走り抜けたその先で、すてきが私を待っている
ふつうの恋愛ものを書きたくなりました。
幼馴染のゆきちゃんを、こんなに近くで見かけたのはずいぶん久しぶりだった。
開こうとした傘を持つ手に力が入る。右手側ほんの3メートル先、ゆきちゃんが突然の土砂降りの雨空を見上げている。その横顔は、私のよく知っている顔よりもずっと大人に近づいていて、精悍だった。ゆきちゃんの困ったような眉間のしわさえ、なんだかかっこよくて、久しぶりに間近で見れたその横顔に、私の心臓はにわかに勢いよく騒ぎ立てた。
ゆきちゃんは幼馴染だ。とはいえ、家は確かに同じ地区で近所ではあるが、隣家に住んでいるというわけでもないし、ゆきちゃんは私よりも二学年上のため、最近は全く交流がなかった。
ゆきちゃんと出会ったのは幼稚園の年少さんの頃だった。当時の私は、というか今の私もだが、かなり人見知りな性格で、よく知らない相手に対して口ごもり萎縮してしまう。引っ込み思案で暗い性格の私は、とにかく友達ができなかった。幼稚園に入っても、仲のいい友達なんかやっぱりできなかった。
そんな私のことを心配した母が、近所の公園によく連れて行っていたのは、私に友達を作らせることが目的だったのだと思う。
近所の公園には、同じ地区に住む子どもたちがたくさん遊びに来ていた。しかし、だからこそ私は気後れしてしまって、自分から話しかけることはできなかった。母も私が自分で友達を作るということを期待していたらしく、特別な介入はしなかった。
だから、私は誰にも話しかけることができず、一人で黙々と砂場でお城を作っていた。そんな日が何日か続いた頃、私に話しかけて来てくれたのが、ゆきちゃんだった。
「それ、お城?」
突然、話しかけられたことに困惑し、まごついた私は、目を輝かせて私の渾身の力作を見つめる男の子を前に、大きく口を開けてほうけて、何も言うことができなかった。
何も答えられずに、大口を開けて震えていた私の間抜けな顔がおもしろかったのか、ゆきちゃんはそのあと、盛大に大笑いをした。
「なあに、それ……すっごいマヌケ面〜!!」
ゆきちゃんの世紀の大笑いのあと、私たちは友達になった。
「おれ、さわしたゆきなり。おまえは?」
「……あっ」
「あっ?」
「……あい、さか……っさちこ……!!」
そのあと、顔を真っ赤にした私が「すずらんようちえんの、年少さんです! ももぐみ、さんばんです!すきなたべものも、ももです!」とこんなに大きな声を出したのは初めてではないかというほどの、本当に大きな声で言い募ると、ゆきちゃんはひどくおかしげに笑って、言ったのだった。
「おまえおもしろいから、明日はおれといっしょにあそべよな〜」
その言葉が、どれほどうれしかったか。今でもどれほど大切に、宝物にしているか、ゆきちゃんはきっと知らないのだ。
「ゆっ……沢下せんぱいっ!!」
ゆきちゃんを、こんなに近くで見たのは、ずいぶん久しぶりだった。ゆきちゃんが、びっくりした顔で、大声で呼びかけた私の方を見た。久しぶりに見たゆきちゃんの顔は、とてもかっこよかったし、なんだかとてもドキドキした。
「……あれ、さちこちゃん?」
あの日、ゆきちゃんが私に声をかけてくれた日から、私たちは公園でいっしょに遊んだ。ゆきちゃんは小学校に上がる前から、英会話や塾に通っていたので、毎日というわけではなかったけれど、それでも私たちはよくいっしょに遊んだ。
ゆきちゃんは私の初めての友達だったが、ゆきちゃんにとってはもちろん、私が初めての友達だったわけではなく、他にもたくさん友達がいた。最初はひどく人見知りをして、なかなか慣れることができなかったが、次第に公園に集まるゆきちゃんの友達たちとも遊ぶようになっていった。
ゆきちゃんの友達なので、彼らの年齢は二つ上だし、ほとんどみんな男の子ばかりだった。そのため、どんくさい性格の女の子である私が、みんなの遊びについて行くのはとても大変だったけれど、それでも持ち前のしぶとさで、私はゆきちゃんたちに必死についていって、いっしょに遊んでもらっていた。
幼稚園では、相変わらず友達作りは難航していたが、私はゆきちゃんを初めとして、たくさんの友達ができたのだ。
ゆきちゃんは、あの頃から、とってもかっこよかった。
「うわ〜めっちゃ久しぶりだなあ。お前、結構、背伸びたな」
「……そ、そんなことないっ……です!」
「いや、あるよ。あーーなんで俺の背はなかなか伸びないだよ〜」
ゆきちゃんがそういってとても悔しげに唸るのだが、けれどなんと返していいかわからなくて、やっぱり口ごもった。
ゆきちゃんは、私よりも二学年も年上だ。ゆきちゃんが小学校に入学した頃から、ゆきちゃんとは少しずつ疎遠になっていってしまって、あの公園へ行っても、学校や習い事で忙しいゆきちゃんとはなかなか遊べなくなってしまった。
私も早く、ゆきちゃんみたいに小学校に通いたいと、何度年の差を恨んだかしれない。そして、そのままゆきちゃんとの接点はなくなってしまった。小学校でさえ、ばったり会って会話をすることさえ極端に減って行ったのだから、中学校となるとなおさらそうだ。
「ゆ……先輩は、かっこいいっ……です!! あの頃から、今も……っずっと!!!!」
「……え?」
勢い余って言ってしまった言葉に、口にした私自身でさえ驚き慌ててしまった。頭に血が上る。頬が恥ずかしくらいにほてる。きっと今は、真っ赤な林檎のようだろう。恥ずかしい。私、恥ずかしくらい。
「ゆきちゃんっ、傘ないんでしょ? これを使って、ねっ? ねっ!? 私は折りたたみ傘があるからっ!!!!」
「ちょっ、さちこちゃん……っ!!」
うるさい心臓がどんどんと騒ぎ、赤い頬の私をはやく、はやくと急き立てる。私は、お気に入りのピンクと白のドット柄の傘を、驚くゆきちゃんにあり得ないほどの強引さで押し付ける。ゆきちゃんが、私を呼び止める声さえ、うるさい心臓の音には勝てず、私の心をすり抜けて、私はその大好きな声さえ無視をして、バケツをひっくり返したような土砂降りの空の下に躍り出るように、勢いよく走り出した。
「ゆきちゃん、ゆきちゃん……っ! 好き、大好き……好き、好き、大好き……っ」
鞄の中にあった折りたたみ傘を開くことも忘れた。すっかり、それどころじゃなかった。ゆきちゃんをあんな近くで見れた、話ができた。あんなに近くで! うれしい、うれしい、幸せ、幸せ、幸せ!
久しぶりに見たゆきちゃんはやっぱりかっこよかった。私を呼ぶ声は相変わらず、やさしかった。私を見つめる目は、あったかかった。うれしい、うれしい。昔みたいに、呼んでくれた。それだけのことなのに、どうしてこんなにうれしいのだろう。どうして、こんなにもどきどきして止まらないのだろう。
白い靴下に、真新しい中学の制服に、雨が、泥が跳ねるのに、走り出した私は少しだって止まることを考えられなかった。心が、身体が、まるで羽根のように軽い。どこへだって行ける、どこまでだってきっと歩いていける、私はこんなにも自由で、こんなにも身軽なのだ! とふしぎな錯覚をしてしまうほとに。あまりに身体が軽くて、足が別の生き物のように騒ぐ。足元の水たまりをばしゃんっ! と勢いよく踏みしめた。水たまりの飛沫が白い靴下を汚してしまっても、私の足は止まれない。
うるさい心臓が、どこかへ風に乗り飛んで行ってしまいそうなほどに逸る心が、どうしようもなく私を急き立てる。走るのなんて、好きじゃないのに。こんなに息だって切れているのに。いつも全く運動しないくせに、運動なんて好きじゃないくせに。こんなにも一生懸命走ったのなんて、いつぶりだろう。走りすぎで横っ腹が痛くても、土砂降りの雨に打たれても、靴の中がべちゃべちゃになってきもちわるくても、それでも止まれない。曇り空で暗いはずなのに、目の前が星が飛び散るようにきらきら、きらきら光り輝いているみたいに。ああ、ああ、ああ……!
「わたし、うれしい……っ!!!」
遠くで、見ているだけでよかったはずなのに。ゆきちゃんにもう一度呼び掛けてもらえた、このうれしさを、私は知ってしまった。
「ゆきちゃんが、だいすきっ!!!!」
私は、ゆきちゃんに、恋をしているんだ。
*
その日、私は案の定熱を出した。
朦朧とする意識の中で、幼いゆきちゃんが、声変わりをしたゆきちゃんが、私を呼んでいる。さちこちゃん、さちこちゃん。その声はやさしくて、呼ばれることがとてもうれしくて、私は泣きそうになるくらいに、堰を切ったようにどんどん、どんどん、想いは募る。動き出した恋が、私の心と身体を風のように満たし、駆け巡っている。この奔流を止めることも、制御することさえ、恋を覚えたての私ではとてもできそうになかった。
熱が、回る。ぐるぐる、ふわふわと意識や視界が彷徨するよりも、熱く駆け巡る想いの方がずっと早くて、捕まえられない。好き、好き。ゆきちゃんが、こんなにも大好き。好きすぎて、こわい。こわい。こんなにも誰かを慕わしく、恋しく思うなんてこと、知らなかった。私は知ってしまったのだ。恋という感情を、自覚してしまった。まだ幼い心では受け止め切れず、理解できずにいた、小さな芽のような拙い感情を、今日の私が呼び覚まして、花開かせてしまった。ゆきちゃんのまなざし、ゆきちゃんの声、ゆきちゃんの色んな表情、ゆきちゃんのことばすべてが、こんなにもいとおしい。こんなにも、好きだ。
熱に浮かされた私は、ずっとゆきちゃんのことばかりを考えていた。ゆきちゃんのことしか考えられなかった。恋の熱が、私の身体を乗っ取ってしまうのではと少し不安に思うくらいに。
夢うつつの中、私は幼い頃の記憶をみていた。
「さちこちゃん?」
久しぶりに聞いた声と違って、まだ舌足らずな幼いゆきちゃんが、また頬がまあるい、幼い私を心配そうに呼んでいる。
「ど、どうしたんだ!? どこかいたいのか?」
「ふっ、ううぅ……ゆきちゃあん!!」
「いたいの、いたいのとんでけっ! ほらもうだいじょうぶだ、だいじょうぶ! だからもう泣くな!」
嗚咽まじりの、私の「ちがうの、ちがうの」というセリフは、ゆきちゃんの耳には届かなかったらしく、ちょっとパニックになっているゆきちゃんは私が違うって言っているのに、ひたすら痛いの痛いのとんでけと繰り返していた。大粒の涙をぼろぼろ溢す私を泣き止ませようと、必死に、一生懸命になってくれていた。
「……ちがうのっゆきちゃん……わたし、わたし……ッ!!!」
「……えっ……ちがうの? じゃあ、どうして」
「きょ、きょう……あの……っあっくんにね……」
あっくんというのは、私と同じ幼稚園の年少さんで、同じクラスだった男の子だった。少し粗野で、意地悪なあっくんは所謂ガキ大将で、私はよく意地悪をされて泣かされていた。学年は違うものの、あっくんの存在を知っていたらしいゆきちゃんは、「あいつか……」ととても渋い顔をした。
「またあいつに、いやなこと、されたの?」
「……ううっ」
「さちこちゃん?」
「さっ」
「さっ?」
そのまま私は大泣きした。涙が止まらず、また身の内に満ちる悔しさと悲しさが抑えきれない。どんどん溢れる涙をそのままに、私は一生懸命に説明した。あっくんに、いやなことを言われたこと。お前の名前は、ダサいと。幸子なんて名前は、古臭いと嘲笑されたのだ。
「さちこ」
「……ひっ、く……ううっ」
「とても、いいなまえなのに」
「……っほんとう?」
「うん。おまえは、すてきだよ」
そのときの、幼さに似合わないゆきちゃんの深いやさしさや、穏やかな笑顔が、私に焼き付いた。ずいぶん昔のことを忘れてきている今でも、そのときのゆきちゃんの言葉は、笑顔は、まるで焼き付いたように、まるで記憶に付箋を貼り付けたように、今でも鮮明に思い出せる。忘れられないし、忘れたくはない。ゆきちゃんこそ、なんてすてきなひとなんだろう、と。そのときの私は、悔しさも悲しさを置き去りにしたまま、ゆきちゃんのすてきさに、かっこよさに、ただ感動して、見とれていた。
「おれ、最近妹が、生まれただろ?」
「……うん、ちえこちゃん」
「ちえこの名前をつけるときにな、おれも」
なんで子の付く名前なの、いまどき流行らないのに、と両親にゆきちゃんは尋ねたことがあったそうだ。ゆきちゃんにとってそれは、本当にごくごく純粋な興味だったらしいのだが、その言葉に両親はとても困った顔をして、そしてゆきちゃんにこう言ったそうだ。
「「子」っていう漢字はさ、こうやって書くんだけど」
ゆきちゃんは、公園の砂場に「子」という字を書いて見せた。私は当時年少さんだったので、ひらがなはともかく、漢字などは書けもしないし読めもしなかったのだが、当時年長さんで、既に塾に通って一足早く勉強していたゆきちゃんは、「子」という漢字は知っていたようだった。漢字が書けるなんて、ゆきちゃんはすごいなあ、かっこいいなあと、私は思ったものだ。
「「子」っていう漢字には、「一から了まで」、つまりな「最初から終わりまで」って意味があるんだって」
「さいしょから、おわりまで」
「うん」
ゆきちゃんは昔から勉強熱心で聡明な子どもであったが、そのときばかりは本当に大人のひとみたいで、私はどきどきしたものだった。さすがに当時のゆきちゃんが「一から了まで」の意味をしっかり理解したわけではないだろうが、「子」という感じには「最初から最後まで」という意味があるということを、ゆきちゃんは知っていた。そのことが、私にとってはとにかくすごくて、かっこいいことだと思えたのであった。
「そのときに、おまえの名前は「さちこ」っていうけど、どういう漢字を書くのかなって聞いてみたんだ」
「うん」
「そしたら、ちょっと自信なさげだったけど、かあさんが書いてくれたんだけどさ」
「うん」
そのときの、砂の上に書かれた拙い「幸子」という文字。ひらがなで書くことまでしかできなかった私が目にしたその文字は、なんだかとってもきれいで、かわいくて、きらきらして見えた。ゆきちゃんの、幼く拙い筆跡さえ、少しも気にならず、ゆきちゃんはなんてすごくて、頭がよくて、なんて美しい文字を書くのだろう。ゆきちゃんこそ、すてきだ! と私はやっぱり感動したのだ。
「これは、しあわせってことなんだって」
しあわせな子、さいしょからさいごまでしあわせでありますように、ってそういう意味なんじゃないかなあ。
「しあわせ」
私はその言葉を、心に沁み渡らせるように、噛みしめるように、はっきりと呟いた。おとうさんが、おかあさんが、わたしのために。ちょっと自信なさげな顔で、ゆきちゃんが私を見ていた。気づけば私の涙は止まっていた。私は何も言えずに、ただゆきちゃんをぼんやりと見つめ返していた。やさしい、やさしいゆきちゃん。賢くて、かっこよくて、やさしいゆきちゃん。ゆきちゃんは、私と友達になってくれた。ゆきちゃんは、とろい私なんかと、飽きもせず仲間に入れて遊んでくれた。ゆきちゃんは、私を、私を。
「ありがとう、ゆきちゃん」
私が絞り出すようにそう言うと、ゆきちゃんはうれしそうな顔で笑ってくれた。その笑顔に、私はまた泣いた。
*
「幸子」
朝、目覚めると、お母さんが困ったような顔をしていた。私が目覚めたからか、私の頬に添えられていた手が離れて行った。冷え性の気のある母の手は、ほてって頬にはとても気持ちがよかったのだが、喉がからからで、それを伝えることはできなかった。昨夜よりは幾分すっきりした頭で、私は母のことを呼びかけた。
「ごめんなさい、お母さん」
「うん。次からはわざわざ濡れて帰ったりしないでね。傘は持って行っていたでしょう」
「うん。制服も……ごめんなさい」
「明日には乾くから、大丈夫よ。でも、まだ少し熱があるから今日は学校を休みなさい」
「うん」
気持ちが止まらなかったとはいえ、汚してしまった制服や靴下のこと、自業自得で熱を出してしまったことは反省せざるを得ない。お母さんに、迷惑をかけてしまったなあ、という申し訳ない気持ちでいっぱいだった。けれど、何か食べられそうなものはある? という母の問いかけに、桃! と元気良く即答してしまったあたり、私は幼い頃から変わっていなかった。
それから、ご飯やトイレに行く時だけ起きていた以外は、私はびっくりするほどよく眠った。そのおかげで、熱は微熱程度には下がっていたし、もうほとんど治っていたので、きっと明日には学校に行けるだろう。私は、ほっとしながら、ため息を吐いた。
眠る度に、ゆきちゃんの夢を見た。幼い頃の記憶を、繰り返し夢に見た。ゆきちゃんは、私のヒーローみたいの存在だった。私の憧れと、尊敬はぜんぶ、ゆきちゃんへ捧げている。すてきな、ゆきちゃん。今でも、ゆきちゃんはすてきだった。ううん、幼い頃よりも、すてきになっているに違いない。きっと、もっと、ずっと。
ゆきちゃんは、すてきだ。
「私も、あんなふうに……すてきになりたいなあ」
ゆきちゃんがいつか、すてきだって言ってくれたみたいに。私も、すてきになりたい。すてきな、大人になりたい。まだ今はまだ子どもで、お母さんに迷惑ばかりかけてて、相変わらず人見知りで、引っ込み思案で、何か困ったことがあるとすぐパニックになっちゃうようなぽんこつだけど。だけど、私もゆきちゃんのように、すてきになりたい。あんなふうに、きらきらした、すてきなひとになりたい。
でも、きっとゆきちゃんが、きらきらして見えていたのは、私がゆきちゃんに、恋をしているからだ。そうでなくても、ゆきちゃんがすてきなのは変わらないけれど。私は、ゆきちゃんに恋をしている。きらきらとした、鮮やかな、胸を駆け抜けていくような恋。私は、ゆきちゃんのことが、好きなのだ。私はゆきちゃんに恋をしている。
幼い憧れが恋心へと、猛スピードで生まれ変わって行く。その流れを、とてもではないけれど、止められそうにはない。私は、こんなにもゆきちゃんが好きで、好きで、大好きで堪らないのだ。切なく疼く胸の音も、熱くなる頬も、頭の中がゆきちゃんでいっぱいなのも、ぜんぶ。私が、ゆきちゃんに恋をしているから。
夕方になると、下校している近所の子どもたちの声が聞こえて来て、夢うつつでゆきちゃんのことばかり思っていた私はふと目を覚ました。
「幸子、起きてる?」
「お母さん」
それからぼんやりと暫くしていると、母が私の部屋の戸をノックする音がしたので、私は慌てて返事をした。私の声を聞いたお母さんが私の部屋へと入ってくる。そして私のベッドの傍へとやって来たお母さんは、私の額に手を当てた。
「ん、熱ももういいみたいね」
「うん」
「よく眠れた?」
「うん」
それはよかったとお母さんが微笑むので、私もうれしくて笑顔を返した。
「あ、そういえばさっきね、沢下さんとこの行成くんが、来たわよ」
「……え?」
「すっかり大きくなってたから、最初誰か分からなかったわ〜。昔はよくあんたと遊んでくれてたけど、学年が違うからね、本当に久しぶりだったから驚いちゃったわ、すっかりかっこよくなっちゃって」
あんた、今でも交流があったの、なんて母の問いかけも耳に入らなかった。ゆきちゃんが、ゆきちゃんが、どうして。
「あんた、昨日行成くんに傘を貸したんだってね、届けに来てくれたよ」
「……う、ん」
「あんたが今日学校を休んでるって聞いたって。自分のせいだって謝ってたけど、違うよね。あんた、もう一本、折りたたみ傘も持ってたんだから。だから、違うって、言っといたよ」
「……うんっ、ありがとう、おかあさん……っ!」
ああ、ゆきちゃんが、私を心配して訪ねに来てくれたのだ! ゆきちゃんが! 大好きなゆきちゃんが! 天にも昇りそうなうれしさと高揚感が私の心と身体を駆け巡る。自業自得で、ゆきちゃんに心配をさせてしまったことは本当に申し訳ないけれど、それでもやっぱりうれしかった。
「あとね、あんたに、あんたの大好きな桃缶、わざわざ持ってきてくれたの」
「も!」
「最近は交流なかったんだよね? あんたが、桃が好きだってこと、今でも覚えててくれたのね」
あの子、めちゃくちゃいい男になるわねぇとお母さんが感心したように言っていた。もう既にめちゃくちゃいい男だよ、ゆきちゃんはとってもすてきな男の子だよ、と言い返すこともままならず、私はどうしようもなくうれしくて、舞い上がりそうだった。ゆきちゃんは、私の好物を覚えていてくれたのだ。私が、今でもゆきちゃんに関するたくさんのことを忘れていないのと、おんなじように。
ゆきちゃんが、覚えていてくれた。変わらず、私の名前を呼んでくれた、あの頃のように。それだけでもうれしくて、うれしくて堪らなかったのに。こんなにも私がゆきちゃんを好きで好きで堪らないのと、おんなじように、ゆきちゃんも、私のことを好きでいてくれたらいいのに。なんて、そんな期待までもしてしまいそうだ。どんどん、欲張りになっていく。二つも学年が違うから、中学生になれて、たった一年間だけだけど、それでもまたおんなじ学校に通えるようになっただけで、うれしかったのに。遠くで見ているだけで、それだけよかったのになあ。
目を合わせて、言葉を交わして。あの頃のように、名前を呼んでもらえて。それから、どんどん欲張りになっていく。もっと、近くに行きたいって、あの頃みたいに隣に行きたいって、思ってしまう。駆け抜けていく想いが止まらない。恋って、はやい。とろい私を置き去りにして、どんどん、どんどん、駆け巡って行く。止まらないのだ、止められないのだ。好きのきもちは、こんなにも、はやい。
*
翌朝、すっかり全快した私は、「あまり無理はしないように」とお母さんに釘を刺されながら、中学校の制服に着替えて、家を出た。今日は、よく晴れていた。出かける時、玄関先の傘立てに刺してあった、私のお気に入りのピンクと白のドット柄の傘を見た。昨日、ゆきちゃんがわざわざ届けてくれたという。その傘を見ていると、胸がぎゅっとなった。暫く見つめていたが、こんなことをしていたら遅刻してしまう! とはっとなって、慌てて家を飛び出した。今日は天気予報では一日晴れだと言っていたので、傘は必要なかった。
家を飛び出すと、きもちのいい青空が私を出迎えてくれた。もうすぐ、うっとうしい梅雨も開けて、夏が来る。
今日、もしもゆきちゃんを見かけたら、がんばって声をかけよう。ありがとうって、言うんだ。きっと、言うんだ。……ううん、自分から、自分の足で、ちゃんとゆきちゃんのところに会いに行こう。一年生が、三年生の教室に行くのは、とても勇気がいる。況してや、私はとても臆病な性格なのだ。今からとても緊張していて、胸がどきどきと騒いでいる。でも、それでも、ゆきちゃんに、会いに行こう。ゆきちゃんに、会いたい。ゆきちゃんに、言いたい。ありがとう、と。……今はまだ、好きですとは伝えられないけど。だけど、ゆきちゃんが大好きだから。
「わたしも、すてきに、なるんだっ!!」
駆け抜けていく恋より、はやく。走り抜けて、走り抜けて。その先に、きらきらとした、すてきが、きっと私を待っている。