part 03 そこまでするか?
「ふーん、そのブランドバック、そんなに大切なんだ」
礼子は床を見つめたまま言った。
「……大切……私には……とっても……」
「バックに付いた足跡くらい、拭けばいいじゃない」
学校でも礼子のトレードマークになっているブランドバック、そんなの持って通学しているのは礼子だけだ。皆は私と同じ薄墨色の学生鞄を持っている。
その鞄は、県内一の進学校である東高校の生徒である証であり、皆の自慢だった。ところが、礼子は入学式の日から校則を破り、派手なブランドバックを掲げてきた。
私は彼女のそんなファンキーな所が気に入ったのだ。
まあいい、今鞄の話をしてもしょうが無い。赤ちゃんをどうにか助けなければならない。あ、礼子のバックを蹴っ飛ばした中学生は後でベアークローの刑な。
「礼子、これから、どうするつもり?」
礼子はお母さんのリュックの中身を確認する。
「母子手帳や県立病院の診察券も入っている
。駅に着いたら、私達で赤ちゃんを病院に連れて行って、お母さんの自宅に電話すれば……」
「いやだよ! 礼子だけで行きなよ。私はテニスの大会に行くから」
今日の試合は外せない。私の大学進学が懸かっているのだ。それに、私が病院についていっても意味がない。
「オギャー、オギャー」
私が拒否すると、赤ちゃんも泣き出した。お母さんも居ないし、この暑さで周りには乗客がみっしりと詰まっている。ベビーカーを守っている腕も疲れてきた。
「柚子葉も一緒に来て欲しいな……」
「私が付いてく意味ないでしょ。それに、駅に着いたらすぐ、警察でも救急車でも呼べばいい」
「そうだね……じゃあ電車が駅に着いたらお別れだね」
「そうそう、そこでお別れ、じゃあね」
私は礼子に背を向ける。私と礼子が話し込んでいると、周りの乗客は減っていた。隣の車両に移動したんだろう。赤ちゃんは礼子にまかせて、座席に席に向かう。私の席を盗った中学生にベアークローをしなくては。
「ゼヒ、ゼヒ」
しかし、後ろから聞こえる異音の方へ、すぐ振り返る。
赤ちゃんはただ泣いているだけではない。
「ゼヒ、グフ、グフ、ゼヒ、ゼヒ、ゼヒ」
赤ちゃんの顔がどんどん青くなっていく。呼吸が上手く出来ていないのでは?
「ねっねぇ、柚子葉、どうしたらいいと思う?」
パニックになった礼子が私に頼る。
だからといって、私達に出来ることはない。駅に着いたら、礼子と赤ちゃんは病院に行く、私は礼子と別れてテニスの試合に行く、。
あと一時間は電車は駅に止まらないのだ。
私は冷静に答える。
「どうしようもない。電車が次の駅に着くまで待つ」
「え…… その間赤ちゃんはどうするの?」
「励ましてあげるとか?」
だって、しょうがないじゃない。私達にできることは電車が停まるの待つだけだ。
私はテニス大会に出なければならないし、私達は医者じゃなし何もできない。
私が悪いのか? 私は手に持っていたままのガラガラを礼子に渡す。
「それ、しまっといて」
私はテニスラケットを、試合中のように両手で握り直す。
「私、車掌さんに知らせてくる。柚子葉は赤ちゃんを見てて!」
礼子の声が大きくなり、乗客たちの注目が集まる。赤ちゃんを自分の妹の様に感じているのだろう。私はそっけなく答える。
「見ててもいいけどさ、きっと車掌さんにも何にもできないよ。無駄に騒ぐより、駅につくのを待てば?」
「待てるわけないじゃない! それまで持つと思う!? すぐに病院に連れて行かないと!」
礼子の声が、電車の騒音をかき消して、私の頭に響く。
振り乱れたその長い黒髪が、赤ちゃんの頬に垂れる。礼子が怒鳴るのは初めて聞いた、いつも私の後ろを歩き『そうね』としか言わない彼女が。
「誰か、携帯電話を持っていませんか!」
携帯電話! そんな物持っている人いる訳ない。テレビで警察が使っていたのを見たことがある。私の鞄くらいの大きさがあって、肩にかける無線機みたいなやつ。
礼子が叫び続ける。
「誰か、赤ちゃんが大変なんです!」
突然、ブランド女が話に割り込んでくる。
「うるさいよ、偽物バック!」
お前何行ってんの、話しかけてくんな。
私は無視するが、礼子はブランドバックを背中側に隠して、静かに言い返す。
「偽物じゃないです…… そんな事より赤ちゃんが……」
「偽物だろ、そのバッグ!他人の赤ちゃんなんかほっとけよ」
「絶対、偽物じゃない!」
礼子はムキになって言い返えした。さらに、ブランド女が畳み掛けてくる。
「あんた、さっきその母親を見捨てて、その偽物バック拾いに行っただろ!? あんたのせいで、その赤ちゃんの母親が置き去りになったんだ!」
礼子の言葉が止まる。体からすべての力が抜けたように、彼女の頭と手が垂れ下がる。ブランドバックが床に落ちた。私はそのバックを拾い上げる。
あーあ、偽物だったか。確かにブランドのロゴが付いているだけで、バック全体の作りからして子供っぽい。絶対に偽物だ。
私は子供をあやすように、礼子に語りかける。
「もう、電車は止まらない、仕方ないよ。次の駅まで一時間待とう。礼子は悪くない」
私は偽物のブランドバックの汚れを軽く払い、礼子に渡した。
私は努めて感情を抑え、告げる。
「そのバッグだって本物だよ。私は信じてる」
その言葉を来た瞬間、礼子の体は崩れ落ちた。
私は信じてる……か。いや、私は信じていない。あのバッグは偽物だろう。ただ礼子を落ち着かせたくて適当に言っただけだ。
止まらない電車の中で、時間が止まった二人。一人はベビーカーの中の赤ちゃん、喉からはゼヒゼヒと異音しかしていない。もう一人は礼子、立ち上がる気力もない。
電車の窓から鉄橋が架かった川が見え初める。電車は鉄橋を渡るべく突き進む。川の手前で街は途切れる。川の先には何もない。
「ねえ、礼子。取り敢えず立ち上がろうか」
私の礼子への態度が友達に接するものから、子供をあやすような感じに変わる。脱力していた礼子が立ち上がり、私を睨みつける。
礼子が私を睨みつける? 私は初めてぶつけられた、礼子からの負の感情を受け止められない。
「柚子葉はいつまで……、私と友達のフリを続けるの?」
その言葉が、私の心の闇に刺さる。
立ち上がった礼子は、別人に変わってしまった様だった。私に突き刺さる怒りの感情から目をそむける。
「偽物の鞄に、偽物の友達。私が持つ物は全部偽物」
礼子はブランドバックを、苦しめるかのようにひねり上げる。
「柚子葉は私がテニスの試合に勝った日から、私のことを友達と思っていません。私も柚子葉を友達と思っていません」
礼子はブランドバックを電車の窓から投げ捨てた。
私の視線が鞄を追って窓に向かうと、川が見えた。あと一分も経たずに、電車は川を通り過ぎるだろう。そこを過ぎたら戻ることはできない。バックは一瞬で見えなくなった。
礼子はしゃがむと電車の非常停止レバーを握った。
そう、赤ちゃんを助ける方法は最初から目の前にあった。誰もがそれから目を逸らしていただけだ。
礼子の告白は続く。
「だって、柚子葉の友達で居ると便利だもん」
電車が川を過ぎるまで、あと、三十秒。
礼子の言葉は止められない。
「私だって柚子葉と友達のフリを続ければ、あのバックを持ち続けられた。いじめられないし、先生も何も言わない」
電車が川を過ぎるまで、あと、二十秒。
「礼子、私、車掌さんに知らせてくる、礼子は赤ちゃんを見てて」
そんな行動は無意味だ。礼子の前から逃げたかっただけだ。赤ちゃんの前からも。
あと、十秒。
私は嘘をつく。
「礼子!私は信じてる。私達は今でも友達だ」
礼子は私を見下し、レバーを握ったまま動かない。
あと、零秒。
礼子はつぶやくように言う。
「柚子葉はまだ嘘をつくんだ…… でもね、私は嘘つきじゃない」
礼子は電車の非常停止レバーを引いた。