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15-僕と、彼と、彼女の再会

富谷さんについて体育館を出ると、高部さんが車に乗って待っていた。僕達が乗り込むのを待って、車は静かに動き出した。

運転席には高部さん、助手席には富谷さんが、後部座席の右側に僕が、その隣には白沢が座っていて、車内は緊張と沈黙に満ちていた。

「これからどこに行こうとしているんですか?」車が走り出してしばらくしてから、白沢が口を開いた。

「さっきも言ったとおり、沢西様のところだよ」助手席の富谷さんが少し僕たちの方を振り返りながら答える。一瞬、僕と目が合った。すぐに視線を外へと逸らす。車は橋を渡ろうとしていた。

「沢西の家とは方向が違うようですが?」

「鋭いね。確かに今向かっているのは沢西様の家じゃない」

富谷さんのその口調からは、僕たちに対する警戒、敵対心が全く感じられなかった。

「彼女は今、一時的にこっちで保護している。なにしろ君たちがとんでもないことを計画していたし、もし君たち以外に仲間がいたらちょっと面倒だかね」

そう答える富谷さんの言葉は嘘じゃないと思った。本当に、「ちょっと」面倒なのだろう。体育館で白沢に話した時に計画が漏れたのなら、僕達は何もできない。

そして、それ以上に僕は、富谷さんの『保護』という言葉が引っかかった。僕の中で最悪の想像がなされる。

「沢西は今どこにいるんだ?」つい、白沢と富谷さんの会話に割り込んでしまう。

もしも物理的に教会の監視下に置かれるような事になれば、僕の計画は不可能となってしまうだろう。彼女がいる場所で最悪な場所は―。

「彼女は今教会にいる。東京大聖教会だよ」

富谷さんの口から出てきた場所に、他ならなかった。


東京大聖教会の駐車場は地下にあった。教会と言っても、石造りで天井が高く屋根に十字架が刺さっているようなことはなく、雰囲気と外観は一流ホテルに通じるものがある。鉄筋コンクリート製で、地下2階地上7階建てだった。

高部さんは地下2階の関係者専用駐車スペースに車を止めた。エレベーターのすぐ近くで、要人警護に都合がいいらしい。エレベーターを待ちながら富谷さんに「君達はVIP扱いなんだよ」と言われた。

僕たち4人で最上階の7階へと昇る。沢西がいるのもそこだと聞いた。富谷さんは「やっぱりお姫様がいるのは最上階じゃないとね」と、どこまで本気で言っているのか分からないような事を言っていた。

今の階の表示が変わるわりに、エレベーターは全く浮遊感を感じさせなかった。動いている様子のない箱の中で僕は状況を、沢西を助けだす方法を考えていた。どんな方法なら、ここから沢西を助けられるだろうか、と。

けれど、もしかしたら白沢はこの先に起きる事を分かっていたのかもしれない。ただ、この時の僕はそんな彼の様子を気にする余裕もなかった。


動き出したときと同じようにほとんど減速感がないまま、エレベーターの表示は7を指した。静かに扉が開いて目の前の光景を見たとき僕は、高級ホテルに似ているのは外観だけではないと知った。

異常なほどふかふかした絨毯、映画やゲームの中でしか見たことがないような、間接照明に照らされた廊下と、そこに置かれた棚や花瓶。

その廊下を、富谷さんと高部さんは歩き出す。そんな2人に遅れないよう、そして気圧されないように僕も後に続いた。

一歩足を踏み出すたび、一つ角を曲がるたび、緊張が高まっていき、現実感が抜け落ちていく。現実と区別のつかない夢の中にいるような、地面に足がついていないような感じがするのは、決して絨毯だけのせいではなかった。この先、あと少しで僕は沢西と再会する。彼女にかける言葉も、かけた後の行動も、何も決まっていなかった。どうすればいいかは分からない。だけど、どうしたいかはわかっていた。ならば後は、その時の状況次第でどうにかしていくしかないだろう。

そう覚悟を決めたとき、一際立派な扉の前で富谷さんは立ち止まり、僕たちの方を振り向いた。

「この扉の向こうに、沢西様がいらっしゃる。本当なら君達2人と沢西様の3人で話をさせてあげたいんだけど、規則があってね。悪いけれど僕達も同席させてもらう」

「今回は、扉の外で盗み聞きしないんだな?」つい富谷さんに噛み付いてしまうのは、緊張している証だった。隣で白沢が心配そうな顔で僕を見る。中学時代同じ部活で大きな大会に出場していた彼には、僕がどれだけ緊張しているか分かっていたはずだ。

「体育館のことは仕方がなかったんだよ、ちょうど僕たちが行った時に君達が話し始めたから、入るタイミングを逃したんだ。

それとこの部屋だけど、中には監視カメラとマイクがある。死角はないし、音だって拾っている。当然、おかしな行動をすればすぐに警備員が来るから、あまり無茶はしないでね」

「なんでそれを俺たちに教える?その話が本当だという証拠は?そういう話をする事で、俺たちの行動を牽制しているんじゃないのか?」

「牽制ねぇ。まあ信じる信じないは藤川君達の自由だからなんともいえないけど。何にせよ、僕たちも一緒だから、無茶はさせないけどね」

そういって富谷さんはきびすを返す。

「それじゃ、そろそろ感動の再開といきますか」

そういって、目の前の扉に手をかける。

扉を開ける寸前、前を向いたまま

「その目で、耳で確かめるといい。彼女が本当に望んでいる事をね」

富谷さんがそう呟いた気がした。


部屋の中は豪華な会議室のようなものだろうという僕の予想は裏切られた。そこは会議室ではなく、ホテルのスイートルームだった。

室内の広さは学校の教室程度はあり、僕は始めて『鏡のように磨き上げられた大理石の床』を見た。入り口の扉と反対側の壁は一面が窓になっているようだが、今はカーテンが閉められていて外の様子は見えない。壁際には棚と、その上には蝋燭を模したランプが乗っていて外の光が入らない部屋の中を落ち着いた色に染めていた。

部屋の中央には花瓶が乗った大きめのテーブルと、それを取り囲むように黒いソファーが据えられていた。

そして、入り口から一番遠いソファーに、彼女が座っていた。

白のブラウスに黒のスカート。おそらく彼女の物ではなく、教会が用意したのだろう。派手さはない、簡潔といっていい服装だが、悔しい事に彼女によく似合っていた。

彼女は顔を伏せている。その長い髪に隠れて、表情はうかがい知れない。

「沢西様。藤川、白沢の両名を連れてまいりました」

さっきまでとは一転した口調で、富谷さんはそう言った。

その声で、伏せていた顔が上がる。僕たちを見て、すこしだけ悲しそうな笑みを浮かべて

「やっぱり、来ちゃったんだね」

と言った。それが、中学を卒業して初めて僕にかけられた、沢西からの言葉だった。


僕が17歳になったように、白沢が17歳になったように、沢西もまた17歳になっていた。

駅前ではよく見えなかったその顔は、中学時代の面影を残してはいるが、やはり中学の時とは変わっていた。こんなことは決して口には出せないが、『かわいい』が残る中学時代から『きれい』という表現がしっくりくるような。そんな成長だった。

何と言えばいいのか分からず入り口のところで立ちつくす僕たちに、「そこに座って」と沢西がソファーを勧めてきた。僕たちは彼女と向かい合うように、ソファーに座る。

富谷さんと高部さんは、入り口の扉の両脇に立っている。それは部屋を守る兵士のようでもあった。

彼女を前にして僕は、何から話し始めればいいのか分からなかった。

しばらくの沈黙の後。やがて沢西はふっと笑ってから

「どうしたの、二人とも。何か言ってよ」

と言った。僕達はそれで顔を上げて沢西と目を合わせ、少し照れくさそうに笑いあった。その時は、その時だけは僕達は同じ中学を卒業して2年ぶりに会う、ただの同級生だったと思う。

「白沢君、今日は何をしてたの?学校は休みでしょ?」

そう、沢西が尋ねる。

「あぁ、神学校だからね。週に2日は休めるんだ。神様が作った休みの日だからね。今日は藤川と会ってちょっと話をしてたんだよ」

そこで彼女は「何の話?」とは聞かなかった。それを聞けば今の雰囲気が壊れるとわかっていたのだろう。

彼女は今度は僕の方を見て

「久しぶりだね、藤川君。卒業して以来かな、こうやって会うのは」

と話しかけてきた。それは数週間ぶりに会った時のような気軽さで、昨日の事など無かったかのようだった。

「ああ、久しぶり。卒業してからだから、2年ぶりになるな」僕も普通を装って答える。けれど、心の中では全然違う事を考えていた。

―どうしてそんなに普通なんだ?

 どうしてこれから聖女になるのに笑っていられるんだ?

 あの物語をどうして俺に渡したんだ?

「そっか、もう卒業して2年経つんだよね。なんだかそんな気は全然しないけど、あと1年で高校生活もおしまいだしね。ねぇ、二人は卒業後の進路って決めてるの?」

中学時代にも、同じような会話を同じようなメンバーとした事を、その時感じていた未来への大きな不安と小さな期待を、一緒に将来の話ができる仲間がいる事の安心感を、そして、それがどんなに幸せな事だったのかを、僕は思い出していた。

「俺はそのまま大学部へ進むつもりだよ」そして、いつか神父になるんだと、白沢は迷いのない口調で言った。

彼はいつもそうだった。自分のなりたいものをはっきりと見据えていて、それに向かって迷わず歩ける、そういう奴だった。そんな所も中学時代と変わっていない。

僕は、まだ高校の先のことなんて考えていなかった。自分の学力にあった大学へ入れればいいと思っていた。

だけど、この時僕は違う、もっと抽象的な事を考えていた。それは大学へ行くより大切な、だけどうまく言葉にはできない感情だった。

黙っている僕に2人の視線は集まる。

「…まだ俺は何も考えていないんだ、高校を卒業した後のことって。とりあえず自分がいける大学へいければいいって思ってる」

「なんだよそれ、確か中学の時も同じような事言ってただろ?」白沢は笑いながらそう言った。

「そうなんだよ。俺、中学からあんまり成長していないんだな。やりたい事は高校に入れば見つかるかもしれない、って思っていたけれど、そんなことはなかった。ただ毎日を流されるように生きているだけだったんだ。やりたい事、なりたいもの。そういうのが見つからないんだ」

どうしてこの時僕は、無防備と言っていいほど正直に自分の事を話せたのか、今でも分からない。

「でも、今日こうやって二人に会えて、一つ感じたことがある。

どこへ行って何をしても、昔の仲間と会うときに笑顔でいられるような、そんな生き方をしたいって」

この時、自分の大切な仲間に聞いてもらって、この言葉は僕の誓いになったんだと思う。

「昔の友達に会った時に、お前変わったなぁって言われても、心の中、どこかでは昔の面影を残しているような、自分らしさを持っていたい。それさえなくさなければ、俺はどこへ行っても大丈夫だと思うんだ」

沢西も、白沢も、何も言わない。それぞれが何かを考えているようだった。

「沢西も今日久しぶりに会ったけど、変わったようで変わってなかったな。すぐに沢西だって分かったよ」照れ隠しも込めて、そんな事を言った。沢西は笑いながら

「なにそれ、成長していないって事?ひどいなぁ、これでも成長してるんだからね」と言った。そして

「…でも、すぐに私だってわかるって言うのなら、成長しないっていうのもいいかもしれないね」と、何気ない一言のように付け加える。

まだ世間話を続けるのかと思っていた。まだ同級生のままでいたいと思った。けれど彼女のその一言が場の空気を変えた。


「沢西、今日会いに来たのには理由があるんだ」

そんな事を言うまでもなく、なぜ僕たちがここに来たのか、沢西はその理由に気がついているはずだ。それでも彼女は、笑みを浮かべたまま何も言わない。

聖女になるな、やめてしまえ、お前が犠牲になる事は無い、泣くな―。

僕の中で感情は渦を巻き、意味を持った言葉がでない。気持ちが焦る。

そんな僕の隣から、白沢の静かな声が入った。

「俺は、教会の立場で今まで沢西に会っていた」

それは僕と沢西に語っているかのようにも聞こえたし、独り言のようにも聞こえた。

「教会の人にとって、聖女に選ばれるということは最高の名誉だ。だから、聖女になりたいと願う者はいても、聖女になりたくない人なんて想像することもできなかった。

それに俺は、沢西のもとに行くようになってからも、普通に生活しているようにしか見えなかったんだ。

だから信じられないんだ。藤川が言った、『あいつは聖女なんかになりたくないんだ』という言葉が」

そこで、白沢は口を閉ざした。俺が言いたいことはそれだけだ。態度がそう告げていた。

次は、僕の番だ。

「話、読んだよ」

沢西は何も言わない。

「あの日の約束、まだ覚えていたんだな。ごめんな、俺は忘れていたよ」

黙ったまま顔を伏せてしまい、表情を伺い知ることは出来なかった。

「あのメモリーを受け取るとき、小笠原から聞いた。沢西、泣いていたんだろ?本当は聖女になるのが怖いんだろ?

それなら、そんなものになるなよ。無理する事はない。俺は誰かが犠牲になることで手に入る幸せなんてものは信じないんだ」

そして、

「一緒にここから出て行こう。俺と白沢が何とかするから」

その言葉に、沢西の肩が一瞬震えた。けれども顔を上げたり、何かを言う素振りは見えなかった。

まだ迷っている。その時の僕には、沢西の様子がそう見えた。だからその迷いを吹き飛ばしてやらないと。僕も白沢もとっくに覚悟はできているんだ。

そうして僕が口を開こうとしたとき、沢西は顔を上げた。

その顔は、うれしそうで、寂しそうで、悲しそうで、まるで泣いているように笑っていた。


「ありがとう、二人とも」

そう言う沢西の目に涙が浮かんでいた気がしたのは、僕の見間違いじゃないはずだ。

「私の物語を読んでくれた藤川君、そして藤川君に協力してここまで来てくれた白沢君。二人が、ここから出て行こうって言ってくれた事。本当にうれしいよ」

細い指が涙を拭う。そんな彼女の言葉を、僕達は黙って聞いていた。

「本当の事を言うとね。うん、やっぱり聖女になるのは怖い。

目が覚めたときに、私の知っている人がいなくなっているんじゃないかとか。

目が覚めたときに、私を知っている人がいなくなっているんじゃないかとか。

夜寝る前にそういうことを考えちゃうんだ。そうすると、寝るのが怖くなって。もしかしたらこのまま起きないんじゃないか、起きたら世界が変わっているんじゃないかって考えちゃう」

それが、沢西の本音だった。そしてここは、豪華な牢屋だ。ここから彼女を連れ出さなければ。僕はそう思った。

「それじゃあ一緒に行こう。俺たちが何とかしてやる。絶対に沢西を聖女になんかさせないから」

僕はそういいながら扉を、扉の横に立っている二人の男を見る。

単純に腕力勝負では勝てる見込みは少ない。富谷さんはともかく、高部さんは昨日駅前で白沢の腕を押さえていた。自分と白沢二人掛かりでも、高部さん一人を取り押さえられるかわからない。さらに富谷さんの実力はゼロではなく未知数だ。ならば、残された手段は―

一瞬でそこまで思考を回転させた僕だったが、

「でも、私は聖女になる。ここから逃げるわけにはいかないんだ」

一瞬、彼女が言った意味が理解できなかった。

「それは、どういう事だ?」

僕のその問いに、沢西は

「私にはね、お父さんがいないの」

突然何を言い出すんだと、その時の僕は思った。

今考えるとそれは、彼女なりの誠意だったのかもしれない。自分のために神に背を向けた僕達二人に対する、彼女の誠意。

「ずっと昔、私がまだ小さい頃に離婚したの。だからほとんどお父さんの記憶ってないの。ずっとお母さんが私と、弟を育ててくれた。お母さん、本当に大変なんだよ。娘の私から見ててもそう思うくらい。この国で、母親だけで子供二人育てるのがどれだけ大変か。だから、時々教会のお世話になったりしていたんだ」

「……その恩返しに、教会のいう聖女になろうって言うのか?」

少し白沢の事を考えつつ、僕はそう聞いた。沢西の家庭は、もしかしたら白沢がそうなっていたのかもしれない姿だった。

「だとしたら、余計にお前は聖女になるべきじゃない。お前が家族を離れたら、残された方がどんな気分になるかわかるだろう?大切な家族がいなくなる悲しさを、もう一度味あわせるつもりなのか?」

そういう僕の言葉に

「あのね藤川君。この国で子供を育てるのは、とても大変な事でね。『一家三人で苦労を共にして貧しいけれど幸せに暮らしました』なんていうドラマみたいにはいかないの。確かに家族が離れ離れになるのは悲しい事だけど、それでもそうしないといけない、それが最善の道だっていう場合があるんだよ」

まるでできの悪い生徒に優しく諭すように、沢西はそう答えた。

口調は優しいのに僕は、お前のように一家全員が不自由もなく暮らしている奴にはこの苦労はわかるまい、と言われたような気がした。

「もうすぐ弟が受験になる。私だって大学へ行きたい。きっと弟も大学へ行くと思う。そうなると、もうお母さん一人じゃ限界なんだ。二人とも大学へ行かせるなんて、出来ない。でもうちのお母さんは、そんな事は言わないと思う。一人で頑張って、最後は倒れるまで働くと思う。それでも、お金は足りないんだよ」

突然始まったお金の話に、僕は少し戸惑う。それに比べて、白沢はどこか納得した顔をしていた。

沢西はそんな僕に構う様子を見せず、話を続ける。

「聖女は、この世を許してもらうために、いつ覚めるとも知れない眠りにつく。彼女たちはもともと神が地上に遣わせた自らの分身であるため、眠りにつくというのはもとの世界に帰るということ。だから、教会側から眠りにつく代償は一切支払われない、という事になっているでしょ」

今更何を、と言いかけた僕の言葉を沢西の言葉がふさぐ。

「でも、実際は違うよ」

それはまるで、罪を糾弾するような鋭さが含まれていて、僕は何もいえなかった。沢西は視線を白沢へと移す。白沢は厳しい顔をしていた。もしかしたら彼は全部わかっているのかもしれない。

「私が聖女になるでしょ。そうするとお母さんは『娘は聖女だ』って言えるの。その肩書きはとても大きいよ。教会が行う様々な奉仕行為の優先的な受領、一般的な人からの尊敬、信頼。信仰の厚い人からはお布施も貰えるかもしれないね。そして、教会関連施設への働きかけもできるようになるでしょ。

分かりやすく言うとね、衣食住の全部を教会に任せることができるようになるんだよ」

つまり、世の中の為に眠りにつくなんて、全くの嘘で。

自分の為に、自分の家族の為に眠りにつくという。教会へ貸しを作るために。あくまで自分の為に、眠りにつく。彼女が言いたい事は、そういう事だった。

「だからね、私は聖女になるの。これは私が決めたこと。ここから逃げることはしない」

静かに、だがはっきりと沢西は言い切った。

「…お金がないなら、俺が何とかしてやる」

それでも、ここまできたら引き下がるわけには行かなかった。彼女を助けないでここから立ち去るなどという選択肢は、僕の中で存在すらしていなかった。

「バイトでも奨学金でも、うまくやる方法を探せばきっと、何とかなる。俺もバイトするから。だから、眠りになんてつくな。家族が大切なのはわかるけど、だからってお前が犠牲になることはないだろ」

「駄目だよ。奨学金とアルバイトだけじゃカバーしきれない。それに、私は藤川君からお金は受け取らないよ」

「どうしてだよ、俺がいいって言っているんだから、気にしなくていいんだぞ。それでお前が眠りにつかなくなるのなら…」

「ううん、違うの。お金を貰ったら、私たちは今の関係じゃいられなくなるよ。おかしいでしょ、友達なのにお金をあげたり貰ったりって。お金が絡むとね、関係に上下ができる。それを埋めようと、対等な立場になろうと思ったら何かを売るしかない。

―藤川君、私を買う?」

その質問を、本当にさらっと、何でもないかのように口にする。

「そんな訳ないだろ!俺は、別にそんなつもりで言ったんじゃなくて…」

彼女はきっと、僕と同じように「眠りに就くな」という人がいたら同じ質問をするだろうし、もしその時の相手が首を立てに振ったらと考えると、ひどく悲しくなった。

彼女は自分を売ってまで家族の負担を減らそうとしている。彼女にそう強く決意させるだけの状況が、環境が、悲しかった。決して誰が悪いわけでもない、沢西のお父さんやお母さんが悪いわけでも、大司教様がわるいわけでもない。やり場のない悲しみだけがあった。

沢西の決心は固い。自ら聖女になろうという彼女を止めることはできないのだろうか。彼女の事を考えると、彼女の言う通り眠りに就く事が最善なのか。

助けようと思って、小笠原に泣きながら怒られた。

助けようと思って、白沢に胸倉を掴まれた。

助けようと思って、小笠原を説得した。

助けようと思って、白沢を説き伏せた。

そうしてようやく沢西までたどり着けたのに、その本人が助けられたくないというのなら。今まで僕がやってきた事はなんだったのだろうか。

何が善くて何が悪いのか。彼女の為には、どの選択肢が正解なのか。それとも、最初から正解の選択肢は無かったのか。

「やめてくれ、そんな簡単に、眠りにつくなんて言わないでくれ」

悲しさと悔しさでこぼれそうになる涙を、僕はうつむいて何とかこらえる。彼女にはもう何を言ってもだめだと、分かってしまった。

だけど、まだ一つだけ伝えていない事がある。その時分かった。僕が一番伝えたかったことは、たった一言。

「…俺が、お前を眠らせたくないんだ」


その時僕はうなだれて、きつく目を閉じていた。

だから、沢西がこの部屋に入ってからずっと浮かべていたどこか悲しげな、諦めたような笑みを消して驚きの表情を浮かべているのを、一瞬だけ垣間見せた、彼女の素顔を見ることは出来なかった。


少ししてから、やっぱり沢西は悲しそうな笑みを浮かべて、

「本当はね、こんな風になるとは考えてなかったんだ」

そう言った。その言葉に少しだけ満足そうな感情が浮かんでいることに気がついて、僕は顔を上げた。

「あの話を藤川君に渡したのは、助けを求めたからじゃない。あなたに見せたかっただけ。

中学生の時に交わした約束。それが私には、とても大切なものだった。

これから聖女になって長い間眠りについても、私の書いた物語だけは残るでしょ。私が眠っていても、私が残した物は世界に置いてきたって思えれば、安心していられる。私と世界はまだ繋がっているって感じられる。

そしてもし、みんながまだ生きている間に私が目覚められれば、そのときに感想を教えてもらえれば、眠っているだけだった時期、眠っているだけだった私でも何か世界に対して出来た事があったって、そう思える。

…まさか、こんなに早く感想を教えてもらえるとは、思ってなかったけどね」

そうして沢西はソファーから立ち上がり、窓のカーテンを開けた。

建物に入ってからだいぶ時間が過ぎていたようで、外は日が沈みかけていた。この高い建物の最上階から、黄昏の町が見える。建物がオレンジ色を反射して、幻想的な雰囲気だった。部屋の中もオレンジ色に染められる。

「聖女として眠りにつくのは、私の仕事。それなりの代償を求めているんだから、嫌でもやらなければいけないことなの。だいたい仕事って、嫌で面倒な物でしょ?そんなに悲観する事じゃないよ。

それに、この綺麗な夕日と世界が守れて、私の家族が安心して暮らせるのなら。それは、私の時間をかける価値があると思わない?」

僕は、その質問に答えられなかった。

ただ、オレンジ色の逆光の中で微笑む彼女は神に祝福されたようにも見えて、とても美しかった。


「ここまで来てくれて、ありがとう。白沢君が守ってくれたから、藤川君が勇気をくれたから、私はもう大丈夫。聖女になっても、2人の事を思い出す。眠っている間も、私の書いた物語は眠ってはいないって思える」

お互いに言いたいこと、言うべき事は全て言い終わって、これが彼女との最後の会話になると思った。

「じゃあ、沢西は聖女になって、これから眠りにつくんだな?」

「うん、もう決めた事だから」

「俺たちが何を言っても、やめる気はないのか?」

「…ごめんなさい、でもやめる気は無い。言ったでしょ、これは仕事なんだって。報酬は破格なんだから」

最後にそう冗談を言う。そんな笑えない冗談が悔しくて、悲しくて、

「そうか。それじゃあ、お前は聖女じゃないな」

言葉に冷たさを含ませて、僕は断言した。

沢西は一瞬言葉に詰まってから、

「なんでそう思うの?」そう言った。

「この世界のために、自らを犠牲として眠りにつく者。それが聖女、だろ?」

僕は視線を白沢に投げかける。彼も無言で、力強くうなずいた。白沢の顔には、「お前の言いたい事は分かっている」と書いてあった。

どうやら僕と白沢は2年間離れていても、相手が何を言いたいのかわかる程度にはお互いの事を理解し続けられたようだ。

「お前は違う。自分のために、自己の利益のために眠りにつこうとしている。眠りに就くことを仕事だと言い、さらに教会から利潤を受け取ろうという下心がある奴を、聖女とは呼べないだろう。だから俺は、お前を聖女とは呼ばない」

そこでいったん言葉を区切る。

「沢西、お前は普通の女の子だよ。聖女なんていうよくわからない存在じゃなくて、泣いたり怒ったり笑ったりする、自分を犠牲にしてまで家族を救おうとしている、そんな普通の、立派な女の子だ。

日本中がこれからお前を聖女と呼んで敬うだろうけど。でも俺は、俺と白沢は絶対にそんな事はしない。誰がなんと言おうと、お前はお前だからな」

今度はちゃんと、沢西を見ながら言い切る。

沢西は驚いたような顔で僕を見て、つぎに白沢の顔を見て―白沢も「当然だろう」という顔をしていた―もう一度僕を見た。

そして、うれしそうに深くうなずいて

「うん、ありがとう。私もその方がいい」

そう言う彼女の頬を、オレンジ色の光の粒が伝っていた。


そうして、来た時と同じように4人でその部屋を後にして廊下を歩く。結局、沢西を連れ出すという目的は果たせなかった。

これでよかったのだ、という理性と

これでよかったのか、という感情が僕の中で暴れていた。

本当ならば、力ずくでも連れ出すべきではなかったのか。彼女が眠りについたら、次にいつ会えるかわからない。今なら、たった数メートル駆け戻るだけで会えるのに。

けれど彼女自身が聖女になる事を望んでいた。それがたとえ家庭環境のせいだとしても、彼女自身の望みならば止めることはできない。

来た時と同じように、4人で車に乗り込む。

静かにエンジンがかかり、オレンジから群青へと色を変えた街へ車は走り出した。教会から離れていく最中、後ろを振り返る。

最上階の一番端の部屋、彼女のいたその部屋には電気がともっていた。こうして彼女から遠ざかっていくと、何か自分が大きな間違いを犯したのではないかという考えが僕を苛んだ。

帰りの車内は、来たとき以上に静かだった。

誰も、何も話そうとしない。富谷さんも、部屋を出てからは一言も口を開かなかった。

それは、散々教会を悪く言って結局沢西を連れ出せなかった自分たちを気遣っての事か、

それとも、散々教会を悪く言って結局沢西を連れ出せなかった自分たちを軽蔑しての事か、僕にはわからなかった。

そうして、僕の家についた。どれくらい車に乗っていたのか、時間の感覚がなかった。1時間乗っていた気もするし、5分程度だったようにも感じた。

「ついたよ、藤川君」

静かに車が停まり、富谷さんがそう話しかけてくる。

無言で車から出て行こうとする僕に、

「分かっていると思うけど、今日の出来事は誰にも言ってはいけないよ。自分の心の中にだけ、とどめておいてくれ」

今更何を、と言いたかったが、そんなところで気力を使いたくなかった。会話というのは、想像以上に気力を使うものだ。軽く頷いてから、無言で車を降りる。外はもう夜だった。僕の横を、ぬるい湿った風が吹き抜けていく。

そして、車は走り去っていった。その後ろ姿を見つめる。やがて角を曲がり、車は見えなくなった。

その瞬間、僕の張り詰めていた糸が切れた。思わずその場に座り込んでしまった。

やはりあの時、力ずくでも彼女を救い出すべきだったのではないか。嫌がっても泣かれても嫌われても、聖女にはさせるべきではなかったのではないか。

車から降りて全てがもう完全に手遅れになってから、僕はとても強い後悔に襲われた。今すぐにでも教会に戻って彼女を連れ出したい、そういう衝動に駆られた。

そうしなかったのは、あの部屋で見た沢西の決意が固かったからだ。彼女を聖女にさせないという行動の全てが無駄になる事を、僕は彼女の言葉や態度から感じていた。

やがて座る事も面倒になり、アスファルトの上に寝転んだ。幸い家の前は車通りも人通りも少なかった。

そうして、空を見上げる。都会特有の建物で縁取られた明るい夜空は曇っていて、星など見えなかった。

また、風が吹いた。

彼女は、この世界と家族を守りたいと言っていた。そのために自分が犠牲となるとも。

「まったく、あいつは本物の聖女だよ…」

自分の意思を貫けなかったからか。

もしくは、彼女を助けられなかった事への後悔か。

または―もう彼女と会えないかもしれないと不意に実感したからか。

曇り空が、涙でにじんだ。


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