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2-11.溜息

 夫が今日も疲れたように、深い溜息を漏らしている。

 それにグレイシアは気付いているも、指摘すればリオレイルは気にしてしまうだろう。何度目かも分からない溜息は、無意識のものだろうから。



 夫婦の寝室にあるソファーで、二人は並んで読書をしている。グレイシアが手にしているのは巷で流行りの恋愛小説。町に出掛けた時にメイサに薦められたものだ。


 軽やかな文体で綴られた、辺境に暮らす少女の恋物語。少女が密かに恋心を抱いていたのは、幼馴染みである少年。しかし彼は冒険者になる為に村を出てしまう。文のやり取りで心を通わせていく二人。

 しかし、魔物が辺境の村を襲う。山菜取りに出掛けていたおかげで魔物の襲撃から逃げ延びた少女は、焼け落ちる村を唖然として見つめていた――


 途中まで読んだところで、またリオレイルが小さく息をつく。ちらりと横顔を窺うと、その眉間には薄く皺が寄っている。

 グレイシアは苦笑いを零すと、押し花で作ったしおりを丁寧に挟んでから本を閉じた。


「お仕事は忙しい?」

「……ん? いや、そんな事は……すまない、集中出来なかったな」

「大丈夫よ。ただ、疲れているようだから大変な案件でもあるのかしらと思って」


 そう言葉を紡いだグレイシアは、彼が溜息をつくようになったのは数日前からだと思い当たった。それは彼が子爵領へ調査の護衛に行ってから。


「ねぇ、わたしの力が必要になったらいつでも言ってね」

「君が聖女だと公にするわけにはいかない」

「それでも。わたしの力は、わたしの手の届く全てのものを守れると、そう言ってくれたのはあなたよ」


 まだグレイシアが留学として、この屋敷に滞在していた時。

 リオレイルの言葉が、グレイシアの心に潜んでいた聖女への嫉妬心を昇華させてくれたのだ。聖女になるだけの力がなかった頃、何も救えない中途半端なものだと自分の力を恨めしく思った。それを彼が救ってくれたのだ。


「苦しみに、わたしは手を伸ばす事が出来る。わたしの一番傍に居るのは、あなたでしょう? わたしはあなたの為になら、喜んで力を奮うのよ」

「……君には敵わないな」

「それって褒めているのかしら」

「勿論さ。グレイシア、君が居てくれるだけで、俺も強く在れるよ」

「居るだけでいいの?」

「ああ、十二年焦がれていたんだ。君の瞳に俺が映る喜びを、俺の腕の中に君が居る幸せを、どうしたら伝えられるだろうな」


 そう言うとリオレイルは膝の上で開いていた分厚い本を閉じ、サイドテーブルにやってしまった。空いた両手をグレイシアに伸ばすと、軽く抱き上げて自分の膝へと座らせてしまう。

 リオレイルに跨がる形で向かい合うと、その距離感とその姿勢にグレイシアの顔が赤く染まった。恥じらう妻の姿に、リオレイルが低く笑う。


「少し滅入る事があったんだが、君とこうしていればどこかに吹き飛んでしまう」

「もう、そんな事を言われたら……下ろしてなんて言えないじゃない……」


 抗議の声も羞恥にか細い。


「言ってもいいんだぞ。下ろすつもりは一切ないが」

「言っても無駄って事でしょう、それ」


 はぁとわざとらしく溜息をついたグレイシアは、両手をリオレイルの頬に添えた。文句を言いながらも、下りるつもりはグレイシアにもないらしい。


「次の休みには歌劇でも見に行こうか」

「いいの? 忙しいのではないの?」

「君の為に時間が取れないような、仕事の仕方はしていないさ」

「ふふ、ありがとう。楽しみにしているわ。……そうだ、確認しておきたい事があったのだけど」


 先を促すようにリオレイルが首に角度を持たせる。グレイシアは肩に添えていた手を、リオレイルの頬に滑らせた。琥珀と紅玉の瞳が心地よさげに細められる。


「夜会やお茶会の招待が多いの。招待状はあなたも確認しているでしょうけれど、参加した方がいいものがあるかしら」

「俺が夜会に参加しないのは知っているだろう? だが、君が参加したいものがあれば、喜んで付き合うぞ」

「ありがとう。セシリア達が主催するものには参加したいと思っているんだけど……悩ましいのよね」


 一度言葉を切ったグレイシアは、困ったように肩を竦めた。眉を下げるその様子に、リオレイルは、頬に添えられたグレイシアの手を握りしめる。


「あなたの素敵な姿は見たいけれど、他の人に見せたくないの」


 小さな声で落とされた言葉は、リオレイルが想像していたものとは全く異なっていた。可愛らしい独占欲に当てられて、リオレイルの瞳に熱が灯る。


「それは俺が言いたい事だな。君を着飾らせるのは好きなんだが、どうしたって君は視線を集めてしまう」

「ねぇ、じゃあこうしましょう。今度、わたしとダンスを踊ってくれる?」

「着飾った君と?」

「ええ、二人だけで楽しむの」


 向けられるのはお互いの視線だけ。互いの視線が絡み合って、睦言だって二人にしか届かない。

 二人だけの舞踏会を想像して、グレイシアの口元が綻んだ。その唇を掠めるように奪ったリオレイルは愛しげな視線を向けるばかりで。


「それはいいな。嫉妬に身を焦がさないで済みそうだ」


 気付けばグレイシアは、しっかりとリオレイルに抱き締められていた。

 触れるだけの口付けが深くなっていく。グレイシアは首に回した両手を、うなじから黒髪へと忍ばせた。縋るように抱き着くと、お互いの温もりが溶け合う感覚に眩暈がする。


 灯りが消えた事にも、グレイシアは気付かなかった。

 そんな余裕を、リオレイルは与えてくれなかった。


 零れ落ちるのは溜息にも似た、吐息ばかり。熱と欲に塗れていた。


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