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8.メルセデス編〔Ⅲ〕

「本命を狙う?」

「はい」


 ホテルの一室での会話は続いていたが、リタはあきれ顔でワインを飲むばかりで、最早会話に参加しようともしない。

 執事役の男は、見事なまでに執事になりきってリタに給仕をしていた。

 また長いすに寝そべりながらワイングラスを傾け、給仕を受ける側のリタの姿もそれ以上に堂に入ったものがある。

 地方氏族とは云え、その中でも「貴族」と呼べるレベルの高位に居たであろう事をうかがわせた。


 そんなリタを放置してジェジェジェとメルセデスの相談は続く。

 その話の内容は今回失敗した薬ではなく、本命と見られる薬に向かっていた。

 つまり別のサンプルを手に入れよう、という訳である。


「しかしね、一度失敗してるんでしょ?」

「はい、それが?」

 不思議そうな顔をするメルセデスに脳天気な筈のジェジェジェですら心配になった。

「いや、つまり相手も警戒してるんじゃないの?」


 ジェジェジェの疑問は当然である。

 だがメルセデスは“その心配は無い”と自信たっぷりだ。


「何故?」

「不思議な事ですが、どうやら盗まれた事に気付いていないらしいんです」


 それを聞いてリタが口を挟んできた。

「そりゃ、単に毒が消えただけだからね。 

 研究が狙われているなんて夢にも思わないんでしょ?」


「そ、そ、そ、そんな(はず)有馬線(ありません)わ……」

「何処の温泉列車よ!」

 震え声のメルセデスは図星を突かれて焦りきっている。

 リタは大きく溜息を吐いてワインを飲み干すと執事役にグラスを差し出す。


 そのグラスに、ごく自然な動作でワインが継ぎ足されていった。




 翌日、目当ての科学者が助手と共に毎日昼食を取るというホテルのレストランに四人で(おもむ)く。

 ある程度のレベルのホテルならば、男女のカップルで標的の定席(じょうせき)をかこむ様に座れたのだが、生憎と一般以下のレベルのホテルである。

 男ふたりの卸売り業者と女ふたりの行商仲間にそれぞれが変装した。

 メルセデスの定宿のホテルからセーヌ川を越えて一八区の墓地に近いホテルである以上、これは仕方なかったが、ジェジェジェとしては実に不思議である。


「何で、国家プロジェクトレベルの仕事をしている奴が、こんな所で飯を食うんだよ?」

 当然の疑問ではあったが、そのレストランの食事を取って納得する。

「美味い!」


「でしょ?」

 執事役が我が事のように嬉しそうな顔をした。


 イギリス人であるジェジェジェはローストビーフとフル・ブレックファスト以外の食事はあまり受け付けない。


 フィッシュアンドチップスも嫌いではないが、彼がアフリカに渡った頃のロンドン下層階級の食事といえば、流石のイギリス人も根を上げる不味さであった。

 何せ、紅茶に出し殻やサンザシ、その他に有害な着色料などが混ぜられて売られていたほどである。

 ジェジェジェは情報将校という仕事柄、その様な下層階級の街にも入り込んでいたため、殆ど毒と言っても良いほどのものまで食べ慣れている。

 いや、仕事のためにそうせざるを得なかったのだが、こればかりは情報員の誰もが辛く感じる処であった。


 特に酷かったと言われるのはこの時代から五十年は(さかのぼ)った十九世紀中頃で、ロンドンでは一口喰えばその場で即死、という食品もごく普通に売られていたのだ。


 その頃の食品偽装の一例を挙げてみる。

 

 まずはコーヒーだが、チコリ(タンポポ)の根や小麦、ライ麦、豆、エンドウ豆を焙煎して作った偽物が多く売られていた。

 しかし、これは偽物とは言っても一応は食品であるだけ、なんぼか“マシ”である。


 パンは見栄えと食感を良くするため大量のミョウバン(殺菌作用のある漂白剤。 ある程度の量を食べると下痢や嘔吐を引き起こす)が使われるぐらいなら良心的な方で、混ぜ物に石膏(せっこう)石粉(せっぷん)は当たり前。

 酷いものになると墓場から掘り起こしてきた人骨などが混ぜられて、大麦パンを小麦のように白く見せる工夫がなされていた。


 ビールにはストリキーネ(殺鼠剤)や硫酸を入れて水増しが行われ、刺激があるビールを置く店としてパブの人気が上昇すれば、それに併せて翌朝の路上で見つかる死者のグラフも右肩上がりとなる。

 カレー粉で有名なC&Bですら、安い魚を粘土で包んでアンチョビとして売っていた。

 早い話が十九世紀ロンドンにおける下層階級の食卓は『地獄の食卓』と言っても過言ではなかったのだ。


 改善されるまでには痛ましい犠牲が多く続いた。


 改善の決定打となったのは、チョコレートにレンガや粘土を混ぜ、それを誤魔化してなめらかさを出す為にリン酸塩という薬品を使った菓子業者が引き起こした事件である。

 このリン酸塩の処理が不十分だった事から科学反応により『ヒ素』が生まれ、それを食べた子供たち二百人以上が一度に死んだ。

 (ブラッドフォード毒入り菓子中毒事件)


 こうなると流石に金にがめついイギリス議員も賄賂を受け取って企業を守る事に限界を感じたらしく、一八六〇年にようやく『食物及び薬剤粗悪化防止法』が制定される。

 何度も立案されてはその度に潰されてきた法案はこうしてようやく通った。

 一八四〇年のアヘン戦争の決定と並んでイギリス議会がどれほど賄賂に汚染されていたかよく分かる一例である。


 しかし、ほとぼりが冷めれば再び賄賂は横行し、議員と繋がった悪徳食品業者と一般市民との戦いは五十年後の今も続いていたのだ。

 流石に五十年前と比べて死者の数は一割以下に減ったが、まだまだ安全とは言い難いロンドンの食卓であった。


 アフリカに派遣される事に決まった時、ジェジェジェが泣いて喜んだのは、この様なロンドンの食事情の悪さの為だったのである。


「あー、ロンドンには帰りたくねぇ」

「そんなに食事が不味いんですか?」

「そりゃ、あんたは知らんだろうが、」


 とその時、狙いの科学者と助手らしいふたり連れがレストランに入ってくる。

 初老の男と、未だ二十代に入ったばかりかという青年だ。

 助手らしき青年が、

「メニュー(定食)!」

 と一言だけ言って席に着いた。


 店の主人もなれた様子で、食前のワインをテーブルに置くと厨房に引きこもる。


 場が静かになる。

 どうやら見慣れぬ客に、ふたりの学者が警戒している雰囲気が見て取れた。

 リタとメルセデスは、なにやら男の好みの話でも始めたため、自然に注意は逸れたが、ジェジェジェ達もそれなりに卸売り人らしい話で誤魔化さなくてはならない。

 慌てて、ジェジェジェが執事に会話を振る。


「あ~、そういえば納期は?」

「昨日!」


「品はもしや?」

「もやし!」


「それで農家は?」

「NO、かな?」


「金、ないかねぇ?」

「貸そうか?」

「そうか!」


 などと、二人が会話を繋いで誤魔化す。

 そこで研究者の二人も、ジェジェジェ達を商売人だと判断したらしく、警戒心が薄れる空気が流れた。

 これで誤魔化せているのも凄い事であるが、それ以上に凄いのはジェジェジェと執事の会話を耳にしたメルセデスが本気で感心し始めた事だ。


 声を潜めてリタに話しかける。

「流石はプロの御二人、会話に全く(よど)みがありませんね」

「淀みない馬鹿なんじゃないの?」

 あきれかえったリタが鴨のローストにナイフを入れた。





今回は単なる歴史話になっちゃいました。

すいません。

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