恋愛遊戯10
もう、ほんと最悪。
私は奥歯を噛み締めて、心の中で大声で叫んだ。
「申し訳ありませんが、ただいまより返却業務を一時中断させていただきます。返却棚へ置いて行かれても構いませんが、返却が反映するまで少しお時間をいただくことになります。ご迷惑をお掛けしますが、ご協力よろしくお願いします」
ゆっくり息を吐いて冷静な口調を心がける。笑顔のつもりだけど口の端が引きつるのは見逃してほしい。
去年の私ならば、きっとあたふたしてパニクっていただろう。我ながら成長したなと自画自賛でもしていないと、大切な本に当り散らしてしまいそうだった。
もくもくと、短くなった貸し出しの列を捌く。
こんにちは。はい、三冊の貸し出しになります。返却期限は今月の二十三日までです。
こんにちは。予約の本が一冊ありますね。少々お待ちください。こちらでよろしいですか?
こんにちは。申し訳ありませんが、貸し出しの期限が過ぎている本がありますね。そちらを返却されてから、改めて貸し出しの手続きをお願いします。貸し出しの延長を希望される場合は、一度その本をお持ちください。別の方の予約が入っていなければ延長させていただきます。今日はその本はお持ちになってますか?
「佐々木ちゃん大丈夫?」
薄いカードと本を差し出しながら声を掛けてくれたのは、去年同じクラスだった美沙ちゃんだった。一重の瞳が心配だと雄弁に語っていた。
「うん、ありがとう。ごめんね、迷惑かけて」
受付カウンターに一人しかいない。それは本来ならありえないことだ。急な用事が出来たときも、必ず誰か別の委員に交代をしてもらう。それは図書委員になって一番最初に習う鉄則だった。
視線を落として、学生証のバーコードの読み取りをする。次いで、本に貼り付けられたパーコードも。ピッと高い音がして、パソコン画面に貸し出し状況が表示された。
昔はすべて手作業で業務を行っていたらしい。名前、クラス、本の題名、貸し出し期限……。鉛筆でノートに記入して、更には本の裏表紙に貼られた貸し出し表に日付を記入。時間と手間がかかる上に、返却の遅延、本の紛失も多かったという。
今は機械化でかなり効率が良くなったが、それでもそれなりの時間はかかってしまう。その原因が図書委員の職務放棄だなんて、待たされる生徒達にとっては冗談じゃない。
始めは、未来だった。
「やっほー。お仕事してる龍崎君と鈴ちゃんを応援に来たよ」
昼休み、木島先輩の代わりに入った当番の日だった。
話には聞いていたけれど、実際に体験してみるとよく判る。龍崎君の座る貸し出しカウンターには、きらきらと瞳を輝かせた女子がひっきりなしに並び、返却カウンターもまた、それなりに混雑していた。
ひらひらと手を振る未来の後ろに、弟の隼人君の姿があった。図書室が一気に色めき立つ。
「未来、会いに来てくれたんだね。後ろのヤツは気に入らないけど、嬉しいよ」
「んだと!」
「もう、二人とも喧嘩しちゃダメだよ! 仲良くしなきゃ、ね?」
こてんと小首を傾げて笑んだ未来を、二人はうっとりと見つめて頷いた。龍崎君がバーコードリーダーを揺らして、微笑む。
「これ終わったら未来の読みたい本探してあげるよ。どんな本が好き?」
「ちょっと、龍崎君?」
まだ並んでいる子はたくさんいるのに、一体彼は何を言い出すのだろうか?
未来がちらと列へと視線を走らせた。逡巡し、遠慮がちに唇を開く。
「龍崎君のおすすめの本ってあるかな? 最近読んでないから、よくわかんなくて。あ、でもお仕事終わってからで良いよ? 大変そうだし」
「未来は優しいな。大丈夫だよ、皆、本気で本を読みたいわけじゃないみたいだから」
「え……だって、本を借りたいんだよね?」
困惑の小さな呟きが静かな空間に広がる。規則正しく並んでいた列が、僅かに揺れた。
「読まない本を借りられてもさ、他の、その本を借りたい人に迷惑だよね? 本も、せっかくなら未来みたいにちゃんと読んでくれる子に借りられた方が嬉しいんじゃないかな」
「そんなこと、ないよ。私だってちゃんと読めるかわかんないもん」
「じゃあ、こないだ入荷したばかりの本で結構面白いのがあるから……」
「未来。こんなヤツに訊かなくても、オレが」
そのまま話を続けそうな雰囲気を断ち切るように、私は三人の会話を遮った。
「龍崎君、仕事してちょうだい」
龍崎君が肩を竦めた。
「良い本をすすめるのも図書委員の仕事だろ?」
「それは、今、やらなきゃいけない仕事じゃないよね? 検索用のパソコンもあるし、紹介用のコーナーもあるよ。それよりも、龍崎君は貸し出しの仕事をしなきゃいけないんじゃないの?」
「佐々木さん。さっきの話、聞いてた? ちゃんと読みたい本を借りるんなら、貸し出しが俺じゃなくても良いだろ」
「そんなことを言ってるんじゃないよ」
眉根を寄せて唇を尖らせる龍崎君と苛立つ私を、未来が戸惑った瞳で見つめた。
「あ、ごめんね、私……。鈴ちゃん、龍崎君を怒らないで。私が話しかけたりしたのがいけないの」
「未来は悪くないよ」
「そうだ、こいつが仕事しないのが悪いんだろ」
「でも、私のせいで龍崎君が」
未来が哀しげに顔を曇らせた。細い肩を震わせ、胸の前できゅっと拳を握っている。いつもは可愛らしいと思うそんな仕草が、今の私には疎ましかった。責任を感じているのなら、早くこの場を離れて本を探しに行ってほしい。龍崎君ではなく、カウンターに並ぶ列に目を向けて欲しい。弟もうるさい。運動部のせいか本人の性質か、図書室には些か相応しくない声量だ。
動く素振りを見せない未来を促そうと、口を開いた。
「ごめん、忙しいの」
瞬間、カッと脳髄が熱くなるような怒りを感じた。立ち尽くす未来を見据えて素っ気なく言い放つ。
未来は驚いたように目を開いて、何か言おうとするように唇を震わせた。深く澄んだ双眸は、じっと見ていると吸い込まれそうだ。私を支配した熾火のような熱が、すぅと鎮まるのを感じた。
「あ……鈴ちゃん、ごめ……私……」
くしゃりと未来の顔が歪む。今にも泣き出しそうな顔だった。涙を堪えるように顔を伏せ、くるりと勢いよく図書室から駆け出して行った。
「未来!」
二種類の声が重なり、響く。一陣の風が私の横を通り過ぎたかと思うと、消えた未来の背を追って龍崎君と弟が飛び出した。
「あ~あ」呆然とする私の鼓膜を、棘を含んだ声が突き刺した。
「龍崎君いなくなっちゃった。せっかく並んでたのになぁ」
「なんか、さっきの龍崎君ヤな感じだったと思わない? シブサワの前だから?」
「シブサワ、相変わらずウザイよね。あれ絶対嘘泣きだよ。あんなんで泣くような神経してないでしょ」
「あー、言えてる。龍崎君と隼人君に慰めてもらいたいだけじゃない?」
悪意の礫がぶつかる。痛い。
違う。未来は「良い子」なんだよ。ちゃんと貴方達に気を遣ったじゃない。私が強く言い過ぎちゃっただけなんだよ。
未来を庇いたいのに、滑らかに舌が動かない。あの一瞬の激情は何だったのだろう。龍崎君に苛立つのは当然だと思うが、あそこまで強く未来を責めるつもりではなかった。弟君を連れてこの場を離れてくれるように、やんわりと頼むつもりだった。それなのにどうして。
機械的に手と口を動かしながら、黙々と貸し出し業務を続ける。ちらちらと投げられる棘を含む視線よりも、ひそひそと囁かれる悪意混じりの会話よりも。
未来を傷つけてしまった痛みの方が、何倍も辛かった。