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Tell me, Tell you.(1)

 午後九時台の小田急線は空いていた。

 朝とはまるで違い、私達は座席に並んで座ることができた。


「伏見桐梧です。よろしく」

 私の右隣に座った彼がそう名乗る。

 その後で、照れくさそうに少し笑った。

「改めて名乗るの、ちょっと恥ずかしいな」

 私はそんな彼の横顔を、失礼にならない程度にじっくり眺めた。この人の、こんな顔を見られる日が来るなんて。正直に言うとまだ信じられない。こうして並んで座っていることさえ夢みたいだ。

「トウゴは桐の木のトウに、アオギリの梧。……って言ってわかるかな」

 彼が先生みたいに続けた言葉は、残念ながらわからなかった。

 すると彼は自分の手のひらを指でなぞり、私にもわかるようにゆっくりと『桐梧』と記した。

 桐とアオギリ。どちらも植物の名前だそうだ。

「私と同じですね」

 嬉しくなって私が言うと、彼も目元を優しく和ませる。

「そうだね、桜さん。君のお名前は?」

「臼木桜です。サクラは普通に、桜の木の桜で」

「ウスキさんってどんな字を書くの?」

「石臼の臼に、植物の木です。簡単な方の」

 私の言葉を、彼は一つ一つ丁寧に頷きながら聞いてくれた。相槌を打つ声はあの柔らかい声音で、笑っていないとどこか無表情に見える顔立ちをしている。逆に一旦笑うと、明かりが点るように温かい表情になるから不思議だ。

「これからは臼木さんと呼んだ方がいいのかな。それとも、桜さんのままでいい?」

 その彼が微笑みながら尋ねてきたから、私は思わず言葉に詰まった。

「えっと……桜で、いいです。名前のままで……」

 せっかく、さっき、そう呼んでもらえたから。

 どぎまぎしながら答えると、彼はまた少し笑う。

「よかった。じゃあ、桜さん」

 彼に名前で呼ばれるだけで胸がきゅっと痛くなる。

 もちろん辛い痛みじゃない。切ないような、幸せなような、よくわからない感覚だった。


 夜を走る電車は、既に代々木上原の駅に辿り着いていた。

 涼葉ちゃんも今日は残業かな。開いたドアから屋根のあるホームが見えたけど、ドアは間もなく閉まり、車両に涼葉ちゃんらしき人が乗り込んでくる様子もなかった。

 次に会ったらどう報告しよう。

 そのことは、まだ上手く考えられない。


 再び電車が動き出した時、彼が切り出した。

「朝はよく会うけど、帰りに会うのは初めてかな。いつもこの時間?」

「いえ、今日は残業だったんです」

 就職してから初めての残業だった。

 小田急線に座れるほど空いている時間があるなんて、今日初めて知った。朝なんていつもぎゅうぎゅうのすし詰めだから、座席の存在を気にしたことすらない。

「もう残業があるなんて、大変だな」

 彼は気遣わしげに眉根を寄せた。

 もしかすると私だけじゃなく、もう社会に出ているという彼の教え子達のことまで考えていたのかもしれない。

 涼葉ちゃんも早出になっていたし、今は新卒の子達が仕事の厳しさを痛感し始める季節、なのかもしれない。

「いつもはもっと帰りが早くて……こんな時間に電車乗るの、初めてです」

「そうだったのか、お疲れ様」

 優しく労ってくれた彼に、今度は私が聞き返してみる。

「伏見さんは、いつもこのくらいに帰るんですか?」

 フルネームを教えてもらったけど、さすがに年上の人をいきなり下の名前では呼べなかった。ともあれ私の質問に、彼はくすっと笑ってから答える。

「いつもではないかな。今日は日直だからこの時間になった」

 懐かしく思えるその単語に、私は驚いた。

「先生にも日直ってあるんですか?」

「あるよ。校舎の見回りと鍵閉め当番」

 驚かれ慣れているんだろうか、彼は淡々と説明してくれた。

「朝は早めに出勤して校舎の鍵開けをしなくちゃならないし、放課後は下校放送をかけたり、各教室を回って窓が開いていないか確認したり、施錠しなくちゃいけないドアを閉めたり……うちの学校ではそういうのを持ち回りの当番で行う。桜さんの学校はそうじゃなかった?」

 聞かれたから、私は自分の母校のことを思い出そうとした。だけど学生時代、私達生徒が下校した後に先生方がどんなお仕事をしているか、そういえばほとんど気にしたことはなかった。

 そしてこういう話をしていると、伏見さんが学校の先生であることを改めて実感してしまう。

「あんまり気にしたことなかったです」

 恥ずかしかったけど正直に答えた。

「そうだろうな。俺も学生時代は一切気にしてなかったよ」

 彼がまた笑って、首を竦める。

 明かりが点ったようなその笑顔に、私はつい見惚れてしまった。


 こんな先生がいたら、きっと素敵だろうなと思う。

 さらさらの髪、中性的とも言える整った顔立ち、虹彩の薄い瞳、細身の身体にぴったりのスーツと、ダークブルーのネクタイ。物腰柔らかで、私の話を丁寧に聞いてくれて、とても優しい。こんな先生が母校にもいたら、学生時代の私はもっと勉強に本腰を入れていたかもしれない。あるいは更に手につかなくなっていたかもしれないけど――ともかく。

 今朝も生徒の子達に囲まれていたし、伏見さんは学校でも人気があるんじゃないだろうか。


 私からすれば、久し振りに接する『先生』というお仕事の人だ。

 そのお仕事に好奇心がふくらむ一方で、ほんの少し緊張もしていた。

 彼にはもっとたくさん、聞いてみたいことがあった。どこに住んでいるのか、何歳なのか、彼女は――いないと思う、けど、それとあと連絡先を聞いてみてもいいか、どうか。

 でもいざとなると、どれから聞いていいのかわからなくなる。

「あの……」

 電車は下北沢をとうに過ぎていた。この時間も無限じゃない、聞きたいことは今のうちに聞いておかないと。

 そう思って、私は勇気を振り絞る。

「い、いきなりなんですけど、伏見さんっておいくつですか?」

 教え子がもう社会に出ているというのだから、私よりは確実に年上だと思う。もちろんその事実だけじゃなく、話し方や表情に落ち着いた雰囲気があって、大人っぽい人だなと感じていた。私が子供っぽいだけかもしれないけど。

 私の突っ込んだ問いに、彼は快く答えてくれた。

「俺の歳? 二十六だよ」

「えっ!」

「何、どうして驚くの? 見えない?」

 思わず声を上げてしまったら、伏見さんには苦笑されてしまった。

 失礼だったなと、私は慌てて謝る。

「ごめんなさい。意外と歳近いんだなって思ったら……」

 すると彼は真横から私の顔を覗き込んできて、

「老けて見える?」

 それほど近づいたわけじゃないけど、明るい色の瞳に真正面から見つめられると、どきっとする。

「そ……そうじゃないです! ただ、三つしか違わないとは思わなくて」

 私は手を振って、彼の懸念を否定した。

 本当に驚いただけだ。二十六歳。私と三歳しか違わないことに。

 私もあと三年で、こんなふうに落ち着いた社会人になれるだろうか。

「桜さんは二十三歳か、新卒だもんな」

 伏見さんは座席に座り直した後、思いついたように続けた。

「じゃあ、春生まれさんなのかな」

「はい、そうです。四月生まれだから『桜』なんです」


『あなたが生まれた日、病院の窓から満開の桜が見えたの』

 なんて、うちのお母さんは言っていた。

 ちなみに涼葉ちゃんは夏生まれだそうだ。子供の名づけってどこもそんなものなのかな。

 そこまで考えて、ふと思う。

 伏見桐梧さん。桐とアオギリ。そのお名前ももしかしたら季節にちなんでつけられたんだろうか。桐って、花が咲くのかな。


「いい名前だね」

 その時、伏見さんが、私の名前を誉めてくれて。

 ちょうど彼の名前について考えていた私は思わず照れて、俯いた。

「あ、ありがとうございます。結構、よくある名前なんですけど」

「よくある名前なのは、皆がいい名前だと思ってるということだよ」

 彼の言葉は常に優しい。

 俯いていた私の耳に、とても心地よく染み込んでくる。

 本当に、こんな先生がいたらよかったな。伏見先生の授業、受けてみたかった。あの生徒の子達がちょっとだけ羨ましい。

 もっとも、実際に『先生と生徒』だったらこんな会話をする機会には恵まれなかったはずだ。

 気を取り直して、更に質問をぶつけてみることにした。

「伏見さん、どちらにお住まいなんですか?」

「え?」

 私の問いに、彼は目をゆっくりと瞬かせた。

「どちらって、朝は同じ駅から乗ってるのに?」

「そうなんですけど、具体的にどの辺かなって……」

「ああ、そういうことか。駅の近くに住んでる。徒歩で十五分くらいかな」

 それは近い。羨ましい。 

「桜さんも市内に住んでるの?」

「はい。駅までバスで通ってるんです」

 東京で一人暮らしとなるとやっぱり心配なこともあるし、家賃も気になるし、せっかくだからきれいなお部屋に住みたかった。四月から借りているお部屋は家賃の割にリフォームしたてでとても住みよい1Kだ。駅までは遠いけど、閑静な住宅街に立つアパートでとても気に入っている。

「バスか……結構遠い?」

 伏見さんの問いに、私は住所で答えた。バスで六駅くらい向こうだ。

 それを聞くと彼は難しげな顔つきになって、

「向こうに着いたらお茶に誘おうと思ったんだけど、次の機会まで待った方がいいかな?」

 私は、その問いに呼吸が止まった。

「お茶……えっと、それって――」

「もう少し、君と話したいって思ってたところだったから」

 電車はもう登戸を過ぎたところだ。

 降りる駅がどんどん近づいてくる。この時間も無限じゃない。

 だけど、電車を降りてから、少しだけ引き延ばすことができるなら――。

「わ、私は、全然構いません!」

 私は勢いよく答えた。

 だって私も、伏見さんに聞きたいことがもっとたくさんあった。一番肝心なことが聞けてなかった。

「大丈夫?」

 伏見さんが確かめてきたから、しっかり頷いておく。

「もちろんです。是非お願いします」

「じゃあ、少しだけ付き合ってもらえるかな」

 そう言うと、伏見さんは明かりが点ったような微笑を見せてくれた。


 電車を降りた私達は、一緒に改札を抜けて駅の外へ出た。

 夜遅くだと普通の喫茶店は閉まっているものだけど、駅前にはいくつかコーヒーのチェーン店があって、そういうところは夜遅くまで開いているようだった。

 私達はそのうちの一軒に入って、もう少しだけ話をすることにした。

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