恋愛遊戯8
眠気を誘われる授業からようやく解放された放課後だった。下校する生徒達で溢れる玄関ホール。未来と一緒に新しく開店したケーキ屋を覗いてみようと話していたときだ。
「鈴ちゃんはもう行っちゃったかと思ってたよ」
「だって、未来も行きたがってたからさ」
「えへ。だから鈴ちゃん大好き!」
にこっと笑顔になった未来に、周りの男子の熱っぽい視線が向いた。靴を履く手が止まってしまった子もいる。それを眺める冷めた女子の視線も。いつもの光景だった。
幾つもの視線にそ知らぬふりで靴箱のダイヤルを回す。盗難防止のためだろうか。一人一人の靴箱はダイヤルで施錠され、個人で設定した番号でしか開かない。傘はビニールに入れて教室まで持ち込み、扉の脇に設置された傘立てに置くようになっていた。もちろん、個人のロッカーにも鍵が掛かる。うっかり鍵を挿したまま帰宅してしまうと教師が保管することになり、翌日朝一で職員室へと鍵を取りに行かなければならない。
「あ、司狼君」
弾んだ声に振り向けば、ちょうどエントランスのドアの向こう。ガラス越しに未来を見つめているイケメンがいた。長めの、青みがかった銀色の髪。鋭い眼光。改造し、着崩した制服。だらしなく肌蹴たシャツの間から、浅黒い肌が覗いている。司狼琉斗は、比較的裕福な家庭の子供が多いこの学校で珍しい、『不良』だった。ヤクザと関わりがあるだとか、族のリーダーだとか噂があるけれど、政府高官の息子で寄付金の高さに教師も見て見ぬふりをしているらしい。怖くて皆近づけないが、人気がある一人だ。
未来が親しげに駆け寄ると、ふっと瞳が和らいだ。警戒を緩めた野生動物に似ている。
「今から鈴ちゃんとケーキ屋さんに行くんだけど、司狼君も行かない?」
「行く」
間髪入れずに了承した声に、周囲からどよめきが起こる。私も慌てて未来の袖を引いた。
「ちょっと未来? どういうこと?」
「こないだね、その、家に帰る途中でね、痴漢に遭ったんだ。あ、変な事はされてないから大丈夫だよ。でね、とっても怖かったけど、たまたま通りかかった司狼君が私を助けてくれたの。その後家まで送ってくれて。いろいろお話ししたけど、優しくて良い人だよ?」
ああ見えて甘いもの好きなんだって。
声を潜めて告げられた内容に驚いて、思わず司狼君をまじまじと見てしまった。
「んだよ。じろじろ見てんじゃねぇよ」
「すみません」
同じ学年のはずなのに、つい敬語で謝罪する。苛立ちも露にチッと舌打ちされ、未来の後ろに隠れて身を竦めた。
「そんなに緊張しなくても良いのに。私、鈴ちゃんにも司狼君と仲良くなって欲しいんだ。二人とも私の大事な友達だもん」
「未来……」
どこか陶然とした表情で司狼君が呟いた。うっすらと目の縁が赤い。未来は満面の笑みで肩を寄せると、司狼君の顔を下から覗き込んだ。
「ね?」
無邪気に笑む未来に、胸奥を冷たい塊が滑り落ちた。昼間、阿狐先輩と未来が話していたときと似ている。妬みや嫉みとは違うけれど、真っ白な紙に黒いインクを滴らせたように、じわりじわりと冷たさが広がる。僅かに息苦しさを感じた。
言葉を失くしたようにこくこくと頷く彼には申し訳ないが、私としては仲良くしたいとは思わない。おそらく彼も本音はそうだろう。未来には優しくてもそれが私にまで波及してくれるか限りなく不安だし、射殺しそうな目で私を睨んでいた人物と仲良くケーキを食べるなんて考えられない。
どうやってこの場から逃げ出そうか思案していると、
「いたいたー。佐々木ちゃーん、お願い! 今日の図書当番交代してくれないかな?」
後ろから懇願の声がした。同じ図書委員会の先輩が必死で手招きしている。眼鏡の奥の瞳がへにゃりと今にも泣き出しそうに歪み、尻尾のように括られた髪が心なしかしょんぽりしていた。顔色も悪い。何かあったのだろうか。
「木島先輩どうしたんですか?」
「田舎のおばあちゃんが危篤だって連絡あって」
「大変じゃないですか! 交代しときますから早く帰ってください。しばらくは先輩の当番は適当に回しておきますから」
「ありがと」
「未来、私今日はパスね。二人で行って明日感想教えてよ」
ぱたぱたと駆け出した先輩を確認して、未来の返事も聞かずに再び靴箱から室内履きを取り出して走り出した。木島先輩には申し訳ないがナイスタイミングだった。お礼に、先輩が落ち着くまでの当番を全部引き受けよう。
少しだけ未来と距離を置きたがっている気持ちに蓋をして、私は足早に図書室へと急いだ。