10.婚姻編〔Ⅰ〕
「今、帰ったぞ! セバスチャン」
「坊ちゃま、私はマークスです。
昔から言ってますよね。大体、誰なんですか、そのセバスチャンとかいうのは?」
「気にするな、軽いお約束だ!」
結局、残る一人にも逃げられた。
スパイであろう科学者達は、あれ以上の薬を持っていなかったらしく、銃声に驚いて逃走した男をジェジェジェと執事役は馬車から飛び降りて追った。
だが近くの森に逃げ込まれ、見失ってしまったのである。
「すいません。足でも撃って逃走を阻止しようとしたのですが……」
執事役の男が詫びるが、今更である。
「仕方ないよ。一人が消えたって事は、あいつも何らかの方法で忍び込むつもりだったんだろうからな」
ジェジェジェとしてはそう言って彼を慰めるが、今はそれどころではない。
先にメルセデスに屋敷に入って貰い、事情を話して警戒を密にさせた。
特に父親であるジェームスにはいち早い連絡が必要だ。
急ぎ、父親の執務室に飛び込んだジェジェジェであるが、其処にはメルセデスと楽しそうに歓談するジェンスン伯爵の姿があった。
「親父! 機密に関係するものに手を触れていないだろうな!」
「おお、ジェフリー! よく帰った」
父のジェンスン伯は結構な子煩悩である。
ジェジェジェが一人っ子である事も大きい。彼をひっしと抱きしめた。
ジェジェジェも貴族の端くれである以上、体格は其れなりにあるが一八〇センチに届くかどうか、と云う処である。
それに対して父親のジェンスン伯は一九〇センチを越える巨体であるため、抱きしめられるとかなり苦しい。
何とか戒めを解いて事情を詳しく説明すると、ジェンスン伯は少し首を傾げたが、直後、ジェジェジェも跳び上がるほどに思いも寄らぬ事を言ってきた。
「まさかフランスが我々と同じ事を考えていたとはなぁ……」
「なに~! そりゃどういう事だ、親父!」
ジェンスン伯の話は驚くべきものであった。
実は物質透過薬はイギリスでも開発中であり、王立科学研究所がその中心となって研究を進めていたのだという。
処が研究中に薬剤に必要な触媒となる鉱石がフランス国内にしか存在しない事が分かった。
そこで、主任研究員自らフランスに渡ったのだが、その後、連絡が取れなくなっている。
どうやら、フランスの機関に捕まったのではないか、と言う。
「しかし、そうなるとおかしいんだよなぁ」
ジェンスン伯はそう言って考え込む風に顎に手を当てる。
「おかしいって?」
ジェジェジェが尋ねようとした時、ドアが開きメイド長のマリアが入ってきた。
「お坊ちゃま、新しいメイドを紹介します」
そう言って一人のメイドを部屋に引き入れた。
「パーラーメイドのリズです。
フロアでの坊ちゃまのお世話をしますので、顔を覚えておいて下さい」
「ああ、そうかい」
顔も向けずに適当に返事を返す。
今、それどころでは無いのだ。
だが、メイド長はかなりきつめの口調でジェジェジェを窘める。
「坊ちゃま! 私はまだしも、使用人を粗雑に扱うのはおやめ下さい」
こう言われると弱い。
「使用人も人だ。人間として正しくつきあうように!」
これはジェジェジェの母親の遺言でもあるのだ。
彼女は貴族と平民の間に大きな垣根があるイギリス社会では実に珍しい人であった。
「分かったよ。悪かった」
そう言って顔を向ける。
金髪を三つ編みにした新人メイドは随分と目が悪いようで、酷いビン底の眼鏡を掛けている。
この時代、眼鏡は高級品だ。
ジェンスン家に入る際に給付されたのだろう。
「目が悪いのか?」
何気なくそう聞くと、嬉しそうに返事が返ってくる。
「ずら、おら、ずーっと目が見えない、思っとりました。
したら、御主人様がこれ買って下さいますて、それでご奉公に入る事になりますた。
ほんに感謝でごぜえますだぁ」
返事を聞いてジェジェジェは、思わずメイド長のマリアを手招きする。
「ひっどい訛りだな。あれコックニーだろ?
なんで此処にこんな言葉遣いの奴が?」
『コックニー』とはロンドンの下層階級者の訛りである。
ウェールズにはそうそう居ない。
だが、マリアも困った顔をする。
「いえ、旦那様が拾ってきましたので、私もよく知らないんです」
「そうか」
マリアが退出するが、リズというメイドはそのまま部屋に残る。
「親父、この子外に出さなくて良いのか?」
「ああ、気にするな。素直な子だし難しい話は分からん」
「まあ、そう言うなら」
そう言われてリズは大声で返事をする。
「ずら!」
途端にメルセデスの執事が頭に手を当てた。