03-彼女との約束
その日、どうしてその時間まで学校に残っていたのか覚えていない。
空は分厚い雲に覆われていて薄暗く、いつ雨が降り始めてもおかしくない。時刻は午後6時を回っていた。すでに日も暮れていることもあって、外はどんどん暗くなっていった。
いつもならこの時間は、校庭ではサッカー部が、体育館ではバスケットボール部が活動をしているはずだが、この日は両方の顧問が不在で部活は中止だった。不気味に静まり返った校舎の中を、僕はラケットを取りに体育館へ向かっていた。
体育館は校舎とは別の建物になる。2つは屋根の付いた渡り廊下で繋がっていて、その廊下を歩いているときにパッと音がした。雨が降ってきたようだ。激しくは無い、だが容赦なく体温を奪う冷たい雨が地面をうっすらと濡らしていく。
「天気予報では曇りだったのに…」
誰に言うわけでもなくぼやく。その日の朝の天気予報では雨は降らないだろうと言っていて、それを信じた僕は傘を持ってきていなかった。
これくらいの雨なら走って帰れる、と思った瞬間、雨が少し強くなる。それはまるで、天気が、天気を司っている神様が僕を帰させないという意思表示にも思えた。
天気予報では曇りだった。少しすれば止むかもしれない、そう思った僕は、ラケットを取ったあと体育館の中で少し待つ事にした。
建物に入るとすぐ、土足から上履きへ履き替えるスペースがある。そこから右へ行けば男子更衣室、左へ行けば女子更衣室で、正面の大きな鉄の扉が体育館への入り口だ。ラケットは体育館の中にある。僕は鉄の扉に手をかける。誰もいない体育館は電気もついていなくて、でも完全な暗闇ではない、ちょうど日が沈んでから夜になる間のような、目の前の物の輪郭くらいならかろうじて分かるような暗さだった。
自分のラケットを取ってから、僕は入り口の右側に壁を背もたれにして座る。孤独を感じさせる暗く広い空間に、雨が当たる音が響く。まるで目の前の暗闇に体温を奪われる、そんな感じがした。
投げ出した足を縮めて、ヒザにあごを乗せる。考えたのは自分の進路の事だ。
配られた進路希望表に、まだ僕は何も書けないでいた。将来の自分が想像できず、将来の夢を持てないでいた。思えば、小さい頃から僕はそうだった。自分の夢というものを持てなかった。
―俺は、神学校へ進もうかと思ってるんだ
白沢の言葉がよみがえる。彼はもう自分の進む道を見つけていた。きっと自分の将来の姿も描けているんだろう。
自分と似ていると思っていた白沢の決意を聞いて、言いようの無い焦燥に駆られる。漠然とした将来のビジョンは僕に漠然とした不安を与えていた。自分がすべき事、できる事、したい事。それを自問し続けた。
そんな考えは、体育館に近づいてくる誰かの足音に打ち消される。その足音は入り口の左側、女子更衣室へと消えていく。誰かが忘れ物を取りに来たんだろうけど、アリーナの中には入ってこないと、考えていた。けれど更衣室から出てきた足音は出口へは向かわず、アリーナの扉の前で止まる。ゴロゴロと音を立てて扉が開き、外からの弱い光りと一緒に一人の女の子がゆっくりと入ってきた。
あたりを見渡して、扉のすぐ脇に座っている僕を見つけたらしい。それは少しはなれたところにいる僕からみても分かるほどビクッと肩を震わせた。きっと彼女は誰もいないと思っていたんだろう。そして
「だ、誰?」そう尋ねる声に、僕は聞き覚えがあった。
「沢西か、どうしたんだこんな時間に?」
あまり喋ったことのない彼女だが、一度も声を聞いたことがない訳じゃない。部活中も小笠原と楽しそうにおしゃべりをする沢西だって、僕は見たことがあった。
彼女も僕の声で誰だか分かったらしい。安心したように大きく息を吐き出した。
「藤川君か、驚かさないでよ。こんなところで何をしてるの?」
「傘を持ってきてないから、雨がやむまで待ってるんだ」
そういう沢西こそどうしたんだ?という僕の問いに
「帰ろうとしたときに、忘れ物に気がついたの」
そういって沢西はカバンから一冊の文庫本を取り出す。カバーがかかっているから中は分からなかった。
僕は、沢西はすぐにアリーナを出て行くのかと思ったが、そんな予想に反して彼女は入り口の扉を挟んで僕と反対側へ座った。雨が降る夕刻。暗くて広い体育館の中に、二人だけが残った。
沢西は座ってから何も喋らず、僕は何か会話をしないといけないと思ったが、何を言っていいのかわからなかった。
沢西と1対1で話をしたのは数えるほどしかなくて、僕はあまり彼女のことを知らなかった。クラスは別だから、部活の方が印象が強い。
僕は小笠原と違い、よく喋るようなタイプの人間ではなくて、何か話さなければと思うほど何を言っていいのか分からなくなる。そんな時に限って、
―もう少し話せばいいのに、顔は悪くないんだから
白沢の余計な言葉が思い出された。
雨の音が響く、暗く広い空間の中で、正直に言うと僕は緊張していた。
「その本って、面白い?」
あまり本を読まない僕にとって、彼女がこの時間に取りに来た本が本当に面白いかどうかはたいした問題じゃなくて、このときは沈黙に耐えられなかった。
「この本?うん、面白いよ。飛行機を作ってる男の子二人と、女の子のお話なんだけど」
普段はあまり話さない彼女からは想像できないくらい饒舌に、沢西はあらすじを僕に教えてくれた。それは、遠い所に行ってしまった女の子を、自分達の作った飛行機で迎えに行く話だった。
「あらすじは普通で目新しさはないんだけど、登場人物のセリフや言い回しがきれいで、詩の一節みたいな表現があってね」
そういって実際にそれを読み上げる。こんなに彼女が饒舌に話すのを見たことがないし、饒舌に話すとは思わなかった。
「ね、この表現きれいでしょ?」
暗い体育館の中なのに、どうしてだろう。このとき僕ははっきりと、僕のほうをみて微笑んでいる沢西の顔を見た。
そして、中学3年生の僕はすぐに「きれいだね」とは言えず、返事に詰まってしまう。だってそうだろう、そのときもし僕が「きれいだね」と言えば、それは文の表現だけの事ではなく、そしてそれを認められるほど、当時の僕は大人じゃなかった。
そんな僕の戸惑いは、彼女から饒舌さを奪ってしまう。少し恥ずかしそうにうつむいてしまい、体育館はまた雨の音で満たされる。
「ねぇ、」
それから少したって、沢西の消えそうな声が聞こえた。雨音にかき消されそうなほど小さいが、沈黙を破るには十分で、僕は神経を集中させて彼女の次の言葉を待った。
「進路希望表、もらったでしょ。あれ何か書いた?」
「まだ書いてないけど、普通高校へ行くよ。多分ね」僕は、前を向いたまま答える。
「そっか。高校を卒業した後、何かしたいこととかあるの?」
それはその時、一番聞かれたくないことだった。そんな心の動揺を表に出さず、
「いや。それは高校で見つけるよ」
そんな僕の答えにやっぱり彼女は、そう、とだけ答えた。
これで会話が終わってしまう、そんな感じの答え方だった。そして僕は、ここで会話を終わらせたくない、そう思った。
「白沢は、あいつはもう自分の進む道をみつけてるんだよな」
「神学校へ行くって言ってたね。すごいなぁ、確かに白沢君、あたまいいしね。私は藤川君と同じ、普通高校に進学かな」
その言葉を聞いて僕は、自分の心が少し乱れていることに気がついた。
「なんか進路希望票って、義務教育が終わったらあとは知らないから今のうちから覚悟しておけ、みたいな感じがしていやなんだよね」そういう僕に、
「うん、わかる。今まで散々校則とか決まりごとで縛り付ける事を教育、って言ってきたのに」
沢西は笑いながらそう答えた。そして
「将来の道を選ぶのに、そんな教育は役に立たないよね。必要なのは、決められる事じゃなくて自分で決める事なんだから」
最後は独り言のようにつぶやいた。
「沢西は本が好きなんだ?」
僕のその問いかけに少し恥ずかしそうにうつむきながら
「うん、小さい頃にお母さんがよく読んでくれたからかな」
小さい声でそう答える。
「藤川君はあんまり本を読まないの?」
「そうだね。夏休みの宿題で読書感想文が出されると仕方なく読むくらいかな」
「そうなんだ。ごめんね、さっきは」
さっきの会話の事を言っているのだろう。だけど元は僕が本のことを聞いたからだ。
「謝ることじゃないよ。でも、そんなに本が好きなら将来はそういう仕事をしてみたいとか思わない?」
「作家になるの?うーん、どうだろう。私にちゃんとしたお話が書けるかな」
「ちゃんとしたかどうかは分からないけれど、いい話ができそうだと思うな」
その言葉を聞いて沢西は少し驚くような気配があったし、僕自身、自分の言葉に驚いていた。
「ありがとう。…じゃあ、今度書いてみようかな。うん、いつ出来上がるか分からないけれど、お話を書いてみるよ」
もうほとんど完全な闇の中、その時の彼女はきっと笑顔を浮かべていたんだと思う。
そうして体育館は再び沈黙に包まれた。それで僕は気が付く。
「―雨の音がしない?」
立ち上がり体育館を出ると、雲が切れ始めた夜空にはきれいな三日月と、数少ない星が瞬いて見えた。
「雨、あがったね」
沢西が僕のすぐとなりで、空を見上げながらそう言った。
二人で体育館を出て、校門まで歩く。その間、体育館の会話が嘘のように僕たちは無言だった。でもそれは、居心地のいい、安心できる沈黙だった。
「さっきの話だけど」
もうすぐ校門というところで、突然沢西が言う。
「もし、だよ。私が物語を書くとしたら、読んでみたい?」
並んで歩いているため、彼女の顔は見えない。
「そうだな。ちょっと読んでみたいな」
誰か顔見知りが書いた物語を読んだことは無いからね、という僕の言い訳を可笑しそうに、嬉しそうに聞いた後。
「じゃあ、もしいつか物語を書いたら、藤川君に見せるから。約束ね」
「いいよ。もし沢西が物語を作ってきたら絶対に読むよ」
そうして僕たちは校門をくぐり、学校を出る。
「私はこっちだから。藤川君はむこうでしょ」
門の外で立ち止まって、僕たちはようやく向かい合った。沢西の家は僕の家とは正反対にあるから、ここで彼女とは別れることになる。
「帰り、気をつけろよ」
「うん、ありがとう。それじゃあまた明日ね」
そうして僕と沢西は反対方向へ歩き出す。
少し歩いた僕の背中に、
「約束、がんばってみるよ」
かけられたその声に振り返ってみると、彼女は校門から少し離れた所で手を振っていた。
物語を期待しているぞ。その思いを伝えたくて僕も手を振り返す。
その意思が伝わったのか、それともただ手を振ったからか。彼女は僕に背を向けて歩き出した。
きっとこの日、僕と沢西の関係は変わったと思う。
中学校生活で一番の思いでは、この雨の体育館になった。今でも、あの時僕たちの間に流れた心地よい沈黙を時々思い出す。
けれどその日以来、僕たちが進路を決めて受験をして、無事みんな第一志望に合格して。卒業式が終わって、友達と最後のお別れをした僕と、目を赤く腫らせて泣きじゃくる小笠原とそれをなだめながらも涙目になっている沢西と、神学校へ進学を決めて先生たちに囲まれていた白沢と「またいつか、この4人で会おう」と言いながら写真を撮って僕たちが別れても、沢西とは物語の話しをしなかった。
だから僕は、あの約束を沢西は忘れてしまったのだと思っていた。
そうして、果たされない約束を抱えたまま中学を卒業し、僕たち4人は別々の道を歩み始める事になった。
1年前には想像すらできなかった、僕たち4人が顔をあわせない毎日は、ごく自然にこうして始まった。それはそれなりに悲しかったけれど、それに憤るほど僕たちは幼くもないし純情でもなかった。世の中の仕組みだと割り切ってしまった、割り切れる程度には大人になっていた。
それでも、このときの4人で撮った写真を、泣きそうな沢西と、泣いている小笠原と、心から笑顔を見せている白沢と、少し寂しそうに笑っている僕の顔を見るたびに思う。この仲間と出会えたのだから、とてもいい中学生活だったのではないだろうか、と。