中
神頼みのご利益か、年明けにチャンスが訪れた。
以前、美紗を連れて行った喫茶店に久しぶりに二人で立ち寄った。
俺が息抜きに使っているお気に入りのあの店だ。
「この駅の周り、落ち着いていて雰囲気が好き。この辺りに住めたらいいな」
「引越し、考えているのか?」
「職場の家賃補助が切り下げられることになってね。今のワンルームはターミナル駅から近いから家賃高くて。払えなくはないけど、同じ家賃を払うなら職場から少し離れても、もう少し広いところないかなって」
紅茶を飲むふりをして考えた。
ここは俺の住んでいる最寄り駅まで一駅。今までよりも近くに美紗が住む。
今までより会える機会が増えるかもしれない。
「このあと、不動産屋覗いてみるか?」
「時間、大丈夫だったら行ってみてもいい?」
駅前の不動産屋を訪ねた。
「本を置く場所が欲しいのよね。かなり読むから場所をとっちゃって」
「部屋数があるのはファミリータイプだけか」
「この半分の広さ位で、その分安いと言うことないのだけど」
ここでは単身者用の物件は、あまりなかった。もう少しターミナルよりのにぎやかな町のほうが数があるらしい。
俺の住んでいるあたりは”学生向け”が多いから、逆に部屋が狭いだろうし。
不動産屋は助け舟のつもりか、ルームシェアを提案してきた。
「俺が、ルームメイトになろうか?」
冗談半分下心半分で、提案してみた。一発で断られると思っていたが、
「ちょっと、考えさせて」
意外な返事が返ってきた
ふた月ほど考えた美紗の答えは”OK”だった。
「あれから他の駅でも探したけど、思ったような部屋がなくって」
「一緒に住むなら、親御さんに挨拶しないとな」
「やっぱり、要るかな」
「けじめだろ?」
本当に一緒に住む覚悟があるのか?試すつもりで、ひとつハードルを置いてみたが、
「そっかぁ。じゃあ、いつが良いか連絡してみる」
あっさりと美紗は頷いて挨拶に行くことになった。
美紗の実家は隣県にあった。
やはりというか、ご両親は渋い顔をした。
仕事も不安定な、三十男との同居。
”同棲”という意味に置き換わっているようにも思えたが無理もない。まったく疚しい気持ちがないわけでもないので、あえて訂正はしなかった。
ただ、いい顔をされない覚悟はしていたので、軽い気持ちではないことを一生懸命に伝えた。
意外なことに美紗が、両親を押し切った。
「仁さん、『けじめだから、挨拶に行かなきゃ』って、自分から来てくれたんだよ。いい加減な人がそんなこと考えないでしょ? お姉ちゃんは私の年には結婚して、子供も居たじゃない。私だって、もう大人なんだから、反対しても一緒に住むからね」
いつものおとなしさが嘘のような勢いで、ご両親もあっけに取られていた。
本人はかなりの勇気を振り絞ったようだった。テーブルの下で、指輪を握るように右手が左手を握り締めていた。
なだめるような、がんばりを讃えるようなそんな気持ちで、握り締めた手を軽く叩く。
肩の力が抜けたのか、美紗がほっと息を吐いて微笑んだ。
「お茶を淹れ直してきますね。美紗、ちょっと手伝って」
そういって、お母さんが美紗をつれて席をはずしている間。
座敷に残された俺は、お父さんから美紗の過去について聞かされた。
『美紗は、中学生のとき学校内の人間関係のトラブルに巻き込まれました。さっき、美紗の話に出ていた上の娘が結婚するのしないので、私たち夫婦はそちらに気をとられていて気づくのが遅れました。そのせいでしょうか。そのころから私たちにも感情を見せない子になっていました。あんな風に自分の主張を押し通したのも、あなたに見せたような笑顔も私は初めて見ました。
あなたなら任せても大丈夫かもしれない。美紗をよろしくお願いします』
美紗が表情を作ってきた時間の長さを思う。
一緒に住むことで、美紗の心の負担を増やしてはいけない。
鎧を外させ、息をつく場所を作る。
改めて”美紗を守る”意識を固めた。
二人で選んだのは、あの町の築二十年のファミリー向けの賃貸だった。
3LDKなので、互いの自室のほかに美紗が本を置くための部屋も取れる。俺自身も資料だったり、雑誌の見本だったりで本が増えていたので都合がよかった。
もともとは分譲だったらしく、ルームシェアにも寛大だった。
引越しには、隣の市に住む美紗のお姉さんの一家が手伝いに来てくれた。
当日、美紗のほうが先についていた。
俺が着いたとき玄関を開けた男性は俺を見るなり
「お前、大魔神か」
と失礼なことを言ってくれた。高校のバレー部で二年先輩だった、桐生さんだった。
「(俺の苗字は)”だいま” じゃなくて、”いまだ” です」
懐かしいツッコミをしたが、桐生さんの後ろで息子らしい小学生があんぐりと口をあけていた。
少年の頭をぐりぐり撫でて部屋に入ると、美紗とよく似た女性がてきぱきと片付けていた。この人がお姉さんの沙織さんらしい。
「桐生さんが、美紗のお姉さんと結婚しているとは知りませんでした」
「俺だって、美紗ちゃんの相手がお前とは思わなかったぞ。それにお前、”JIN”だろ?」
「ええ、まあ」
「亮とお前が今もつるんで、仕事までしているとはな。相変わらず大魔神コンビだな」
「だから、大魔神と違いますって」
桐生さんと無駄口をたたきながら手を動かして、何とか夕方には片付いた。
”探検”と称して、美紗が少年をお供に夕食の買出しに出かけた。
その間に沙織さんから改めて、『美紗を泣かすな』と釘をさされた。
美紗が家族に大事にされていることと、心配をかけていることを改めて肝に銘じた。
同居生活は、穏やかに始まった。
『行ってらっしゃい』『おかえり』そんな言葉を久しぶりに言ったし聞いた。
一人じゃない食事は、それだけでおいしかった。
小さなケンカはあったけど、三十年別々に暮らした二人の意見が違うだけのこと。すり合わせて、落としどころを探す過程も新婚のようでどこかくすぐったく、楽しくもあった。
家では、二人で居るのが当たり前になった。
自分の部屋は寝る為と仕事のためだけの部屋になった。
美紗もテレビを見ている俺の横で何をするでもなくゴロゴロしていたりする。
「退屈?」
「ううん。一人じゃないんだなぁって」
心配しているであろう沙織さんは、時々息子の貴文くんを連れて遊びに来た。
『ジンくん』と身内らしく呼ばれはするが、美紗にふさわしいか量られているようだった。
それでも何度か会ううちに合格をもらえたらしい。あたりがやわらかくなった感じがした。
貴文くんは、俺をどう呼べば良いのか悩んでいるようだった。
『おじさん(?)』だったり、『ひとしさん(?)』だったり、『あのー』だったり。
どことなく疑問形な呼び方で俺を呼んでいた。
次の春が来て中学に入ったころ、何か思うところがあったのか『ジンさん』と呼ぶようになった。”JIN”ではなく”(大魔)神”に聞こえたのは気のせいかもしれないが。
中学校でバレー部に入ると俺とも話をするようになった。
さらに、英語の歌も俺が作詞をしているのを知ってからは、『英語教えて』とか『この前のバレーの試合が……』とか。会う度になんだかんだと相手をさせられ、懐かれたようだった。
美紗の本棚も魅力らしく、一人でも遊びに来るようになった。
英語といえば、ひょんなことで美紗の思わぬ習慣を知った。
辞書と一緒にテーブルに置きっ放しになっていたノート。悪いと思いつつ中を見ると、今までの俺の英語の歌詞が訳してあった。
学校の予習のような逐語訳で、調べたらしい単語のメモまで書いてある。
通訳の仕事をしていた祖父に英語の手ほどきを受け、外大の英語学科だった俺から見ると、解らないのが信じられないレベルの単語にもメモがあったが、一生懸命に辞書を引いている美紗が見えるようだった。
仕事で言葉を使う俺はともかく、美紗も自分の辞書を持ってきていた。英語も、国語も。
テレビを見ていてふっと本棚の部屋に行っては、なんだかすっきりした顔で戻ってくるのは辞書をひいているのか。
本の好きな美紗らしく、知らない言葉をそうやって、つぶしていくのだろう。その努力は俺にも見せずに。
── 英語はその努力がなかなか実をつけないようだが。
同じ言葉があっちこっちの歌でメモされているのを見て、かわいいと思った。
そうして見ていくと、俺と知り合った後ぐらいから出した曲は、逐語訳のほかに俺の口調で訳しなおしてあった。
インプットした声を文字とミックスして脳内再生できる美紗。
どんな顔で、これを読み返すのだろう。
過ごす時間が長くなって、さらに見えてきた美紗があった。
俺がオフだったその日、美紗は無表情で帰ってきた。
黙って、食事と入浴を済ませると珍しく部屋に篭った。
俺が風呂から上がっても、天の岩戸は閉まったままだった。
とりあえず、口実にお茶を淹れて部屋をノックする。
少し間を置いてドアが開いた。
「お茶淹れたけど、飲むか?」
少しましな顔になっていた美紗は頷くと、リビングに出てきた。
「話して楽になるなら、聞くけど?」
「守秘義務があるから」
「俺にできることはあるか?」
しばらく考えた美紗は遠慮がちに一曲リクエストをしてきた。比較的初期のアルバムに入っている曲で、さっきドアの隙間から見えたテーブルにCDが乗っていたのを思い出す。
「何で、その曲? 失恋の歌だろ?」
「男目線だったらね。夢と男を天秤にかけて、夢をとった彼女を見送る曲でしょ。見守られている感じがしてね。がんばれる気がするの」
そんな聞き方もあるのか。
美紗の横に座って歌う。サビにかかるあたりで左肩に頭がコテンと乗ってきた。実家の猫を撫でるような気分で頭を撫でてみる。”野良猫”は出てくることもなく、されるがままだった。
一曲終わったところで、すっきりしたらしくいつもの顔に戻っていた。冷めたお茶を飲み干す。
「もう、大丈夫なのか?」
「うん。腹を立てても、それは何とか飲み込んで自分の糧にしないと。感情労働だしね」
飲み込んで、立て直したのか。無理に作っていないか。
注意して見ていたが、それから寝るまでの時間は普通だった。
いつもと違ったのは、寝る前の行動だった。
本を置いてある部屋から、一冊の本をとってきた。薄い黄緑色の本。
それを抱えて、「おやすみ」と部屋へ入っていった。
翌日美紗が出勤してから、昨日の本を探してみた。
ぱらぱらと読んでみる。
昨日うたった歌とどことなくカラーの似た本だった。
これは、美紗の”儀式”か。
顔を作りきれないくらい嫌なことのあった日はああやって一人で立て直して、また次の日から穏やかな自分を作ってきたのだろうか。
ひとつ、美紗の安らぎを守れる術を見つけた。
── CDの声に頼らないで。
”儀式”が必要な時は歌ってやる。美紗のためだけに。
三都市をまわるコンサートが決まり、打ち合わせが続いく。
ある日の休憩時間に、RYOが思わぬことを言い出した。
「なぁ、美紗ちゃんの連絡先、訊いていいか?」
「何のために」
「凄むんじゃねぇよ。緊急連絡先だろうがよ」
あっさりといなされた。
「お互いに何かあった時、連絡できる第三者が居たほうがいいぞ」
MASAも口を挟んでくる。
「お前が事故にあっても”同棲相手”の美紗ちゃんに連絡は行かないからな」
それは、考えていなかった。そうか、公式のパートナーとは違うんだ。
「お前は、美紗ちゃんの周りの人で連絡もらえる相手は居そうか?」
「桐生さんが美紗の身内になっていて、連絡先も交換している」
RYOも同じバレー部だったから……桐生さんのことは、知っているし。
「あの、桐生さんか。それと同じで、こっちから連絡できるルートも作っとけ」
そのときは『美紗の意向を聞いてから』ということにした。
帰宅後、美紗に話すと
「なるほど、それもそうね」
と俺の携帯から、RYOに連絡を取っていた。
このホットラインが使われる日が来るとは夢にも思わずに。
コンサートを終えて我が家に帰ってきたのは、三連休最終日の昼過ぎだった。
美紗は図書館で借りてきたらしい分厚い本を読んでいた。
「なんか、軽く食えるものあるか?」
「お昼まだなの!?」
「いや、乗り換えの具合でへんな時間に食ったから小腹が空いた。」
「じゃあ、すぐ作る。私も食べるし」
返ってきた答えにぎょっとした。
── まさか、美紗こそ昼抜き? そろそろ午後三時だぞ。
水を飲むついでに、洗いかごを確認する。昼食をとった形跡はなかった。
── すっぴんだから、外食もしてないな。本を読んでいて、食べるのを忘れたか
それから気をつけてみていると、時々昼食をとっていないらしい日があった。
何かに熱中すると、食事のことが抜け落ちやすいようだった。
『ちゃんと食べろ』というのは簡単だ。言えば美紗は俺の目を気にして食べるだろう。
義務は見えない負担になる。
一人暮らしを五年してきた美紗だ。プロ意識も強すぎるほどある。体や仕事に障らない程度は弁えているはずだ。
気づかなかったことにした。
ただそれ以来、インスタントやレトルトの食品を切らさないように気をつけるようにした。
美紗が食事のことを思い出したときに、面倒くさがらずに食べるように。
一年が過ぎるころ、俺のそばでうたた寝をするようになった。
俺との生活にすっかり慣れたようだ。
何度目かのとき、ソファーで眠る美紗の横で悪戯に子守唄をうたってみた。
美紗の目が開く。
ぼんやりとした視線。目が合う。
ふわっと笑って、腕の中にもたれてきた。
そのまま、また眠ってしまった。
美紗の言う”つかまれる”感覚がわかった気がした。
胸の奥底。一番やわらかいところを目に見えない手で。ぎゅっと。
言葉を仕事の道具にしているのに、この気持ちを表す言葉が見つからない。
美紗が好きだ。いとおしい。大事にしたい。何に変えても。
美紗を悲しませる、苦しませる全てから、守りたい。
そして、誰にも渡したくない。俺だけの美紗。
まずは、この眠りを守ろう。いつも心静かに美紗が眠れるように。
”癒しの低音ボイス”と言われているこの声で、美紗の小さな疲れや傷も癒そう。
美紗自身の心の負担を本人に気づかれないように引き受ける。
今までに何度か美紗の”儀式”のために歌った。それでも、あの本は俺の前では読まなかった。
いつも、部屋に持ち込んで次の日には本棚に戻して。
たぶん自分を作っている努力を見せたくないのだろう。
それならば、美紗自身も気づけないくらい深い心の奥底を甘えさせてやりたい。
きっと美紗がまわりに見せている自分を維持する支えにもなるから。
美紗が好きだと言ってくれた、この”声”にはその力があると信じている。
無意識でいい、いくらでも俺に甘えておいで。
そして、隠さない美紗は俺だけに見せて。
その日から、事あるごとにうたった。
美紗の”儀式”にも、子守唄でも、リクエストに応えることも。
美紗は抱擁を許してくれるようになり、俺の膝枕で眠ることもあった。
美紗のテリトリーに入り込めた。
スキンシップのせいで狂おしい想いに駆られることもあったが。
安心しきっている美紗の表情に、劣情は心の底に押し込むことを選んだ。
眠れない独り寝の夜が来るのを承知で。
美紗は俺のものだ。
誰にも、入り込ませない。
そうして、ぬるま湯のような空間で二人の時を過ごした。