②嬉しさと悲しさと
嬉しさと悲しさと
朝の光で目覚めたとたん、ぼくは部屋じゅうをみまわした。
「母さん」
声に出して呼んでみる。が、手などはどこにも見あたらない。
きっと幻覚だったんだ。
あたりまえだろ。手だけが現れるなんて、ホラー漫画の読み過ぎだよ。ぜったい。
無理にでも自分自身にそう思いこませた。
泣きながら眠ったせいで、ぼくのまぶたがこんもり腫れているのに、水城先生が気がついた。
「祐、だいじょうぶか?」
「はい。あ、先生」
「どうした?」
「昨夜、出たんです」
思わず口がすべってしまった。「出た」じゃ、ちょっと不気味かも。
「出たって……何が?」
「母さんの手が」
思ったとおり、水城先生の顔がいっしゅんひきつったように見えたが、すぐにおだやかな、いつもの表情にもどった。
「祐、すごくつらいときには、現実と夢との境がなくなるもんだ。おまえ、今そのまっただ中だもんな」
そして、ポンポンとぼくの頭を軽くたたいて、五教科の中間テストの答案を返してくれた。
「よくがんばってる。英語は学年でいちばんだ。お母さんの写真にちゃんと報告しとけよ」
そうか。現実と夢との境がなくなってるのか……。
ショックが大きすぎたんだから、おそらくそうなんだろうな。
先生のことばはすとんと胸に落ちた。
寮にもどり、すべての答案を写真の前に置き、母さんに話しかけた。
「ねえ、母さん、見てよ。英語は学年でトップだったんだよ」
そっと目を閉じ、手を合わせた。
もし母さんが生きてたら、きっとキャーってはしゃぎながら抱きついてくるに決まってる。
―祐、すごいじゃん! あなたって天才よ!
こんなふうに興奮して叫びながら……。
あ~あ。生きてるうちに、もっと喜ばせておきたかったなあ。
そう思った瞬間、何かが頭をなでた。
「えっ?」
ふりむくと、やっぱり昨日と同じ、あの手。
母さんの手だ。
今日は今にもおどりだしそうにうれしげな表情。
答案を指さし、両手で大きなまるを作る。そして、よくやりましたって感じで、パチパチ拍手した。
現実と夢との境でもなんでもない。これは現実のできごとなんだって、ぼくははっきりわかった。
「母さん」
ぼくは、母さんの手を握って言った。
あの時みたいにあたたかい。
「ねえ、手だけでいいからいっしょにいてよ。どこにも行かないでよ」
しばらく両手をからませ、考えているそぶりだったが、やがて指は、あのなつかしいOKのサインを示してくれた。
それ以来、ぼくの部屋に母さんの手はいつもいてくれるようになったのだ。
朝は時間になるとゆりおこしてくれる。
いってらっしゃいとバイバイしてくれる。
帰ったときには、おかえりと出迎えてくれる。
学校の話をすれば、手はいろんな動きで、いっしょに楽しんでくれる。
けれどぼくが忘れ物をしたり、夜ふかしをしたりすれば、すぐに容赦なくパンチが飛んできた。
ことばはいっさいないけれど、母さんはいつもいっしょにいてくれる。そう思うだけで安心できた。
母さんが亡くなって、まもなく四十九日になろうという週末、ぼくは久しぶりに帰省した。
父さんも三日間の出張から帰ったばかりで、久しぶりにゆっくりした朝だった。
「元気そうだな。祐。水城先生からも祐ががんばっているって、よく教えてもらってるよ」
父さんはホッとしたように、ぼくを見つめた。
「こっちもいろいろ忙しかったよ。母さんの形見分けとかな、結構あって……」
「形見分け?」
「ほら、母さんの持ってたアクセサリーとか、洋服や着物はもうあっても仕方ないだろう? 本人はいなくなったし、うちには女の子だっていないんだから。だから、母さんの親戚にさしあげたんだ。母さんのこと、忘れずにいてもらう意味でもな」
「でもね、父さん」
ぼくにとっての重大な秘密を、今、ここで打ち明けずにはいられなかった。
「あのね、父さん、いつも母さんの手が、ぼくといっしょにいてくれるんだよ。ほめてくれたり叱ってくれたり、学校の話とかよく聞いてくれるんだ。ぼくのそばに母さんはまだいてくれるんだよ」
父さんは、きっと驚き、でも喜んでくれるにちがいない。
やっぱり母さんだなあ。おまえのことが心配でたまらないんだなって。
ぼくはその返事を信じていた。だからありのままを伝えた。
それなのに、返ってきた父さんのことばは、全く予想と外れたものだった。
「何をバカなこと言ってるんだ。母さんは死んでしまったんだぞ」
ぼくの思いを、ぴしゃりとはね返す言い方だった。
「祐。急に母さんがいなくなってしまって、さびしいのもつらいのもよくわかる。それは父さんだって同じだ。だけど、執着しちゃいかんぞ。死んだ母さんにとっても、俺たちにとっても、あまりいいことじゃない」
そんなこと言われたって……。
現に母さんはいてくれるんだ。ぼくを心配して、いつだって見守ってくれてるんだから。
「父さんは母さんのこと、そんなに早く忘れてしまいたいの?」
父さんはじっと目をつぶったままこたえた。
「今はあえて思い出さないようにしてる。でなきゃ、前に進めなくなるからな」
「いやだよ。ぼくはいやだ!」
あとのことばが続かない。ぼくはくるりときびすを返し、階段をかけあがった。
二階の日当たりのいい場所に設けられた母さんの部屋。
そこにはクローゼットや籐の揺り椅子が置かれ、母さんはよくここで、編み物をしたり、読書をしたりしていた。
窓辺に置かれた丸いテーブルには、季節の花を飾った一輪挿しと白い縁取りの写真立てが常に置かれ、母さんの午後のティータイムの場所でもあった。
今となってはだれにも踏み込んでほしくない、ぼくだけの聖域。
ドアを閉め、そっとクローゼットを開けてみる。ハンガーにかけられた母さんの洋服の一着一着から、フローラルの香水のなつかしい香りがしてくるはずだった。
母さんがいなくなったあと、だれにも内緒で、何度ここに顔を埋めたことだろう。母さんに抱きしめられてるような気がして、すごく気持ちを落ち着けることができた。
なのに、今日久しぶりに開けてみて……あぜんとした。
ついこの間まで、たくさんあったはずの洋服が、一着残らずなくなっている。
なつかしい香りはすべて失われてしまっていた。
「なんでだよ……寂しすぎるだろ。こんなことしたら……」
思わず、鼻のおくがつうんと熱くなった。