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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

空の向こうの双子月。

作者: 海猫鴎

 寝台を軽く軋ませ、二人で並んで座る。

 真っ白なシーツに、そっと置いた右手。

 ぼくの隣の彼女は、すごく満足そうな顔をしていて。

 ぼくはきっと、今にも死んでしまいそうな顔をしている。

 やがて、彼女は本当に幸せそうな笑顔でこっちを向いた。

「私、貴方に逢えて、良かったです。

 今でも、私は心の底からそう思うのですよ」

 彼女は寝台から立ち上がり、そっと両手を広げた。

 月光に照らされて、穏やかに微笑む。

 どんなものも受け入れるかのように。

 どんな運命でも受け止めるかのように。

 そんな彼女の姿は、女神のようにすら見えた。

 泣きたいと思った。

 だけれど、ぼくは泣けなかったんだ。




 うぅ~、困りました。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。ううん、ダメです、過去を振り返っても仕方がありません。

 そう、昔の人は言いました。

 若いうちは前だけ見て、決して振り返らず猪突猛進全力ダッシュで突っ走れぇっっ!! って。

 今は亡き私のお祖父ちゃんの言葉ですが、昔の人には違いないのでよしとします。

 いったいなにがこんなに困っているのかと言いますと、迷子になってしまったのです。そんな遠くまで来てないはずなんですけどもね。


空に浮かんだ双子月が綺麗だったので、ちょっとお散歩に出たらもう迷子でした。仕方がないので夜空にぽっかりと浮かんでいる双子月を見ながら歩き続けている次第なのです。はい。

 だって、今夜の双子月はすごく珍しいんです。満ち欠けの周期も軌道も全然違う二つの月はほとんど同じ形にならないのです。ところが、今夜は二つとも丸いのです。まぁ、まだ満月ではないですけど。明後日の晩に、二つとも満月になるのだそうです。だからつい、お祖父ちゃんからもらった『でぢたるきゃめら』通称『でぢきゃめ』を持って、私は外に出たのです。

 『でぢきゃめ』は前世紀の素晴らしい文明の利器。今はもう『ばてり』が切れて、ただの金属の塊に成り下がっていますが。まだ私が小さかった頃には、お祖父ちゃんがこれで写真をばしばし取っていました。この小さな画面にぺかりと浮かぶ写真はすごく幻想的なものでした。

 けれど、この『でぢきゃめ』、使うことができるのはお祖父ちゃんが最後でした。優秀な人間がみんな双子月の片方である、人工衛星『つきかがみ』に移住してから百余年。近年、加速度的に衰退し続けている地球文明では『でぢきゃめ』は扱いきれない超高等技術なのです。

 私はぎゅっと『でぢきゃめ』を握って、気合を入れ直します。

 病院の近くの時計台はまだ見えませんが、大丈夫です、歩いて行けばきっと帰れるはずなのです。

 さて、こんな考え事をしている場合ではありません。私は一刻も早く帰らないとだめなのです。看護婦さんや院長先生に怒られてしまいます。院長先生はともかく、看護婦さん達は怒るととっても怖いのです。

 私が彼と出会ったのは、そうして土手を歩いていた世紀末のことでした。



 

 風にあたろうと土手を歩いていたら、淡い色の入院服の少女がこっちに進んできている。靴は粗雑なサンダルだ。双子月に見惚れているのか、ぼくには気づかない。そのまますれ違いかけ、やっぱりまずいだろうと思い、ぼくから声をかけた。

「あの……」

「は、はいっ?」

 すごく裏返った声だった。長めの黒髪と白い肌が対照的な人だ。熱があるのか、顔が少し赤い。

「えっと、私、なにかしましたのでしょうか」

「いや、ただ、入院服だったから……」

「あっ、そう、そうなのです。私、迷子なのです。丘の上病院ってどこでしょう、知ってます?」

 確か、向こうの丘の上だ。って、そこから歩いてきたのか。しかも裸足で。丘の上病院ってかなり遠かったとはずだけど。そこから歩いてきたというのなら、健脚なんだろうか。華奢な身体つきや今にも折れそうなくらい細い手足を見ていると、とてもそうは思えないんだけれども。

「いや、知ってるけど。ってか、反対方向だと。こっからだと北側だから、月を追いかけてたら帰れないよ」

「はわわ、私、どんどん遠ざかっていたのですか。どおりで丘の上時計台が見えてこないわけです」

「帰れるの?」

「ええ、大丈夫です。地球は丸いとお祖父ちゃんが言っていました。昔の人曰く、地球は青かった、ですよ」

 どこが大丈夫なんだろう。すごく不安だ。この子の頭も。この子の将来も。

 まぁ、放っておけばいいか。関わるのもそれはそれで面倒だ。後味は悪いけれど、視界に入る全ての人を助けて回れるわけでもなし。ぼくには、散歩と言う超重要任務があるのだから。

「わざわざ教えてくださって、ありがとうございました。ではでは、私はここで失礼しますです」

 彼女はそう言ってぺこりと頭を下げて……。

 さっきと同じ、病院から遠ざかる南の方向へと歩き出した。

「ちょ、だから、そっちは反対方向だって。北に行かなきゃ」

「ををっ、そう言えばそうです。えっと……、北はどっちにあるんでしたっけ?」

 なんとも気まずそうに、そわそわしながら彼女はぼくを上目遣いで見詰めてきた。

 まぁ、仕方ない、か。案内してあげよう。どうせ明日も昼間はカーテンを閉め切って一秒でも長く眠ることに全身全霊を注ぐに決まってる。多少の夜更かしは今更だ。

「あー、よし、丘の上病院まで連れてってあげよう」

「ふわわ、なんてお優しい方。ありがとうございます。私、空蝉 みんみんっていいます。よろしくです」

「みんみんさん?」

 なんか儚い名前だ。騒がしくはしゃいだ挙句、一週間くらいでころりと死んじゃいそうな、そんな名前じゃないか。いや……、ちょっと不謹慎だったかな。彼女の入院服を見て、そう思い直し、一人心の中で反省する。

「はいです。みんみん、と言います。えっと、失礼ですが、お兄さんのお名前は?」

「…………ごめん、自分の名前嫌いだから」

 これは本当。理由はまあ、いろいろ。

「ええーっと、なんて呼べばいいでしょうか」

「んー、みんみんさんだよね?」

「はい。私はみんみんですよ」

「じゃあ、ぼくはにいにいでいいよ」

「にいにい蝉ですねっ!」

「うん」

 蒸し暑い夏の夜。

 昼間はさんざん鳴いていた蝉たちは大人しくしている。

 騒がしいのはぼくらくらいのものだ。

「にいにいさん、にいにいさんは何歳なんですか?」

「十五くらいだと思うよ。みんみんさんは?」

「私はですね、なんと、昨日十四になったばかりなのですよ」

「若いねー」

 いや、ぼくもそう変わらないけどね。まぁ、なんというか、彼女の笑顔はぼくなんかからすると、若々しくて眩しいくらいだ。

「うふふ、まだまだぴっちぴちなのですよ」

 その表現はあんまり若くない気がするのは、ぼくだけだろうか。

「みんみんさん、なんで病院ぬけてきたの?」

「わ、私は、病院抜けてなどいません。真面目な優良患者さんですから、夜中にそっと窓から脱走とか、悪い不良患者さんのするような悪い悪戯は全くしてないのです」

 分かりやすい子だ。両手を振ってばたばたと否定する子なんて本当にいたのかと妙な感慨にふける。

「ん、分かった。君が『悪い不良患者』だってことは十二分に」

 何が悪いって、多分、頭が悪いんじゃないかな? どうせ慌てていて間違えただけだろうけど。図らずも間違っちゃいない感じになったわけだ。

「はうう、だからそんなことはないのですよ」

「いや、どっちでもいいけどね。みんみんさんはなんでこんなとこ歩いてたの?」

「……双子月が綺麗だったので、つい……」

 真っ赤になって俯くみんみんさん。ぼくには恥ずかしがる理由が分からない。

「んー、いい理由だね。情緒がある感じ」

「えへへ、そう言っていただけると嬉しいです。前にお友達にババ臭い、って言われて。私はそんなことないと思うんですけど」

 みんみんさんは恥ずかしそうに顔を赤らめ、にっこりと笑う。素直な感情表現に、若干あてられて慌てて眼を逸らした。

「みんみんさんは月が好きなの?」

「ハイです! おじいちゃんが双子月が好きで、よくお月見してたのですよ。あとあと、月の観察会もしました。私も、双子月が大好きですよ!」

「へぇ…………、そっか。だから、こんなに月を見るのに夢中になってたんだね」

 きらきらと目を輝かせるみんみんさんは、ひどく純粋で、ひどく魅力的で、とてもかわいらしかった。けれど、その隣というのはぼくにはちょっと居心地が悪くて、ぼくは息がつまったような感覚を覚えた。

 そんなぼくの様子に彼女はふと、気遣うようにぼくを見てきた。

「あの。……えと、にいにいさんは、双子月、嫌いなのですか?」

「いや。月は、好きだよ。わりとね。ただ、『つきかがみ』は……、うん、あんまり好きじゃないかも」

 それだけの回答を静かに咀嚼して、彼女はそれ以上何も訊いてこなかった。その心遣いが優しくて、また同時にぼくはそれを辛いと思ってしまう。

 静かに、少しだけ重くなった空気をまとって土手を歩く。

 あまり手入れのされていないコンクリートから、のぞいている草をぼくがざくざくと踏む音。

 みんみんさんのサンダルがぺたりぺたりと、地面を踏みしめる音。

 夏だけれど、あまり湿度が高くないからか、そこまで暑くはない。

 蝉達の声もしないし、聞こえる音はほんの少しだけだ。

 ざぁっと土手を風が吹き抜けた。

 それで気分を仕切り直したのか、隣で小さく息を吸う音が聞こえた。

「えっと、にいにいさんはどうしてこんな時間に?」

 みんみんさんがひょこんと首を傾げる。

 なんか、動作の一つ一つが子供っぽい。人懐っこそうな丸い目がぼくを映している。

「特には。ちょっと風にあたりたかったから、かな。ちょっとした散歩だよ」

「はうっ、もしかして、私のせいで長引いてますか?」

「まあ。あー、でも、別に用もないし」

 ついでに暇だし。いや、退屈だからむしろいい暇つぶしなんだけれども。

 みんみんさんには、少し恩着せがましい言い方になってしまったかもしれない。

「うううー、なんと優しいお方でしょう。冷たい現代社会の天然記念物、下町に残る優しさ、日だまりのような温もりとはこのことですね。思わず惚れてしまいそうです」

 ぼくは冷たい方なんだけど。本当に面倒になったらみんみんさんを置いてさっさと帰る自分が、ありありと想像できてしまって、ちょっとへこむ。たぶん事実なんだろうけど。

 そんなに悪い気はしないけど、ね。

 とにもかくにも。こんな感じに互いに他愛のないことを話していれば、丘の上病院まで二時間半も、そう長くはないだろう。なんとなく、ぼくはそう思った。




 ふと、私は思いついて、にいにいさんを呼びました。

「にいにいさん、ちょっとこっち向いて下さいです」

「ん?」

「ぱちり」

 両手の親指と人差し指とで作った長方形の中に、不思議そうな顔のにいにいさん。私は満足して、うんうん、と頷きました。お祖父ちゃんの『でぢきゃめ』にちょっと似ています。お祖父ちゃんの『でぢきゃめ』と違ってものは残りませんけど、こうすればちょっと他よりも思い出が残る気がするのです。

「えっと…………?」

 かくりと首を傾げるにいにいさん。私はさっき思いついたことをきちんと説明してあげました。

「じゃあ、それがみんみんさんがお祖父さんからもらったデジカメ、だね?」

 にいにいさんは私の持っている鉄の塊を指さします。まじまじと『でぢきゃめ』を見つめるにいにいさんの熱い視線が、ちょっぴりくすぐったいです。でも、にいにいさんが食い入るように見るのも当然なのです。『でぢきゃめ』は珍しくてそんじょそこいらで見れるようなものではないのです。

「その通りです。前世紀の文明の利器、『でぢきゃめ』なのです。これでぱちりとやると、どんな風景もここに残るのです。いつでも見られて、美術館みたいです」

「へぇ。それはすごいね。確かに、前世紀はいろんなものがデジタル化されていたらしいけど。カメラなんて今じゃ七五三と結婚の時くらいしか見ないもんね」

 しかも、写真を撮ってもらうのにはたくさんお金が必要なのです。お祖父ちゃんは高すぎるっていつも怒っていました。お祖父ちゃんはそういう風に怒ることをキレるって言っていましたっけ。あ、違います。ぶちギレる、です。

 私はにいにいさんに『でぢきゃめ』自慢を続けます。

「しかも、色もそのまま残るのですよ」

「花とかも綺麗にカラーで?」

 にいにいさんは目を丸くしました。今では写真は白と黒ですから当然です。けれども、この『でぢきゃめ』なら赤も青も緑も紫も橙も、そして勿論白と黒も綺麗に残ります。

「はいですよ」

「さすが前世紀。『つきかがみ』にはそれもあるのかな」

 にいにいさんは眼を細めました。

 双子月は相変わらず空の向こうです。

「ありますよ、きっと。もっともっとすごい『でぢきゃめ』があるに違いありません。ううん、『でぢきゃめ』だけじゃないです。いろんなものが、すごい立派で便利になっているはずです」

 私は空に浮かぶ双子月を見上げます。どっちがウサギさんのいる月で、どっちが『つきかがみ』なのか、今の私達には区別すらできないのですけれど。あの空の二つの月のどちらかで、私達の遠い親戚が暮らしているはずなのです。

 けれど、にいにいさんは少し冷めた表情をしました。

「どうかな。『つきかがみ』で人間が殺し合って、とっくに絶滅しているかもしれないよ。他には、そうだな、食糧難とかで文明の発展どころじゃなくなっているかも」

 にいにいさんの声はなんだか憐れんでいるように思えました。いったい誰を憐れんでいるのでしょうか。どうして、憐れんでいるのでしょうか。それは私には分かりませんし、多分、訊いていいことでもないのでしょう。さっきの月は好きだけれど、『つきかがみ』は嫌いだというのと、同じように、です。

 だから、私はその言葉の真意を問うことはしませんでした。

 代わりに、にいにいさんと目を合わせて、きちんと彼の言葉を否定しました。

 それくらいは、してもいいかもしれない、と思ったのです。

「私はそうは思いませんです。『つきかがみ』はみんなが仲良く平和に暮らせる天国みたいな場所だと私は思います。

 ここでは衰退した前世紀の技術も、『つきかがみ』ではさらに発展していると聞きます。あくまでも都市伝説です。でもでも、私はそういう夢のあるお話は信じることにしているのです」

 にいにいさんはまだ、哀しそうな眼をしています。

「でも、こんな都市伝説だってあるよ。前世期の遺物を持っている人間は、『つきかがみ』の使者に殺される、って。みんみんさんだって聞いたことあると思うけど」

 ゆっくりと、やんわりと反論するにいにいさんの姿はまるで、血を吐くようでした。病院で血を吐いて苦しんでいたお友達の顔が、自然と思いだされるようです。それは私には、泣きそうな顔にも見えました。

 ええ、確かに、前世期の遺物を持っている人が神隠しにあう、というお話はとてもよく聞きます。でも、私はおじいちゃんから『でぢきゃめ』をいただいてから、なにか危ない目に遭ったことなんて一度もないのです。

 だから、私は立ち止まって、双子月を見上げて言いました。

「前世紀では、『ろぼと』という機械があって、『ねっとう』で世界中が繋がっていて。『ぱすこん』がたくさんのお仕事をしてくれて、『てるび』で動く紙芝居を見て。『ろけいとう』という塔が『つきかがみ』まで人を乗せて行った……。そんな、お話をどんな子供たちだって一回は聞いたことがあります。でも、私達にとってはそれはただの夢物語です。もはやSFの世界ですらありません。

 そう、夢物語なのです」

 双子月に手をかざします。

もちろん、掴めはしないのですけれど。

 掴もうとしても、触れることすら叶わないのですけれど。

 そうして、『つきかがみ』は夢物語だと確認するのです。

 『つきかがみ』は夢のような世界。

 だからこそ、私はこう言うのです。

「夢物語に、どうして夢をみてはいけないのでしょうか」

 さわさわと土手の草が揺れています。

 土と草木と、そんな自然の匂いがしました。

 私は、険しい顔で黙りこくっているにいにいさんに、微笑みかけました。

「想像するのは自由です。なら、たくさん想像しちゃいましょう? 空の向こうで何が起きているかなんて、私達にはどうせ分かりっこないんですから。そして、同じ想像なら、幸せな想像の方がいいと思いません?」

「…………うん、そうだね」

 にいにいさんは、ぎこちなく、それでも笑い返してくれました。でも、私にはそれだけで十分です。

 私は空を見ながら、双子月をぱちりとやりました。きちんと、私の中にその写真が記憶されました。こうして綺麗な思い出がたくさん私の中に溜まっていくことは、素敵なことなのです。

「私、今日夜のお散歩に出て、にいにいさんに会えて、本当に良かったです」

「そりゃ光栄だね、お姫様」

 照れたのでしょうか。にいにいさんはそっぽを向いて、そう言いました。

 でも、本当に良かったと、私は思うのです。

 こんなに楽しい気分になるのはすごく久しぶりでした。

 だから、満月になって並んだ双子月を、にいにいさんと二人で見たいなぁ、なんて思ったのは、私の贅沢過ぎる我がままなのでしょう。




 みんみんさんを丘の上病院に送り届けてから二日後。

 夜空には二つの満月が浮かんでいる。

 ぼくはやっぱり土手を歩いていた。

 すごく気分が悪い。

「かぐや、どした?」

 横にはぼくの嫌いな上司がいる。ぼくはこの人の黒い目が嫌いだ。この人がくわえた煙草も煙が嫌いだ。この人の黒い長髪が嫌いだ。この人のシルバーアクセサリーが嫌いだ。話し方も性格も雰囲気も声も嫌い。漂う煙草と整髪料の匂いが嫌い。この人の全てが嫌い。そんなこの上司は、ぼくの育ての親で、ぼくの名付け親で、ぼくの一番嫌いな人だ。

 ちなみに、このかぐやというのは、ぼくの名前。

 ぼくの嫌いな人がつけた、ぼくの嫌いな、ぼくの名前。

「今日を振り返っていただけですよ、夜乃宮さん」

 夜乃宮さんはぼく同様、自分の名前が嫌いな人だ。

 だから嫌がらせとして名前を呼んだ。

 案の定、彼は顔を歪めて嫌悪感を丸出しにした。

 気持ちが多少なりとも満たされる。

「ふん。嫌なガキ。誰が育ててやったと思ってんだ」

「どうせ上からの命令でしょう」

「でなきゃ育てねー。俺はお前みたいな奴が大嫌いだ」

「ぼくも夜乃宮さんみたいな人、大っ嫌いですよ」

「……とっとと帰るぞ。あー、一応言っとくけど、自殺とかすんなよ」

 ぼくの嫌いな仕事を共にする、ぼくの嫌いな上司は、全然ぼくのことを分かっていない。誰が死ぬか。この程度のことで。今更にもほどがある。

 まあでも、今の僕はそれだけ酷い顔をしているんだろう。

 ぼくの嫌いなぼくの仕事は、人殺し。

 地球に残された劣等人類達が『つきかがみ』を恨み復讐することを恐れた『つきかがみ』の自称高等人類は、それはそれは高尚で素晴らしいことを思いついた。そのために、クローン技術で作られた家畜の如き人類もどきのぼくらを、地球へと送り込んだ。

 残存する文明の利器を壊し、作り手と使い手を殺すように。

 劣等人類達が、二度と文明を栄えさせることのないように。

 それが、ぼくの嫌いなぼくの仕事。

 地球の文明が異常な速度で衰退したのは、ぼくらの仕事の成果。

 今、ぼくの右腕の中には、人の首がある。

 病院を出た時にはまだ温かかった。

 もう冷えて硬くなった首。

 彼女の血が、ぼくの手にこびりついている。

 指と爪の間に入り込み、乾いていく。

 彼女を殺して、こんな気分になるくらいには、ぼくにも普通の感性がまだ残っていたみたいだ。

 不思議と、ぼくの腕の中の彼女の表情は、悲しいくらいに穏やかだ。

 彼女は放っておけば勝手に死んでいくような状態だった。

 今の地球の医療技術では、みんみんさんを数年生きながらえさせるのがやっとなのだから。そして、みんみんさんはそれを知っていたんだと思う。妙な諦観と、世界を俯瞰するような彼女の瞳は、そのせいなんだと、ぼくは思う。

 まあ、彼女の思いをぼくが勝手に想像するのは、彼女にとても失礼だと思うから、ここまでにしておくけれども。

 そんな彼女は、にいにいさんが殺してくれるならいいです。と、あっさり了承した。ただ、数分だけ、二人で病院の窓から満月の双子月を眺めさせてください、と、本当にささやかな願いだけを口にして。二人で彼女の寝台に並んで座って、空の双子月を見た。たったそれだけのことで彼女は満足して、『つきかがみ』の所業を受け入れた。そして今は、ぼくの腕の中で冷たく、硬くなっている。穏やかな表情で、静かに、永遠に覚めない眠りの中にいる。

「ったく、こんな郊外の微妙な町に遺物持ちが残ってるなんてな。誰かさんが散歩なんかしたせいで、とんだ残業させられたぜ」

 彼女が素直に受け入れてくれたからといって、ぼくの罪悪感が軽くなることもない。むしろ余計に重くなってぼくにのしかかってくる。

 そう、夜之宮さんが言った通りに、彼女が今この世にいないのは、ぼくのせいなのだから。ぼくがあの夜彼女と出会ったせいで、『つきかがみ』の本部に彼女が遺物を持っていると、気づかせてしまったから。

 空蝉 みんみん。

 彼女の血を全身に浴びて、ぼくは夜の土手を歩く。

 あの夜、ぼくらが出会ったのは不運だったのか。

 それとも彼女が言った通りに、幸運だったのか。

 偶然だったのか、はたまた必然だったのか。

 夜乃宮さんはもう何も言わない。

 煙草の煙が不快だ。

 夜之宮さんは、もう自分の仕事を鬱陶しいとか、面倒だとかそんな風にしか思っていないのだと思う。ぼくも、遠からずああなるんだと思う。どんどん気持ちが摩耗していって、やがてなにも感じなくなるんだろう。そうなるように、ぼくらは造られたんだから。そうなれなければ、ぼくらは処分されるのだから。

 そういう未来が分かっているからこそ、ぼくは彼女と過ごした時間忘れちゃいけないと思った。

 彼女は、ぼくに優しいと言ったことも。

 でも、ぼくはこんなにもどす黒くて汚くて血塗れなことも。

 彼女は、『つきかがみ』を天国だと信じていたことも。

 けれど、そこはこんなにも醜く卑劣に穢れていることも。

 天国なんてどこにもなくて、地獄しかないことも。

 いつになく、柄にもなく、やりきれないこの気分も。

 途方に暮れて、わけもなく、この土手を歩いたことも。

 全部全部、忘れないで大切に持っていよう。

 空の双子月はどちらが本物か分からないくらいに似ている。

 まん丸の黄色い月が、双子みたいに並んでいる。

 どちらかが本物で、どちらかは鏡に映った汚い虚像だ。

 ぼくも、みんみんさんのように信じてみたいと思う。

 『つきかがみ』は天国ではないと知っているぼくだけれど。

 本物の月は、もしかしたら、天国なのかもしれない、と。

 そんな、夢物語みたいな儚い幻想を、信じてみようかと思う。

 みんみんさんの首は後で月に埋めようと思う。

 『つきかがみ』じゃなくて、本物の綺麗な月に。

 ぼくにでも、天国かもしれないと思える月に。

 でも、その前に一つ、やらなきゃいけないことがある。

 腕の中のそれを、ぼくは大事に抱え、ぼくはみんみんさんの真似をして、両手の親指と人差し指で長方形を作った。その中に二つ並んだまん丸の双子月を入れる。

「ぱちり」

 デジカメよりもずっといいカメラで双子月を撮るように。

 みんみんさんを殺した夜をずっと覚えていられるように。

 みんみんさんと二人で見たこの双子月を忘れないように。

 ぼくは、壊れて動かない彼女の『でぢきゃめ』をポケットに押し込んだ。

 どこからか蝉の鳴き声が聞こえたような、そんな気がした。




拙い文章ですが、感想や評価をもらえれば、と。。。

若干、超展開のけがあります。

なんとか直そうと努力はしましたが、、、現状これが精一杯で。。。


ラストには賛否両論あると思います。

これでいいと言われ、これは酷いと言われ、好きとも言われ、嫌いとも言われました。

あちこちで感想をもらい、何度か改稿していますが、このラストを変更する予定は一切ありません。


これの初稿を書いていた時、ベランダで蝉が鳴いていました。

書き終ろうとした同じ日の夜、蝉の鳴き声はもうしませんでした。

翌朝、ベランダには蝉の死体が転がっていました。

みんみんは、あくまでもこの物語が生まれてくるときに鳴いていた彼で、終盤に差し掛かった時には声をあげられなくなっていた彼で、そしてきっとどの夏も鳴くであろう彼らです。


夏になって蝉の声が聞こえた夜に、ふとこの話を思い出していただければ、と思います。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 世界設定がしっかりしているので、それだけでも面白いと感じます。 登場人物も描き分けられているし、文章の静かな雰囲気に引き込まれる感じがします。 ラストはやっぱり悲しいと思ったのですが、だか…
[一言] 掲示板からやってきました結倉です。 始めまして。 優しく、そして哀しい物語でしたね。 個人的には文章、構成とても好きです。 感情移入しやすい良い作品でした。 展開もそこまで急ってこともなかっ…
[良い点] 何か胸に来る物があります。 ラストは人によっては”嫌い”な人もいるかもしれません。 私はハッピーエンド至上主義という訳では無いので、このラストは好きです。
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