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With me, With you.(3)

 展望台は、曇りの日だと普段より空いているのだそうだ。

 と言ってもチケットカウンター前には行列ができていて、私達も三十分ほど並んだ。


 その間、伏見さんとゆっくり話ができたのが嬉しかった。

「やっぱり、観光客が多いんでしょうか」

 私はこっそりと周囲を見回す。

 列を作っている人達は年齢も服装もまちまちで、旅行者なのかそうではないのか、あまり区別がつかなかった。ただ外国の方の姿はちらほらと見かけていた。

「どうかな。ここに、初めて登る都民もいるけど」

 伏見さんは肩を竦めた後、まるで寄り添うような微笑を浮かべた。

「でも、どっちだって見える景色は同じだ」

「確かにそうですね」

 これから見に行くのは、私にとっても、伏見さんにとっても、初めて見る景色だ。

 何か不安があったわけではないけど、彼の言葉になぜかほっとした。

「雨が降らなくてよかったですね」

「ああ、本当に」

 梅雨の間の小休止みたいな曇りの日。

 貴重なこの日に、伏見さんと一緒だ。


 当日券を購入した私達は、早速順番を待って天望デッキに上がった。

 そこから更に高い天望回廊に向かう為、エレベーターに乗り込む。思いのほか迅速に到着した先は、地上四百四十五メートルの回廊だ。ガラス張りのチューブのような回廊は緩やかな坂道になっていて、それを辿っていくと最高地点に辿り着けるとのことだった。

「地上四百五十メートル。それは高いな」

 伏見さんが感心したように言うのが、何だかおかしかった。

「高いところは平気ですか?」

「飛行機なら窓側が好きだな。そのくらいは平気だ」

「あ、私もです。窓からの景色もいいですよね」

 一番最近の記憶は、上京する時に乗った飛行機だ。隣には涼葉ちゃんがいて、二人でお喋りしていたから窓の外を見る暇はなかった。

 だけどお互い饒舌だったのは、楽しかったからだけじゃない。

「……東京って、広いですね」

 回廊を二人でのんびりを歩きながら、ガラス越しに東京の街並みを見下ろしてみる。曇りの日だからだろうか、眼下の街並みはけぶるように白く霞んでいて、遠くの方は靄がかかって見えなくなっていた。まるで東京全体が立ち込めた霧に包まれているような、幻想的な雰囲気だった。

 実際には『霧で閉ざされた』なんて形容が全く不似合いなのが東京だ。こんなに広くて大きいんじゃ、どれほどの霧が必要になるだろう。

「こんなに高いのに、それでも街全部が見渡せないなんて……」

 私の感嘆に、伏見さんが頷く。

「巨大な街だよ。俺だってまだ歩き尽くせてないほどだ」

 二十六年住んでいる彼がそうだというのなら、私も歩き尽くすのにどれほどかかるだろう。あと十年、二十年後くらいには『東京を全て歩いた』と胸を張れるようになっているだろうか。むしろその頃まで、私は東京に住んでいるだろうか。

 やがて私達は回廊を上りきり、最高地点に辿り着く。

「わあ……いい眺め」

 天望の名の通り、ここから見えるのはまさに空からの眺めだった。薄い雲越しに望む街並みはジオラマよりもさらに小さく、さながら航空写真のようだ。あるいは空飛ぶ鳥の見ている景色なのかもしれない。

「本当だ。曇りの日もいいものだな」

 伏見さんが目を眇める。

 私も同じようにして、鳥の気分でしばらく景色を堪能した。


 それから、いつの間にか遠くなった思い出を改めて手繰り寄せる。

 涼葉ちゃんと上京した日のこと。飛行機から見た景色と、あの時の気持ちを。


「私、上京する前は、正直わくわくしてたんです」

 それを私は、伏見さんに打ち明けたくなった。

 彼がガラスの向こうの景色から、私に視線を移す。色素の薄い瞳が静かに私を見ている。

「やっぱり、東京ですから。大きな街だし、栄えてるし、何でもあるし、今までテレビで見てきただけのものがすぐ近くにあるなんてすごいなって……行く前は友達とはしゃいでたんです」

 スカイツリー、サンシャインシティ、東京タワーに雷門――東京には全部ある。お洋服も食べ物も目移りするほどたくさんあって、買い物には不自由しない街、それがここだ。

 私も涼葉ちゃんも、行く前はすごく楽しみにしていて、地元に残る友達に『こっち来たら案内するよ!』なんて話してた。

「でも着いてみたら、東京は思っていた以上に広くて、大きくて、途方もなくて」

 羽田空港も東京駅も、初めてではなかったのにかなり迷った。

 迷う間に、数え切れないほど大勢の人たちとすれ違った。

 電車を乗り継いで、バスにも乗って、一人辿り着いたアパートの部屋は空っぽで、その時酷く寂しかったのを覚えている。

「私、ここで本当にやっていけるのかなって……何度も思いました」

 その気持ちは、涼葉ちゃんには言えなかった。

 聞いたことはないけど、彼女もそう思っていたかもしれない。そうだとしたら、私が口にすればお互い堰を切って溢れてしまうかもしれない。だからずっと胸の奥に秘めていた。

「お仕事だってわからないことだらけで不安でしたし、春先はずっと気分が沈んでて」

 私がそう言った時、伏見さんが思い出したように小さく頷いた。

「そうだったな。春先の君は、一人になった時、いつも不安そうにしていた」

「はい……伏見さんは見ててくれたんですよね」

 涼葉ちゃんが代々木上原の駅で降りた後、新宿までのわずかな時間、一人ぼっちの私はいつも項垂れていた。

 こんな大きな街で、一人でなんていたくなかった。

 でも、こんな大きな街でも、途方もないほど大勢の人の中でも、たった一人の私を見つけてくれた人がいる。そのことが――。

「嬉しかったです。伏見さんと会えて」

 私は、彼を見上げてそう告げる。

 もちろん、照れずに言えたわけじゃない。顔は赤くなっていただろうし、すごくどきどきしていたし、口の中がからからだった。

 だけどこれは言わなくちゃいけない。

 そうしないと、次の言葉に進めない。

「ありがとうございます、伏見さん」

 私が感謝を口にすると、彼はそれが意外だったというように目を瞬かせた。

「お礼を言われるほどのことはしてない」

「でも、満員電車で私を助けてくれました」

「あれはもう、あの時言ってもらったから十分だ」

 伏見さんは穏やかな面持ちでかぶりを振る。

 それから、繋いだままだった手を一度離して、そっと私の頬に添えた。

 彼の手は温かく、だけどそれ以上に私の頬は熱かった。覗き込んでくる彼の表情は真剣だ。

「俺も、嬉しいよ。桜さんとここで会えて」

 それは私がついさっき告げたのと同じ言葉だった。

 だけど、言うのと言われるのとでは大違いだ。それでなくても伏見さんは笑っておらず、そうすると中性的な彼の顔立ちは一層美しく整って見えた。彼の瞳も、天望回廊に溢れる柔らかな光でより赤みが強く映る。

「最近、時々思うんだ。君と会えてなかったら、寂しかっただろうなって」

 その瞳で私を見つめながら、伏見さんは言う。

「きっと寂しくて、つまらなかった。そういう気持ちがわかるのも、君と会えたからだけど」

 私はそんな伏見さんを、きれいな人だ、と思う。

 男の人にそう言うのはよくないことかもしれないけど――ううん。顔立ちだけじゃなく、彼は、きれいな人だ。

「君といると嬉しいんだ。毎朝、君と駅で会えるのを何よりの楽しみにしている」

 伏見さんはそこで、懐かしそうに目を細めた。

「それを知らなかった頃のことが、もう思い出せないほどだ」


 言われてみれば、私もそうだった。

 伏見さんと出会う前のことが、いつしか遠い思い出になっていた。

 初めて暮らす街、初めてのお仕事、初めての電車通勤。あの頃抱いていた不安や心細さを、思い出そうとするのは少し大変だ。まだたったの、二ヶ月ほど前のことなのに。

 代わりに私はたくさんの幸せを知った。伏見さんと会えたこと。彼が助けてくれたこと。毎朝会えて嬉しいこと。話をして、少しずつ伏見さんのことを知っていくのがもっと嬉しいこと。

 こうしてお休みの日に一緒にいられて、どきどきしているけど、幸せなこと。

 好きな人がいるって、こんなに素敵なことなんだ。


「わ、私も……」

 思っているようには、その気持ちを口にできなかったけど。

「私も、伏見さんと同じように思ってます」

 どうにか頷くと、彼はじっと私を見てから、ふっと表情を和らげた。

「同じように?」

「はい」

「君も、俺のことを考えて眠れなかった夜があったのかな」

「えっ、あ、あのっ」

 今度は同意もできなかった。

 それは確かに、あった、けど。

 でもまさか伏見さんもそんなふうに夜を過ごしたことがあったなんて。私のことを考えて――なんて、まさか。そんなことって。

「わ、私は……えっと、その」

「無理に答えなくてもいいよ」

 うろたえる私を宥めるように言ってから、伏見さんは頷いた。

 そして私の頬から手を離し、その手でもう一度、私の手を取る。

「ごめん。そんなつもりはなかったんだけど、からかったみたいになっちゃったな」

「そ、そんなこと! 思ってないです!」

「それならよかった。もう少し、景色を見ていこうか」

 繋いだ手は温かく、頬は更に火照って熱い。

 だけど嫌な気分じゃなかった。幸せだった。

 言いたいことがあった。さっきの続き。あの気持ちの次の、言葉。

「あの……」

 言いかけた私は、でも今更のように天望回廊に居合わせた他の人達のことが気になりだした。

 曇りの日とは言え、休日のスカイツリーはそれなりにお客さんが多く、ざわついている。この先の言葉は、もう少し静かなところで告げるべきだろう。

 もしかしたら、伏見さんもそう思ったのかもしれない。

 その後は二人で、しばらく口数少ないまま天上の景色を味わった。


 スカイツリーを後にした私達が次に向かったのは、すぐ傍にある水族館だった。

 伏見さんが購入したガイドブックによれば、すみだ水族館はイルカやアシカのショーなどはなく、こじんまりした都市型の水族館だそうだ。見どころはくらげの美しい水槽、そして大きなペンギンのプールだと教えてくれた。

「カフェも、座れる場所もあるそうだ。たくさん歩いた後だし、休憩がてらペンギンを見よう」

 笑う伏見さんに手を引かれ、私もどきどきしながらついていった。

 今が楽しくて、幸せで堪らなかった。

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