白い時の彼方
今はもう何十年、何百年、何千年の時の彼方。
置いてきたはずの思い出が囁く
あなたが、こんなにも恋しい―――――
*****
「なあ、――」
自分を呼ぶその声に、唐突に涙が出そうになる。
彼は困ったように笑ってから、私の腕を引く。
そう、彼はそんな人だった。
だけれど、名前が聞こえない。彼が私を呼ぶ声が聞こえない。
遠い記憶の中に、私は自分の名前さえ置いてきてしまった。
我ながら呆れてしまう。彼が不思議な顔をする。
「どうした、――」
「ううん、何でもないの」
噛み締めるような会話の中で、私はひたすら彼を追いかける。
嗚呼。もっと名前を呼んでほしい。彼の声で、たとえこれが夢だとしても。
私が遠くに置いてきた、私だけの名前を。
あなただけが呼ぶ、私の名前を。
私が私を、私と知ったのは、彼と出会った日。
「名前は?」
唐突に投げられた問いかけ。それが第一声。
見上げれば男。多分、ふもとの村人。
「名前って、なんの?」
「お前自身の名前だよ」
変なことを聞く奴だと思う。
変なものを求める奴だとも思う。
「そんなもの、必要ないでしょう」
若干の憐れみと同情の混ざった瞳。とても綺麗な色。
私はこの瞳が嫌いだ。
「じゃあ俺がお前に、名を授けよう」
長い袖をした彼の衣服が土をなぞる。
そんな汚れそうな服を、なぜ着るのだろうか。
「……聞いているか?」
「聞いてるわ。でも結構。私は私だもの」
名前など不要。だって、誰とも関わらないから。
そう言えば、彼は困ったように頭をかく。
「俺が必要なんだよ。お前の事を呼べない」
「変な人ね。いきなり現れたかと思えば」
この男、急に私の住処の山奥に姿を表すと、警戒するでなく話し始めたのだ。
ここは私のとっておきの場所なのに。
「別にいいだろ。それより、名前は」
「しつこい人。いらないって言ってるでしょ」
名前がなくても生きていけるのに、なぜ必要なのか分からない。
そもそもなぜこの男が、名前を求めるのかも。
私はずっとここにいるだけなのに。
「じゃあ俺が勝手に呼ぼう」
自分勝手なところのある彼。
最初はひたすら、反発しか覚えなかった。
「――――――琥珀、でどうだ?」
私は彼が嫌いだった。第一印象からして苦手だった。
だけど、そう。彼がくれた名前が、本当は嬉しかった。
「こ、はく」
初めて手にした、自分だけを表す言葉。
思わずポツリと呟いて、何故か笑みがあふれる。そんな自分が、私は不思議だった。
「不老不死って、知っている?」
「あの噂のことか?人魚の肉を食べるとなるっていう」
彼は私に思っても見ない情報をくれる。
それは私が世間を知らなさすぎるから。
人魚の肉を食べると、不老不死になるという。
なら私は霞んだ記憶の昔に、人魚を食らったのだろうか?
なんだか、嫌な話。
「不老不死がいると思うのか?」
「さあ?そんなの分からない。どこかにいるかもしれないじゃない」
私のことよ、と心で呟く。
そう呟いてから、たまに思う。果たして私は、本当に不死なのかと。
もしかしたら単に寿命が長すぎるだけかもしれない。
そう考えたくなったのは、彼と居るせい?
少しでも人間だと認めたかったせい?
「不老不死……それはとても寂しそうだ」
寂しい。
何故か引っかかるその言葉。
彼の言葉に首を傾げる。そんな私に彼は首を傾げる。
ああ、そうだ。
寂しいんじゃない。寂しさなんて、元からなくて。
―――苦しい。
生きてることが苦しくなってくるの。
それでも死なないから、死ねないから、生きる。
そんな、呆れる話。
「お前の姿はちっとも変わらないな」
「あなたが早く変わってしまうだけよ」
出会った頃から成長した彼。変わらない私の姿。
今までの当たり前が、今は寂しい。
……今度は寂しいのね、私。
それでも今は、生きるのが苦しくない。
それは彼がいるから?それとも、――――。
ああ、私とあなたは、違う。
時の流れも、心の中も。
いつか離れて、取り返しのつかないところまで別れてしまうと、私は知っている。きっと彼も知っている。
「琥珀」
柳の木の下で、自分の名前を呟く。
彼の声ではなく、私の声で。
「琥珀」
それは私。私だけの、言葉。
柳の木の下から、麓を見下ろす。
変わらない景色。変わらない空気。変わらない私。
変わったのは、たったひとつだけ。
ひとつだけなのに、こんなに変わったように感じる。
それは多分、変わったひとつが、あまりにも大きいから。
「琥珀」
真っ白な吐息と共に、言葉が解ける。
なぜかは分からないけれど、自分の名前を呟くのはこれで最後にしようと思った。
私の名前をつけたのは彼で。いつだって呼ぶのは彼しかいなくて。
それはわたしの声じゃなくて、彼の声で。
だから多分、これは私の名前だけれど、彼のものだ。
彼はもういないから、だから。
だからこの名前を呼ぶことは、これからないんだ。もう二度と、誰であっても。
そう、思う。
涙があふれる。それは初めてのことで。
彼と出会ってから、そんなことがたくさんあった。
こんなに悲しいのも、苦しいのも、寂しいのも。
全部全部、初めてだ。
次の日、空からは大粒の雨が降った。
そういえば、私は彼の名前を知らなかった。
最期に聞いてみたかったなと、そんな後悔の音。止まりかけの、あなたの心音と似ていた。
私はまた、一人になった。
それから、ずっと。
*****
長い永い、途方もなく続く時の彼方。
もうあなたの温もりも、声も、瞳の色も思い出せない。
愛したはずの、愛しているはずの、その笑顔さえ霞んでいく。
夢の中でしか会えない。
夢の中でしか思い出せない。
こぼれ落ちていく記憶の中、あなたにもらった言葉でさえも―――こんなにも、遠い。
言葉にすることの無くなった名前もまた、忘れてしまった。
かすれて、消えて。
いつしかあなたがいたこと、それすら忘れてしまいそうで、どうしようもなく怖い。
このまま、世界を感じなくなればいいのに。
私の体は進まない。永遠かもしれない永い長い時を、止まったままで生きている。
最早私は、生きているのかさえ疑わしい。
それなのに、私の心は進む。
永い長い時を、出会い、別れ、忘れながら。
途方もないほどの時を、私の心は歩んでいる。
どうか、私の体よ。
永遠に進まないというのなら、このまま朽ちてほしい。
どうか、私の心よ。
永遠に止まらないというのなら、ここで記憶を止めてほしい。
体が止まっても、心が進んでも。
あなたにはどうしたって会えやしない。
だからどうか、私よ。
このまま息絶えて。
あなたの元へ行きたい。それはきっと永遠に絶えない、たった一つの望み。
あなたと同じ場所へ行きたい。
この空の上、彼方の彼方。
―――そのすべてを、思い出せなくなる前に。