ep27.灰色2
すべての経緯を思い出したのは、ほんの百年ほど経ってからだったが、今となっては鮮明に思い起こせる忌まわしくも悲しい記憶だ。
あれから千年近い年月が過ぎているというのに、ワタシの中心にいつまでも刺さったまま抜けない棘が、まるで許されざる罪のように知的生命体としての尊厳、個性、感受性、理性、そして意識や指向性すらも苛み続けている。
そんな空虚なワタシを包んでいた外郭は、たった一言で脆くも崩れ去り、己の我欲に任せて荒れ狂う。
壊れたままの心では制御を許されない大きすぎる力は、自分自身の戒めとして掛けられた制約を意図もかんたんに弾き飛ばし、身体に掛かる重力エネルギーと保存の法則を無視し、空間そのものに左右してキリキリと音を立てながら切り取られた空間と残された空間に歪みを生む。空間同士の摩擦が生むのは切り裂かれたような悲鳴にも似た異音と、戻ろうとする力の余波によって生じる衝撃波だった。
空間という抵抗力だけを相手に、ワタシは目的地に向かってひたすらに疾駆する。立っていた地面ごと亜光速で駆け抜ける不可視の姿を捉えることは、おそらく常人には不可能だ。
奴隷紋ですら意味を成さずに崩壊せしめたこの力は、本来は相殺し合う相反する力を除力する事によって得られた物だ。
遍く存在に影響し、すべてを根幹から覆すだけの力を持った圧倒的な魔法力。
師匠はこの力に【森羅万象】と名付け、その使用をワタシの成熟を見るまでは、と禁じていた。
もっとも、師匠の存命中にその使用を許されることはついぞ無かったのだが。
やがて海を越えた遥か東の大陸である【ダリアーリア大陸】へ至ったワタシは、目的地の神殿の前へとまたたく間に辿り着いた。固定化を維持したまま、ワタシの到来によって切り裂かれ、無残にもバラバラの肉片と元は白かった布が混じり合ったものや、日々磨き上げられ、たゆまぬ研磨によって輝くような美しさを保っていたであろう神殿入り口付近の荘厳であったことが伺える柱の一つ一つが粉々に粉砕されている姿に目を細めた。
(ここか)
恐らくは何かの宗教の神殿なのであろう。余波に刻まれた血みどろの柱群の向こう側には、まだまだ多くの人が散見できていたし、なだらかな丘の上に建てられているこの建物に向かっていたであろう人々は、辛うじて余波を凌いだ人と、そうでない肉片とに分けられ、あまりの惨状に茫然自失となった信者たちにワタシは囲まれる形となった。
しかし、彼ら彼女らの意識化にワタシという存在が映し出されることはない。固定化された次元空間を無理矢理引きずり回している状態なので、光による視認が不可能だからだ。
魔力感知に優れた者であれば、そこに何か濃密な気配を感じることも出来るだろうが、分かるとしてもそれだけだろう。
ワタシは再び発端となった男が居るであろう場所に意識を移す。神殿内部の何処かであることは明らかだが、面倒なので空間そのものを割って俯瞰させた。
先程までの強引な移動方法とは違い、ダンジョンを含めた神殿設備を幾重にも次元寸断し、異空間へと我が身を滑り込ませる方法だ。
規模や制御の難しさから一瞬しか維持出来ないが、映像越しに確認していた玉座らしき場所を特定すると即座に寸断を解除した。
(ふーーっ……)
寸断の解除と共に固定化の解除もされてしまったので、ワタシは玉座の間と呼ぶべきであろう場所に降り立つことになった。固定化していた場所や部分は即時にもとの場所へと戻されるが、法則を捻じ曲げて現出させたワタシの身体はこの場に留まることとなる。ひんやりとした空気の中に何処か生々しい臭気を感じるのは、衆目も憚らず痴態を繰り広げている金髪とその下僕たちの影響だろう。
ぶつくさと怒気を孕む声を挙げながら、金髪の男は強引とも取れる所作で、たおやかなサキュバスたちの肢体を嗜んでいた。
いち早くワタシの存在に気づいたのは、そんな彼らの居る部屋を守るようにそびえ立っていた物言わぬ石くれ……ゴーレムだった。
部屋の壁に沿って並んでいた少し大きな人型の石像はワタシの姿を認識すると、その手に抱えていた身の丈をゆうに超える長槍を構えて動き始めた。
「んん!?なんだ!!」
怒気にあてられてほんのりと上気した表情のまま、金髪のマールは突然動き出したゴーレム達の目的にようやく気を向け、そして言葉を失った。サキュバス達も主人の様子からワタシの存在に気付くやいなや、今しがたまでその身を横たえていた何かの動物の毛皮で出来た大きなクッションベットから身を起こし、警戒の体制へと翻した。
「な……なんでお前がここに……!!」
ありえない、考えられない、信じられない。およそ思いつく限りの可能性を意識下で模索しながら言葉を紡ぐ様はワタシの心をほんの少しだけ在るべき姿へと引き戻すが、振り切ってしまった心の依代を取り戻すには到底足りるものではない。燃え盛る憤怒を再びマナを暴走させるための起爆剤として投与し、本来であればじっくりと練り上げられる力を加速度的に増加させ、その方向性は負へとさながら何かが下へと落ちていくかのように圧倒的な速度で増していく。
ワタシを中心に広がる力場は目にはっきりと見えてはいるが、先の見通せぬ深い闇以外に何も感じられない圧倒的な虚無感を内包していた。
「……全てを恨んで生きていけ」
「そ」
絞り出すような掠れた声でこれからの未来を暗示すると、暗闇は声を出す暇もない速さで瞬時に部屋一面にその力場を広げ、ワタシが望む存在全てを闇の中へと包み込み、押し流してしまった。
『コーキュートス《冥府に流れる川》』
全てを流し尽くした暗黒の河川が消え去ると、残されたのは伽藍堂のようにきらびやかに飾り付けてあったものすら無くなってしまった石造りの玉座と、ダンジョンコアだけだった。
圧倒的な魔力の行使にはその代償が襲いかかるが、変わらずポッカリと穿たれたままのワタシの心の痛みに比べたら些細なことだ。森羅万象の余剰魔力は体組織へも影響し、その結合を不安定なものにしてしまう。反作用を意識的に行うことで最小限の結果に留めるが、相変わらず落ち着かないワタシの心がそれを許してくれない。
辛いのはワタシだけじゃない。
生きているだけで幸せかもしれない。
復讐は何も生み出さない。
それでもなお、ワタシは言いようのない違和感と、逃れられない苦しみに己を掻き抱く。
ワタシの所作で殺された。
ワタシなんて生まれてこなければよかった。
ワタシは……。
――助けて、師匠……




