(1)勇者の帰還と姫の旅立ち
その人の黒い瞳がとても悲しげで、だから私は尋ねたの、「帰りたいの?」って。
彼はムッとした顔でこちらを見て、そこにいたのが小さな女の子だったのが意外だったのか、怒るのを止めて疲れたように溜め息をついた。
そして小さな声で「帰れるものなら帰りたいですよ。殿下」と投げやりに答えた。
王宮の中で髪を結い上げずにいても許される女性は聖職者か王族だけ。私は聖衣を身につけていなかったから王女だと判断したのね。
でも不正解。
私はたしかにこの国の国王の子だけど、王女ではないの。
7年前に亡くなった私の母は“失われた王国の王女”。その娘の私も母と同じでこの国の人質なの。王宮の中はある程度自由に歩けるけれど、常に護衛という名の監視の目が付いているのよ。
この世界では常識。でも、あなたにはそんなことわからないわよね。あなたは異世界から召喚された勇者様なのだから。
無理矢理拐われて、帰りたい場所に帰してもらえない。
私の母と一緒ね。
でも、母が帰りたかった場所はもうどこにも無いけれど、あなたの帰りたい場所はまだちゃんとある。
私? 私はこの王宮で生まれたの。初めから帰りたい場所なんて無いのよ。
「ねえ、本当に帰りたい?」
魔王と戦うために、約千年ぶりに召喚された勇者様。10年戦いぬいて魔王軍を討ち滅ぼした世界の英雄。人が羨む富も名誉も地位も手にいれた。
なのに、人々の称賛の声に包まれる彼は悲しげな笑顔を見せるだけ。
「帰りたいに決まってるだろうっ!」
しつこい私にいら立ったのか、彼の声に怒りがにじむ。でも、すぐに気落ちしたように表情も声も力を失っていく。
「守りたい人がいるんだ。俺が必ず守るって誓った人が」
愛する人を守りたいという気持ちは私にもわかるわ。守ることができなかった時のあの絶望も今でも生々しく覚えている。
(お母様……)
きらびやかなパーティー会場から離れた、明かりの届かない中庭に、雲間から顔をのぞかせた月の光が射し込む。
(月が……出たわね。今日は満月。女神様のお導きかしら)
私は彼の顔をまっすぐに見ながら、歌い始めた。幼い頃、母に繰り返し教わったあの歌を。
彼と私以外の人影は見えないけれど、私に付けられた“影の者”の監視は今もあるはず。
でももう私は歌い始めてしまった。もう引き返せない。
いきなり歌いだした私に、訝しげな顔をしていた彼の目がすぐに驚きに見開かれる。そして聞き漏らすまいと、私の顔を凝視する。
そうよ、しっかり聴いて。1度しか歌えないわよ。
この歌はあなたのための歌。あなたに聴かせるために千年もの間、私たちの一族に口伝のみで伝えられてきたのよ。
“2人目の勇者にこの歌を聴かせよ”
その言葉とともに秘かに伝えられてきた意味のわからない不思議な歌。
でもあなたにならわかるはず。この歌の歌詞は勇者の、あなたの国の言葉なのだから。
そしてこれが2つの世界の間の扉を開く唯一の鍵。初代勇者が残した、元の世界に帰るための道標。
私の母の祖国は、千年前、初代勇者が建国した国だった。私は初代勇者の血を受け継ぐ最後の子孫だ。
魔王を倒し、世界を救った勇者の国は、皮肉なことに15年前、他国との戦争に敗れて人の手によって滅ぼされた。
戦争の目的は勇者召喚の魔法陣。
王族は王女だった母以外全員殺され、母は魔法陣使用の正統性を主張するための人質にされたのだ。
歌が終わる。勇者の不穏な様子に気づいた“影の者”が動き始める。
「行って! 早く!」
私の方に一瞬気遣う視線を向けた勇者は、次の瞬間姿を消した。
転移魔法。
1度行ったことのある場所なら、何処へでも一瞬で移動することができるという勇者だけの魔法。この世界で最初に彼が現れた“召喚の間”にも一瞬で行けたはず。
月はちょうど1番高い位置に上ったところだ。
(間に合ったわね)
帰還の呪文はちゃんと伝えた。満月が空の最も高いところに上った時、異世界への扉は開く。
勇者は元の世界に帰って行った。そして私の役目もこれで終わった。
(私はもう、お母様のところへ行っても良くなったのね)
私は月を見上げて微笑んだ。
(さようなら。私の勇者様)
◇◇◇◇◇
あれから3日が過ぎた。
私は夜が明けたら世界の反逆者として処刑される。公開処刑だそうだ。
勇者が元の世界に帰ると同時に、召喚魔法陣が消滅したのだ。
この世界は2度と異世界の勇者を召喚することができなくなった。
せめて今夜は母との思い出にゆっくり浸りたかったのだが、牢屋の中の私の目の前にいきなり男が現れた。
(影の者?)
男の顔には、どこか見覚えがあるような気がした。
男は私の前に跪き、小さな薬瓶を差し出した。私はその薬瓶に見覚えがあった。
『エリカ、これはあなたのための薬です。覚えておいて。初代様からの言い伝えなの。必要な時が来たら、この薬を飲むのよ』
あの時の母の涙まではっきりと思い出せる。
母が亡くなった後ずいぶん探したが、この薬瓶はどこにも無かった。そう、あなたが預かってくれていたのね。たしかに私が持っていたら取り上げられてしまったわね。
男は祖国の密偵の生き残り。この国の“影の者”の中に潜んで母と私を見守っていてくれたのだ。
私がこの薬を飲むことで、この人の役目も終わるのだろうか。
この国の処刑は斬首刑だ。苦しみが一瞬で終わる死に方をありがたいことだと思っていたのに。
やはりこれは、祖国の王族としての尊厳を保つために私に与えられた毒薬なのかしら? 飲むのが少し怖いけれど。
初代様が女神様から賜ったというこの薬が、願わくば私に穏やかな死をもたらす物でありますように。
もう夜が明ける。どちらにせよ、今日、12歳の誕生日に私がこの世から消えることに違いは無いのだ。この世界に私の居場所は、もうどこにも無い。
私は瓶の蓋を開け、中の薬を一息に飲み干した。
そして私は暗闇の中に落ちていった。
落ちていく。どこまでもどこまでも続く真っ暗闇の中を。
(これが死ぬということなの?)
不思議と、まったく怖さを感じなかった。
お母様はきっと天の国にいらっしゃるはず。私は、落ちていくということはお母様のところには行けないのね。
もう1度、お会いしたかったわ。残念ね。
落ちて、落ちて、やがて時間の感覚も無くなった頃、まるで雷のような声が轟いた。
猶予は1年
1年の間にそなたの真実の愛を見つけよ
さもなくば、そなたの魂は消滅する
探せ
そなたが愛し、そなたを愛する者を
◇◇◇◇◇
その日、県立総合病院で1人の少女が意識を取り戻した。
自動車にはねられてから3日間、意識不明だった中学1年生の少女は呆然としたままかすれた声で呟いた。
「真実の……愛?」