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17-彼女の別れ

翌日から聖女になる沢西は、最後の夕食を家族と取った。

「午後10時に、お迎えにあがります」と、午前中に教会から連絡があった。

覚悟はしていた。教会からあなたが聖女です、と告げられた時から、この日が来るのは分かっていた。それでも、家族に囲まれて普通に暮らしていると忘れそうになる。

「実はあなたは、聖女ではありませんでした」という連絡が来る事を願った事もあった。いや、それは今でも心のどこかで望んでいる。藤川や白沢には、これは仕事で聖女になるのは自分の意思だと伝えた。その言葉に嘘はない。だが、それでも聖女になるという恐怖は消えない。

藤川に今の自分の気持ちを、聖女になりたくないという自分の気持ちを伝えれば、もしかしたら助けに来てくれるかもしれない。そう考えて、沢西は物語を作り上げた。自分には助かるつもりは無い、だけど藤川に助けに来てほしい。それは悲劇のヒロインを演じたいという、沢西のエゴ。そのために彼女は物語を作り、藤川を巻き込んだ。

彼が来ても来なくても、結局は自分の悲しみに酔うだけ。それは、沢西自身が気がついている。そうして同時に、自分は本当は聖女とは程遠い人物だという事も分かっている。彼女はこの世を憂いて眠りに就くのではない。あくまで自分のため、自分達のためだった。


沢西には中学2年になる弟がいる。弟には、明日から沢西は長い旅行へ行くという事にしてある。自分の姉が聖女だ、という事はまだ伏せてあった。

この日の夕食は豪華だった。赤飯とお頭付きの鯛、本物の松茸を使ったお吸い物。冷凍食品ではなく手作りのグラタンと刺身、シーザーサラダ、エビチリとロールキャベツという、豪華を通り越して無秩序なメニューだった。

このご馳走に弟は素直に喜んだ。明日からいなくなるお姉ちゃんのために今日は豪華な夕食にしたの、と母親が言うと、

「これが食べられるなら、お姉ちゃんは時々旅行に行けばいいのに」と弟が笑顔で言った。

食事は終始にぎやかだった。ご馳走を目の前にご機嫌な弟と、そんな弟に調子を合わせている母親。

夕食後、「今夜、お迎えが来るんでしょ。もう休んだら?」という母親の薦めを断り、いつものように母親と台所へと立って後片付けを始める。

沢西は、今日が特別な日だと意識したくなかった。昨日と同じような今日で、明日も今日と同じような日が続くのだと思いたかった。

食事中はあれほど雄弁だった母親が、今は押し黙っている。台所には皿を打つ水の音と食器同士が触れる音だけが響き、ラジオは聖女をたたえる原稿を読み上げていた。

そうして沈黙のうちに全ての片付けが終わった。時刻は夜9時を少し回った所だった。

弟は風呂へ入っている。中学生の男の子が、喜んで家事の手伝いをするはずがない。だからいつも、彼は食後の片付けのタイミングで風呂に入る。

「明日から、大変だね」

沢西はそれを『明日からは私がいなくなって、片付けをする人がいなくなっちゃうね』という意味で言った。

だが、母親は違う意味で受け取ったらしい。

さっきまで夕食を取っていた椅子に座り、両手で頭を抱えてしまった。そんな普段ではめったに見せないような母親の姿に多少驚きながらもそれを表情に出さないように気をつける。何か言いたい事があるのだろう。

「お茶、飲む?」という沢西の問いに母親は、お願いとうつむきながら答える。どうやら泣いているわけではないようだ。

母親の涙を見るなんて、できることなら避けたかった。

大丈夫だよ、私は少しの間眠るだけ。一生のお別れじゃないんだから。

だから、そんなに特別な事だと思わないで。

だから、そんなに特別な事だと思わせないで。

二人分のお茶を入れて、沢西も母親の正面に座った。

しばらくして、

「………あなたが聖女だって聞いたとき、うれしかった。だって自慢の娘だもの。どこへ出しても恥ずかしくないと思っていたけど、神様もそれを認めてくれたんだって。だからお母さんは神様に感謝したの。ありがとうございます、今から娘が向かいますがよろしくお願いしますって」

「はは、なんか恥ずかしいな。そんな風に言われると」

映画ではよく親が子供に、お前は自慢の子供だと言うシーンがあるが、沢西は生まれて今までそんな場面を実際に見た事はない。自分にもそんな場面は起きないだろうと思っていた。

そこで母親は顔を上げる。目には涙こそ浮いていなかったが、真剣なまなざしで沢西のことを見ていた。

「あなた、本当に聖女になりたい?」

そう聞かれるだろうと思っていた。答えも準備していた。だから、何も考えずに答える事ができた。

「なりたいからなれるとか、そういうものじゃないでしょ聖女って。神様が、そしてこの世界が私を必要としているのなら私はその期待にこたえたいと思うわ」

母親の目をまっすぐに見返して、心にもないことを言う。

だってそうだろう。ここで聖女になんてなりたくないと言ったら。そんな本当の事を言ったら。きっと、母親は悔やむ。娘を聖女にさせてしまったと、悔やむだろう。そんな気持ちでこれからの日々を送って欲しくなかった。そんな気持ちで、自分のいない毎日を過ごして欲しくなかった。

だから沢西は、母親の目をまっすぐに見返して、堂々とやさしい嘘をついた。真面目な瞳で娘を凝視する母親と、穏やかな笑顔でそれを受ける娘。それは、探りあうような緊張を孕んでいた。

先に目をそらしたのは母親のほうだった。

「……そう。それなら、いいのよ」

そういって、再び額を抱えるように顔を伏せる。

「ほら、うちってお父さんがいないでしょ。もしかしたら、あなたはなりたくもないのに聖女になるのかなって思ったから」

そう言って母親は少し間を置いた。まるで何かを決心するかのような。

「でも、貴方は自分の意思で聖女になるのね。それなら…うん、安心。

もしも、本当は聖女になりたくないのに聖女になるなんて言ったら…もうお母さんにはどうする事も出来ないから。…一言、謝ろうと思ってたの」

額を抱え、机に肘を突いて語る母親は、懺悔をする人を思わせた。

「ごめんね、サユリ。…本当にごめんなさい。私が、お父さんと別れたりするから。

女手一つで子供を育てる人なんてたくさんいる。だから自分もひとりでやっていける。そう思っていたの。

でも、そんなに甘くなかった。あなたたち姉弟にはいろいろ大変な思いをさせている。そしてあなたを、聖女になんかさせちゃって。

こんな事になるんなら、お父さんと別れなければよかったんだよね。本当にごめんなさい」

聞こえてくる母親の声は掠れて、テーブルにはしずくがポタポタと落ちている。

沢西は分かった。やっぱり嘘はつけない、母親は全て見抜いている。言葉では自分の嘘にだまされている振りをしているが、全て分かっている。母親の本音と弱音を初めて聞きながら、そう思った。

「…大丈夫だよ。あのね、これは仕事なんだ。私が聖女として眠りにつく、その代わりに教会の人はいろいろと支援をしてくれるでしょ?ほら、世間で普通に行われている仕事と同じじゃない。ただ、ちょっと変わった仕事なだけ。

だから、そんなに泣かないで。悔やまないで。……これは、そんなに特別な事じゃないんだから」

沢西が眠りに就く事で、家族の将来は保障される。それは、仕事としては破格の報酬である。

「だから、私は聖女になれてうれしいんだよ。もし聖女になれなかったら自分からお願いしに行こうと思っていたんだから」

それでもまだ、母親は謝り続ける。自らの不甲斐なさを呪うように。

沢西は母親の隣に座り、肩を抱く。

「私なら大丈夫。だからもう泣かないで。立派に聖女の役目を果たすから。

お母さんが謝るような事は何もないんだよ。今まで私達を育ててくれたじゃない。だから、今度は私が恩返しをする番。決して、お母さんが自分を責めるようなことじゃないよ。子供が成長して、働いて親に恩返しをする。そんな、普通のどこにでもある事なんだから。

だから、仕事に行く前に最後のわがままを聞いて?」

その言葉で、母親は顔を上げ沢西を見る。

「ほら、この仕事って終わるのがいつになるか分からないじゃない。仕事が終わった私の、帰る場所を残しておいて。仕事が終わったら、また家族3人で一緒に暮らせるような、そんな場所を残しておいて。……あはは、でも仕事はいつ終わるか分からないからね。ちょっと大変だね」

それは、今まで気丈に、笑顔で振舞ってきた沢西が、一度だけ見せた弱みだった。

その言葉にしばらく母親は何か言いたそうにしていた。やがて、自分の言いたいことが言葉になったのだろう。

「……何を言ってるの。戻ってくる場所、そんなのこの家に決まってるじゃない。そんな事、約束するような事じゃないわ。

いい、貴方が聖女でも―聖女じゃなくても。大切なこの世界でたった一人の私の娘なんだから。お母さんは、絶対にこの家で待ってる。あなたが仕事を終わらせて帰ってくるまで、必ずここで待っているから。安心して、いってらっしゃい」

もう、母親は泣いていなかった。まだ潤んだ瞳には、強い光が宿っている。その光を灯した瞳こそ、沢西がよく知っている彼女の母親の瞳だった。


家の外で車が止まる音がした。次いで、チャイムが鳴らされる。

「東京大聖教会より参りました、富谷と申します。沢西サユリ様をお迎えにあがりました」

黒いスーツで全身を固めた男が丁寧口調で言う。心にもない敬語を使うとどこか不自然で馬鹿にしたような印象が残るが、彼の言葉にはそんな気配は皆無だった。それは、この男が本当に沢西を尊敬しているという事の証明でもあった。

玄関先に沢西と母親、そして弟が出て行くと、富谷は深々と頭を下げた。

「それじゃあ、いってくるね」

まるで学校に行くような気軽さを装って、沢西は母親に言った。

母親は何か答えようとして口を開きかけたが、結局何も言えないまま口を閉ざしてしまう。その瞳には、やはり後悔と悲しさの色が浮かんでいる。

そんな姉と母親のやり取りを見て、さすがに弟もこれはただの旅行ではないと気がついたようだ。だが、問いただせるような雰囲気ではない。沢西は、何か言いたそうな弟と目線を合わせて、お別れをする。

「それじゃあ、お姉ちゃんはちょっと家を空けることになるから。私が帰ってくるまで、ちゃんとお母さんの言うこと聞くんだよ?」

もうすぐ成長期に入るから、次に会うときは私より背が高くなっているかも知れない。今はまだ自分の肩くらいにある頭をくしゃくしゃと撫でながら、そんな事を思う。

「えー、嫌だよ、面倒だもん。俺の周りに家の手伝いをやっている友達なんていないぜー」

くすぐったそうにしながら弟は、そんな事を言う。

「みんな言わないだけで、お手伝いをしているものなの。

それに、あなたはどんどん背が高くなって、出来なかった事が出来るようになっていく。…そうなったらね、あなたがお母さんを助けてあげるんだよ?」

その一言に、何か特別なものを感じたのだろう。

「……うん、分かった。なるべく、お母さんのいう事を聞くようにする」

弟にしては素直に、言い分を聞いてくれた。

「でもさ、やっぱり面倒なのって嫌だよ。だから、

お姉ちゃん、いつ頃帰ってくるの?」

一瞬空気が凍りつく。母親の口から、小さな嗚咽が漏れる。

沢西も返事に困ったが、それも一瞬。

「いつになるか、ちょっと分からないんだよ。でも、必ず帰ってくるから。だから、それまでお母さんの事お願いね」

そんな答えでも、弟は納得してくれたようだ。最後にもう一度頭を撫でてやる。

そうして、再び母親と向き合った。

そっぽを向いて、必死に涙をこらえようとしているがその努力が実る気配は無い。まるで駄々を捏ねる子供みたいだと思うと、少しおかしかった。

そんな母親をそっと抱きしめる。

「そんなに泣かないでよ、私の旅立ちなんだから。笑顔で送り出して欲しいな」

母親は何も答えない。腕の中で、嗚咽が激しくなった。

腕の中の母親よりも今は自分の方が背が高い。昔はもっと大きく力強かったと思っていた人が、今は自分の腕の中で涙を流している。

まるで自分たち姉弟を育てるために、身を削ってきてしまったかのようだ、と思う。そしてそれは、決して間違いではないだろう。子供二人を育てるため、文字通り母親は身を削ってきたはずだ。

聖女となって、今度は自分が母親を助ける。腕の中に小さくなってしまった親を抱えると、その選択が正しかったと思えた。

腕にすこし、力を込める。

「お母さんは、私達にいろいろ苦労をかけたって自分を責めるかもしれないけど。私達は、お母さんの子供でよかったと思っているよ。だから、これ以上自分を責めないで」

ドラマで使いまわされた言葉だが、今の自分の気持ちを素直に口にした。

「―今まで育ててくれてありがとう。今度は私が、助けてあげるから」

そうして、そっと手を離し、今まで暮らしてきた家と家族に背を向ける。幸いな事に荷物は何もない。何しろこれから眠るだけなのだ。

「おまたせしました、行きましょう」

少し離れて沢西たちの別れを見ていた富谷に声をかける。

「分かりました。これより教会へとご案内いたします」

富谷はそう言って一礼した後、車の後部座席のドアを開く。その動きに不自然さは全くない。口調、物腰、態度。その全てが、一流の執事といってもいいくらいスマートだった。

そうして、車に乗り込む時に、玄関を振り向く。

そこには、月明かりに照らされて、今まで彼女を守って育ててくれたものと、これから彼女が守っていくべきものがいた。

距離にすればたった数メートルなのに、もうあの場所へは当分帰れない。

自分が帰ってきた時、この景色はどうなっているのだろうか。同じように、暖かく自分を迎えてくれるだろうか。

景色がゆがむ。何かが頬を伝う感覚。それが何か確認せずに、目をぬぐう。

そうして、最後にもう一度この景色を瞳に焼き付けて、彼女は車に乗り込んだ。


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