかげで無碍にすることも出来ず、今に至る訳だ。
「どうしたの、じっとリーナの顔を見つめたりして……? もしかして、見とれてた?」
「断じて違う」
と、ライザは即答していた。
「もぉ~、ライザのイジワルぅ」
「オメェら、朝っぱらから夫婦漫才か?」
声がした方に振り返ると、ラスタの奴が苦笑してこちらを見ていた。
ライザは穴があったら入りたい気分だった。きまりが悪くなり、軽くベッドの角を蹴飛ばす。
「話があるんだ。ちょっといいか、純情青年」
「誰が、純情青年だ!」
「そうやって、顔を真っ赤にしてるテメェのことだよ。リーナの方がよっぽど大人だな」
「ほんと?」
リーナは、なぜか嬉しそうに体をくねらせる。
「余計なお世話だ!」
「それで、話ってなんなの? 相談事なら、リーナが力になるよ」
と、ベッドに腰掛けると、リーナはさあ話してちょうだいとばかりに膝をぽんぽんと叩いた。
ライザは大きくため息をつく。
「あのなぁ、ラスタの奴は俺に用があるって言ったんだぞ?」
「いいじゃない。――あ、もしかして、リーナに隠れてふたりで悪いこと考えてるんでしょ?」
「そんな訳ないだろ!」
ラスタは、呆れ顔で、懐にしまっておいた手紙を取り出した。
「新しい仕事の依頼だ」
手紙を受け取ると、ライザは嬉しい悲鳴を上げた。
「一件片づけたと思ったら、もう次の依頼か。この国に来てからと言うもの、俺達の仕事も大繁盛だな」
ラスタは嬉しそうに笑う。
「なにせ『ボイス・クリフォート(魔人の森)』って名のつく土地まであるくらいだ。魔族の数だって他の国の比じゃねぇだろ。まあ、少しの間、金を蓄えるにはもってこいの土地なんじゃねぇか?」
「その割には、酒だ女だって、すぐ持ち金を使い果たしてしまうのはどこのどいつだ?」
「うるせぇ」
と、ラスタは悪態をつく。
リーナにもほとほと困っているが、ラスタの奴もまた困った男である。
奴に言わせれば、ライザはよほど真面目で面白みのない堅物らしいが、逆の立場から言わせれば、奴は、酒を飲むとすぐ暴れるわ、平気で女は買うわ、とにかく稼いだお金はすぐ使い果たしてしまう悪党である。
それなのに、妙に馬が合うのは、お互いがそれぞれ相手にないものを持っているからなのかもしれない。
気づけば、互いを最高のパートナーとして認識していた。
それ以来、《マジッド・メシャリム》という名で、各地に出没する魔族を倒しながら旅を続けている。
三年近く経った今では、その名もそこそこ知れ渡るようになり、こうして仕事も来るようになった訳だ。
「リーナ、つまんなーい」
と、興味ないといった感じで、リーナはベッドから腰を上げた。
馬鹿話をしているふたりから手紙を取り上げると、退屈を紛らわそうと封を切った。
その途端、リーナのぱっちりとした瞳がダイヤモンドのように輝いた。
「ふたりとも、見てみて! すごいよっ!」
ライザ達は、何をそんなに驚いているんだといった様子で、呆れ顔のまま手紙を受け取った。
しかし内容を読んでみて、彼女が興奮している訳を理解した。
ラスタも目を丸くして驚いている。
「サイデルトキア王の護衛か……。また、とんでもねぇ依頼が来たもんだな」
「寄宿舎、食事つきの上に、この報酬だなんて信じられない! それも、全員でこの金額じゃなくて一人一人にだよ? きっと王様だからすごいお金持ちなんだ!」
リーナは、嬉しそうに部屋中をスキップして回った。ふたつのおさげが生き物のようにぴょこぴょこと跳ねる。
すっかり自分の世界に入ってしまっているようだ。
「ケーキ、ステーキ、アクセサリー、宝石……! あ~、みんながリーナを待ってるわ」
ライザは、そんなリーナを見て微笑みながら、再び文面に目を通した。
(王宮か……。当然、この国の情報が一気に入って来るはずだ。もしかしたら、何か手掛かりになるようなものがあるかもしれない)
「どうしたの、ライザ?」
「えっ……!」
と、ライザは驚いて顔を上げた。
先程までスキップをしていたリーナが、何やら心配そうにこちらを見つめていた。
「何だよ?」
「だって、なんだかすごく真剣な顔してたから」
「え、そんな顔していたのか?」
「うん……」
この子は時々、妙に鋭い。
すると、ラスタがリーナの頭にぽんと手を乗せた。
「どうせ、貰う金の使い道でも考えてたんだろ? そういうのを取らぬ狸の皮算用って言うんだ、馬鹿」
「うるさい。お前に言われたらお終いだよ」
「違いねぇや」
憎まれ口を叩きながらも、ライザは心の中で礼を言っていた。
自分の記憶のことは誰にも話してなかった。話すことで、相手に不要な心配をさせたくなかった。
もしかしたらラスタの奴は勘付いているのかもしれない。
だが敢えて何も訊いて来ようともせず、それ系の話で困っていると自然に助け舟を出してくれる。
ライザは、彼のそんなさり気ない優しさも気に入っていた。
「それで、この仕事受けてみるのか?」
「「当然」」
ラスタとリーナは声を合わせて即断した。よほど大金に目が眩んだのだろう。早速、出発の準備を始めていた。
(この仕事は範疇外なのだが……、などとは言ってられないか。俺もこの仕事は受けた方がよさそうな気がする)
ライザは懐に手紙を仕舞い込むと、さっと外套を身に纏った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
眩しい日差しを手で遮るようにして空を仰ぐ。
徒歩で向かうこと二日、ようやくサイデルトキア王国の首都に辿り着いた。
さすが世界で今、最も繁栄していると言われている都市である。その壮大さは他の小さな街とは比べ物にならない。
街を取り囲むようにしてしっかりとした城壁が作られており、石像かと思われるくらいに、身動きひとつ取らない兵士達が厳重に首都の守りを固めている。恒久平和をイメージした『固く繋ぎ合った手と手』を描いた国旗が力強くなびいている。
ゲートをくぐると、先程までの荘厳な雰囲気とは打って変わって、人びとの生の息吹が流れ込んできた。先日までいた村とは、すべてのものが違う。
「すっご~~い! なんだか圧倒されちゃうね。ロスタリカにはこんな街なかったもん」
「確かにそうだな」
リーナは瞳をキラキラさせてはしゃいでいる。
初めて訪れたリーナにとって、この街の何もかもが目新しく映っているようだ。
「もともとサイデルトキアには城塞都市が多いんだ。かつてガーザ帝国が隆盛を極めていた頃には、歴代の皇帝達は少しでも領土を広げんと戦争をやっていたらしい。その分、ここでは彼らの攻撃から身を守る必要があったんだ」
「ガーザって、ロスタリカが出来る前にあった国のこと?」
「そうさ。十数年前にクーデタが起こるまでは、今のロスタリカ共和国はガーザ帝国って言われていたんだ。もともと小国だったガーザは、アトラス皇帝時代に富国強兵を図り、次々と隣国を占領し、支配下に置いていった。皇帝の夢は他民族をひっくるめた巨大な帝国を作ることだったんだ。領地を拡大した皇帝は、今度はサイデルトキアを狙ったんだけど、この国の防備は世界屈指と言われていたからね。そう易々と占領されたりしなかった。両者の戦いは何十年にも渡り、戦争で疲弊したガーザの民衆が決起してクーデタを起こしたんだ。そして最後の皇帝サマルは民衆の前で首を斬られ、新しく共和政府が樹立されたのさ」
「ふ~ん」
「お前、ロスタリカ出身なのに知らないのか?」
「うん。生まれる前のことなんて興味ないもん。それにリーナが興味あるのは、ライザのことだけだよ♪」
「はいはい。勝手に言ってな」
「あ~、なんか馬鹿にしてない?」
「お前に構っていたら、あっという間に一日が過ぎてしまうからな。時間の無駄だ」
「もぉ~、何かヤな感じだよぉ~」
「テメェら、漫才は後でやれ! さっさとしないと置いてくぞ!」
声をした方を見ると、ずいぶん先の方でラスタがイライラしながら立っていた。
「待って、リーナも行く!」
リーナは、慌ててラスタの後を追った。
ライザは、つかつかと歩くラスタの後ろ姿を眺めながら、頭を掻いた。
(また、あいつの悪い癖が出たか?)
◆ ◇ ◆
「なんだって! 国王が居ないだと!?」
ラスタは、門番の胸倉を掴み上げる。
「放すんだっ! この人に八つ当たりしても仕方ないだろっ!」
「ちっ」
ラスタは締め上げていた手をぱっと放した。門番は、膝をつくと、苦しそうに咳込んだ。
「済まない。あいつは少々気が立ってるんだ」
「い、いえ……」
門番は首を撫でながらオドオドとしている。
「ラスタ、この人に謝れ」
「こんな奴に謝る義理なんかねぇよ」
「ラスタっ!」
キッと睨みつけると、ラスタは知ったことかと言わんばかりに顔を背けてしまった。
なんとも言えない嫌な空気が流れる。
仕方がないので、素早く話題を切り替えることにした。
「それで、国王様は何か重要な御用事があって城を空けていらっしゃるのか? 俺達は、国王様から依頼の文を頂いてやって来たのだが」
「いえ、それが……。ライリス様は時々、ふいにどこかへ居なくなってしまわれるのです。なんでも街のあちらこちらを歩き回っておられるとか」
「それはいったいどういうことなんだ?」
「さぁ、私には……」
「ふざけんなっ!」
ラスタは思いっきり壁を蹴りつけた。どうやら堪忍袋の緒が切れたらしい。
「後は任せた。やってらんねぇよ」
「ラスタ!」
ラスタを止めようとしたが、彼はすたすたと階段を下りていってしまった。
門番は恐怖のあまり、真っ青な顔をしたまま固まっていた。
リーナは、どうしようといった顔つきで、ライザの方を見る。
「放って置けよ。あいつは自分の思い通りにならないと気が済まない性質だって知ってるだろ? どうせあいつのことだから、先に幾らか金を貰って、飲みにでも行く気だったんじゃないか?」
「う~、でもでも、やっぱり放って置けないよ。リーナ、ラスタを追いかける!」
「あ、おいっ! リーナ!」
ライザは、また大きくひとつ、ため息をついた。
◆ ◇ ◆
「この街のどこかにいると言われてもな……」
ライザは、辺りを見回しながら、街中を歩いていた。
リーナやラスタともはぐれてしまい、出来ることと言えば、その常識外れな国王様を探すことくらいだった。
「この辺で、国王様を見かけませんでしたか?」
「アンタ、何を言ってるんだ? 国王様なら、城に居るに決まってるだろ?」
(そりゃ、最もな意見だな……)
ライザは、心の中でその人に相槌を打っていた。
そもそも国を治めるような偉い人物が街中で遊んでいるはずがない。
探すとしても『ライリス様』という名前以外何も分からないのだ。この状態では、雲を掴むようなものである。
(……大人しくラスタ達の行きそうな場所でも当たってみた方がいいか?)
その時だった。右手の方から、甲高い悲鳴が聞こえてきた。
ライザは、咄嗟に駆け出していた。
人が悲鳴を上げる声など、もう聞き飽きていた。
魔族が突然現れたか、あるいは馬鹿な男が白昼堂々女に襲い掛かったか。
いずれにせよ、人の悲鳴を聞かぬ日など、数える程しか記憶にない。
長年の勘からすると、今回は前者の方であろう。
何とも言えぬ異様な雰囲気が充満している。
やっとのことで広場に辿り着くと、逃げ惑う人びとの中で一匹のモノが暴れ回っていた。
(こいつは、魔獣か……)
「グゥゥゥゥゥゥゥ……」
巨大な獣が狂ったような唸り声を上げる。
ぱっと見た限りでは犬のようにも見えなくはないが、明らかに図体がデカイし、魔族特有の波動が感じられた。
(どうして、いきなりこんな街中に現れたんだ? ――まさか、《クリフォート》が街に入り込んでいるのか!?)
長い間、魔族を狩ってきた経験からすると、力のある魔族達は自分の力を分け与えることで自分の眷属を作り出すことが出来るようだ。
同業者の間では、彼らのような上級クラスの魔族のことを《クリフォート》と呼んでいる。
詳しい仕組みは分からないが、力を植えつけられた者は、動物であれ、植物であれ、人間であれ、気が狂ったように片っ端から人間達に襲い掛かるのである。
「た、助けてくれぇ~~」
「いやぁぁぁっ!」
「どけぇ!」
近くにいた人びとは、完全にパニック状態に陥っていた。
われ先に魔犬の脅威から逃れんと走り回っている。
「がぁっ……」
逃げ惑っていたひとりの中年の男がつまずいて転んだ。
飢えた魔犬は、すかさず彼の体にむさぼりつく。
「ひぃぃぃぃ! た、助けてくれぇぇぇぇ!」
男は、生きたままバリバリとその体をむさぼり食われていく。
ライザは、咄嗟にその光景から目を背けた。
(くっ……! 多少の犠牲はやむを得ないか……)
「みんな、慌てるんじゃないっ! 落ち着いて避難するんだっ!」
ライザは、込み上げる怒りを抑えながら、逃げ惑う人びとを上手く先導すると、これ以上の被害を防ごうと努めた。パニックに陥った人間ほど、何をしでかすかわかったものではない。
逃げ惑っていた人びとの避難を終えた頃には、男の肉に飽きたのか、魔犬が鋭い目で新たな獲物を探していた。
その口からは、血に混じってダラリとよだれが落ちていた。
ライザは静かに鞘から魔剣アンサラーを抜くと、敵に向かって身構えた。
精神を集中させる。
「魔剣アンサラーよ。我、汝に命じ――」
その刹那、敵もこちらの殺気を感じ取ったのか、猛烈なスピードで襲い掛かってきた。
「――なっ!」
ライザは、魔犬の牙があと数ミリで達しようという所で無意識に体をひねっていた。
凄まじい速さの真空波がライザの外套をえぐる。
(と、とんでもない速さだ!)
かわしたと思ったのも束の間、敵はさっと向きを変えるとすぐさま飛び掛かってきた。
「くっ……!」
ライザは、再び上手く敵の攻撃をかわした。
お返しにとばかりに、魔剣アンサラーを振り下ろす。
直撃はしなかったものの、魔犬の体をかすめた。
魔犬は怒りの声を上げると同時に、口から何かを吐き出した。
「……!」
ライザは、咄嗟に外套を投げつけていた。
ジュウ、と物凄い音を上げるとともに、一瞬にして外套がドロドロになってしまった。
(消化液か……。どこまでふざけた野郎だ。先日倒した馬鹿どもが可愛く見えるぞ)
ライザは眉を顰めながら再び魔犬に突っ込んでいった。
魔犬も血で真っ赤に染めた口を広げながら飛び掛かってきた。
ライザは寸での所で跳躍し、魔犬の牙をかわした。
魔犬は悔しそうな声をあげると、消化液を空に向かって吐き掛けた。
消化液がライザの片足を捉える。靴がブスブスと音を立てながら溶け始めた。
「くっ……!」
激しく刺すような痛みに、ライザはバランスを崩した。
魔犬はすかさず引き裂けんばかりに口を開いて飛び上がった。
陽光を浴びて、魔犬の牙がキラリと光る。
ザクリ、と脇腹に猛烈な痛みが走る。
ライザは無意識のうちに、アンサラーを魔犬目掛けて振り下ろしていた。
「グギャァ!」
魔犬は大きく悲鳴を上げると、噛みついていたライザの体を振り払った。
ライザは、上手く受身を取って立ち上がると、噛みつかれた脇腹にそっと手を当てた。
どろりとした感触と共に手のひらが真っ赤に染まっていた。
(なかなかやってくれるじゃないか……)
ライザはアンサラーを両手で握ると、体中の痛みを振り払いながら精神を一点に集中させた。
「魔剣アンサラーよ。我、汝に命ず。今その力を解き放ちて、悪しき者どもを打ち払いたまえ」
すると辺りの空気の流れが変わり、アンサラーが不気味な色を帯び始めた。
痛みのあまり転げまわっていた魔犬もその異変に気づいた。
ぱたりと痛がるのを止め、突然怯え始めた。
唸り声を上げながらじりじりと後退していく。
「はあっ!」
一瞬神々しく輝いたかと思うと、アンサラーはドロドロとした気を放出し始めた。
ライザの髪がなびき、空に向かって立ち上がる。
その目は、見るだけで心臓が止まりそうなほどの狂気に満ちていた。
「ギャゥン!」
突然、魔犬は情けない声を上げるとライザに背を向けて逃げ出した。
「…………」
「!?」
魔犬は、ハッとして立ち止まった。
必死にライザから逃げていたはずだった。背を向けて走り出したはずだった。
それなのに、目の前にはライザが立っていた。
黒々しい魔剣アンサラーを振り上げたライザが立っていた。
ライザは、目にも止まらぬ速さでアンサラーを振り下ろした。
その瞬間、魔犬の体は、綺麗に真っ二つに引き裂かれていた。
「ギャウ~~~~ン!」
辺り一帯に、魔犬の悲鳴が響き渡った。
それと同時に、体の中から飛び出した綺麗な玉がふたつに割れて消えた。
「ぐっ……!」
ライザはアンサラーを地面に突き刺すと、膝を折ってガクリと頭を垂れた。
心臓がバクバク鳴っている。あまりの音の大きさに、気が狂ってしまいそうだった。
呼吸を整えながら魔犬がいた方を見てみると、真っ二つになった子犬が横たわっていた。
それを見て、近くの建物に避難していた幼い女の子が飛び出してきた。
「ペロ……、ペロぉ……、どうして……」
女の子は、死んだ子犬をかかえながら泣きじゃくっていた。
(くっ……! 《クリフォート》のほんのイタズラってことかよ……?)
ふいに寄りかかっていたアンサラーが倒れた。
ライザは激しく地面に叩きつけられる。
何とか起き上がろうとしたが、全く力が入らない。
まるで、地球の重力が何十倍にもなったかのようだった。
(やばい……、目の前がかすんできた……)
ライザは、最後の気力を振り絞って仰向けになった。
陽光がライザを照らす。その光がなぜだか妙に心地よかった。
(まさかこんな所で死ぬなんて夢にも思っていなかったな……)
(こんな姿、ラスタが見たらなんて言うだろう?)
(オメェ、何遊んでんだよ、かな? はは……)
(は……)
(……………………)
(………………)
(…………)
――あれ?
(…………)
――どうしたの?
(…………)
――けがしてるの?
(……えっ……)
(きみは、てん……し……?)




