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或る無限なるもの

作者: 眛鳥かるな

私の心臓を封じてごらんなさい

すると脳髄が脈打つでしょう

そしてこの脳髄のなかへ火を投げ入れようとも

私はあなたを血のうえに担ってゆくでしょう


 Rainer Maria Rilke



 ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★



[GESCHICK]


 貝殻の刺繍が施されたカーテン越しに、ぞっとするような空の青みが滲む忘れられた病室で、男は齢十四、五程の少女と対面していた。


 彼女は彼にとって死ぬべき人だったが、彼の医師としての運命が賽子を振らせた。群雲の裂け目が夜の底の無さへと通ずるように。


 彼は平易な質問を続けながらカルテに少女の返事を綴り、その終わりに彼女に於ける燃える思考の中心の何処を問うた。


 ――わが天の御家に住処多し。


 朽ちて尚表情を変えぬ彫像のような、感情の読み取れぬまなざしを向ける少女は静かであり、その口から呪詛が漏れ出ぬ失意に彼はその場から立ち去った。




[WIEDERHOLUNG] 


 冷たい雨の一滴がまだらな大気を凝結し、夢見る臓腑を真綿で絞殺すように静かな日…薄い菫色のネグリジェに身を包んだ少女は細面に淑やかな風情を浮かべて妹にあたる人を迎えていた。


 数か月振りの再会に妹は声を上げて泣いたが、その涙の一滴は祈りの声のように投げかけられる谺となって彼女の閉じた目蓋の内奥へ響いた。


 奇禍によって空の青みへ消えた血と肉の熱源は銀燭の祭壇を通じ、非情なる夜明けに於いて再生を果たした。斯様にして暗黒より生じた少女の湯浴みを手伝いし折、妹は彼女の真夜のようなアサナトに心を奪われた。


 白磁のように清らかな肌、石膏のように冷たく滑らかな手足、滅びた寺院の骨組みのような燻銀の影を繊細に落とすあばら骨…僅かに膨らんだ乳房が唯一の生きた曲線として際立っている、悍ましく美しい抜け殻のような肢体。その肉塊の何よりも深い墓所では柘榴の棺が未だ見ぬ愛し児を待っている。




[SEYN]


 胡蝶が群れるように咲き匂う八重桜に紛れ、少女は群青のシルクのドレスに紺碧のストールを羽織って家族と共にある人の墓を訪ねた。


 木漏れ日を浴びて清らに垂る水が墓石を洗い、黙祷を捧げていると誰かのすすり泣く声が聞こえる。最初に目を開けたのは少女だった。ちらりと妹の方を見遣ればまだ時間が掛かりそうだった。彼女は過ぎる風に燃える思考の中心の何処を問うがそれに答える叫びは無く、谺のような囁きが頬を撫でる。


 果て知れぬ響きを含んだ昔日の風が運んだ葩が肩に落ち、手で掃い退ければ記憶に留まるのは胡蝶のような夢の跡。然らば夢は覚めぬものと知る。望郷の道筋は何人にも追えぬ故に。


 去らば、去らば。




[SPRUCH]


 スイートピーやアネモネといった五月の花々が暗闇に匂う夜の窓辺、涼しく染み入る葉擦れに耳を傾けながら姉妹は向き合っていた。薄絹を裂くような月の光が俗世の穢れを掃い、二人の俤を夢現に転ずる。


 ……。


 眠れぬ夜に導かれ、華やかさに薄い墨を引いたような嵐山の寂しみある情味を懐かしむ。小舟に揺られし日の追憶。


 ――こうやって過ごすのは随分久しぶりな気がするね。

 ――姉さんとはいつも一緒に居るのにね…どうしてだろう、寂しいな。

 ――起きたらきっと忘れるよ。何も覚えておく必要はない。

 ――教えてくれないんだ。

 ――思い出すことさえないさ。


 少女は妹の頭を優しく抱いて眠るよう促した。そして仄かな愛を込めて涅槃の秘密を囁いた。




[DENKEN]


 白雨に杳と浮き上がる街路樹に影を霞ませ、擲たれた小石は世の儚い幸福を打ち砕いて水底に沈んでいく。ひび割れた箇所から青い草を生やす煉瓦で舗装された道は何処へ通じているのか。夜露の如く馥郁たる黒髪をなびかせ、彼女は真鍮の取っ手が付いた樫のステッキを鳴らす。


 愁いゆえ、はた悦びゆえに流れ落ち

 闇と風とに散り失せぬ


 獨逸の詩人、ハイネの詩である。


 止む気配も知れず静まろうとする雨の集う先、暗渠の流れへ溶け込んでゆく風の嘶きに不朽なる奇跡は示されている。




[UNGRUND]


 人間の想像力が太陽の輝かぬ空を作り出す。星々は消え失せるまで瞬き続け、闇と闇の間を廻る。拝跪を奉ずる寺院や聖堂も同じ。何処までも同じ場所へ還るが、決して同じ場所には至らぬ。


 揺り籠のような海の傍で砂の城は作られるが、それもただ普く想像力に依っただけの素朴なミニチュアに過ぎぬ。想像とは海にも似て、太陽と番い、波のように去って行く。人間の手が呟いた憧れは脱却し、跡形もなく滅び去る。闇と闇の間より星々が生ずるが如し。




[WINK]


 運命の不可視は無相の不安を起こすが、一方で力強い日差しの下でこそ闇が精緻な輪郭を得るように人は自らと向き合う業を負っている。


 音楽が始まろうとしている。曲はベートーベンのピアノソナタ第十四番嬰ハ短調、作品二十七の二。所謂月光であり、奏者は妹の友人である。姉妹は市内のホールにその演奏を聴きに来ていた。


 彼の人の指が鍵盤へ沈み込み、オクターヴの低いGの音が幻想の呼び水となる。


 C、Eへと登る静かな三連符のモチーフが指の動きに合わせて粛々と繰り返される。淡々とした悲しき響きはレルシュタープが月光の波に揺れる小舟のようと評した如く。


 旋律は焦がれるように上へ上へと細々と登りつめて行くが、ついに弱々しく脈打つ心臓がただ逝くよう、絶えた。




[FEHLEN]


 崩れ果てた墓石と瑞々しい花々の諧和に我々は太陽と月の如く啖らい合う血と肉の蜜月を予感する。それこそ精神の誕生であり、故にこそ神は生命となり涙の一滴で毒盃を満たし給う。


 その苦い味わい…。


 音楽は星空である。偶有的な永遠の相を星の並びに擬えるならば人生の坩堝には愛が生じ、有機体の点火と見るならば炎を絶やさぬ息吹が生ずる。


 その大いなる和合によって愛は終わり、炎は途絶える。それが人間が目覚める時であり、毒盃を呷る終幕の時である。




[ZWIEFALT]


 深緋に揺れる紅葉が悲劇的に燃え上がるように佳き夢も清洌な悪夢へ焦がれて姿形を変えて行く。内臓を取り出してがらんどうになった胴体に血の通わぬ器官を並べて行くことの狂気、運命に耐え得るため人間は自ら悪夢へ身を投じることを克服と呼ぶようになる。緋く冴える月が開く扉、エレボスの為に用意された銀燭の祭壇へ土足で入り込むということ。


 夥しい岩石が見渡す限りを埋め尽くす大地を夢見る人々は進んで行く。彼等は死んでいるのではない。目を開いたまま覚めない夢に囚われているのだ。


 吹き遊ぶ北極の風と共に進み、遥けき約束の地を目指す。何時迄も辿り着くことはない。


 然れど恐れること勿れ。堪らず隣人を見遣れば、其処には常に最愛の人の安楽な死顔があるが故。




[SCHICKSAL]


 或る無限なるものの前に人が立つことは出来ない。


 故にいつの世にも万霊は大いなる運命の廻りの外に超越的な精神を配し、その聖域に帰巣せんとする宿命を負っている。これこそ生まれながら死に至る病を患っている万霊の本能であり、赤子が産声として救済を庶幾う嘆き――彼等を抱く母の腕は運命の腕である。


 或る無限なるものの前で我らは眠る。母の揺籃歌に身を委ねる赤子のように夢を見る。涅槃で目覚め、名付けようのない死を迎える為に。




[ΑΠΕΙΡΟΝ]


 姉妹は共に夜空を見上げていた。普く地上に降り注ぐ星々の光へ想いを馳せる時、望郷とは別の懐かしさが胸中に味わわれる。或る無限なるものに纏わる感懐は何人においても等しく、それは彼女についても変わらない。


 不死論(Psychade)という論文がある。一種の輪廻説に基づき死と無意識の潜在的かつ衝動的な関わり合いを唱えた論は精神の不滅を謳ったが、それによって示されたのはメメントモリの東洋流の亜型に過ぎぬものだった。


 ところで少女は自分等のことを実の姉妹ではないと分かっているし、それで良いとも思っている。家族はインテレクチュアリズムの幻想にまやかされ身内の俤を彼女に見るが、幸福を願われる彼女は擬人であり何者でもない。



 深い藍色を帯びて澄み切った瞳には滅び行く夢の数々が映っている。だがそれこそ死に行く者等が見る輝きなのだ。


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