エール
汗だかお湯だかわからないが、頬の上を水が走る。ページュ色のタイルの浴室で夜桜かおるは電話をしている。携帯は防水機能がついているので壊れる心配はない。
巧をからかうつもりで風呂に入りながら電話を受け取ったのだが、やりすぎだろうか。かなり焦ってたなあ。なんというピュアボーイ。かおるは先ほどの巧をの反応を振り返る。
きっと重い話の前座にはちょうどいい。
「才能があるってどういう事ですか。」
巧が不思議そうに聞いてくる。
「だから、君の難聴は小説を書く上ではプラスに働くんだよ。」
緊張の原因は障がいというデリケートな問題を扱ったこの状況から来ている。
巧にわかったふりをしないでくれと言われればそれで終わりだ。言葉は入念に選ばなくてはならない。
「難聴の君だからこそ書けるものがあると思うんだ。私は君にしか書けない小説を読みたいんだ。」
「それがねこざねさんの前では言えない事ですか。」巧は褒めているというのにあまり嬉しそうでもない。やっぱり難聴の事を健常者の私が語る事が気に入らないのか。
夜桜かおるは湯に肩まで浸かり直して息をつく。案外、風呂に入りながらというのは冷静に話す時の状況としては理想なのかもしれない。
「そうだよ」
「どうして言えないんですか。」
「言わないのが彼女のためだと思っているからだ。」
これは答えになってないなと思ったらさっそく質問が帰ってきた。
「ねこざねさんには才能がないんですか。」
「空気を読まないな、君は。」巧の歯に衣を着せない物言いに思わずつぶやいた。
「なんか言いました?」どうらやら聞こえなかったらしい。
「君は空気を読まないなと思ってな」
「はあ」
当の本人は全く気にする様子がない。
「ネコは才能というか生まれつき文章を書くセンスがなかった。」
「ずいぶんと酷評するんですね。」
「いや、彼女自身も認めている。そこは安心してくれ。」
「なるほど」ちょっと的はずれな相槌を巧は打つ。聞こえてないのかもしれないが次を促しているのだろう。かまわず続ける。
「原稿用紙を前にすると全く書けなくてね。
いざ書こうとすると何を書けばわからなくなってしまうみたいだ。」
「わかりますそれ。」今度の反応は手応えがある。
「僕も最初はそうでしたよ。なんか恥ずかしかったけどもう慣れました。」
「ああ、ある程度は慣れというものがあるんだが。慣れてきても途中で書けなくなってしまうんだ。まるで電源の切れたロボットのように鉛筆を持って座ったまま固まってしまう。」
そんなネコをかおるは何回も見た事があった。
「そうなんですか、苦手なことは人それぞれですよね。僕だって運動だめですし、」
やっぱり書いてきた小説の主人公は自分がモデルなんだな。巧はこう自分の事を悪く言っても結局自分が好きなんだと思う。
「そしてもう一つ書けない理由がある。立ち直れない挫折をした。」
そう言ってかおるは浴室の天井を見上げた。自然とため息が漏れる。視界は湯気でぼやけている。懐かしいな。彼女はもう一人の後輩の事を思い出していた。
「そうですか。」
「それがトラウマで今も書けていない。だから君を彼女の前でむやみに褒めることは避けたかった。」
「そうなんですか、、、わかりました。そんな理由があったんですね。」巧は理解してくれたようだ。
「じゃあ今日は遅いのでまた。」そう言って電話を切った。
また自然に漏れるため息。役割からの開放感が体を包む。あ、お助け部の事を言い忘れた。頑張れと励ましたかったのになあ。とついつい後輩を可愛がりたくなってしまうかおるであった。
まあいいや、今度お助け部の部室にでもお邪魔しよう。