上
思うところがあって、書き直しました。”まなざし”につながるので、大筋は変わっていません。
短編 ”まなざし” を読んでからどうぞ。
ある日、洗っていたグラスを、何の加減か握り割ってしまって掌を切った。
病院で縫ってもらい、そのあと行った薬局で薬剤師をしていた彼女と出会った。
それが始まり。
「今田 仁様」
薬局の待ち合いで、名前を呼ばれた。
人一倍、背の高い俺が立ち上がると周りの視線がまといつく。
けれど。
── 誰も……気づかない。
俺は、”JIN”と名乗って、仲間と五人でバンドを組んでいた。大学卒業と同時のデビューから八年目の今では、かろうじて音楽で生活が成り立つ程度のヴォーカルだ。
学生時代から暮らしているこの町で普通に暮らしているだけのことなのに、まるでエアポケットに落ちたかのように、その日は心がささくれた。
自分の歌声は、世界の誰にも届いていない。そんな気がして、心が重くなった。
ため息を押し殺して、投薬カウンターへと足を運ぶ。
俺を呼んだのは、若い女性の薬剤師。卒業してまだ間がないような、初々しい人だった。
「今田 仁様でいらっしゃいますか?」
彼女は、俺を見上げるようにして名前を確認してきた。この身長に驚いた表情を見せないのはさすが。
だが、この娘。どこかで会ったことがあるような……気がする。
まぁ、いいか。
「はい、今田です」
確認された名前に返事をしたとき、彼女の表情がかすかに動いた。
── なぜ、このタイミングで驚く。
興味を引かれた俺は、薬の説明を聞きながら、彼女の顔と名札に書かれた名前を脳裏にメモした。
彼女との再会は二週間後だった。
地元でのライブで、一年位前から客の中に気になっている女の子がいた。他の客とは雰囲気が違う子でいつも壁際に居る。俺は毎回客席を眺めるたびに出欠確認していた。
その日は”出席”。
それが、彼女だった。
── あぁ、ここで会っていたのか。
先日覚えた名前を記憶から引っ張り出した。
”本間 美紗”さん。
スタッフに繋ぎを頼んで、ステージ後にバックの通路に来てもらった。彼女は呼び出されたことに警戒しているのか、硬い表情をしていた。
それなのに。
「本間さん、だよね?」
つい、名前を呼んでみてしまった。
顔がこわばり、雰囲気がガラリと変わった。
まるで急に手を出された野良猫が全身の毛を逆立てて威嚇しているように見えた。
「驚かせてごめん。二週間ほど前に、君の勤め先でお世話になったのだけど、覚えている?」
目を伏せて、瞬き三つ分ほど考えた彼女は、
「手をグラスで切って」
「ふた針縫って」
「痛み止めを飲むタイミングを訊いた方?」
あの日のやり取りを再現することで名前を出すことなく俺と記憶の患者とを一致させたらしい。
ストンと落ち着いたかと思うと、
「あのあと、具合はいかがですか?」
と訊いてきた。表情もあの日仕事場で見せたものにすっと直して。記憶力と切り替えの早さに、彼女のプロ意識を見た気がした。
「ありがとう。もう抜糸も済んだし。大丈夫みたい」
「よかった」
彼女に、ふわっと笑顔の色が付いた。
「前から、ライブに来ていたよね。あの日俺のこと気づいてくれていた?」
「ごめんなさい、顔を見てもすぐにわからなくて。私、人の顔が覚えられないので。声を聞いて初めて、もしかして? と思ったんです」
あの日、病院でも薬局でも誰も俺に気づいてくれていないと思っていた。
声で俺に気づいてくれた彼女がいた。
俺は歌を仕事にしているが、実は声にコンプレックスを抱いていた。
中学生の頃クラスでいち早く声変わりを迎えた俺は、『おっさんみたい』という同級生たちの言葉にひそかに傷ついていた。
そんな自分の声が嫌でぼそぼそ話すから、ただでさえ低い声がさらに聞き取りにくいと言われた。
── おっさんみたいな、聞き取りにくい声
そう思って、話すのが怖かった時期もあった。
そんな俺が変わったのは、高校からの親友 亮が声を褒めてくれたことだった。
亮は『お前の声、渋くって良いな』『絶対、いい声だから歌わないと勿体ない』と歌うことを勧めてくれた。
高校から大学にかけて、亮《RYO》を中心に正志《MASA》・朔矢《SAKU》・和幸《YUKI》と仲間が集まり、今の俺、JINが居る。
そのまま、少し話をした。
全身を音に包まれる感触が好きでライブに来ていること。
俺より六歳年下の二十四歳で、俺の身長に驚いた時は仕事の顔をキープできたのに、声を聞いて動揺したと言う。
「高校生のときに、JINさんの歌を初めてラジオで聞いて。すごく好きな声だったんです。それからずっと聞くようになって」
── ”すごく好きな声”って言われた。俺の声が好きな人が本当にいた。
コンプレックスだった声をほめられた俺は、単純にうれしかった。
それから、時々ライブのあとに機会を見つけては、短い会話を交わすようになった。
お互いの仕事場以外で偶然出会ったのは、雨の日の駅だった。
大きな声が聞こえて、振り向くと中年の男性が若い女の子に怒鳴っていた。
彼女だった。
傘が当たったとかで彼女が謝っていたが、相手は聞く耳を持たず延々と怒鳴り散らしていた。
── 雰囲気がまずそうだ。仲裁に入るか
あと二歩のところまで近づいた時、男性が持っていた傘を振り上げた。
とっさに彼女を背中にかばう。
間に割り込んだ俺を見上げて、相手は固まった。
学生時代、”大魔神”とあだ名をつけられたほどの上背に感謝した。
もごもご言いながら立ち去る相手を見送って、彼女に視線を向けた。
軽く、うつむいた顔は人形のように無表情だった。
「大丈夫か?」
「俺の”声”がわかるか?」
俺のかけた声に、コク、コク、とうなずいた彼女は、目を閉じて深呼吸をした。
ひとつ、ふたつ。
目を開けたときには、いつもの表情で
「助けていただいてありがとうございます。これくらい大丈夫ですよ、今田さん」
にっこり笑った。
── あ、俺の声と名前、ちゃんと一致しているんだ。
その嬉しさと同時に
── でも、さっきの今で大丈夫か、本当に?
と、このまま帰すのもなんだか心配で、
「お茶でもどう? 雨宿りついでに」
よくわからない理由をつけて誘うと、応じてくれた。
駅を二つ移動して、ひっそりとした店に入る。
時々、息抜きに利用している俺のお気に入りの店だった。
改めて彼女を眺めて、気づいた。
いつもどおりなのは表情だけで、スプーンを持つ手が小さく震えていた。
── あの無表情から、いつもの顔への切り替えはなんだ?
── 手が震えるほど、感情は波立っていたのに。
『そんなことないですよ』と軽くいなされそうで、俺はざわめく気持ちを押さえ込んだ。
他愛のない話をしながら彼女が落ち着くのを待って店を出た。
それから、一年近くかけて少しずつ会う時間を増やしていった。
ライブの後にお茶をしたり、食事に行ったり。
『美紗』『仁さん』
お互いに名前を呼び合うようにはなったが、俺にとっては”恋人”というよりも”妹”に近いような感覚だった。
二人兄弟の末っ子である俺には、妹なんていないけど。多分……こんな感じだろう。
そんな中学生のような逢瀬でも、度重なると仲間たちに見られることもある。
美紗は”JINのお気に入り”として仲間たちとも話すようになっていった。
そうして、付き合いが広がって判った。
どうやら美紗は立ち入られたくないプライベートの境界線が、他人よりも外側にあるらしい。
だから、こっちは世間話のつもりで境界線を踏み越えてしまう。
すると周りに気づかれない程度に雰囲気がこわばる。
表情も声もかえずに、まとう空気だけが変わる。
その様子が、人慣れない野良猫のようだった。
そしてほぼ初対面で”威嚇する野良猫”の雰囲気にまで美紗をこわばらせた俺は、ある意味レア。
派手に踏み込みすぎたということだ。
アレで嫌われなかったのは、ラッキーなのか、JINの”声”の力なのか。
それに気づいてからは、どこまでだったら許されるのか。その間合いを計るのも楽しかった。
仲間のうちで、雰囲気のこわばった”野良猫”の美紗に気付いているのは俺だけだった。
そして、いつかのあの無表情を見たことのあるヤツも。
俺はひそかな優越感を感じていた。
CMに曲が使われて、少し活動の場が広がりだした頃。
いつもライブで使っている店に若いスタッフが入った。
仕事をしているのか、ナンパをしているのか。あまりほめられた勤務態度ではない男だった。
その日、チーフスタッフの岡田さんと話しながらいつも美紗が待っている通路に向かっていた。
角を曲がると、件のスタッフが美紗に話しかけていた。
── JINのお気に入り なのに
と
── 仁の恋人 ではない
二つの感情に揺れて、どう反応するべきか迷った。
美紗の横顔が見えた。
いつかの様に表情が消えつつあった。
とっさに声を上げかけた俺を岡田さんが身振りでさえぎった。
ヤツのさぼりを咎めて通路向こうに連れて行く。
── 危ない。あのままだったら、ケンカになっていたかもしれない。
トラブルを回避してくれた岡田さんの背中に感謝して、二人が見えなくなるのを待った。
「美紗」
声に反応して、顔が上がる。
安心したような顔に年甲斐もなくドキッとした。
「遅くなって、ごめん。あいつに何かされたか?」
美紗は首を横に振って、どこか固い顔で微笑んでみせた。
「大丈夫じゃない顔だけど?」
今なら許される気がして、無表情の訳に一歩踏み込んでみた。
「『カレシ、いないんだろ?』ってしつこくって。腹が立っているだけだから大丈夫」
無表情は腹が立ったときの顔か。
体の前で握り締めた手は、力が入りすぎたのか震えていた。そっと持ち上げた手をゆっくり開かせる。 血を巡らせるように優しく撫でた。
JIN のもの なのに
心の奥でさっきの思いが大きくなった。
「虫除け、いるか?」
「虫除け?」
意識を薬指に誘導するように、撫で方を変えていく。
「指輪、買ったらつけるか?」
初対面で俺の声に動揺したときとは違う、純粋な驚いた顔。幼子のようなあどけない顔だった。そこに、はにかむ様な笑顔が広がり頷いた。
こんな、内側から感情がこぼれ出たような美紗は見たことがない。
初めて、美紗の素の表情を見た気がした。
── ”愛おしい”というのは、これか。今の、この気持ちなのか。
美紗には、少し存在感のある指輪を買った。
太めで彫刻が施してある、美紗なら買わないような指輪。
物静かな雰囲気の美紗が”拒否”をする助けになるように。
それから俺の存在を主張するために。
「”JIN”のイメージね」
くすぐったそうに笑った美紗は、それからずっとつけてくれていた。
── もう少し距離をつめたい。
欲が出た俺は、お互いのオフが重なれば、約束を取り付けるようになった。
美紗とあっちこっちに出かけた。
美紗のこだわりは、いつも何かが違う。
映画にいくなら、外国映画。それも吹き替えでなく字幕。
「日本映画や吹き替えは、音響が悪いとせりふが聞き取れなくって、背中がぞわぞわするの」
「字幕だったらOKなんだ?」
「言葉として聞いていないからね。声を音としてインプットして、頭の中で字幕のせりふを再生しているから」
「器用なヤツ」
「ふふ。すごい?」
美術館に行ったら、メインではない展示をボーっと眺めていたりする。
「メインのは見ないのか?」
「あー、アレはだめ。視線が酔うの」
「何それ」
「なんだか、じっと見ていられなくって。視線が定まらないから、車酔いみたいになっちゃう」
「で、代わりにこれ?」
「うーん? 何かつかまれた気がして」
「つかまれるんだ」
「そう。”JIN”の声と同じ」
水族館では水槽から数歩離れて見ている。
「近くで見ないのか?」
「水の揺らぎで視界が気持ち悪いから」
「これも、酔う?」
「ちょっと違うけど、まあそんな感じ」
「水族館は嫌だった?」
「魚が泳いでいるのを見るのは大好き。自分が泳ぐのも。ただ、ガラスと水で光の屈折が気持ち悪くなるみたいで、近づけないの」
完全には理解できない、他人とは異質な感覚。
美紗はそれを隠すために他人を立ち入らせないのか?
もしかしてそのために表情もコントロールしている?
美紗は腹を立てても無表情になるくらいで、ほとんど表情が変わらない。それすらも、深呼吸だけで立て直した。
最初にやらかした、プライベートへの深入りも、雰囲気だけで威嚇してきた。あの時も仕事の顔に一瞬で戻した。
本当の美紗を知っている人は居るのだろうか。
それに気づく程度には、俺は立ち入らせてもらえているのだろうか。
そういえば、最近は二人で居るときに野良猫の雰囲気は出なくなってきた。
それにつれて、美紗の表情に小さなバリエーションが増えた気がする。
── もっと、俺だけにいろいろな美紗を見せて。
── もっと、俺を美紗のテリトリーに受け入れて。
美紗への想いが仕事にも影響してきた。
声に”艶”が出てきたという。
口の悪いSAKUに言わせると『周回遅れの春』だとか。
確かに三十歳を過ぎて、周りではYUKIが結婚したし、MASAなんか一児の父になった。いまさら恋か、とは自分でも思う。
だが、RYOはこれを転機にした。
今までのバラードを集めて、セルフカバーを出す
俺の声が変化したところに、曲の大部分を作っているMASAが『今の心境で編曲をしてみたい』と言い出した。
若いときにはなかった、色が出せるかもしれない。
MASAの新しくなった曲は、優しさと柔らかさが混ぜ込んであった。
そこに、俺は美紗への”愛おしさ”を乗せてうたう。
RYOの勝負は、当たった。
カバーとは思えない売り上げとなり、俺たちはデビュー十年にして立ち位置が確保できた。
百八十cm超の男五人で”癒し系”もどうかと思うが、世間の需要とマッチしたらしい。
仕事が、増えてきた。
美紗との休みがさらに合い難くなり、地元でのライブの機会も減った。
必然的に美紗と会えることが少なくなり、電話で声を聞くだけの日が続いた。
美紗に会えないせいか疲労のせいか、駅の階段で足を挫いた。
高校生のときに膝の大怪我をしたので、大事をとって駅前の病院にいく。
美紗と出会った時に行った病院だった。
幸い、怪我はたいしたことがなく、美紗の薬局で薬をもらう。
二年ぶりに、美紗の仕事姿を目にした。
さすがに仕事中は、虫除けの指輪はつけていないらしい。
意味もなくがっかりした自分を嘲笑いながら仕事ぶりを眺める。
初々しさの代わりにそこはかとない貫禄がついたようにも見える。が、表情に薄い膜をまとっているように感じた。
ここでも表情を作っているのか。
営業用の顔というわけでもないらしい。
俺より長い時間いっしょにいるだろうスタッフ同士で話しているときも変わることはなかった。
俺の順番がきた。名前を呼ばれて立ち上がると、投薬中の美紗がチラッと視線をよこした。
フッと膜が脱げるように俺が知っている表情が現れ、それから元のように投薬に戻った。
相変わらずのプロ意識というべきか。作っているらしい表情を心配するべきか。
仕事中の美紗に気の休まる瞬間はあるのだろうか。
── 飛び続ける鳥にも止まり木が必要なように
── オフの時の安らげる場所になってやりたい。
美紗からメールが届いたのがその日の夜だった。
【今日は、どうしました? 大丈夫?】
心配してくれたらしい、それだけの言葉がなんだかとても暖かかった。
── これは、脈ありと思っていいのか?
そろそろ、恋人という立場を手に入れたい。
次のオフに仕事帰りの美紗とあう約束をした俺は、勝負に出る決心をした。
勝負の結果は、不戦敗。
その日、少しの下心もあって、待ち合わせた駅からレストランに向かいながら美紗の肩を抱いた。
その瞬間に、こわばったのが手を通して伝わってきた。
久しぶりに見る”野良猫”の美紗だった。
今までも人ごみではぐれないように手を繋いだり、転びかけた美紗をかばって腰を抱いたりスキンシップは皆無ではなかった。その時は照れたような表情で、雰囲気も変わらなかったのに。
── 早まったか。野良猫を呼んでしまった
慌てて手を離すとすぐに、”野良猫”も消えた。
恋人になるレベルでは受け入れられていないことを突きつけられた気がした。
気持ちを伝える勇気がくじけてしまった。
改めて、自分が許される境界線を探る。
美紗は俺の下心をキャッチするセンサーでもあるのか。
突発的に触れることに対しては反応しない。
意識的に触れると反射のようにこわばる。
それも無意識らしく、手を離した瞬間にいつもの美紗になっている。
なんだか、まだまだゴールは遠い感じがする。
── いっそ、神頼みでもするかな
ガラにもない心境にまでなってしまった。
註 薬学部4年制時代の設定で書いています。