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part 02 赤ちゃん大丈夫?

 私と礼子は、二人がけの椅子が対面になっている座席に、並んで座っていた。窓側は私だ。礼子は私と太ももが触れるほど近くに座っている。近すぎ、暑いし。窓を全開にすると、髪型が崩れるほどの風が入っていくる。


 ふぅ、少しは落ち着いた。


 私はテニスラケットを見つめる。全体が赤のラケットで、グリップの所だけ黒いテープを巻いて修理してある。さっき階段から落ちて、傷がいくつも増えた。礼子のせいだ。試合で使えるか?


 礼子は試合を見に行くだけなので、ラケットも持たずにブランドバックを大事そうに膝の上に乗せている。礼子、学校でそんなバック使っているのあなただけだよ。めっちゃ悪目立ちしているよ。


 そもそも、特別授業なんか出ずに、朝から競技場に向かっていれば、試合に遅刻するなんてありえなかったのだ。礼子が絶対に一緒に行こう言うし、親も出ろと言って聞かなかった。私は勉強よりテニスで勝負した方が、絶対大学に入れるって。


 テニスラケットから目を離し、座席の後ろを向くと、お母さんはベビーカーを持ったまま、電車の入り口のそばで赤ちゃんの顔を見つめている。その顔は、もう赤くなかったが、表情は暗いままだ。


「お母さん、私がベビーカーを見ているから座りませんか?」


「すいません、自分で見てますから」


 赤ちゃんが心配なのだろう。お母さんはベビーカーの中の赤ちゃんをなでながら、声を掛けている。


 赤ちゃんは顔の赤みが増し、先程より元気が無くなっているように見える。暑いんだろうか。赤ちゃんを見守っていると、その横をまたカップルが通り過ぎてこちらに近づいてくる。


 あの、私が母子もろとも階段から落ちそうになっているのを無視した奴らだ。


「もう、あそこの席でいいだろ、疲れたよ。座ろうぜ」


 電車の向かいの席には、カップルが近づいてくる。電車の座席は二人がけの椅子が向かい合って並んでいる対面座席だ。


「あ、どうぞどうぞ座って下さい」


 といいつつ、私は座席の間に、自分の鞄と膝を入れた。


 カップルは、私の鞄や膝にゴンゴン足をぶつけながら、対面の座席に座ってきた。


 礼子は、カップルたちが座りやすいよう膝を引いていた。


 カップルは大学生くらい。カップルの男の方の顔はまあ普通だけど、帯が緩んだ浴衣からはみ出る太ももが汚い。すね毛剃れよ。


 カップルの女の方は、ブランド女としか言いようが無い。全身ブランド物だ。トップスもスカートも靴も帽子もブランド物のロゴがよく見えるやつ。そしてバッグも礼子と同じブランドだ、モデルは違うようだけど。


 カップルの女の方がニヤリとした笑顔で礼子に話しかけてくる。


「そのバック、変わってるね。どこで買ったの?」


「あの……、お母さんにもらったから……分からなくて」


 礼子は私に肩が触れるほど寄ってきた。


「フーン、そう、私は彼に買ってもらったの、ねぇコーイチ」


 男の方は、女の太ももを撫でるのに夢中で、会話を聞いていなかった。あわてて、自分がプレゼントした鞄と、礼子が持っている鞄を見比べる。礼子の鞄の上で視線が止まる。


「ああ、そのバックは本当にイイヤツだからな」


 礼子はうつむき、更に体を私に寄せてくる。私が座る窓際の席に風は来るが、それでもまだ暑い。礼子、そんなに寄られると暑苦しいんですけど。


「ワタシ、赤ちゃん気になるから見てくる」


 片手を私の膝の上に載せようとする礼子を避ける様に立ち上がり、座席から電車の入り口の方に移動する。その間に、カップルの膝をさり気なく蹴っていく。


 暑い。汗が止まらない。


 電車の入り口の近くに空いたスペースに来ると、電車の天井についた扇風機の向き回るのに合わせて、ぐるぐると回って歩き出す。


 歩きながら考える、大学入学について。既に電車に乗り遅れ、第一試合には間に合わない。第一試合が私のだったらアウトだ。


 遅刻しても試合に出れるのか。そもそも勝てるのか。テニス部のスポーツ推薦は礼子で決まっている。これからもう一人ねじ込むには、個人戦で優勝するぐらいの実績は要るだろう。


 共通一次の模試の結果は最悪だった。スポーツ推薦で浪人なんて出来ない。大学入学は今日の試合に賭けるしか無いのに、さっき礼子に階段から落とされたラケットはボロボロだ。


 暑い。もう体は冷えているはずなのに、汗が止まらない。


         *


 とは言っても、電車の中で焦ってもしょうがない。この電車は次の駅を抜けると一時間は無人の峠の間を走る。その間に私ができることはない。この間に弁当を食べないと。


「ふぅ」


 一息つくと、またベビーカーとお母さんが気になる。お母さんは座席に座らず、電車の扉の前で、赤ちゃんに扇風機の風が当たるようにしているようだ。


 お母さんの赤かった顔は普通に戻ってきている。体温が下がったからだろう。しかし、その表情はより暗くなっていた。赤ちゃんの顔を見つめたまま動かない。


 私が赤ちゃんの顔を見ると、さっきは赤みがかっていた顔を青紫色になっている。呼吸にぜひぜひと異音が混ざっている。


「赤ちゃん、顔色すごく悪く見えるんですけど、大丈夫なんですか?」


 私がお母さんに尋ねるが、愚問だ。どう見ても大丈夫じゃない。


「すいません、いつもは近くの病院に行って、注射を打ってもらうとすぐ治るんですけど、今日は県立病院でしっかり検査してもらおうと電車に乗ったら、こんなに……」


 お母さんは嗚咽を漏らすように答えた。


「そうだ、麦茶のみます?少しは気分が良くなるかも」


 手に持っていた薄墨色の学生鞄から水筒を取り出すと、鞄を床に落として、水筒の蓋を開ける。


 嫌な匂いがした、麦茶が腐っている。私が朝に冷蔵庫に入っていた麦茶を水筒についだ物だ。何日前に作ったのかは分からない。


 今日は娘の大事な試合なんだから、朝にお茶の入った水筒ぐらい用意しくれててもいいじゃないかな?頼むよママ!


「礼子、水筒もってる?」


 礼子は電車の座席の上に膝立ちして、私を見ていた。


「すぐそっちに行くから」


「いいよ、それより水筒投げて」


 こちらに寄ってこようとする礼子を止める。礼子に擦り寄られると余計に暑くなる。


「うん……」


 礼子は座席から自分の水筒をこちらに投げる。水筒の中を見ていると礼子の声が聞こえる。


「あんまり残ってないけど……」


 ただの水が半分くらい入っている。腐っていはいない。水筒を渡すと、お母さんは持参のスプーンで赤ちゃんに水を飲ませる。喉が乾いている時は、水を口に含むだけでも、かなり楽になる。


「う、みゅ……」


 赤ちゃんが水を飲んでいく。私の妹(と同じぐらい可愛がってるコリー犬)にご飯を上げた時の様な幸せを感じる。かわいい。


 ついでに私も飲む。そこで水筒の水が全てなくなった。


「礼子、ゴメン。水無くなっちゃった」


「いいよ、気にしないで」


 その声は真横から聞こえた。いつの間にか、礼子も私の真横に立っていた。


「礼子も席から離れたら、席を取られちゃうでしょ」


「私のバッグを席の上に置いてきたから」


「あのブランドバッグ盗まれたら、どうするの?」


「バッグより赤ちゃん見たい」


 私の鞄も置いたままなんですけど。まあいいか。電車の通路を出歩いている人はいない。向かいの席にカップルも座っていたし。見張り代わりにはなるだろう。


 電車の入り口のそばに、ベビーカーと三人が密集すると、気温が上がった気がした。礼子は私にべったりだし。


 電車にもクーラーを付けてほしい。私の家のクーラーは、居間とパパのママの部屋しかない。礼子の家には無いそうだ。だから暑さに強いのかもしれない。いつか電車にもクーラーが付く日が来るのだろうか。


 私がクーラーのことを考えていると、礼子は赤ちゃんに夢中になっていた。


「ねぇ、お母さん。私も、赤ちゃん触ってみていいですか」


 お母さんがうなづくと、礼子が私の手を取って一緒に赤ちゃんの頭を撫でようとする。


「私はいいから。普通こんな友達で、ベタベタ触るかな?」


「でも、前は柚子葉の方が私を撫でるの、好きだったでしょ」


 前か。一年ほど前はそうだった。


 私は左手のテニスラケットを見つめる。学生鞄を座席に置きっぱなしだが、テニスラケットはずっと持ち歩いている。そのグリップに巻いてある黒いテープを見るたびに思い出す。


 私達が二年の時、テニス部でレギュラーを決める試合の事だ。授業が終わると、教室から部室まで、私達は手をつないで歩いた。片手で礼子の手を握り、片手にはまだ黒いテープが巻かれていないテニスラケットを振り回していた。


 私の最初の相手は礼子だった。礼子はスポーツより勉強が得意なタイプで、テニス部に入った理由も分からない。楽勝だと思った。実際、礼子は私から一点も取れないまま、五ゲーム私が連勝した。


 最後の一球で、礼子が私の正面にヘボい玉を打ち込んできた。この球を礼子が取れない位置に返せば勝利だ。


 ハィ、勝ち~。


 まあ、仕方ないね。私どんなスポーツでも、この学校の誰にも負けないから。特に礼子のレベルでは無理。


 私は既に、礼子のトロい球が来る正面にいる。勝利を確信してラケットを振る。


「必殺!ローリングフラッシュ!!」


 しかし、ラケットは空振りした。


 たまたま、球がバウンドしたところに小石落ちており、イレギュラーしたのだ。


 力みすぎたところに、空振りしたラケットは、すっぽ抜けて飛んでいき、ネットを支える支柱に激突した。


 試合は一時中断した。ヒビが入ったラケットのグリップを、礼子が持っていた黒い補修テープを巻いて応急処置した。


 試合を再開したが、私は負けた。だって、私がラケットを振るたびにギャラリーから「必殺ローリングフラッシュ」と合いの手が入って笑われるのだ。


 それ以来、私の中で礼子は、親友からトモダチに格下げになった。


 このラケットの黒いテープを見るたびに思い出す。忘れたい。今日の試合の帰りに新しいラケットを買おう。このラケットは捨てればいい。私の黒歴史さようなら。


 嫌な思い出から現実に変えると、礼子はまだ私の手を握っていた。私は礼子の手を振りほどく。


「なんか今日、礼子おかしくない?なんでそんなベタベタすんの?」


「だって、今日は柚子葉と一緒に居たいから。今日が最後だって決めたから……」


「なにが今日で最後なの?」


「──オ、オギャー、オギャー」


 礼子が何か言い淀んだところで、赤ちゃんが泣き出した。私達は手を引いた。


 電車の床に座っていたお母さんが立ち上がって赤ちゃんを抱き上げようとする、が、カクンと後ろに倒れ立ち上がれない。背中のリュックの紐が、何かに引っかかっている。


 私は引っかかっていた紐を外す。紐は電車の非常停止レバーに引っかかっていた。カバーのプラスチック板が壊れていたのだ。


 危ない。あのままお母さんが立ち上がったら、電車が停まるところだった。


 お母さんは外したリュックを礼子に渡して、赤ちゃんを抱きかかえる。


「ちゅっちゅっちゅー、いい子ねー、かわいい子ねー」


 お母さんが赤ちゃんを胸に抱いて、少しずつ揺らしながら、あやしている。赤ちゃんは泣き止まない。


 駅の階段で私達を無視したカップルがこちらをジロジロ見ている。私が睨み返すとカップルは窓の方へ目をそらした。


「お母さん、リュックの中を見てもいいですか?」


「あ、すいませんね、お願いします」


 え、礼子、初対面の人の鞄の中を見ようとする?


 礼子は鞄の中身が分かっていたかのように、リュックからハンカチと、ガラガラ鳴る赤ちゃんの玩具を取り出した。礼子はハンカチで赤ちゃんの汗を拭ってやる。


「オギャー、オギャー」


 でも、赤ちゃんは泣き止まない。お母さんの表情が曇っていくと、赤ちゃんの鳴き声も大きくなる。


 さっきカップルの片割れ、ブランド女のほうがこちらを指差して笑っている。殴ってやろうか。私がブランド女の方に行こうとすると、礼子が私に指示をしてくる。


「ほら柚子葉、荷物持って、赤ちゃんの玩具も。ねぇ、お母さん。赤ちゃんも、お母さんの顔が目の前に有る方が安心すると思うんです」


 礼子がお母さんから赤ちゃんを受け取って、ゆっくりと揺らしながら語りかける。


「なんか、礼子。赤ちゃんあやすの上手いね」


「妹がいるし、私赤ちゃん好きだから」


 礼子に妹が居るのは知ってたけど、そんなに年が離れていたのか。家族の話になると、話をそらされる。それに礼子の家には行った事が無い。二人で遊ぶのはいつも私の家だ。私の家ならクーラー有るし。


 赤ちゃんはまだ泣き止まない。お母さんは赤ちゃんの頬をなでて、すぐ前で名前を呼びながら微笑みかける。私はガラガラを鳴らしてやる。


 赤ちゃんもお母さんの顔が近いほうが安心するんだろう。赤ちゃんは泣き止んだ。


 礼子は、自分の子の様に赤ちゃんに語りかける。


「よしよしねー、いい子ちゃんねー」


 赤ちゃんが泣き止むと、お母さんは電車の扉の脇の手すりにすがって休んでいる。お母さんも具合悪そうに見える。


「赤ちゃんは私が見てますから、休んでて下さい」


「すいませんね」


 結局、赤ちゃんは礼子に抱きかかえられながら眠ったようだ。結局面倒は全て礼子にやらせてしまった。私はガラガラを持ったまま手持ちぶさたになる。


 礼子はこの揺れる電車の中でも、スラリと立ちつづけ、その姿は電車の熱気や喧騒が届かない、高潔な存在に思われた。


 私達は高校三年生、あと数ヶ月もすれば大人にならなければならない、お互いが別の道に進んだとしても。礼子はその準備ができた人間だと感じる。


「ねえ礼子、さっき今日で最後だって言ってたのは──」


「──橋本駅に到着しました。今日は混雑しておりますので、入口付近にお立ちの方はご注意下さい」


 車掌のアナウンスで言葉を遮られる。電車は峠に入る前の最後の駅、橋本駅に着いた。


 入り口付近にお立ちの方って私達のことだ。駅のホームを見ると、浴衣を着た家族連れなどの乗客でみっしりと埋まっていた。


 あり得ない、こんな田舎の駅にどうして。私達三人はドアの向こうにいる乗客達を見て固まる。この人達全員が電車に乗るの? ベビーカーはどうなる?


「なんでこんなに乗客が?」


 礼子も怯えていた。


「今日は県庁近くの公園で、花火大会があるから……」


 電車の扉が開いて、乗客が雪崩込んでくる。こんなに乗れるはずない。ベビーカーが潰れてしまう。


「礼子!私がベビーカーを守るから、あんたはお母さんと一緒に座席に座って!すぐに!」


 礼子は赤ちゃんをベビーカーに入れて、お母さんの手を取る。だが、すぐに乗客は駆け込んきた。


「オレ窓際の席な」


 中学生ぐらいの男子二人組が、私達が座っていた席に滑り込む。座席の上に置いてあった礼子のブランドバックが通路に蹴り出される。


 礼子は、お母さんの腕を離して、ブランドバックを拾いに行く。


「礼子! バックは後でいいから! お母さんを支えてあげてて!」


 しかし、礼子はブランドバックを拾いにお母さんから離れた。私は両手を前に倣えのポーズで突っ張って、目の前にあるベビーカーを守っている。動くことは出来ない。


「もっと奥詰めろ」


 日射病気味だったお母さんは、電車の扉脇にある棒に捉まってかろうじて立っている。

 私は叫ぶ。


「ベビーカーに乗った赤ちゃんがいるんです!別の車両に乗って下さい!」


「足踏むなっつってんだろ。靴汚れたら弁償しろよ」


 だが、乗客は無視して乗り込んでくる。そして、人の波に押され、扉のすぐ脇に立っていたお母さんは、倒れて電車の外に押し出される。


「私がお母さんを拾いに行くから、礼子はベビーカーを守って」


「扉締まります。お気をつけ下さい」


 しかし、電車はお母さんを置いたまま出発した。ブランドバックとお母さんのリュックを持った礼子がいた。礼子の顔はうつむいたまま固まっていた。

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