09-自分がやりたいこと
夢だと分かる夢だった。
暗く広い空間が、目の前にあった。外は雨が降っているのか、屋根に当たる雨音が静かに響いている。僕は壁を背もたれにして座っていて、傍にはバドミントンのラケットが置いてあった。
少し離れた所には彼女がいた。僕と、進路について話をしていた。先の見えない不安を、中学3年生の僕らはお互いに感じていた。具体的に何と言っていたのかはわからない。それでも、僕は何かを言い、彼女が何か言うのを聞いた。仕方ない、これは夢の中での出来事なのだから。体育館の壁際に座っている僕の中で、意識だけの僕はそう思う。
「―お話しを書いてみるよ」
夢の中でも、僕はその言葉をはっきりと聞いた。彼女がいる方を見るが、体育館の暗闇のせいか顔は見えなかった。それでも、彼女は僕の返事を、あのやさしい微笑みを浮かべて待っている、それは雰囲気で分かった。けれど、僕は何も言えなかった。2年前のあの時、彼女の言葉に対して僕は何と答えたのか。何と答えるべきだったのだろうか。
不意に彼女は立ち上がり、体育館の扉を開けて外へ出て行こうとする。駄目だ、まだ雨が降っている、ここから出て行っちゃ駄目だ。呼びかけようとするが、声は出ず体は動かない。そんな僕を気にする様子も見せず、彼女は扉を開いた。ここから外へ出て行ったら、もう手の届かないところへ行ってしまう。そう分かっても僕は金縛りにあったように動けなかった。焦りと苛立ちで、叫び声をあげる。
「読んでみる、絶対に読む。だから―」
自分の声で目が覚めた。
夢の光景を、はっきりと思い出すことができた。中学時代の夢だった。あんなにはっきりとみたのはこれが初めてで、全身に汗をかいていた。時間は午前7時。もうすぐ起きる時間だ。昨日はベッドに倒れこんだまま眠ってしまった。少しだけ、体がだるかった。
夢を思い出す。僕が最後に叫んだ言葉。
―絶対に、感想を伝えるから
あの雨の日、僕はそう伝えるべきだった。僕が2年前に彼女にした返事は「読んでみたい」だけだった。感想を伝える約束をしなかった事を、本当に小さなことを、酷く後悔していた。
その後悔を引きずったまま、もやもやした気持ちのまま。僕は再びベッドに身を投げる。今は何も考えたくなかった。もう一度眠れば、もしかしたらさっきの夢の続きが見られるのではないか。そうすればもう一度彼女と再会できる。そんな馬鹿なことを考えて、瞳を閉じる。夢の中で会えても、何も変わらないのに。
その日、僕は遅刻ぎりぎりで登校した。朝食もとらずに家を出て、登校時間の自己ベストを更新した。
「おはよう。昨日はどうだった?」教室に入ると一瀬にそう話しかけられる。
「どうだった…?」言われてからしばらく考えて、一瀬のノートの存在を思い出した。そもそも昨日CDを買いに行ったのはそのためだったのだ。
「昨日はそれどころじゃなかったんだよ。中学の時の同級生が聖女になっちゃったみたいでさ」なんて言えるはずもなく、
「悪い、昨日はちょっと調子悪くてさ。すぐに寝ちゃったんだよ」
半分は本当だった。朝起きてから体調は優れない。体と心がだるかった。一瀬はそんな僕の顔を見て
「本当に具合悪そうだな。風邪か?熱とか出てない?」
「いや、風邪じゃないと思う。すぐに治るって」
「そうか、それは良かった」
そう言ってくれる友達への感謝を、僕は皮肉という形で返す。
「珍しいな、一瀬が心配してくれるなんて」
「風邪うつされて、テストに影響すると困るからな」そう言って、ニヤッと笑う一瀬。
「いや、風邪を引いておけば赤点取ったときのいい訳になるぞ?」つられて僕も笑う。少しだけ元気が出た。
そこで1時間目の教師が教室に入ってくる。生徒達が自分の机に戻り、ざわめきが少しずつ小さくなる。教室全体が授業に向けてその姿勢を変える。一瀬は自分の席へ戻る間際、「ノート、昨日手をつけてないんだろ。病人にサービスだ。もう一日貸してやるからしっかり勉強してこい」そう言ってくれた。僕は皮肉ではなく、無言で感謝した。
その日の授業はほとんど僕の記憶に残らなかった。ここはテストに出すぞ、という教師の声も、ノートを化してくれと必死に走り回るクラスメイトの叫びも。
気が付くと、沢西のことを考えていた。
沢西は聖女だという。中学の時の彼女のイメージは、聖女にぴったりだった。
だが、聖女が眠りに付く事で本当に世の中は良くなるのだろうか。教会は「眠ってもらうだけだ」と言う。でもそれは、世界から自分たちだけ取り残されてしまうという事。果たしてそれは、たとえ教会の名の下とはいえ許される事なのだろうか。もし彼女たちが眠っても世の中が何も変わらなければ、失われた彼女たちの時間はどうなってしまうのだろう。
そして、彼女は本当に自ら望んで聖女となるのだろうか。あの作品の前書きと後書きには、妬みや後悔は書かれていなかったが、疑問は僕にまとわりついて離れない。なぜあの作品を自分に渡したのか。なぜ今になって渡したのか。本当に、聖女になってもいいのか。本当に、それを望んでいるのか。
それを彼女の口から直接聞かないと納得できない。沢西と直接会って話がしたい。
それは昨日の夜から僕が漠然と考えていた事で、一晩以上かけてようやく掴んだ具体的な答えだった。
直接会おう、と決めた。
だが、実際どうしたらいいのか分からなかった。なにしろ沢西の家すら知らないのだ。中学生の頃の名簿には電話番号は載っているが住所までは載っていなかった。
誰かに聞く事もできない。「あいつ聖女なんだけど、家の場所教えてくれないか?」なんて言えるわけがない。
沢西の家を知ってて、なおかつ事情を話しても平気な人。そうすると、一人だけ候補が挙がってくる。
小笠原マキ。沢西から直接話を聞いているし、幼馴染みというから、家も知っているはずだ。
問題はどうやって小笠原に会うかだが、考えても仕方ない。会った場所に行けば、もう一度会えるかもしれないと考え、学校が終わってから僕は一人で立岩行きの電車に乗った。
「悪いね、何か買い物があったんじゃないの?」
「いいのいいの、特にほしいものもなかったし」
そっか、と答えて僕はコーラに口をつける。
小笠原とは意外にも、簡単に会う事ができた。もしここで見つからなければ通っている学校を調べて乗り込む覚悟があっただけに、拍子抜けしたほどだ。
彼女はテレビ売り場で何をするでもなく、ニュースを見ていた。まるで何かを、誰かを待っているように。
話があるんだ、という僕の呼びかけに、小笠原は黙ってついてきた。場所は昨日と同じファーストフード店だった。
「で、用事って何?」
昨日と同じように正面に座っている小笠原にそう聞かれ、僕は何から言うべきか考えながら、口を開く。
「昨日渡してくれた物、あれはUSBメモリーだったんだ」
「そうだったんだ」
「中には文章が、沢西が書いた物語が入っていたよ。俺、中学生の時に沢西と約束したんだ、いつか物語を書いたら俺が読むって」
「そう」
「素人が書いた、あまり面白くないお話だったけどね」
そこで一度、言葉を区切る。
「でも、あいつは約束を守ったんだ」
「……」
「沢西、聖女になるんだろ?その前に直接会いたいんだ」
「……」
「一緒に会ってくれ、なんて事は言わない。どこに行けば会えるのか、もしくは家の場所だけでもいい、教えてくれないか」
「……」
この時の小笠原は、まるで別人のように口を開かなかった。最初は笑顔だったが、話を進めていくとその顔からは表情が消えた。
少し間があって、彼女が口を開く。
「家に行って、どうするの?」
「あいつと、沢西と話がしたいんだ」
「何を?沢西さんにいったい何を話すの?」
「何で俺にこの話を渡したのか。それと…本当に聖女になっても後悔しないのか、とか」
小笠原の口調は相変わらず静かで落ち着いているけど、彼女が発する質問や表情の中から何か強い意志を感じた。まるで自分が試されているような錯覚を受けた。
「もし沢西さんが聖女になりたくないって言ったら、藤川君はどうするつもり?」
「…もし、あいつが聖女になりたくないと思っていたら、それはやめさせるべきだろう」
「具体的には?」
「…そこまでは、まだ考えてないけど。でも、まずあいつと話をしないと」
そこで小笠原の顔に表情が浮かぶ。呆れや、怒りや、失望が混じった顔だったけど、高校2年生の僕にそんな複雑な表情が読み取れるわけもない。ただ、ものすごい怒っているとしか思わなかったし、それで十分だった。
「藤川君って自分勝手だよね。何で話を渡したか?聖女になっても後悔しないか?そんな事を直接聞きに行くなんて事を本気で考えているんだから。ちょっとは自分の頭使って、沢西さんの気持ちを考えてみなよ」
彼女の口調は静かだった。怒鳴るでも喚くでも泣き散らすでもなく、まるで諭すようだったけど、それでも小笠原は怒っていた。
「やめさせるって簡単に言うけどさ。そんなのできるわけがないよ。だって聖女だって決めるのは教会のずっと偉い人たちなんだから。聖女を辞めます、なんて言って認めてくれるわけないじゃない。クラスの委員会とは違うんだよ?」
しゃべっているうちに小笠原の口調が激しくなってきた。
「聖女になるのに後悔しないか、なんて本人に聞けるはずないじゃない。サユリ、私に打ち明けるとき、昨日藤川に渡したあの包みを預かったときに…泣いてたんだから!」
「サユリ、私に預けるときに泣いてたんだよ。私はもう藤川君には会えないって。だから私に、ごめんねって謝りながら。サユリは何も悪くないのに―」強い口調で、激しく怒りながら、小笠原の目に光るものが見えた。そしてその姿が沢西の姿と重なる。
女の子に怒られたのも、怒らせたのも、そして目の前で泣かれたのも、僕には初めてだった。だからどうしていいか分からず、ただその涙の持つ力に圧倒されるばかりだった。
世間では、聖女になることは名誉な事で、聖女は喜んで眠りにつく、というのが通説だ。だけど、沢西は違った。聖女その人が、眠る事を怖がっていた。
やがて小笠原も落ち着いてきて「とにかく、沢西さんには会わせられない」そう言って、席を立つ。
昨日とは違う理由で、僕は小笠原を追いかけられなかった。
目の前で女の子に泣かれた事、そして考えを否定された事は、僕に想像以上の精神的ショックを与えた。
それでも、もし本当に沢西が聖女になりたくないのなら、それは辞めさせるべきではないのか。そこまで考えて小笠原の言葉がよみがえる。
―沢西さんの気持ちを考えてみなよ
「そうだな、むこうが会いたくないっていうんなら、僕は会えないな」
沢西は、泣きながら僕には会えないと言っていたらしい。なぜかは分からない。会う事を泣いて拒まれるほど、僕は嫌われていたのだろうか。
―自分勝手だよね
そう言った時の小笠原の顔を思い出す。怒っているだけじゃなくて、呆れて、悔しそうな、そんな顔だった。彼女にそんな顔をさせるほど、僕の選択は間違いだったのだろうか。
かつての同級生に目の前で泣かれて、自分勝手だと怒られて、それに一言も反論できなかったのに、僕は未だに僕の意見が間違いだとは思えなかった。
―沢西さんの気持ちを考えてみなよ
小笠原の言葉がよみがえる。それを言えば、だけど小笠原こそ沢西の気持ちを考えてみるべきだ。沢西が本当にしたい事は、やりたくない事はなんなのか、それをちゃんと考えるべきだと思った。
翌日も、気分は相変わらず悪かった。夜、目を閉じると小笠原の顔と声と涙が浮かんできて、眠れなかった。そしていつもと同じように学校へ行き、頭に何も残らずにただ授業を聞いて、気がつけば昼休みになっていた。
「なんだよ、今日もまだ顔色悪いぞ」一瀬にそう言われる。
「どうも体調が回復しなくてね」
昨日に引き続き嘘ではない。一瀬にもそれがわかったのだろう。
「おいおい、大丈夫かよ。テストまであと少しだぞ」
「テストね。そうだね」正直それどころではなかった。
そんな僕の気持ちには全く気づかずに
「その調子だと、昨日もノート写していないだろ?」
僕はそれに、あぁ、とだけ答える。一瀬は大きく溜息をついて
「俺はなるべく良い人であろうとは思っているけど、聖人じゃないんだ」
「そうだな、お前はよく偽善者になりたいって言ってるからな」
「そう。だから、今日は数学のノート返してもらうぞ」
さすがに僕も今日までノートを借りるつもりはない。さらにこの時は、全く勉強する気になれなかった。
「わかってる、今日は返すよ」
「ならいいんだけど。放課後までに返してくれればいいから、今コピーとってこいよ」
一番近いコンビニなら昼休み中に往復できる。口では何を言っても、一瀬はいい奴だった。
「しかし、お前もう少しわがままでも良いんじゃないの?」
と、一瀬は突然そんなことを言ってきた。
「なにそれ、どういうこと?」
「なんとなくそう思ったんだよ。お前は体調悪くて勉強できなかったんだろう、それならもっと
『俺は体調悪くて勉強できなかったんだ、ノートもう少し貸せよ!』
くらいの事言っても良いと思うんだよ」
「でもそれは俺の都合だろ。お前に迷惑はかけられない。やっぱり、人に迷惑かけちゃいけないと思う」
「そりゃそうだ。当然だよ。でもな、それも時と場合によるぜ。どうしても譲れないものがあるなら、それは周りの迷惑なんか考えるべきじゃないんだ」
「なんだよそれ、自分勝手な奴が正しいって事か?」
「そうは言ってないだろ。ただ、もう少し自分を主張してもいいんじゃないかってことだよ。結構周りに流されやすいからな、お前は」
一瀬は今僕が置かれている状況を知らないはずだ。だから彼が言った事は数学のノートについてであるはずだけど、どうしても僕には小笠原の泣き顔が浮かんでしまう。
だから次の言葉は、考えるより先に口が動いていた。
「自分を主張して、それを否定されたらどうするんだ?」
一瀬は呆れたように
「お前は自分の主張が何の問題もなくまわりに受け入れられると思ってるのか?そんな訳ないだろ、意見なんて否定されるためにあるようなものだぞ。否定されて相手の言い分を聞いて、納得できれば意見を変えればいい」
「納得できなければ?」たとえば、昨日言われた『会わせられない』のような。
一瀬の答えは単純だった。
「だったら、後は戦うしかないな」
結局一瀬が言いたかったことは「お前はもう少しわがままになってもいいだろ」ということなのだろう。
自分が貫きたいものがあれば周りの迷惑なんて考えるな、とも言われた。
僕にはその気持ちがわからなかった。誰にも迷惑をかけたくない。誰の迷惑にもなりたくない。自らの主張を、意思を持つと周りとの摩擦が生じる。世界はカタチを持った意思を許すほど優しくはない。
世界は意思を削る。対立する人を使い、時に激しく。
世界は意思を耗る。膨大な時間を使い、時に優しく。
削られれば痛い。痛いのはいやだ。
だから僕は今まで自分の意思を持たなかったのだ。世界がいくら人を使い時間を使っても、元から持ち得ないものを削れるはずがない。それが僕が知らない間に身につけた処世術、だった。
それを昨日、少し脱ぎ捨てた。
世界はそれを見逃さなかった。意思を持った僕を、「自分勝手だ」切り捨てた。
削られた。痛かった。
相手を泣かせた。痛かった。
それでも一瀬は言った。もっとわがままになれ、と。周りの人を巻き込んで、いや、そもそも周りなど気にせずに貫きたい意思があれば貫き通すべきだ、と。
だけど。沢西は僕と会いたくないと言っている。
「他人の迷惑を考えるなって言ったけど、その他人には助けたい相手も含まれるのか?」
その質問は一瀬にとっても予想外だったのだろう、キョトンとした顔をする。それでも考えをまとめているような雰囲気を感じ、僕は答えを待つ。周りには昼食を広げながらノートを書き写している生徒もたくさんいた。
「難しいな、それは。俺も一概に言えないけれど…。ただ、本当に助けたいのなら、そうだな、相手の意思なんて俺は気にしない」
ただし、といって彼は続ける。
「自分が助けたくて助ける、というのなら相手にしてみればいい迷惑だからな。感謝を期待するなんて論外、嫌われるくらいの覚悟はしないといけないな」
沢西は僕に会えないと泣きながら言ったらしい。小笠原も、沢西には会わせられないと泣きながら僕に言った。
だけど僕は、それでも沢西に会いたい。
その時になって、僕はようやく自分の中にあるその気持ちが、こんなにも強いものだということを知った。
僕の中で、何かが固まっていくような、暗闇で仄かに光る種火を見つけたような、そんな感じがした。
「いいのかな、そんな相手の事を考えないような行動で」
「それが100%純粋に相手を思っての行動なら、アリだろ」
一瀬はやっぱり何も知らないはずだけど、それでも僕の行動を認めてくれた。今までやりたい事もなく、ただ流されるように高校へ進学したけれど、彼と出会えた事は僕にとってこの上ない幸運だった。
「そんな事はどうでもいいから、早くコピーとってこいよ」という一瀬の言葉に無言で強く頷き、かばんを手に立ち上がる。
目指す先はコンビニではなく、立岩。今日も小笠原は来ていると、強い予感があった。