盆地底
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私は、御言を預かる神官様の護衛兼戯れ相手だ。幾人もの若者の中から選ばれたただ一人の存在。だからどうというわけでもないが、この役割に善し悪しをつけることはできないのだろうと、神官様の御身の側にいさせていただいていたことでそう強く感じた。なぜと問われれば、今私の目の前に広がる景色がその結果だからだ。これが人間の欲の、成れの果て。
神殿の建てられていた水辺だけでなく、それを囲うようにして建っていた家という家すべてが水に飲み込まれていた。
「絶景ではないか。ここも数百年したらば、更に美しく神々しい湖になっているだろうな。この目で見ることが叶わないのが、口惜しい」
私の横で感嘆を漏らしながら、集落の様を見下ろしている彼女は、とても楽しそうであった。
事の起こりは、まだ私の生まれていない四十年以上前のこと。旅をしていた女性がこの集落へとやってきて、湖の洪水とその後の飢饉を予知したという。一番被害が大きいと言われた村民の大半は、その言葉を信ずることなくいつも通り暮らし、残りの少数は彼女と共に、深い森のある山の中腹へと向かったのだ。旅人が言った通り、集落は湖の嵩が増したことによって、何人もの死者が出た。そして田んぼや畑、家畜等の食料も腐るなどして全滅を余儀無くされた。しかし湖の水が引いたことで、旅人の指南で持ち寄っていた種や種芋を植え育てることができ、飢饉を免れた。村民は彼女を讃え、復興する支援を依頼した。復興が終われば、それ相応の報酬ともてなしをしたいと。その提案を飲んだ女性は、その村だけでなく集落全体の活性化にまで尽力し、治めるほどになった。彼女はそれだけ教養のある、聡明な女性であった。更に美しく、歳を取らないなどとも云われていた。この真偽は如何程か、私には知る由もないのだが。そして再び女性は長い雨を予知し、村民に避難警告を出す。そしてそれは的中し、間もなく集落の半分ほどが水に埋まった。女性は水神様の啓示を受け取ることのできる貴重な存在、神官として重宝された。そして、彼女のために建てられた神殿に住み続けていたという。
そんな神官様の暇を潰す役割として、五年に一度年頃の若者が召集され、神官様の気分に沿った者を選出する行事が行われるようになった。時を追うごとに神官様は集落の者に姿を見せることはなくなり、唯一お目にかかることのできる対話師と呼ばれる者になろうと、若者、特に男がどんな試練でも合格しようと躍起になって様々な分野の腕を磨いていた。そんな頃、神官様は大きな欠伸をしながら暇潰しの三目並べでもしていているであろうに。神官様の姿がとても麗しいという噂と、対話師には無償で食事がつけられるという話も、若者の参加を促している理由の一つであったことであろう。かくいう私の友人もまたその中の一人であったのだが、私が不本意ながらも選ばれてしまったことにより、自動的に落ちることになってしまった。
そう、不本意だった。何せ私は、その選出に参加していなかったがために、選ばれてしまったのだ。
「あらかじめ来るとわかるような男など興味もない。それに引きかえ、お前のような男は暇潰しにはもってこいであろう?」
妖しく微笑む艶かしい女。第一印象としては、神官というより妖の類。そして、翡翠であしらわれている美しい神殿に、やけに不似合いであった。まるで、人の家に狐が我が物面で居座っているような。
「よい、思ったことを私に言うがいい。お前のような小物に何を言われたとて、戯言としか思わぬ」
あと、とても失礼な人であることと、まるで人の扱いをされていないこと。これには、いくら神官様といえども腹が立った。たとえ私に神からの啓示を受けとる力がなくとも、これ程までに見下されるとは。人としての自尊心を失ったつもりはない。故に、私は神官様に恭しく頭を下げ、内面から滲み出る美しさについて述べた。このような生活が五年も続くと考えるだけで、気がおかしくなりそうだ。頭を下げたままにしていると、神官様は鼻につくような笑い声を上げ出した。神官様と私の間にはそれなりの距離があるものの、広間が広いためかやけに響いて聞こえた。
「ふん、ここにもなかなかに面白い奴がいるではないか。良し、私はお前に決めた。今からお前は私の手足だ。私がこの腐り爛れた集落から出られるよう、精々身を粉にして働け」
耳を疑うとはこのことであった。
話はこうだ。神官様は人前にでないのではなく、この広間から外へ出ることが叶わないのだと。その理由は、と尋ねたら、後々わかると話を逸らされた。やはり、あの方には何かがあるに違いないと確信した。その"何か"のせいで出られず、この場所に幽閉されているのだという。神殿を建てた者に直接話を聞けば良いのでは、と提案すれば、これだから小物は。と蔑まれた。これだから神官様は。
私は対話師として、時に護衛として、時に神官様の手足として、集落の話を調べていった。そして、神官様を閉じ込めた者たちのことを知ることになった。
そのことを神官様に報告をすれば、体がぞくりと震え、汗を吹き出すほどの嫌な空気が広間に広がった。呼吸がうまくいかず、やがて目の前が真っ暗に染まった。情けがないことに、失神してしまったようだった。暫くして目を覚ました時、神官様のお顔がすぐ近くに見え、ひどく狼狽したことは記憶に新しい。神官様は申し訳がなさそうに謝罪を入れてきてくださった。彼女にも謝ることができたのか、と失礼ながら感心した。そしてその直後に、敵意と殺意を剥き出しにしたような鋭い空気を浴び、目眩を起こした。そう、真冬の氷が張った湖で遊泳をするような感覚。体が急激に体温を失っていく。
その後、神官様の指南の元で私は神殿の一部を解体する作業にとりかかることになった。神のための建造物に、破壊を目的とした手を入れるなど。反対こそしたものの、神など今頃呑気に酒でも浴びている、と謂れのないことを神官様は言った。なんと罰当たりな。しかし私が神官様に逆らえるわけもなく、結果として神殿の一部を外した。
「祈ったところで神など見向きもしない。お前は神への信仰を捨て、私を信仰すれば良い。そちらの方がまだ願いは届くぞ」
気が向けばな。
そう言って、出られないはずの広間から悠々と湖がある方へと足を伸ばして行った。ここ一帯の村々は水嵩が増しても屋内へ浸水しないよう高床となっている。それは神殿とて同じことであり、湖面からかなりの高さがある。しかし、まるで舗装されている道を歩くようにその足取りはしっかりとしていた。そして神官様は呆然とする私の方をおもむろに振り向いて微笑んだ。
「これが、私がここに幽閉されていた理由だ。目を逸らすなよ、しっかりその眼で見届けろ」
一歩、神官様は床を蹴り湖へと身を投げた。
私は慌てて、神官様が落ちたであろう場所を神殿から見下ろした。さすれば、下には私を見上げている神官様がいた。それも、湖面に足をつけて。
「妖の類ではない、私は歴とした妖だ。下級や小物と一緒にされたのでは、自尊心が切り裂けてしまうだろう」
後に彼女はそう語る。
「水を操る妖が一つの集落を潰したところで、何も変わらん。清々したわ、何十年も閉じ込めよってからに…。当時の奴等が生きてさえいれば生き地獄を味合わせてやったものを。人間風情が」
小言がやけに長いために、割愛。
「まぁ、その点お前はよく役に立ってくれたな。それにしても、本当に面白い奴だ」
私の頬に手を伸ばし顔を近づける彼女の瞳を見ながら、その手を振り払う。その行為を意に介することなく微笑み、私の腕に擦り寄った。長い、長い黒く艶やかな髪が私の首をくすぐる。
「仲間を水に沈めるとは、本当にお前は面白い。どうせならば、このまま私の側に置いておきたいほどだ…人とは愚かだが、その中でも一際お前は物分りのいい愚直な人間だからな」
彼女の長い舌が、艶かしく動いている様を見下ろした後に、私は小さく息を吐いた。
「いいえ、私はとても天邪鬼な人間です。とても魅力的なあなたをこの手で殺めるために、私は集落を沈めたのですから。」
その細く日焼けのしていない陶磁器のような白い首に手をかけ、赤い唇に顔を近づける。
私は知っている。大きな力を使った彼女は弱り、幼児ほどの力しか発揮できないことを。熱っぽい視線で私のことを見つめていたことを。人の心が読めるほど高位の妖ではないことを。何をすれば殺すことができるのかを。
白い顔がやがて赤く染まってゆき、眉間に深い皺が寄る。
嗚呼、台無しではないか。
「綺麗なお顔ですね」
彼女が青白くなる頃には、私はその場から動けずに未だ煤を広げた曇天の空から降り注ぐ雨に、打たれていた。
(20131221)