第一章 囚われの王女と隻眼の青年①
(まだよ。あと少し、あと少しだけ引きつけて……)
木陰に身を隠しながら、セリネは逸る心を落ち着かせるために何度も自分に言い聞かせる。
あせりは厳禁。
この作戦に二度目はない。
だから絶対に失敗することが許されない。
周囲にそっと視線を彷徨わせると、他の仲間たちも皆緊張した面持ちで決行の瞬間を待っているようだった。
もしこの作戦に失敗すれば自分たちは間違いなく全滅するだろう。そればかりか奪還目標である『あの方』が救われるチャンスもおそらくこれで完全に潰えてしまう。
ただでさえ少ない成功率なのだ。つまらない理由でその確率を下げてしまうわけにはいかなかった。
鋭い視線で見つめる視線の先には長く長く伸びる軍隊の列。
森の木々に挟まれた街道を整然と一糸乱れず行進していく様を、セリネたち派遣者で組織された奪還チームは息を潜めてじっとやり過ごしている。
奪還チームと言えば聞こえは良いが、総勢はたったの二十余名しかいない小集団。
とはいえ、その中のほとんどの者が一流ともいえるBランクに位置し、それに加えてセリネや相棒のノワールをはじめとするAランク派遣者が四人も加わっている。
派遣者のランクはA~Gまであり、派遣者全体の平均はDランク。
Aの上にはランクSが存在しているが、それはごく数人しかいない特別な例外措置だと考えると、ランクAとBだけで構成された二十余名というのは実は集団としては破格である。
だが、所詮は多勢に無勢。今自分たちの目の前を通過している万を超える軍隊相手に無策で事を構えれば、瞬く間に人の渦に飲み込まれ、あっけなくその命を散らした上、目的を果たすことすら出来ずみじめに犬死した躯をさらすだけになるだろう。
腕利き揃いとはいえ、やはり数の暴力の前には為すすべもないのである。
むろん自分たちを相手するのだから相手側にも相当な損害が出るだろうことは間違いない。
しかし、今回の作戦の目的が「敵軍の数を減らすこと」でなく「目的の人物の奪還」である以上、敵にどんな大きい損害を与えようが『あの方』を奪還して王都へ連れ戻さない限りは自分たちの負けなのである。
Aランク派遣者である自分やノワールならば、仮に四方を敵軍に囲まれたとしても逃げることだけに専念すればその目的を達することも可能かもしれない。
だが、今回の作戦遂行にあたりその選択肢は最初から除外されている。
仮に生き延びて再度目標の奪還に挑んだところで、今このポイント以上の成功率を見込める場所が他に存在しないからだ。
つまり、失敗したらそこで終わり。
「100」か「0」か
――これは、そういう戦いなのだ。
目標を奪取するのにここ以上のポイントがないというその理由――。
それは、軍隊がやってきたアンリエスト地方から彼らの最終目的地であるトンガール王国国境線へと続く長い街道の中で、山間いを抜けるこの地点だけが両側を大きな森の木々で挟まれて軍の隊列が細く長く間延びするからだ。
いくら敵の総数が多かろうとも、一度に戦える人数が制限されるならば個々の実力に勝るセリネたち派遣者にも十分な勝算が見込める。
一番の問題は、これがすれ違いざまに敵将を討つというような単純なヒットアンドアウェイではなく、攫われた目標を奪還した上で保護し、その上で万を超える敵軍の追撃を振り切って逃げきらなければいけないということなのだ。
一方でセリネたちの奪還目標であるクレッサール王国第四王女カタリナ姫。
彼女は強力な古代語魔術の使い手として知られているから、実力そのものは足手まといになるものではない。
ただし、それは彼女が自由に魔法を使えるという前提でだ。
彼女を攫ったこの一連の主犯であるトンガール王も、そんな彼女を野放しにしておくほど愚かではあるまい。
事実、他国にまで名を響かせるカタリナ姫が今なお虜囚の身に甘んじている以上、彼女は現在魔法発動を阻害する魔道具で魔法を封じられてしまっていると考えたほうが現実的であった。
ここで問題になってくるのは、彼女の封じられた魔法をその場で即座に開放できるか否かである。
魔法使いの力を封じる方法として最も広く知られている手段は装備者の魔力集中を阻害する「魔封じの首輪」を用いることであるが、それを取り外すのには決められたキーワードが必要で、それを正規の手段を以ってせず強引に外すとなると、しかるべき場所で十分な設備と時間をかけて行う必要がある。
当然ながら万を超える敵に囲まれている中でのんびりとそのような儀式を行っている余裕などありはしない。
つまり、順当に考えれば、カタリナ姫は戦力としてカウントできない可能性が極めて高いということだ。
完全な非戦闘員を連れて逃亡するとなると、そうでない場合と比べてこの作戦自体の難易度が一気に跳ね上がってしまう。
おそらくそのケースでの成功率は一割を大きく割り込んでしまうに違いない。
要するに、今からセリネたちが行おうとしている作戦は奇跡でも起こらない限り成功する見込みはないということだ。
そんな状況の中、たった二十余名で敵陣に突入するセリネたち派遣者は事実上の死兵も同然である。
今ここに集まっている派遣者たちはなぜそんな分の悪い賭けに命を賭けるのか。
ある者は王の約束した莫大な報酬のため。
またある者は純粋な王家への忠誠のため。
個々人によって様々な理由はあるが、皆が共通して抱えるのは囚われているカタリナ王女に対する深い尊敬の念だろうか。
もちろんそれはセリネも同じである。
だが、少なくともセリネには、セリネだけには、ほんの欠片ほどの可能性に賭けてでもカタリナ姫を救出に向かわなければならないという明確な理由が、彼らとは別に存在していた。
鉄格子の檻が乗せられた荷車の中に囚われている細身の少女。
彼女は元々「クレッサールの宝石」と称えられるほど容姿の整った美姫であるのだが、その美貌に更に近寄りがたいまでの透明感と神秘性を加えているのが、そのあだ名の由来となった美しい銀髪と透明感のあるサファイア色の瞳である。
特にその銀髪に関しては、この世界にもはや両手の数以下しか生存していない事実上絶滅したと言ってもいいほどに稀少な「古人種」と呼ばれる魔力の扱いに長けた一族にのみ発現する典型的な特徴であり、この世界のいかなる場所いかなる種族であったとしても、古人種の血を引かない者がそのような特徴を持って生まれてくることは絶対にあり得ないものなのだ。
そして――今こうして森の木々の中に身を隠しているセリネ自身も、カタリナ姫と同じ銀色の髪と青玉色の瞳を持っている……。
それが意味することは、即ち自分とカタリナ姫が同族であるということ。
もっと突っ込んで説明すれば、血筋的にごく近い血縁者。
カタリナ姫の母親とセリネの母親が姉妹の間柄であり、彼女たちの娘である自分たちは互いに従姉妹同士という間柄なのだ。
もっとも、従姉妹同士とはいっても王族であるカタリナとは異なり、自分は単なる庶民であり、その身分の差は天地ほども開いているのであるが……。
これは、庶民出身のカタリナの母が王宮魔法士として出仕していた時にたまたまクレッサール王に見初められたからである。
とはいえ、クレッサール王の元に側妃として娶られたカタリナの母がそれで幸せであったかというと、それは首を捻らざるを得ない。
庶民出身、ましてや種族すら異なるカタリナの母に対し、王宮の反応は冷やかだった。
もちろんクレッサール王自身は庶民出身の妃であろうとも差別することなく他の妃たちと同列に扱ったのだが、貴族、それも他国の王族や大貴族出身の妃やその家臣たちはカタリナの母親に対してひどく冷たく当たったようだ。
クレッサール王が政略的な意味合いなしに選んだ唯一の妃が彼女だけだったという事実もそれに拍車をかけてしまった。
王が本当に愛したのはカタリナの母だけ……。
そんな噂がさかんに王宮の水面下を駆け巡っていたからだ。
それがどれくらい影響したのかは定かでない。
だが、結果としてカタリナの母は激しい心労の末に若くして亡くなってしまった。
そして、後に残されたカタリナ自身の宮廷での居心地も決して良いものではなかったと聞くが……。
(まさか、身内によって売られたとかないでしょうね……?)
そもそもどうして王族である彼女が戦場に出てもいないのに隣国の軍勢に捕らえられているのか?
それにトンガール軍がアンリエストに侵攻してきているのにもかかわらず、どうしてその情報が一切中央へと上がってこなかったのか?
この王女拉致事件には不可解なことが多すぎる。
おかしいといえばこの奪還作戦だってそうだ。
攫われたのはクレッサール王国の第四王女なのだ。
本来ならばその奪還のためにクレッサール王国の正規軍が出張って当然の一件である。
なのに一流揃いとはいえ、クレッサール国王はごく少数の派遣者に自分の娘の運命を託した。
もちろんこれにもきちんとした理由はある。
隣の大国ヘムガール帝国がクレッサールとの国境に突如として大軍を集結させ、その動きに合わせてそちらにクレッサール王国正規軍の大半が配備された。現在も国境で互いににらみ合いが続いているこの状態で、王女を救出するだけの兵力を簡単に割けるような状況ではなかったのだ。
つまり、クレッサール王は愛娘の奪還に正規軍を派遣したくても出来なかったのである。
だが、冷静に考えてみると、過去三十年以上も互いに不可侵であった隣国二つが時を同じくしてクレッサールに軍を差し向けてきたという事実。
果たしてこれを偶然の一言で済ませてしまって良いものだろうか?
『ヘムガールがクレッサールを牽制して、トンガールがカタリナを攫った』
軍の戦略や戦術、あるいは政治などに明るくないセリネでさえ、今回の一件がヘムガールとトンガール両国の連携によって起こされたものではないかとの強い疑念を拭うことができない。
(……いったいカタリナ姫の周りで何が起こっているの?)
事態が急変したのは、そうセリネが心の中で呟いたのとほぼ同時だった。