5 探索
今無性に愛犬(柴犬)を抱き締めたい。
いやぁ、さっぱりした!
魔法でぬるま湯を作って、ブラッドと私自身体を綺麗にして、ついでに私は腰まで届く程伸びていた自分の髪の毛を肩口程度の長さで切り揃えた。
あっちじゃ願掛けもかねて、ずっと髪を伸ばしっぱにしてたけど私はある程度髪が短い方が好き。
どっちにせよ、地球に戻ってきた以上必要ない。けっこう色々使えるから、切った髪は回収して【ストレージ】に入れておくけどね。
やっぱり体を洗うって大事。向こうでも清潔に出来るときは常に体を綺麗に保ってたからわかってた事だけど、体が綺麗になると心もどこか晴れやかになる。
ほんとならせっかく地球に帰ってきたんだしお風呂で、湯船を用意してしっかりお湯につかりたかったけど、こんな世の中じゃ高望みもいいところ。
向こうでは基本水浴びか、あってサウナだったから期待してた所はあるんだけどね。
それでも、魔法のお陰で水に苦労することはこれから先も無いだろうから、他の生存者たちからしたら十分贅沢な悩みだろう。
温度だけでなく、水の硬度まで自由自在だからね。硬度いじるのは若干めんどくさいけど。
それに、最終的な拠点を手に入れたら全部自由自在だ。それまでの我慢と考えれば、小さな悩みと鼻で笑えるレベルの話さ。
「まぁ、まずは今どの程度文明が崩壊してるか調べるところからかな」
これで、実はショッピングモール以外は無事でしたなんて事になってたら、ほんとに笑うに笑えないし。
まぁ、帰ってきて一日目に眺めた光景からその可能性は切って捨てていいって考えてるのだけど。
「じゃあ、行こうか」
すっかり綺麗になって、艶やかな毛並みを取り戻したブラッドに声をかけて。
やっと私は長かった旅の始まりの場所であり、同時にそれと私の日常の終点ともなったショッピングモールを後にした。
最後までここに火を放つかは悩んだけど、結局私はそのままここを立ち去る事にした。
消防署が稼働していない今は延焼が怖いのもあるけど、何より炎は目立つ。
ゾンビが集まってくるぐらいならいいけど、生存者の目を引いてしまうのはいただけない。
それに、いくら私が他の生存者たちと関わりを持ちたくないと考えていても、彼らの足を引っ張る事をしてはダメだ。
ゾンビは駆除したし、残ってた死体も荼毘に伏したから、あとは少し掃除して出入り口を補強してやれば、ここはなかなかに堅固な砦として彼らの生存の助けとなるハズだ。
破壊は賊の砦となってから考えればいい。
とまぁ、それっぽく理屈を並べたけどぶっちゃけ私を踏みとどまらせたのは、感傷なんだけどね。
焼くには、私にとってここは思い出が多過ぎたってだけのお話。
うん。私は錬金術師にはなれないな。思い出に火を放つのは私にはハードルが高かったみたいだ。
壊れたバリケードを踏み越えて、正面玄関から外に出る。
私たちを迎えてくれたのは、まるで前途を祝福するように澄み渡った、青い青い空だった。
◇◇◇◇
「見事なまでのゴーストタウンだねぇ」
ねぇ、ブラッド?なんて声をかけると、淡々と隣を歩いていた彼は同意するように鼻を鳴らす。
以前は市内に学生さんが多かったこともあって、県内屈指の繁栄を誇っていた場所だったのに見る影もなくうらぶれていた。
道路こそ車で溢れかえっているが、一台も動く気配はなく、すでにそれらが持ち主の手を離れた事を雄弁に物語っていた。
かつては夕方を過ぎれば、歩くのも困難なほどの人が行き交っていた歩道も、私とブラッドが悠々と歩けるほど道に余裕がある。
どうも、この世界の神様は女神様ほど私に優しくないようで、私のささやかな妄想をことごとく打ち砕く事に余念がないらしい。
やっぱり、この世界は"終わった"世界だったようだ。
「おっと」
そんな由なし事を考えていた私の耳に、ブラッドが放つ小さなうなり声が聞こえて足を止める。
この声は半径数十メートル圏内に彼がゾンビを。しかも、自由に動けるゾンビを見付けたときに発する警戒を促す声だ。
彼は人間より遥かに優れた耳と鼻で、視界外のゾンビをいち早く発見しては私に教えてくれる。
しかも、私が気付かずにその方向へ行こうとすると服の裾をくわえて『そっちじゃない』と教えてくれるので、ゾンビとのふいの遭遇がぐっと減った。
それでも、ゾンビとの遭遇を完全に防ぐことは出来ないのだけど、奴らとの戦闘でも彼は有能だった。
ゾンビが視界に入るやいなや先行すると、彼は全体重を乗せてゾンビの足元に体当たりをかましてゾンビを押し倒すと、前肢で押さえ込んでゾンビを拘束してしまうのだ。
シェパードは成犬で四十キロもの体重を誇る上、アスリートもかくやと言わんばかりの筋肉質な体を誇る。
そりゃあ、フラフラ歩いているだけのゾンビなんて歯牙にもかけませんとも。
その時に判明したのだが、この世界のゾンビはどうも人間以外を襲う事がないらしい。
ただ、私に襲い掛かろうとジタバタするだけで上に乗ったブラッドを払いのける事もしない。
あとは近付いて首をはねるのも、無視して立ち去るのも自由と大変楽をさせてもらっている。
いくら私が化物の様な体力と戦闘力を持つとはいえ、ゾンビを見つけるたびにそれを倒して回るのは非効率極まりないので、ブラッドの助勢はすごくありがたい。
一度だけ、家を破ってきた複数のゾンビと遭遇した時も、私が目の前のゾンビを片付けている間に背後に回ったゾンビの腕に噛みついて、そのまま引き倒してしまった。
もう、ブラッドくん有能すぎてヤバイ(語彙消失)。ブラッド△です。
それで、今の今まで非常に快適な旅路と相成っていたわけですが……。
「ブラッドさん、ブラッドさん。あそこになんかあるのかい?」
先ほどの道から迂回して、結構入り組んだ住宅地を歩いていたのだけど、突然ブラッドが足を止めた。
彼の視線を追えば、数体のゾンビがうろつく先にお洒落な感じの一軒家がある。
彼がそこを見つめる目は、とても寂しげながら、まるで何かを懐かしんでいるようにも見えた。
「……ブラッドの大事なおうちなのかな?」
私がそう聞けば、彼は私を見上げてとても悲しげに鼻を鳴らす。
それだけで、私はだいたい事情を察した。
うん。彼にはお世話になってるし、受けた恩はしっかりと返さなきゃね。
「安心して、私がちゃんと眠らせてあげる。これでも向こうで洗礼も受けたちゃんとした司祭なんだよ?」
奇跡を起こすことはできなかったけどね。そう呟くと彼は不思議そうに首をかしげる。
そんな彼に苦笑を返して、私は一歩踏み出す。
「あのゾンビの中に、ブラッドの大事な人はいるかな?」
そう後ろで立ち止まったままの彼に問いかけると、一瞬間があったのだが彼は私に聞こえるか聞こえないかギリギリながら、強く否定の意思を感じさせる声で吠える。
……ブラッドさんや、ほんとに多芸すぎませんかね?
「と、いうことは家の中にいるんだね」
そう呟いて、私はブッチャーナイフを【ストレージ】から引き抜くと、相棒の家の前にたむろする不届き者達へと最後の慈悲を与えるべく歩き出す。
―――魔力を回す。
【身体強化】が発動。彼我の距離が踏み込み一つで零となる。
―――魔力を回す。
【竜炉心】に産み出された魔力が腕を流れ、握られた武器へと流れ込み、その刀身を包むように燐光が灯る。
―――魔力を回す。
【武装強化】が発動。大上段に構えたブッチャーナイフによって、対象を唐竹割りにして無力化――あと三体。全て南西の方向。振り抜いた刃を戻し八相に構え直す。
―――魔力を、回す。
【武装強化】を次の段階へ。刃を包んでいた魔力を変形。擬似的な刀身を作成。
そのまま、数メートル先でまごついている対象に向けて刃を振り抜いた。
まとめて三つの首が飛び、もう一度だけ魔力を回せばブッチャーナイフに付いていた血と肉片が焼滅する。
時間にすれば一分とかかっていない早業。
相変わらず、自分が人間辞めている。
「お待たせ。入るよ、ブラッド」
そう声をかけると、なぜか彼は呆れたように溜め息を吐いてからこちらへと寄ってくると、結構体重を掛けながら体を擦り付けてくる。
驚いている私に『先に行くぞ』と言わんばかりに一鳴きして、勝手知ったると言わんばかりに彼は開きっぱなしになっていた家のドアの隙間に体を滑り込ませていった。
「おっと~。今のはイケメン、もといイケワンポイント高いぞ~」
どうやら、今彼は私を慰めたらしい。
今さら自分が人間辞めている事について思うことは無かったけれど。でも、彼の優しさを妙にくすぐったく。そしてうれしく感じながら、彼のあとを追って私も扉をくぐった。
◆◆◆◆
かつての巣を歩きながら彼――ブラッドは思う。
隣人は考えすぎだ、と。
確かに胸に穴が開くわ、そこから物は取り出すわ、手から水が溢れるわと驚くことも多かったが、そも彼の方から望んで彼女へと近付いたのである。
今さらクサレの数体を彼の捉えられぬ速度で一掃した所で、その非常識さに呆れこそするものの、頼もしく感じはすれど恐れる必要などない。と一夜を共に過ごして彼は考えていた。
彼は、飼い犬として生まれ、愛玩動物として育ったものの、根っこの部分は未だ一匹のケモノであり、そして何よりも群れ為す狼としての本能が残っている。
強者たる隣人に率いられていることにどこか誇らしさすら覚えていた。
それだけに、妙なところに弱さを感じさせる彼女のことを存外に己は気に入ってはいるのだがな。と、鼻面で引き戸を開きながら思う。
彼が人間であれば、その表情には苦笑が浮かんでいたことだろう。
慣れ親しんだ巣の階段を上っていたのだが、ふと自分が引導を渡し、苦労して庭に埋めたかつての隣人の親の部屋から漂ってきた臭いを彼の鋭敏な鼻が捉える。
―――なぜ、ここからクサレの臭いがする。
確かに自分は彼らの頸を噛み砕き、その悲しい命を終わらせたハズだ、と首をかしげる。
しかし、妙なことに閉ざされた部屋の向こうに感じるクサレの気配は、微動だにすることがなかった。
―――奴等めは動き回るハズではなかったか?
たまに脚を使えない個体も居たが、なんとも不自由そうに這い回っていたのにと考えていたのだが、後ろにトオルの気配を感じたので、それ以上気にすることをやめた。
「ブラッド、そこにあなたの大切な人がいるのかな?」
首をかしげながらそう問い掛けた彼女に、否定の意思を込めて返事をして立ち上がる。
―――こっちだ。
そう言うようにもう一度彼は吠えると、さらに廊下の奥へと進んでいく。
とりあえず、彼はそこに居るであろうクサレの存在を一旦頭の隅に追いやった。
あとで様子を見に来ればいい。隣人たちの匂いがまだ残る巣を無遠慮なクサレなぞに汚されてなるものか。と強く考えてはいたのだが。
そうして進んだ先からは、濃密な死の臭いが漂っている。
それが彼は、たまらなく寂しかった。
一歩そこへ近付くごとに。小さな隣人と彼の築いた様々な思い出が脳裏をよぎる。
まだ彼の体が今よりうんと小さかった頃。小さな隣人に包まれて眠ったことを。
彼の体が少しだけ大きくなって、彼女と綱で結ばれて初めて外を歩き、はしゃいだ自分に引っ張られた彼女がこけ、泣き出してしまい狼狽えたことを。
今と変わらない姿となった頃。雷の音に驚いた
彼女が、自分に抱き付いてきたのであやしてやれば、そのまま眠ってしまったことを。
他にも、沢山の喜びがあった。沢山の悲しみがあった。
そのどれもが、彼にとって欠かすことの出来ない。大切な、大切な思い出だった。
そして、あの日。
何も映さぬ瞳で、何も口にすることなく。
ついに、その短い。短い生に静かに幕を下ろした愛すべき隣人―――エミという少女と過ごした時間を。
―――嗚呼。隣人たちの様に涙できないのが今は途方もなく口惜しい。隣人たちの様に、彼女に言葉を掛けられないことが、たまらなく悲しい。
今は蛆にまみれ、腐り。変わり果ててしまっていても尚。彼の目に映るのは過日のまま変わらない彼女の姿。
その名前が示すように花咲くような笑顔を湛えた姿のままで。
―――おかえり、ラッフィー!
―――嗚呼、己は帰ったぞ。
万感の思いを込めたラッフィーの物悲しい遠吠えは、彼女の亡骸の後ろに映った突き抜ける蒼へと消えていった。
10/13(日)投稿。
お気に召しましたら、ブクマや評価などよろしくお願いいたします。
~人物名鑑~
①西条 恵美
ブラッド(ラッフィー)の前の飼い主。小学五年生。
公務員の父と、専業主婦の母。そして、高校生の兄と一緒に暮らしていた。
ゾンビ禍が始まったとき、たまたまブラッドの散歩に出ておりそこでゾンビの発生に巻き込まれるも、彼の奮戦によって助け出されて自宅へと帰りつく。
しかし、そこは既に安全な自宅ではなくなっていた。
帰りついた彼女が目にしたのは、ゾンビに変じた母と兄が、玄関先で父の体を貪っている光景で。
なんとか彼らもブラッドが眠らせるも、恵美の精神は崩壊して廃人となってしまう。
そして意識の戻らないまま、ブラッドに看取られて短い一生に幕を下ろした。享年9歳。