この雨が止む前に君との距離を詰める、いやちょっと待とう(三十と一夜の短篇第57回)
いつもの通学路を歩いていると、雨がぱらつきはじめた。天気予報通り、と手にした傘を開いて顔をあげたところで、少し先に立つ電柱の根元に赤い傘のひとがしゃがみこんでいるのに気が付いた。
(具合でも悪いのか?)
声をかけようかと悩んでいるうちに、しゃがんだ誰かの足先にある段ボールが目についた。
(子猫でも入ってるのか?)
おおかた、捨て猫か捨て犬の箱を見つけて立ち寄ったけれどこれから学校だからと困っているのだろう。傘のふちから覗くスカートは、俺の通う高校の制服だ。
この通りは細く通学路としては穴場で人目が少ないせいか、放置されたゴミをちょくちょく見かける。
(だからって、さすがに動物捨てるのはなぁ……)
ゴミが放置されているだけでも気分が良くないのに、生き物が捨てられているとなるともやもやでは済まない不愉快さがわく。
(この傘の持ち主も、そう思ったのかな)
どういう行動に出るだろう、とすこし離れたところで脚を止めて見ていると、赤い傘が傾いた。段ボールのほうへ傘が傾けられたことで、これまで隠れていた誰かの背中が見えてくる。制服の肩に触れるか触れないかの長さの自然な栗色の髪に雨の雫がぽつぽつと触れる。
(あれ? 吉田?)
その背中に見覚えがあった。
クラスメイトの吉田だ。たぶん。
一番後ろという勝ち組の座席をゲットした俺は、教室の中ほどに座る吉田の背中を日々視界に収めている。けれど見ているというほど注視したことがないから確証がない。
声をかけるべきか、否か。
迷っているうちに吉田が傘からすっかり身体を出して、雨に濡れながら段ボールに声をかける。
「これから学校だから、今は拾ってあげられないの。帰りにきっと連れて帰るから、待っててね」
後ろ髪を引かれています、と言わんばかりの表情で告げる横顔は、やはり吉田だ。
一歩、段ボールから離れかけた彼女は、けれど離れがたかったようで段ボールに近寄る。そして、手にしていた鞄を漁って何かを取りだした。
ビニール素材で花柄の……ショッピングバックだろうか。
ちいさく折りたたまれていたそれを広げた吉田は、しゃがみなおしてそれを段ボールの下に敷こうとしているようだ。けれど、箱が重たいのかうまくいかず、吉田がどんどん濡れていく。
そうまでして、捨てられた命を助けようとしている彼女を見て、俺の胸に謎の感動が湧く。
教室ではいつも本を読んでいてろくに話したことのない吉田と、無性に話したくなってきた。
この気持ちはなんだろうか。戸惑いながらも、手放したくない。
そこまで思ったところで、俺はハッとして駆け寄った。見とれてる場合じゃない。さっさと手伝わないと彼女がびしょぬれになってしまう。
「吉田、手伝う、よ……?」
慌てて声をかけて近寄った俺は、吉田に傘をさしかけながら段ボールのなかに目をやって唖然とした。
吉田の赤い傘がかけられた段ボールのなかには、びっちり本が詰まっていた。
犬や猫ではない。
無機物の、大小さまざまな本が詰められるだけ詰まって道ばたに放置されていた。
「本……?」
つぶやきながらまばたきをしてもう一度目を凝らしてみるが、やはり本だ。
どう見ても本。
雨に濡れて震える哀れな命ではない。やや古びて統一感もない本の群れは、迷惑な放置ゴミのひとつでしかない、はずだ。
「そう、段ボールに水がしみないように、下にこれ敷くの。本に水が浸みたら大変だから」
吉田はちらりともこちらを見ずに、せっせと広げたショッピングバックを段ボールの下に詰め込んでいる。それは重たいだろう。ひと抱えもありそうな段ボールにびっしり本が詰まっているのだから。
(ていうか、犬猫なら持ち上がらないほど重いわけないよな。本かあ……)
俺は生き物でなかったことに拍子抜けしてしまったが、吉田はその無機物を必死に救おうとしている。
この寒いなか自分が濡れるのも構わずに、見たこともない一生懸命さでがんばっている。
(え、なんか、かわいいな)
その横顔が、見慣れて風景の一部としか思っていなかった吉田の横顔が、不意にかわいく見えてきた。
これまでろくに話したことなかったのが、勿体ないなんて思ってしまう。
「それ、預かってもらおう」
気づけば、そう言っていた。
「え?」
きょとんとした顔で見上げてきた吉田は、ようやく俺に気が付いたのだろう。「あ、クラスの……」とちいさくつぶやいている。
「そう、同じクラスの渡辺。俺がときどき行く店が近くにあるから、そこに置いといてもらえないか聞いてみよう」
誰だっけ、と言われたくなくて名乗って、俺は段ボールを抱え上げた。ずっしり重たいけど、持てないほどじゃない。まだ濡れてなかったおかげで、段ボールも壊れないだろう。
「あの、えっと」
「吉田、悪いけど俺の傘持ってきてもらえる?」
段ボールで両手がふさがってしまって、傘は俺の足元に転がっている。それに気がついた吉田が慌ててふたりぶんの傘を拾いあげる。
吉田の赤い傘と俺の透明な傘。
開いたままのふたつを見比べた吉田は「傘借りるね」と言うと赤い傘を閉じて俺に身を寄せてきた。
「お、おい?」
急接近した吉田の体温なのか、冷気が遮断されただけなのか。左腕がふわりと温かく感じて俺は戸惑う。
お近づきになれるのはうれしいが、しかし近い。ドキドキしてしまう。雨が降っていなければ、吉田のやわらかそうな髪からシャンプーの香りのひとつも届きそうなほどだ。
(雨め)
そもそも吉田の横顔に見とれる原因となった雨を呪っていると、吉田が俺を見上げてきた。
思いのほか真剣な顔だが、かわいい。きゅっと眉を寄せてまっすぐに見上げてくる吉田がかわいくて困る。
「雨で本が濡れたら元も子もないから。歩きにくいかもしれないけど、我慢してね」
(雨グッジョブ)
さっき呪ったばかりの雨に心のなかで親指を立てる。
吉田は本を守ろうと一生懸命なばかりに気が付いていないようだが、いまの俺たちは相合傘をしている状態だ。
小学生のころならクラスメイトにはやし立てられただろう、ドキドキイベントだ。たぶん。
(むしろ誰かはやしたててくれないものか)
人通りの少ない通学路を今日だけは残念に思う。
学校の誰かが目撃して、噂にでもしてくれたら俺としては万々歳だ。
ちらりと横に目を向ければ、吉田の熱い視線は本に向けられている。
こいつに俺を意識させるには、外堀から埋めたほうがいい気がする。そのためには、幼稚にはやしたててくれるクラスメイトを募集したいところだ。
まあ、もしも見られたとして俺らのクラスはみんなひとが良いからせいぜい温かく見守ってくれる程度だろうが。
(外堀が埋められないなら、自分で詰めるしかないよな)
まずはその本にばかり向けられた視線を俺にも分けてもらおう。
そのための算段をつけながら、俺は何気ない風を装ってくちを開く。
「吉田さん、もうちょっとこっち寄ってくれないと、本に雨が……」
「これでいいかな!?」
「うっ! ちょ、ちょおっと近寄りすぎ、かなあ?」
肘に触れた柔らかな感触に、裏返りそうになる声を抑えてどうにか伝える。ほんのわずかに離れた身体を惜しいと思いつつ安心もしてしまう。
(……ゆっくり詰めていこう。そうしよう)
まずはこの本を預けてから、学校までの道中で彼女のことを知ろう。
そう決意して、俺は重たい段ボールを抱えなおすのだった。
渡辺くんの行きつけは駄菓子屋さんです。
「おばちゃん、この箱すみっこに置かせてもらえない?」
と言う相手はもうおばあちゃんの域。
ときどきお釣りを間違うので、お客が自分で計算して多い分はお返しするシステムです。お釣りが足りないということはない不思議。