③写真の二人
写真の二人
「オレの母親は、オレが学生のころに亡くなったんだけど……」
七月に入って、梅雨あけ宣言がされた翌日。
待ちに待った夏の訪れを喜んでいるかのように、校庭の木々から盛大にセミが鳴き始めた。
放課後、進路指導の相談室で、ぼくは水城先生と向かい合っていた。
「長期の休みに帰省すると、やっぱり寂しくてな。実家ってのは、いわば母親の城でさ。部屋のすみずみにまで母親の匂いがしみついてる気がするんだよ。だから亡くなった後も、その匂いがあると安心するのさ。だが、それもだんだんうすれてきて……時間なんだよな。時が来て、自然に匂いがうすれてくるのをじっと待つしかないんだな」
先生のお母さんは、二年間の闘病生活の末に亡くなったそうだ。
「祐みたいにある日とつぜんっていうショックはなかったけど告知されてた残りの命が燃え尽きるまで、いっしょに苦しまなきゃならんっていう精神的な苦痛はあったなあ……」
「それもつらいよね」
病気で、日一日と弱っていく母さんのすがたなんて見たくないと思う。
「でも、その分、お互いに、少しでも心の整理ができるわけだ。祐のお母さんは、自分でもわけわかんないうちに、ある日とつぜんに人生の幕を閉じてしまわれたんだから、そりゃあ、お互い未練が残るのもあたりまえだと思うよ」
「だけど、父さんはその気持ちにとらわれちゃいけないって……母さんの話をすると怒るんだ」
「祐、オレ、思うんだけど」
水城先生は、じっとぼくの目を見つめた。
「祐はまだ若い。若いをとおりこしてまだ幼い。だからお母さんとの想い出は、これからの生きていく力になっていくと思う。だけどお父さんにとっては、想い出の力が強すぎて、ひきずられてしまいそうなんじゃないだろうか?」
水城先生の分析は、当たっているかもしれない。父さんは、ぼくよりもずっと長く、母さんと暮らしていたんだから。
あれからもずっと、母さんの手は寮でぼくを待っていてくれる。出てきてくれるのは、ぼくと二人きりの寮の部屋だけだ。父さんが母さんを忘れたがっているのなら、母さんは帰りたくても帰られないのかもしれない。
夏休みは寮に残るかどうかと聞かれ、そくざに残りますと答えているうち、こんな話になってしまったわけだ。
「祐は寂しさも悲しみも乗り越えて、よくがんばってるよ。お初盆で帰省もするだろうけど、残りたければずっと寮で過ごしてもいいからな」
「はい……」
うなずいてはみたものの、心にチクリと針がさす。
ぼくは、自分のつらさをちっとも乗り越えてなんかいない。
いつもそばに、手だけの母さんがついていてくれてるんだから……。
その存在があるからこそ、ぼくは本当に安心して勉強したり、眠れたりしているんだ。
もし、母さんの手が現れなかったら、今頃は寂しさと悲しみにうちひしがれてるかもしれない。
寮にもどると、寮母さんがぼくあての荷物をあずかってくれていた。差出人は山形にいるアスミさんからだ。
アスミさんは母さんと、十歳近く年が離れた妹。ぼくにとっては、おばさんにあたるが、ほとんどお姉さんみたいな存在だ。
毎年この時期、アスミさんから特産のさくらんぼが届くたび、母さんとぼくは競って食べていた。でも今年からはぼくがひとりじめだ。さくらんぼにさわろうとしても、母さんの指はすりぬけてしまうから。それはさくらんぼに限ったことじゃなく、ぼく以外のものにはすべてさわることができない。 最初、自分でもそれが意外だったようで、ずいぶんしょげてたけど……。
どうしてぼくだけがだいじょうぶなのか?
これは、ぼくの勝手な推測だけれど、きっと母さんの念ってやつなんだと思う。
ぼくのことがまだ心配で心配でたまらないから、他の何よりもぼくに対する念だけは強いのかもしれない。
母さんの初盆はにぎやかだった。
学生時代の友だちや、バトミントンや手芸の仲間の方たちが、わざわざ遠方から、母さんのためにお参りに来てくれた。
その間、母さんの手は一度も、ぼくの前に現れなかった。自分の初盆なんだからきっといっしょに帰ってるはずなんだけど。
「母さん、母さん、どこにいるの?」
ぼくが、こっそり仏壇に向かって呼びかけているのを、アスミさんは見逃さなかった。すかさず、ぼくを抱きしめ、強くさとした。
「しっかりしなさい! 祐。もう、あんたの母さんはもどってこないんだから!」
くいいるようにぼくの顔を見つめるアスミさん。
その目に向かって、母さんのことを打ち明けても、ぜったいに受け入れてもらえそうにないと思った。
「もう! 放してよ!」
アスミさんの手をふりはらったそのときだ。
「お参りさせていただけますか?」
かぼそい声と同時に、一人の女の人が立っていた。
母さんと同じくらいの年齢だろうか。
ゆるくウエーブのかかった髪を肩までたらした、ほっそりとした女の人だ。
なぜだろう。その人を見たとたん、ぼくにはどうしても初めて会うような気がしなかった。
「あの、もしかして」
アスミさんがおそるおそる話しかけた。
「姉とずっと仲よしだった杉本朱音さん?」
女の人は、少し微笑んでうなずいた。
「アスちゃんね。覚えててくれてありがとう。アスちゃんとはずうっとごぶさただったものね」
「私が小学生のころだから……もう二十年以上も前ですね」
アスミさんがなつかしげに朱音さんを見つめる。
朱音さんはやわらかく微笑みかえした。その顔をじっと見つめているうちに、ぼくはようやく気がついたのだった。
母さんの部屋にいつも飾られていた写真立て。それには若いころの母さんと、友人らしき女の人が笑顔でおさまっていた。年を重ねてはいるけど、写真の女の人の笑顔はまぎれもなく、この人の笑顔と重なった。
朱音さんの瞳が、まっすぐにぼくの方に向けられる。
「あなたが……祐くん?」
だまってうなずく。
「そう……すっかり大きくなって。美晴がどんなにか大切に育てたことでしょうね」
優しい瞳だった。この人にもおそらく、ぼくと同じくらいの子どもがいるのかもしれない。
「美晴にお参りさせて下さいね」
ひと言いって、朱音さんは仏壇の前にすわり、線香に火を灯して長い間、手を合わせていた。
「お姉ちゃん、どんなに喜ぶかしら。朱音さんが来てくれて」
アスミさんは、そっと目頭を押さえた。
「朱音さんは、高校生までお姉ちゃんとずっといっしょにいたの。卒業しても、お互いに地元の大学に進学する気だったみたい。だけど、朱音さんの家の事情で、離ればなれになっちゃって……。そのあと、どちらとも結婚したけど、いろいろあったみたいで、結局ほとんど会えずじまいだったんじゃないかな」
朱音さんが帰ったあと、アスミさんがぼくに、ざっと話してくれたことだ。
「そのころ、わたしはまだ小さかったけど、お姉ちゃんたち見ていて、親友っていいなあとつくづくうらやましかった」
「どんなふうに?」
「お互いがいつもお互いの心の中にいるの。だから考えてることが手にとるようにわかるの。それでいて、ほどよい距離感をもって付き合ってる。離れてしまっても、それは変わらなかったわ」
ぼくはあらためて写真の中の二人を思い出した。ぼくにだって仲のいい友だちはいるけれど、とてもそこまでのレベルじゃない。別々に暮らしていながら、いつもお互いの心の中にいるなんて、相当な絆の深さだと思う。
一週間の帰省の間、結局母さんの手は仏壇の前にも、自分の部屋にもどこにも現れなかった。
寮にもどったとたん、待ちあぐねていたように母さんの手が飛んできた。
―おかえり、おかえり!
「母さんたら、自分の初盆なのに、どうして帰らなかったの?」
両手がもじもじとすりあわされる。
―だって……。
何か言いたげなのがわかる。
「もしかして……供養されるのいやだったの?」
手の動きが急に止まる。図星かも。
ご住職が言ってた。しかるべき時期に、ちゃんと供養してあげないと、なかなか成仏できないんだって。もし自分が供養されたら、二度とここへは来られなくなる。きっとそれがいやだから、帰らなかったのにちがいない。
「朱音さんていう人、母さんの親友だったんでしょう? お参りに来てくれたんだよ」
えっ!と言いたげに手がのけぞった。
―もっと話して!
ぼくの肩をたたいてせがむ。
あの時の朱音さんの様子をくわしく話して、ひと言つけ加えた。
「朱音さんにも、ぼくくらいの子どもさんがいるのかな?」
手はパタリと動きを止めた。