(9)もうすぐ夏休み
すっかり若返った、というより幼くなった吉田保の姿にエリカは戸惑っていた。
吉田保ははたして勇者様なのかそうではないのか?
彼はエリカのことを覚えているのか、忘れてしまっているのか?
(勇者様かどうかはともかく。私のことなんか覚えているわけが無いわよね。だってあの戦勝祝賀会の夜、あの時点で勇者様はどう見ても私が誰だかわかっていなかったもの)
じつは、“秘密の呪文”なんていう思わせ振りなものをくれながら、あっさり忘れられたことに、ちょっぴり腹がたったエリカは、牢屋の中で(呪文を使っちゃおうかしら)とチラッと思ったりもしたのだ。
だが、万が一呪文のせいで勇者が再び世界の扉を越えてしまったら、一族の千年が無かったことになってしまうと思い止めたのだ。
どちらにしろエリカは自分の事情を吉田保に話すつもりは無かった。同情で人を愛せるようになるとは思えない。ならばエリカの死に罪悪感を抱きかねない事実など知らないほうが良い。
人を愛せないことで、その相手が死ぬ? そんなこと、言われるほうは迷惑以外のなにものでもないだろう。
エリカはあたたかい魔力の吉田先生のことも陽菜子の家族と同じくらい好きになっていた。好きな人たちの幸せな様子を目に焼き付けて逝けるなら、自分の死に方としてはかなり良い方なのではないだろうか?
あとは陽菜子が幸せになってくれたら言うことは無い。できればエリカが逝く時、陽菜子の中のエリカの記憶も一緒に消滅してくれれば彼女が傷つくことも無いだろうけれど。
女神が(えっと、そう、アフターケアよ、アフターケア)そういった気づかいをしてくれるとは思えない。
たくさんを望み過ぎても不幸のもと。エリカは陽菜子と一緒に充実した今日を頑張ることに決めていた。
陽菜子とエリカ、2人でのりきった期末テストは上々の成績だった。この世界の学校や学問もエリカには興味深い。楽しそうなエリカにつられて陽菜子も勉強がとても楽しかったのだ。
テストが終わればもうすぐ夏休み。2人は話し合っていろいろな計画をたてていたのだが、美容師の渡辺仁さんから思いがけない提案がきた。
初めての美容室で感動した2人は、あのあとすぐに渡辺さん宛にお礼の手紙を送っていた。
渡辺さんの仕事に感動したこと。美容師について調べて、その大変さに驚いたこと。美容に興味を持ったこと。いろいろ書いて送ったら、渡辺さんからの返事の手紙が返ってきて、何度か文通するようになり、いつの間にかメールでやりとりするようになっていたのだ。
渡辺さんからの提案は、『夏休みに母親の美容院に遊びに来ないか?』というお誘いと、渡辺さんがヘアメイクを担当する雑誌の撮影への見学の招待だった。
渡辺さんのお母さんの美容院は陽菜子の家のすぐ近くだった。美容室がお休みの日に渡辺さんが手伝いに行くこともあるそうだ。お祖父様とお祖母様の許可も出て、2人は大喜びで渡辺さんとメールで打ち合わせをした。
雑誌の撮影の場所もそんなに遠くない。次の日曜日、お祖母様と一緒に見学に行けることになった。
学校のほうは相変わらずだったが、陽菜子にちょっかいを出していたあの3人はすっかり大人しくなっていた。個別指導の先生方のおかげか、自分を気にかけてくれる大人がいる、ということが良かったのかもしれない。
渡辺さんからのメールの翌日、久しぶりに安藤君に声をかけられた。『次の日曜日にクラスの友達で映画を見に行くので一緒に行かないか?』というお誘いだったが陽菜子 (とエリカ)は丁寧にことわった。
安藤君の魔力の揺らぎから、彼がかなりの勇気を振り絞ってのお誘いだったことはわかっていたが、今回はタイミングが悪かった。これでクラスの人たちからの誘いは2度と来ないかもしれないが、
(陽菜子、良いの?)
(しょうがないわ。私は今やりたいこと、大切だと思うことをしようって決めたの。人の目や人の気持ちばかり気にして何もしないのはだめだと思うから)
エリカの魔力感知で見たところ、安藤君だけでなく他の男子もがっかりしているようだった。女子も陽菜子に注目している。
クラスの人たちも陽菜子 (とエリカ)の挨拶に普通に挨拶を返してくれるようになったし、グループわけでのけ者にされることもなくなっていた。
陽菜子が学校の外にも目を向け、世界が広がったとたんに、学校の皆との関係がうまく回り始めたようであった。
吉田先生と一緒にお弁当を食べていると、時々吉田保が顔を出すことがある。
「なんだ、また保健室に逃げ込んでるのか? いじめられっ子」
彼のからかう声にはとげがなく、こちらをいたわるような優しさを感じる。この人のこういうところは変わらない。
「いじめられっ子じゃないわ。吉田先生とお昼を食べたいだけよ」
挨拶代わりのいつもの軽口。保とのやりとりはこれで終わりだ。
彼は自分に会いに来たわけではない。吉田先生に会うために保健室に来たのだ。
「モテますねぇ、吉田先生」
「羨ましいかね。吉田君」
2人が楽しそうに、幸せそうに会話しているのを、お弁当の残りを食べながら眺める。今、自分は幸せ、なのだおそらく。
5歳から12歳になるまで、勇者様の顔を見ることは1度も無かった。
今、いつでも顔を見ることができる場所にいて、話ができる距離にいて、でもあの頃より彼の存在を遠くに感じるのはなぜなのだろう。
“秘密の呪文”
おそらく今はもう唱えても何も起こらないだろう。目の前の勇者様が転移魔法でとんできてくれるとはとても思えないのだから。
それを、ただ1つの宝物として大切にしていたあの頃の自分は、じつはとても幸せだったのかもしれないと、エリカはふと思った。