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旅立ちまでのあれやこれや




 チーッ…、チーッ、チーッチュン…




 瞼越しに差し込む明るい光と鳥らしき鳴き声の中で、アンはゆっくりと意識が覚醒してくるのを感じた。


 ――あぁ、天井が綺麗だな…。


 微睡みの中で視界に入ってきた薄闇に浮かぶ天井の華美ではないが技巧を凝らした彫刻をボンヤリと眺めながら、アンの頭が急速に現状を理解していく。


 目覚めてから行動に移るまでアンは人より早いと密かに自信を持っている。

 例え寝る場所がどのような場所であろともだ。


 目覚めてから早めに5を数える前に意識が覚醒し、腹筋に力を入れ上半身を跳ね上がらせる。

 アンの体を優しく覆っていた落ち着いた白い色合いの掛け布団をアンの体が跳ね飛ばした。

 今までの人生の中で触ったこともないような上等な生地の布団がフワリと舞い上がり、アンの跳ね飛ばした勢いで布団の端がベットの足下側を越え、磨き上げられた年代を感じる味のある木目の床にサラリと触れた。

 布団が汚れるのを恐れ、慌てて布団を床から手繰り上げる。

 布団の生地を凝視し、汚れていない事に安堵のため息を小さく吐く。念のため二,三度布団を叩くと、両手を上に挙げ背筋を伸ばしながら欠伸を1つ。


「…つ~っ…、痛たた…」


 昨夜はこの店に帰ってから「取り敢えずここで寝ろ」と案内された暗闇の部屋の中で義足を外してベットに倒れ込んだまでは覚えているが、結んだ髪の毛を解くまでには至らずにそのままで眠ってしまったようだ。

 髪を結んでいたために引っ張られた側頭部を中心に鈍い痛みを感じる。

 黒と白で精緻に編み込まれた組み紐を解くと、髪が独楽のように円を描き舞うほどにグリングリンと首を回し、再び髪を後頭部の上で結わえる。そしてグルグルと両腕を回し肩を揉む。

 昨日までの疲労で倦怠感の抜けない肩を揉み解しながら自身を起こした光の射してくる方を見ると、ベットのすぐ横にある鎧戸が僅かに開いているのが見て取れた。

 その鎧戸の隙間から差し込んだ光が帯となりベットに横になったアンの頭の位置を照らしていたらしい。

 ふと好奇心に駆られ窓に這い寄り手を伸ばし鎧戸を押す。見た目の重厚な感じとは違い、意外な軽い手応えで鎧戸が開いて朝の清廉な空気が部屋に流れ込む。


「…寒っ!」


 空気の冷たさに思わず体を縮み込ませたアンだが、目の前に広がった風景に一瞬で寒さも忘れて見入ってしまった。


 すぐ目の前には「死街地」の煤けた町並み。

 そのむこうには漆喰や色煉瓦や磨き石で出来た重厚で雅な寺院や貴族の屋敷と庭や公園や街路樹の緑がキラキラと朝日に輝いている。

 そして何よりも目を引くのが、朝日に彩られて白く輝く漆黒のドゥマ城が荘厳な雰囲気を湛え初冬の冷たい朝の空気の中に圧倒的な存在感を持って佇んでいた。


「…わぁ…!」


 そんな風景に圧倒されて驚きの声を挙げいるアンは、何時の間にかベットの上で膝立ちになり窓にかじり付いていた。


「凄い…!

これって全部、人が作ったんだよね…」


 そんな独り言を呟くアンの後ろから突然声がかけられた。


「そうよ、全て人の手で作られた物よ。

アンちゃん、おはよう♪

よく眠れたかしら?」


 鈴を転がしたような可愛らしい声の方、驚いたアンが後ろに弾かれたように顔を向けると、ベットの枕元側に置かれていたらしい椅子に優雅に座っている人物を見つめた。


 そこには昨日と同様に1冊の革本を読む『生』がある。

 アンの開けた窓から差し込む柔らかい朝の日差しの中での『生』の姿は、白い服装と金の刺繍と艶々と輝く黒髪と黒い瞳とが相まって、アンは一瞬神々の園に迷い込んでしまったような幻覚に陥ったような気がした。


「せ、『生』さん、何時から居たんですか?」


 焦り、何とか言葉を発したアンに『生』は涼しげに答える。


「貴女が寝てからずっと居るわ、アンちゃん。

寝顔が可愛かったわよ♪…涎を垂らしてるところなんか、とっても…♪」


 アンの疑問に答えながら革本から目を離さない『生』。


「な、何故ですか?」


 そっと口元を拭いながらアンが更に問う。


「あら、寝る前に言ったはずよ?

寝ている間に“解呪”するって」


 相変わらず革本から目を離さないままページをめくり、『生』はニコリと笑う。


「…そうでしたね…。…まだ“解呪”は終わってないんですか?…まさか、解けなかったとか…?」


 昨日『死』に、寝ている間にカシエにかけられている筈の何らかの呪言の枷を外す、と言われていた事を思い出す。

 解呪魔術に対する知識の乏しいアンの背筋に得体の知れない物に対する恐怖の寒気がはしった。


 ――まさか、解呪失敗して何か問題が出た?


「とっくに終わってるわ♪

…どうやら貴女のお父さんに対する執着と私の店に対する執着の、2つの呪言が掛けられてたみたいね。

それは解除しといたわ」


 不安を全面に押し出した曇った表情のアンを余所に、『生』はいけしゃあしゃあと答える。


「あ、ありがとうございます…

じゃあ、何で…?」


「何で居るかって事?

私がここに居ちゃ駄目かしら?」


 『生』の悪戯心を含んだ言葉に、アンはどう答えて良いか解らず押し黙るしかなかった。

 そんなアンに、漸く手元の革本からチラリと視線を上げた『生』がクスリと笑う。


「…って意地悪な事を言ってたら駄目ね。

本当はね、貴女と2人きりでお話がしたかったの♪」


 革本をパタンと閉じて、にこやかな笑顔をアンに向ける『生』。

 アンはそんな『生』に強烈な違和感を覚え、その原因を解明するべく目の前の美女を見つめる。

 僅かな観察でそれはすぐに見つかった。


 ――『生』さんの表情…。


 まったく無表情で、感情を出してもその印象の薄かった昨日の『生』とは別人のような華やかな微笑みや悪戯っぽい表情。

 ぱっと見は年相応と思える豊かな表情の美女なのだが、昨日の状態を知るアンにはそれが違和感にしか感じられなかった。


「…お話って?」


「そう、お話」


「…どんな?」


 始めて会った人と話す様に慎重に最小限の言葉を選びながら『生』と会話するアン。

 そんなアンの硬さを感じたのか、『生』はアンに緊張を解すように気さくに話し続ける。


「そう構えなくてもいいわ♪

女の子2人がするような、気軽な感じで世間話がしたいだけ♪」


「…はあ…」


 『生』の言葉にアンは要領を得ない顔をしながら小さく返事を返すしかなかった。


「ちょっと漠然としてて話し辛いかな?

じゃあ、私に聞きたい事はない?

今なら何でも答えちゃうかもよ♪」


 困った雰囲気を漂わせたアンに『生』は提案する。

 その提案にアンは感じた疑問を素直にぶつけることにした。


「…あの、じゃあ、昨日は何故、無表情だったんですか?

あの、それと、多分ですけど、私と、それと『死』さんとしか会話をしないのは何故ですか?」


 アンの昨日の様子から感じた感想だが、見る限りにおいて『生』はアロウネやカリナどころかゼフトやヤゴエモン、ンガロとさえ会話を交わしていないように見えた。

 また『死』以外の周りの人達も『生』との過度の接触を恐れていたように感じていた。


「あらら、流石に気付かれちゃたかな♪

えっとね、それはね、『死』は私との対の存在で、貴女は“器”が大きいからなのよ」


 …


 …


 …静かに流れる静寂の時間。

 ニコニコ笑ったまま『生』。

 固まったままのアン。


「………はい?」


 無駄に充分すぎる間をおいてアンは返事とも疑問ともつかない言葉を絞り出のが精一杯だった。


「…そうよね、こんな説明じゃ解らないわよね」


 アンの困惑顔に1人納得顔をする『生』。

 貴女の気持ち解るわと言わんばかりにウンウンと頷く。


「詳しく話せば長くなるから話さないけど、私は魔力が溢れる存在で、『死』は魔力を納め続ける存在に成ってしまったの。

魔力が溢れるという事は、言葉を発っしたり体を動かしたりするだけでも周りの存在に影響を与えるってことなの。

『死』は私がそういう存在になった時に、対の存在として魔力を納め続ける存在になった。

だから私の言葉や行動には影響されない。

だから彼なら安心して接することが出来るの」


 『生』の言葉のほとんどを理解出来ず、ポカンと口を開けたままになるアン。


 ――魔力が溢れる?納める?


 よく解らない『死』の事は余所に置いておいて、アンは取り敢えず自分の事を聞いてみることにする。


「…あの、じゃあ私は?」


 『生』は微笑みを湛えたまま言葉をつらつらと繋ぐ。


「人に限らず、命有る者は必ず“器”を持っているものなの。

その“器”は種族、性別、動物、植物、微生物、神、悪魔、精霊、妖精、星、およそ生まれては死んでいく物全てが同じ“器”の大きさなの。

ここまでは解るかしら?」


 『生』の説明が解らず、疑問符を頭に並べ眉間に皺を刻むアン。


「…?」


 そんなアンの様子に『生』は苦笑を浮かべる。


「…あらら、やっぱり解らないわよね…。

ただ、貴女が特別な存在という事だけは覚えていて。

貴女は私の魔力に左右されない希有な存在だって」


「…さっき言ってた“器”が大きいっていう事がですか?」


 『生』の言わんとする“器”の意味を解らないなりにも理解しようとするアンだが頭の中はくちゃくちゃだ。


 ――私って…何か変なのかな?


「そう、そういう事♪

難しく考える事は無いのよ。

普通に友達として接してくれて問題ないわ♪

他の人が近くに居ると、ちょっと無口無反応になるだけだから♪

普通の人達が魔力に“アテられる”と大変な事になるから…」


 理解を超えた言葉の中に危険な香りを感じたアンは、思わず疑問を呟いていた。


「…その、…魔力に“アテられる”とどうなるんですか?」


「知りたい?」


「はい」


「…知りたい?」


「…えっ、は、はい…」


「…どうしても知りたい?」


「……。

…いえ、知りたくないです…」


 一言毎に何故か威圧感を増す『生』にアンの探求心はあえなくぽっきりと折れた。


「そう、良かった♪

“友達”にそんな残酷な事言わなきゃいけなくなるところだったわ♪

あんな事、“友達”に言う事じゃないよね♪」


 ニコニコと“友達”という言葉を強調する『生』にアンは戸惑う。


「…友達って言われても…」


 今までの人生で友達らしい友達なぞ居なかったアンは今度は違う意味で困惑する。

 困惑はしているが、取り合えず疑問に思っている事を聞こうと口を開く。


「あの、そもそも“器”って何なんですか?」


 アンの疑問に『生』は中空を見つめ口を軽くへの字に曲げ、考え込むような素振りを見せる。


「う~ん…。

一言で言うなら人に備わる“力”の入れ物の1つ…かな?」


「人の体の事…ですか?」


 アンはアフラルン教の教義に沿って『生』に答える。

 人に備わる神から授けられし魂は人体という器に宿る、という主神の1柱であるルン・サン神の教えを故郷の村の教会主のルルド教主から教わったのを思い出すアン。


「体は確かに器だけど、体とは違うわ。

その“器”は見えない“器”なのよ」


「見えない物が『生』さんだけには解るんですか?」


 アンが『生』と話せば話すほどに疑問が次々に沸いてくる。


「『死』と私は“特別”だから見えるの」


 解らないなりに問答を繰り返していると夜の闇が朝が近づくにつれ薄ぼんやりと明るくなるように少しづつ理解が出来てくるようだ。


「もしかして…、さっきの魔力が溢れるとか納まるとかと関係してますか?」


 アンの言葉に得たりとばかりに小さく頷いた『生』はその愛らしい口を嬉しげ開く。


「半分は当たり、半分ははずれ♪

私はそうだけど、『死』は違うわ。

彼は“ある物”を手に入れたことで“そう”なっただけ。

『別にこんなもん、欲しくて手に入れたんじゃねぇよ』って何時も強がって言ってるけどね♪

彼にも可愛いところ有るでしょう?

ふふっ…♪」


 その時の『死』の顔を思い出しているのか、『生』は小さく笑う。

 そんな『生』を余所に『死』の手に入れた物にアンは思いを巡らせる。


「…“世界を見る目”だったかな?…魔法具か何かかな……?」


「それ以上は企業秘密♪

ご想像に任せるわ♪

可愛い可愛い彼の秘密の暴露は、また今度ね♪」


 『死』に対する可愛いという自分のイメージを植え付けようとしているのか、更に可愛いという言葉を連呼する『生』。

 だが、実物が埋葬着を着た“あれ”なだけに、思案に耽っていたアンでさえも現実に戻すのに十分な違和感を伴った言葉だった。

 アンは思考を一時中断し、ひきつった笑みを浮かべながら『生』に意見とも突っ込みともとれない言葉を口にする。


「…か、可愛いって…。

可愛いの対局にいる人だと思ってたんですけど…」


 愛おしい人を思う乙女のような、妙に芝居掛かった素振りを見せる『生』の様子にゲンナリとするアン。


「…あら、温和しい顔して結構言うわね♪

でもやっぱり彼、可愛いわよ♪」


 また新たな疑問が産まれ、アンは質問を重ねていく。


「そもそも2人の関係は何なんですか?

ゼフトさんは雇われの職人って言ってたし、ヤゴエモンさんとンガロさんは用心棒みたいな存在でしょうけど…。

魔導師の肩書きを持つ『生』さんが国に遣えないでこんな町中に居るなんて変です…。

実は『生』さんは『死』さんの恋人で、『死』さんが国の偉い人の秘密を握って『生』さんを王宮に召しかかえられるのを防いでるとか?」



 ルーサンという国においての魔導師認定は他国と違い、家系よりも実力を重視する傾向が強い。

 階級としては見習い魔術士、魔術士(一般的にこれ以上の階級を魔法使いと一括りに呼ぶ場合がある)、魔術師、魔導士、魔導師の4つしか存在しないが、魔導士と魔導師の2つの階級はルーサンの歴史書に記されている全員がその時代の王直属の宮廷魔法使いとしてその名が書き連ねられている。

 他国ではまたルールが異なるが魔導師という肩書きを名乗る以上、ルーサンでは時代の王に仕えるのが普通(過去には、かなり強引に仕えさせた人物もいる。吟遊詩人や旅芸人の劇や人形劇の恰好の題材となっているため、魔術魔導の内容は別にしてそれら魔法使いの国民の認知度は高い)となっている。

 仮に国を一つ相手にして対等に立ち回れる実力がある魔法使いでない以上、只の住民として在野でノホホンと暮らせるはずもない。

 ましてや、王都の一店舗に所属して国の重臣の直属の兵達と一戦交えるなど、派閥争いの類であったとしても普通では有り得ないことだ。



 しかし、そんなアンの疑問を受けた『生』はアンの全く意図しない方向で言葉を受け取り興奮していた。


「恋人!?

ねぇねぇねぇ、今、恋人って言った?

わぁ~、女の子の会話って感じだわ~♪

すーてーきー♪」


 アンの何気ない一言で『生』が舞い踊らんばかりにはしゃぐ。


「…そ、そうですね。

お、女の子な感じです、うん…。」


 熱に浮かれたような視線で空を見つめる『生』。

 それを見るアンは『生』と自分の温度差に若干引きながらも、何とか理解を示そうと苦悩していた。


「…あら、ご免なさい♪

あまりの嬉しさにちょっとはしゃいじゃった♪

『死』と私の関係だったわね。

彼は職人長、私は店主なの。お飾りじゃないわよ。

勿論恋人と言える関係でもあるかもしれないわね」


「店主ですか…。

…?

…店主!?『生』さんが?!」


 年の変わらぬこの美女が店主を名乗る事実に驚愕するアン。

 店主と名乗るのであれば、お金等の算用から人の徴用や差配、はては仕事の内容まで詳しく知らねばならないはず。

 そんな重責を担うのが目の前の若い女で有る事にただ驚愕するアン。


「あら、アロウネから聞いていなかった?

まあ、店主というより「死街地」の地主と言った方が適切かもね。

この「死街地」の区画は全て私が所有しているのよ♪」


「…ぢ、地主…?」


「そう、地主♪えへへ、凄いでしょう♪」


 アンの記憶ではルーサンの領土はそれぞれの土地の領主となる36貴族と王の直轄地で構成されていて、土地の個人所有は開拓や発掘以外では認められていないとなっていたはずだ。

 シノギ村のルルド教主の国土の授業でそう習った。(因みにシノギ家の鉱山は先祖が堀り当てたので個人所有の許可を貰っている)

 それを王都ドゥマの一区画そのものを持ち主だと言い張る1軒の店。

 例え声を大にして宣伝出来ぬ裏家業だとしても、いや、それならばなおのこと、王家の面子に泥を塗ったと、「死街地」が粛正・強制徴収されても可笑しくはないはず。

 だが実際にはそうはならずに、〔『生』と『死』と老人と下僕共〕と「死街地」は何事も無いようにそこに有り続けて、その他の住人や一般兵士や騎士や貴族にまで存在自体を許容されている。

 どうも昨日聞いた『死』が握るこの国の重臣の秘密とやらが深く関係しているらしい。恐ろしくなったものの、アンは声を震わせて疑問を口にするしか出来なかった。


「…あの、『死』さんは、その、何を知ってるんですか?

…あの、何者なんですか、いったい?」


 恐怖に震えながら何とか口を出た疑問に対する答えは、何ら変わらず拍子抜けするほどに軽やかだった。


「何を知っているかは教えない♪教えた所で何の得にも損にもならないけどね♪

それに『死』と私の関係は言ったでしょう?

地主で『死』の恋人のような存在♪」


 そんな軽やかな返答に何て事を聞いたと自分の馬鹿さ加減に呆れるアン。


「…教えてくれるわけないですよね…。

…でも『ような』って…?

恋人じゃないんですか?」


「うーん、そこら辺はちょっと複雑なのよね…。

夫婦と言えば夫婦だし…。

…あら、やだ♪

夫婦とか言っちゃった♪

恥ーずかしー♪」


 必要以上に照れている『生』にさらに質問をするアン。


「…じゃあ結婚しているんですか?」


「結婚はしてないんだけどね…。

…うーんとねー…、…本当に複雑なのよね~」


「はぁ…」


 続く質問にも『生』の回答は要領を得ない。


「まあ、そこら辺は追々解るわ」


 本当に一言で言い表せないほどの人間関係らしい。

 何やら人外の能力を秘めたる二人の男女。

 雲の上の存在であるはずの魔導師が目の前に居るという事実。

 自分とそう年齢の変わらぬはずの女がお飾りではなく実質的に一軒の店を切り盛りしている事。

 そして王の直轄地の一部であるはずの土地の地主という存在。

 それら不審な事と今現在『生』が浮かべている何とも言えない表情が相まって、アンはひとまず口を噤んだ。


「…それより、逆に私からも質問があるの。

いいかな?」


「…何でしょう…?」


「だからそんなに構えなくっていいって♪

女同士の他愛のないお喋りだから♪

ほら、肩の力を抜いて♪

眉間にも皺が寄ってるわよ♪」


「…はい、わかりました…」


 アンは肩を上下させ眉間を揉み、ベットの上で居住まいを正す。しかしその肩に僅かならざる強ばりが残っているのが面白いように解る。

 そんな様子を微笑みを浮かべながら眺めていた『生』は一呼吸おいて桜色の貝殻のような唇を開く。


「アンさん、昨日貴女が『死』との会話で『魔導師と魔導士と魔術師と魔術士と神官が魔法を使う』って言ったでしょう?」


「…えーっと、言いましたね」


 アロウネの店からの帰る道の自分の言動を振り返り心細げに答える。


「貴女は魔法に詳しいのよね?」


 言葉は疑問形であるが含まれる意味合いは確認である。


「…何でですか?」


「貴女は魔導師と魔導士と魔術師と魔術士と神官の5種類にキッチリ分類出来ているみたいに感じたわ。一般には『魔導師』と『魔導士』と『魔術師』と『魔術士』と『魔法使い』は言葉としては知られているけど、普通の人には違いが曖昧なのよ。

それら違いが解るのは魔術に詳しい人だけ。

貴女はその違いが解るんでしょう?」


 教会関係者(主に教主)は各村や各町や各都市に必ず居るのでルーサン国民には馴染み深いが(シノギ村のルルド教主のように宗教行為以外に怪我の治療や基礎教育などを行っている)、魔法使いは資質を持つ人間が少ない上に36貴族の館や領地や王城に優先的に雇われている(強制的に連行される場合もある)ので魔法使いに関する知識は一般的に吟遊詩人や戯曲等の曖昧な物で知る知識しかない。

 だが、その曖昧なはずの知識を辺境の村の鍛冶師の娘たる人物が知っている筈という指摘だった。


「…はい。

父に教わりました。

たまに術具の注文もあったし、依頼人の望む物を作るには依頼人を知らなければならないとか言って教え込まれました」


 小さくアンが頷く。


「さすが『武器嫌い』シエル=シノギ、シノギ村にこの人有りと言われた名工ね。

ただ名工であるが故に跡継ぎがいない事に苦しみ悶えて、苦肉の策に一人娘に技術や知識を無理矢理教え込んだのね。

………これは思った以上の“拾い物”だわ………」


 『生』の後半の呟きはアンの耳には入らず、アンは父を思いだし複雑な気分になった。昨日までは、何がなんでも助けなければと思っていたのに、今朝はそこまでは思わない。呪言師の言霊とやらが解けたおかげか。


「…そんな大層な事教えてもらってませんよ。

それに、名工だなんて…。

あんな父親には似合いません…」


「…良い職人が必ずしも良い父親だとはかぎらない…か。

でも命を掛けて助けたいほどの大切な人なんでしょ?」


 うなだれるアンにかけた『生』の言葉にアンは再び小さく頷くしかなかった。


「…はい」


「…何か辛気臭くなっちゃったわね…」


 そう『生』が呟いた時、一陣の風が窓から吹き込みアンのお下げと『生』の黒髪とケープを揺らす。


「すん…、すん…、すん…?」


 突然『生』は眉の間に皺を寄せ形の良い鼻をピクピクと動かした。


「…?

…どうしたんですか?」


 そんないきなりの『生』の様子にアンは恐る恐る尋ねる。

 アンに帰ってきた答えは意外なものだった。


「…貴女、少し臭うわよ。

ここの1階の奥に何時でも入れる湯殿があるの。これから一緒に入らない?」


 体臭の事を指摘され羞恥で頬を紅に染めながら聞き慣れない言葉にアンは戸惑う。


「…そんなに臭います?

…すいません…。

…でも湯殿って何ですか?」


「人が何人も入れるくらいの大きな桶みたいなのにお湯を張って、浸かったり体を洗ったりする所よ。

とっても気持ちが良いのよ♪」


「何時でもお湯浴びみたいなものが出来るんですか?

はぁ~、凄いんですね。

そんな所に私みたいなのが入っていいんですか?」


「勿論♪」


 『生』はアンの質問にフワリと笑うと肯定するし、アンを促す。


「ふふっ、さっそく行きましょ♪

ところで貴女の荷物は?

着替えもしたほうが良いでしょ?」


「…あっ!

宿に置きっぱなしです!

取りに行かなきゃ」


 昨日からの濃密過ぎる事の連続で自分の荷物の事をすっかり忘れていた。貴重品なんかは持ち歩いているが、幾ばくかのお金と嵩張る物は宿そこに置いたままにしていた。


「置きっぱなしって、大丈夫なの?」


「7日間分の宿代を先に払っているので大丈夫です」


「宿の場所と名前は?」


「西地区のボーレン通りの「笑う梟亭」です」


「…あまり良い噂を聞かない店ね。

…そうね、着替えはうちの店で用意するから気にしなくていいわ。貸すんじゃなくあげるはわ。

荷物は湯に浸かって朝ご飯の後、あの子達の誰かをお供に付けるから、一緒に取りに行くといいわ」


「ご、ごめんなさい。

…あの子達?」


 買えば安くはない衣服をくれる事にアンは頭を下げながらも、不当な言葉が耳に入り首をかしげるアン。


 ――あの子達?ヤゴエモンさんやンガロさんの事?『生』さんはどう見ても20を越えていないのに?


「ゼフトとヤゴエモンとンガロの事だけど?

何か変なこと言ったかしら?

私達は家族で、私は店主、『死』は職人長とくれば、責任者の2人が親よね?

あの子達は、そんな私達に養われてるから私達の子供よ。

だから“あの子達”って言ったの。

でも、ゼフトは『死』の弟弟子にあたるから、私にとっては義理の弟かな?」


「…何か余計に複雑になってきた…。

…『生』さんって何才なんですか?」


「ん~、秘密よ♪

だいたい淑女に年齢を聞くなんて失礼でしょ♪

さあ、湯殿にいきましょう♪

…そうそう、疑問が解決してないでしょうけど、はぐらかしてるんじゃないから。『死』が貴女の望む物を創るということは、それらを必ず理解しなければならないから。貴女の“器”も含めて。

一度に詰め込むと頭が割れるからね♪」


「……解りました」


 実は話がどんどんズレて自分の知りたい事から遠ざかっていた事は解っていたものの、次から次に出てくる突拍子もない話題ばかりで元の話の路線にどのように戻したらよいのか解りかねていたアンは、取り敢えずの安堵と共に小さく返事を返した。


「あっ!

それから私のことは2つ名みたいな他人行儀で呼ばないで。

私の本当の名前はレフォン。

貴女にはそう呼んで欲しいな♪」


「解りました、レフォンさん。

でもちょっと待って下さい。

行くにしても義足を付けないと…」


「あら、そうよね。ご免なさい。

…ねぇ、義足を付けるところ、見てていいかしら?」


「構いませんよ。

でも、見てて楽しいものでもないですよ?

よい…しょっと…」


 いつの間にやらしわくちゃになっていた掛け布団を丁寧に畳み、体をベットの縁まで両手の力で滑らせる。

 隠すように垂らしていた裾を捲り上げ、棍棒のように丸まった膝下を晒す。義足の足を固定する部分には柔らかい布を何重にも縫いつけてはあるが、強行の長旅の後のためか足先は鬱血による痣や腫れ、擦り傷も多数見られた。

 手を義足に伸ばし、ふと強烈な視線を感じレフォンを見る。

 両目を皿のように広げ、凝視していた。 朝の光の中、その瞳は興味にキラキラと輝いている。


「あの、そんなに見られると恥ずかしいんですけど…」


「あらやだ、ごめんなさい。

つい見入っちゃった。

気にしないで続けて♪」


 謝罪の言葉は有れど、レフォンの瞳の輝きとそれを向ける方向は微塵も変わらない。


「はぁ…」


 早々に諦めたあんは作業を再開する。

 義足を手にすると右足から付けようと体を屈めた。


「ちょっと待って!」


「ひっ、な、何ですか?!」


「ちょっと、失礼するわね」


 レフォンがアンの足の賊に切り裂かれて棍棒の様になったを先をゆっくりと撫でる。

 途端に痛々しかった痕や鬱血で赤紫色に腫れていた部分ががパッと消えていた。


「えっ…?」


 突然の出来事に絶句し固まってしまうアン。


「はい、続けてね♪」


「…何をしたんですか?」


「魔法で治したの」


「…呪文は?」


「私そんなのいらないの」


「な、なんで?」


「魔力が溢れる存在だからよ」


「…は、はぁ」



 新ためて目の前のこの麗人が規格外の存在であることに戦慄するアン。自分の両足の怪我を治癒させたルン・サン教ルルド教主でさえ、村人の擦り傷や切り傷の治療に瞑想、聖書の黙読、呪文である聖句の詠唱という行為が必要だったのに。

 それをこの少女は一瞬で呪文も唱えずおこなった。



「ほら、早く付けて湯殿に行きましょ」


「は、はい」


 アンは納得がいかない気持ちを隅に押しやり義足を付ける作業に戻る。


 右足を義足のなめした革と布の接合部にねじ込む。

 ずれないように小さめに作ってあるので、ねじ込むにはそれなりに力がいる。


「…よっ、…とっ、…はっ…と。」


 かけ声3回でねじ込み多少の方向のズレを修正し二,三度の足踏みの後、次は固定のベルトの装着にかかる。

 上げていた裾を下ろし、膝上に服の上からベルトを巻き、ズボンに小さく開けた穴から何本もの革紐でベルトと義足を連結していく。

 1本連結する度に膝を曲げ伸ばしして紐の連結の強さを調整していく。

 微調整の後、左足の義足にも同様の行程を行う。

 最後に両足で曲げ伸ばしをしたり、父から教わった拳闘の型を一通り行いながら、気になる部分を再度調整し義足の装着は終了する。

 終了までに四半刻かかっていない。


 だが、実は今日のこの作業には何時もより時間がかかっていた。

 人を待たせており、その待ち人が目の前で座して自分の作業を見ているとなると、何時も通りのように作業とはいかなかったのである。

 そんな少々慌ただしいながらも手慣れた様子の作業を、1つも見落としまいとするかのように愛らしい眼を見開いて観察していたレフォンが、アンの作業が終わったのを見計らって革本を小脇に挟んで立ち上がった。


「さあ、行きましょ♪」


 部屋の扉に向かってキュッという小気味良い音を立て踵を返すと、輝く黒い髪、金糸の刺繍の雅な白いケープの順番にフワリと義足を付け終えたアンの目の前で流れた。

 アンの鼻孔を何とも言えない甘い香りがくすぐる。

 同じ女性であるのに、良い香りのするレフォンと汗臭い自分。それを比べて、アンは少し悲しくなった。

 扉を開けて一歩を踏み出し、アンがまだベット際にぼんやりと立ち尽くしているのを見たレフォンが可愛いらしく小首を傾げる。


「アンちゃん、何してるの?

ほら、行くわよ」


「…はっ、はい!」


 レフォンの声で正気に戻ったアンが、慌てながら義足に革ブーツを履く。

 枕元に立て掛けてある杖を手に取ろうとして足の傷を治してもらったことを思い出した。

 その場で2,3歩足踏みをして痛みがないことを確認すると、杖をそのままに急いでレフォンの後を追った。



 

 廊下に出るとすぐ目の前に年期の入った木目の下りの階段がある。

 明かり取りの窓から入ってくる朝日に黒光りしている。

 昨日の夜は疲れと眠気で周りが見えず、取り敢えず階段を上がってすぐの部屋に入りマントを脱ぎ捨て霞む視界で義足を外すなり着ている服が汚いのも気にせずにベットに転がり込んだのを思い出す。

 アンは階段を降りるレフォンを追いながら声をかける。


「昨日は汚いままベットに寝ちゃったんです。

ごめんなさい。

シーツの洗濯とか部屋の掃除ならしますから、言って下さい」


「何言ってるの。

貴女はうちのお客様なのよ。

高いお金払う契約をしたんだから気にしないの♪」


「はぁ…。

ご免なさい」


 アンの謝罪の言葉に階段の半ばまで下りていたレフォンは、クルリと振り向くとアンを指さす。


「それ、止めない?」


 レフォンは少し怒ったように頬を膨らました。


「えっ、それってなんですか?」


「その後ろ向きな思考よ。

貴女、昨日から口を開けば“出来ない”・“私なんか”・“ごめんなさい”ばっかり。自分を卑下するのは止めて。

これから貴女は大それた事をするのだから、自分に自身を持たなきゃ駄目よ」


「ごめんなさい…」


「ほら、また!」


「ごめ…。

…でも、自分に自信なんて持てないです…」


 アンのショボくれた様子に『生』は、しょうがないという風に肩を竦めた。


「…取り敢えず出来る事から始めましょう。

『死』が義足を作り、ヤゴエモンとンガロが貴女を鍛え、アロウネが情報を調べて奪還の筋書きを作る。

でもそれはまだ先の話し。

今出来るのは女を磨いて可愛くなる事よ♪

さぁ、湯殿に行きましょ♪

ついてきて♪」


 レフォンがクルリと踵を返し、階段を軽やかに下りていく。


「は、はい…」


 何だか納得できない理論に首を傾げながらも、アンはレフォンを追いかけ階段を下り、赤い扉をくぐる。

 そこは昨日アンが『死』と対峙した真っ白な部屋だった。そこには誰の姿もなく、シャンデリアに照らされた白い部屋の真ん中に『死』が座っていた酒樽と『生』の座っていた腰掛けが所在なさげに置いてあった。


「あら、『死』ったら、まだ作業場に隠ってるのね。

夢中になると何も見えなくなるのよ。

もう、悪い癖ね」


「あの、ゼフトさんは?」


 ヤゴエモンとンガロは別に住処を持っているらしく昨日この店の前で別れたのだが、ゼフトは『死』に伝言を頼まれて姿を消して以来姿を見ていない。自分の剣を研ぐと言っていた『死』の手伝いでもしているのだろうか?


「多分、昨日の伝言のついでに女の所にしけ込んでるんだわ。

あの子、以外と仕事には真面目だから、昨日手配した旅の荷物の準備の確認もしてから帰ってくると思うわ」


「へぇ~…、って、女の所!?

あ、あんな爺さんですよ?!」


「あの子、以外とモテるのよ♪

あの子が帰ってくるまでに湯殿から出とかないと覗かれるわ♪

さあ、湯殿はこっちよ」


 3つ並ぶ赤い扉の真ん中を勢いよく開け、レフォンはアンを手招きする。


「うっ、嫌だなぁ…」


 驚いたり嫌がったり、コロコロ変わるアンの表情を見てレフォンはクスリと小さく笑った。

 何だか馬鹿にされたように感じてアンは少し苛立ちを覚える。


「…何ですか…」


「あら、気を悪くしたかしら。

ご免なさい。

若いなって思って、ついついね…」


「……」


 眩しい物を見るようなそんな目をしたレフォンが、何故か凄く年老いて見えてしまいアンは黙り込む。


「あら、また年の話に成っちゃったわ。いっけな~い、てへっ♪

さあ、湯殿に行きましょ♪」


「はい。

…お邪魔します」


 扉の奥の闇に消えたレフォンを追い、アンも恐る恐る扉をくぐる。


バタン…


 背後で赤い扉が閉まると、アンを闇が包む。

 前後左右、上も下もまるで見えない。まったくの暗闇だった。


「レフォンさん…」


 アンの心細げな呼び掛けに返事はない。

 古い蔵に入ったときと同じ匂いがする。

 埃と木と土とカビの匂い。

 呼びかけに返事がないことに不安を増しながらも、鼻からヒクヒクと息を吸い込む。

 ミシリと床が軋む音が聞こえる。

 流れる冷や汗を背中の皮膚が鋭敏に感じとる。

 昔、祖母から聞いた話を頭の隅で思い出した。何か感覚を失ったら、他の感覚が補うんだと。事故で両目を無くした人が聴覚や嗅覚、それに感が鋭くなると。

 ふと思う。両足を無くした私は何かを得たのだろうかと。


「…レフォンさん…」


 先程よりも呼びかけの声がか細くなっている。

 またもや、返事がない。

 幼い頃、坑道に入っていた父をランプ片手に呼びに行って転んだことを思い出す。

 暗闇の中、1刻ほどうずくまっていたところを父に発見された事を。


「…ひっ…」


 思い出した恐怖から、膝を抱え込むようにしゃがもうとする。

 その膝を抱え込もうとした右掌を、何の前触れもなく暖かい物が包んでアンの体ごと立ち上がらせた。


「アンちゃんは見えないんだったのを忘れてたわ。

ごめんね♪」


「レフォンさん!」


 暗闇の中、レフォンはアンを案内しようとアンの手をグイと引っ張る。


「光で変質する材料もあるから遮光してるの。

手を引くからついてきて」


 あの可憐で細い体からは考えられない力強い右手を引く力に、アンは戸惑いながらもついて行く。というか引きずられて行く。


「あっ…、あの、レフォンさんって、見た目に、よらず力が、強いん、っすね」


「そう?

普通よ♪」


 グイグイと引かれるままにしばらく進む。


「さあ、着いたわ。

ちょっと目を閉じててね♪

閉じないと目が眩むわよ♪」


 アンは言われるままに目を閉じる。

 扉を開ける音がする。

 途端に瞼を通して光が射してくるのが解った。


「さあ入るわよ。

まだ目は閉じたままでね♪」


 再び握った右手を引かれ進む。

 床の感覚が板から硬いものに変わる。

 石のような物を敷き詰めた所に出たようだ。アンの肌を湿気を含んだ暖かい空気が撫でた。

 扉を閉める音とともにレフォンの声が聞こえる。


「目が慣れたら開けてもいいわよ♪

ビックリするから、ふふっ♪」


 レフォンの声に木霊がかかっている。それなりに広い場所のようだ。

 レフォンの声にアンは怖ず怖ずと瞼を開いた。


「…!

わぁっ…!」


 その部屋の中は立ち上る湯気の中、色んな光に彩られていた。

 4トトス四方の四角い部屋で真ん中には白いタイルの湯船に満々と湯を湛えた浴槽が鎮座している。

 だが、そんな大きな浴槽よりも目を引くのが四方の壁と天井。


 前後左右に何色もの陶器のタイルが張り巡らされ、その上には荘厳な壁絵が描かれていた。

 猫、犬、鶏、羊、山羊、豚、牛、馬等の身近な動物達。

 数々の野鳥、鼠、イタチ、猪、鹿、熊、コヨーテ、ジャッカル、山猫、トナカイ、狼、猿等の野生の動物達。

 タテガミを持つ巨大な猫や首の長い馬や針のような尖った毛をもつ鼠や七色の羽を持つ煌びやかな鳥や巨大で曲がりくねった角を持つ鹿等の不思議な生物達。

 ガーゴイル、ヒュドラ、ミノタウルス、ペガサス、スフィンクス、九尾狐、ドラゴン等の幻獣や魔獸と呼ばれる物語の中でしか知らない生物達。

 エルフ、ドワーフ、ホビット、マーマン、巨人族、ライカンスローブ、天使等の亜人達。

 木火土金水・地水火風空、それぞれの色の様々な妖精や精霊達。


 さらに極めつけには、天井にはアフラルン12柱の神々と悪魔の軍団が争う様子が、今にも動き出しそうなほどの精緻なステンドグラスで表現されていた。




「…はーっ…。…凄い…ですね…」


「見とれてないで入りましょ♪」


 その部屋に入った所は棚が並んでいた。

 頭の金の輪を外し、白いケープを取るレフォン。はらりと豊かな黒髪の全貌が現れる。

 しゃがみ込むと服の裾をたくし上げると一気に脱ぎ去り、薄い下着と白い靴姿になる。透き通るように白い滑らかな肌のほとんどが露わになる。

 傍らから布を取り出すと靴を脱ぎ、更に下着にまで手を掛けた。

 どうやらこの棚の場所は脱衣所のようだ。


 だが、湯殿経験のないアンは、そんなレフォンの様子に慌てた。


「レフォンさん、何してるんですか!?」


「何って、裸にならなきゃ湯船に浸かれないじゃない」


「は、裸!?

い、所謂、すっぽんぽんですか?!」


「そう、すっぽんぽん。

あっ、でも浸かる前に体は洗ってね。

お湯が汚れるから♪

はい、これで体を擦るのよ」


「あぅぅ…」


 渡された布を手に赤面して狼狽えているアンを余所に下着も取り去り、惜し気もなく裸体を晒すレフォン。


 レフォンの女性らしい体と肌の白さが、アンの狼狽え振りに拍車をかける。


「先に入るわよ♪

…どうしたの?」


 湯船の方に行きかけて、全然衣服を脱ごうとしないアンに訝しげな表情をするレフォン。


「あああの、わわ私よりスタイルの綺麗なレフォンさんと入るのが、その、は、恥ずかしくて…。

後で1人で入っちゃ駄目ですか?」


「別に構わないけど、ゼフトの帰ってくる時間と被るから必ず覗かれるわよ。

だいたい女同士で何が恥ずかしいの?」


「…その、私、レフォンさんみたいに綺麗じゃないし、日に焼けてるし、その…胸だって小さいし…。

さっきレフォンさんが私のこと可愛いって言ってくれましたけど、レフォンさんの体を見たら自信が無くなっちゃって…。

だから、…レフォンさんに褒められて舞い上がっていた自分が恥ずかしくなってきて…」


「なら入るの止める?」


「私…、臭うんですよね?」


「女の子から香ってはいけない香りがするわよ」


「…そうですか…」


「さっきも言ったけど後ろ向きは駄目。

何か私より勝っているものがアンちゃんには必ずあるよ。

一緒に湯船に浸かって見つけよう♪」


 レフォンの笑顔につられてアンは自分の上着に思い切って手を掛けた。











 半刻後……











「…豊満なお腹…、…豊満なお腹…、…豊満なお腹…」


 アンは素っ裸で湯船の中で後ろ向きに座り込み、ブツブツと何かを呟いていた。

 彼女の翠の瞳は焦点を無くし、虚ろに漂っていた。

 その横ではレフォンがゆったりと湯船に向かい座りながらも、困惑げな表情を浮かべていた。


「…あの、あの、アンちゃん?

…ね、ねぇ、取り敢えず元気だそう、ねっ?」


「…豊満なお腹…、…豊満なお腹…、…豊満なお腹…」


「……。

…駄目だわ…」






 こんなことになるには勿論理由がある。

 各々に体と頭を洗い、サッパリとした気分で湯船に浸かった直後、アンの口から飛び出した言葉が原因となる。


「…レフォンさん、さっきレフォンさんが言ってたこと、本当ですか?」


「…?

何が?」


「私にもレフォンさんに勝るところがあるって言ってたことです」


「あぁ、あの話ね。

うーん、肌とかは綺麗じゃない?」


「…肌、少し触ってもいいですか?」


「いいわよ♪」


 アンはレフォンに近付いて、おずおずと二の腕や肩やお腹や太股に触れる。


「…あんっ…、ちょっ、…くすぐったい♪」


「…私の肌の方が、…ガサガサです…。

それにレフォンさんの肌、白くて綺麗…。

私なんてこんなに日焼けしてシミだらけだし…」


「お尻なんかはアンちゃんの方が形が良さそうよ」


「…比べさせてもらってもいいですか?」


 女同士であるから恥じらいもなく、お互いに湯の中で臀部を付き合わせて比べる。

 結果、形・艶・大きさにおいてアンが『生』に優ることはなかった。


「…負けた…」


 落ち込むアン。


「…えーとっ、あの、首から肩にかけての流れなんかは、アンちゃんのは色っぽそうよ♪」


「…私、怒り肩なんですけど…」


「…あの、じゃあさ、じゃあさ、胸なんかは…」


「……見るまでもなく、レフォンさんの方が大きくて綺麗ですよね……?」


「あ、あの、ほっ、ほら、ここっ、こ腰回りとかアンちゃん細そうよ!

って言うか、絶対細いわよ!」


「…そうですか…?

…そうなんですかね…?」


「そうよ、絶対細いわよ!

ちょっと待ってねっと…」


 そう言うとレフォンは頭に手をやると、自身の長い髪の毛を一本引き抜いた。


「これを、こうしてっと…」


 抜いた髪の毛を自分の腰に巻き付ける。


「これが私の腰回りね♪

さあ、両手を挙げて」


 どうやらレフォンは髪の毛を物差し代わりにお互いの腰回りを測るつもりらしい。

 言われるがままに両手を挙げるアン。

 レフォンの頭が、かろうじて隆起しているアンの胸に押し当てられる。


「よいっ、しょっと」


 掛け声と共にアンのへそ前で髪の毛を交差させようとした時に悲劇は起こった。


 ルーサン王国やその周辺諸国において、美人の定義とは目鼻立ちの整っている事以外にも、よく働き子を沢山産む事が条件としてあげられている。つまりはどういう事かと言うと、胸と臀部が張っていて腰が括れている事が美人の条件となるのである。



 プチン



 交差に至るかなり手前の位置でレフォンの髪の毛は喜劇的な音と共に悲劇的に千切れる。


「…」


「…」


「…」


「…」


「…さ~てとっ、ゆっくりと暖まろうね、アンちゃん♪!」


「…はひぃ…」





 そして2人は何事も無かったかのように装いながら気まずい雰囲気の中、湯に浸かるのだが、アンは姿勢を前述のように湯船の縁に顎を乗せ何やら呟きだしたのである。


「…豊満なお腹…、…豊満なお腹…、…豊満なお腹…」


「…おーい」


「…豊満なお腹…、…豊満なお腹…、…豊満なお腹…」


「…アンちゃ~ん」


「…豊満なお腹…、…豊満なお腹…、…豊満なお腹…」


「…女は外見より中身よね」


「そうです!!

中身なんですよ、レフォンさん!!

人は見た目じゃない、中身なんです!!」


 急に膝立ちになり、天に吠えるアン。

 立ち上がる勢いで巻き上げた湯がレフォンにかかる。


「…やっと元に戻った……」


 頭に乗せていた布で顔を拭うと、生暖かい笑顔でアンを眺めるレフォンだった。






 一騒動(?)の後、服を脱いだ場所に戻りレフォンは早々と着替えたが、アンは裸のまま、義足も付けられず(湯に入るのに義足は外していた)所在なさげにレフォンを見ている。


「はい、これに着替えて。

大きかったり小さかったりしたら言ってね」


 湯殿の入り口に備え付けられていた棚をガサガサ漁ったレフォンは、漁った戦利品をアンに手渡した。

 渡されたのは下着一式とンガロやゲフトの着ているような濃紺の上下の服。

 見た目よりも分厚く織られた布で出来ていて、とても暖かそうだ。

 これから迎える真冬も、それを着ていたなら寒い思いはしなさそうな、しっかりした物である。


「こんな高そうな服を私が使っていいんですか?」


「引け目に感じることはないのよ。

何度も言ってるでしょう。

こっちはそれなりの対価を貰うんだから、気にしないの♪」


「ごめん…、有り難う御座います」


「いいえ、どういたしまして♪

さぁ、お腹空いたでしょ?

さっさと服を着て、皆と朝ご飯にしましょ♪」






 真っ暗の廊下を再び抜けて白い広間に戻ると、モコモコの着膨れンガロがポツンと立っていた。


「お嬢様、お早う、ございます。

アンちゃん、お早う、ございます」


「ンガロさん、お早うございます」


 レフォンは膝を付いて挨拶をするンガロに小さく頷くと、昨日の座っていた椅子に音もなく腰掛けると、例の革の本を開いて読み始める。


「他の人達はどうしたんですか?」


「ご主人様、仕事。

ゼフト、知らない。ヤゴエモン、鍛錬」


 とそこに、白い部屋にある赤い扉の1つから『死』の怒鳴り声が聞こえてきた。そこが作業場となっているらしい。


『おいンガロ、そこに居るか?!

研ぎ上げにはまだ時間がかかる!

朝飯にバオンの屋台のパオ、買い占めてこい!

ついでにそこに居る豊満な腹の女の荷物を宿から持ってきてやれ!』


 どうやったのかは知らないが、湯殿でのレフォンとの会話を聞かれていたらしい。アンは羞恥で顔が真っ赤になるのが解った。


「な、な、なっ…!

盗み聞きしてたんですか!

このスケベ!!」


『研ぎ場と湯殿は隣だ!

聞こえるようなでかい声で会話してる方が悪い!

それじゃあンガロ、頼んだぞ!』


「『死』さんの馬鹿!!」


 手で口を覆い笑い顔を隠すレフォン。


「…何が可笑しいんですか?」


 アンのジト目にレフォンは何でもないとでもいうように首を小さく横に振る。


「…もういいです!

行きましょ、ンガロさん!」


 アンは壁の自分のマントを怒りながら羽織ると、ンガロに声をかけた。


「はい、アンちゃん」











 死街地を抜けドゥマの平民街を着膨れた大男と小柄な女性が並んで歩く。周りからの視線は奇異な物を見る目で、ンガロはともかくアンは未だにその視線に馴れずにいた。

 そのせいか、歩く二人は終始無言であった。ンガロは言葉自体が拙いというのが理由ではある。


 それなりに気を利かしたのか、ンガロがアンに話しかけた。


「アンちゃん、新しい、服、似合う、可愛い」


「…えっと、あの、ありがとうございます…。

でも、何だか困っちゃうな…」


「困る、何故?」


「…私、褒められた事なんかなくて、慣れてないっていうか、何というか…」


「可愛い、本当。

ンガロ、慣れる、思う」


「そうなんでしょうか…?」


「そう」


 そんな会話をしている内にバーレン通りに面する「笑う梟亭」に到着する。

 平民街でも安い方になる宿で、見た目はいたって普通の木造の店舗だ。

 アンとンガロが店の中に足を踏み入れる。 途端に聞こえてくる甲高い男の声の遠慮のない言葉。


「なんだよ、こんな朝っぱらから客かよ?

やってらんねぇ…」


 その声の主の男が入り口正面のカウンターに足を挙げてやる気無さそうに座っている。

 偉丈夫がそのような格好をしていれば様になるのだが、いかんせん、その男はやせ細った初老の男だった。

 唇からはみ出す黄色い歯、落ち窪んだ目、つるりと禿げ上がった頭、それらが相まって骸骨を連想させる容姿を持った男。

頭頂部に申し訳程度に乗っている一房の白髪がフザケているように綺麗に曲線を描いている。

 『笑う梟亭』の主人である。


「なんだい、3日前の嬢ちゃんかい。

3日も帰らないと思ったら男連れで朝帰りかい?

大層なご身分だね」


「宿を引き払いに来ました」


「先にもらってる7日分の金は返さねぇぞ」


「…構いません」


「ほれ、部屋の鍵だ」


 ぞんざいに放り投げられた鍵を受け取るとンガロにここで待っているように言い、2階の部屋に荷物を取りに行く。



 部屋に入ると飾り気も何もない小汚いベットの上の鞄を手に取るとンガロの所に戻ろうとするが、はたと異変に気付いて鞄の中身を床にひっくり返した。

 床にぶち撒かれた荷物。

 荷物の1つ1つを慌てて確認するアン。

 財布を手にした時、その手応えにアンは愕然とする。

 震える手で財布を開けると荷物を鞄に急いで詰め込むと弾かれたように階下に駆け下りた。

 カウンターに足を挙げたままの主人に詰め寄る。


「なんだよ、嬢ちゃん?

怖い顔して。」


「泥棒です!」


「あぁ?泥棒?

うちの宿に?

何言ってんだ、おめぇ?」


「お金を盗られたんです!」


「おめぇ、馬鹿か?

うちの宿に泥棒なんて入る訳ねぇ。

トチ狂ったこと言ってねぇで、宿引き払うんなら鍵返して出て行きな」


「だって出かける前に鞄の蓋に髪の毛を結んでたのが切れてたんです!

おかしいと思って鞄の中身を確認したら、財布からお金だけが抜き取られてたんです!

だから私の部屋に誰かが入ってお金を盗んだんです!」


「なんだい、五月蝿いねぇ!

店先でくっちゃべってないで働きなよ、アンタ!」


 威勢のいい言葉と共に店の奥からデップリと太った中年女性が出てきた。

 長く伸ばした茶色い髪を後ろで1つに結い上げられていたが、縛りきれていない毛が幾筋も顔に掛かっており貧相さを強調するような残念あ髪型になっている。

 分厚い唇とブルンと自己主張するような丸い鼻。その上付いている夫と同じ様な落ち窪んだ目。

 ガメツさを全面に押し出したようなその女性は、カウンターに足を挙げたままの夫とそれに詰め寄るアンを代わる代わる見ると唾を飛ばして喋り出す。


「なんだい、その娘っこは?!

アンタまた若い子に手を出してハラましたのかい?!

おい、そこの女!

うちにはあんたに払う金なんか無いよ!」


「母ちゃん、違うよ!

こいつはうちの客だよ!

2階の2番目の部屋の!

部屋に置いといた荷物から金を盗られたってイチャモン付けてきてんだよ!」


 会話からするに「笑う梟亭」の女将だろう。


「イチャモンじゃありません!

部屋に置いておいた荷物から、お金を盗られたんです!」


「アンタは部屋の掃除でもしな!

そこの小娘も5万リヤルぽっちが無くなったからって五月蝿いんだよ!」


「本当に盗まれたんです!」


 睨み合うアンと『笑う梟亭』の夫婦。

 とそこに、突然ンガロがアンと宿屋夫妻の間に割り込んできた。


「待つ、する。話、変」


「なんだい、このデカブツ!

文句あんのかい?!」


「そうだ、余所モンは黙ってな!」


 突然の乱入者に僅かに鼻白む夫婦だったが、アンへの怒声のままにンガロにも罵声を浴びせる


「余所モン、違う。

アンちゃん、盗む、された、金額、言う、無い。

おばさん、金額、言う、した。

何故?」


「…うっ…、そっ、それがなんだい!?」


「…チッ…」


「そういえば私、盗られた金額言ってない…。」


「アンちゃん、5万リヤル、本当?」


「はい、鞄に別に入れておいた1万リヤル金貨が5枚無くなってました」


「おばさん、金額、知る、何故?」


「…う、う五月蝿いよ!」


 毛皮の帽子の間から覗くンガロの大きな目玉が宿屋夫妻を見つめる。

 宿屋夫妻は怯んでいた。虚勢は張っているが、この夫妻が客の部屋に忍び込んで金を盗ったのは明白だった。




「…んだよ、朝からギャーギャーと…」


「酒だ、酒!

二日酔いには迎え酒っと!」


「レッツも好きだね、酒…」


 とそこに、2階から柄の悪そうな3人の男がワイワイ騒ぎながらゾロゾロと降りてきた。

 宿屋の主人が渡りに船とばかりに彼等に飛び付く。


「オ、オイッ、アンタら!

こ、この小娘とデカブツを叩き出してくれ!

1万リヤル出すからよ!」


「マジ?!」


「おっほっ♪

儲け話♪」


「1万リヤル…。

ヤりますか」


 素行の悪そうな3人は親父の提案に一も二もなく飛び乗った。腰を落とし、アンとンガロをじりじりと取り囲む三人。

 宿屋の夫妻はそれを意地汚い笑みを浮かべながら見ている。

 アンはンガロに加勢すべく、マントをはだけ拳を握った。


「アンちゃん、見てる。見てる、勉強。

お前等、盗む、する、認める、した。罰、与える」


 3人の柄の悪い男達が動くより先にンガロが動いた。

 身に付けた毛皮でモコモコのはずのンガロ。だが、彼の動きは大型肉食獸の様に俊敏だった。

 1番近い男の腹部に足を突き刺すと、その勢いのまま地に足を付けずに男の腹を足掛かりに高くはないとはいえ天井まで巨体が跳ね上がる。

 残った2人の男がンガロの動きを追って上を向いた時には彼等の視界はンガロの靴の裏側で遮られていた。

 ンガロの右足と左足が別の生き物のように残った二人の男達の鼻を正確に踏み折る。

 鼻を押さえた2人が鼻から血を流しながら床に倒れ、腹を蹴られた男は踞って昨日の酒と料理を吐いている。

 もうもうと舞い上がる埃。


「…げぼっ、がはっ…」


「…がっ、ぐぅ~っ…」


「う~…」


 吐き戻した汚物と埃にまみれた、3人の男達の呻き声が聞こえる。

 折り重なった3人の手前にフワリと膝を曲げて軽やかに降り立ったンガロが、カウンターの前に立ち尽くした主人に語りかける。


「男、3人、倒す、する、した。

お金、返す、する?」


「あ、あぁ、わわ悪かった…。

返す、返すよ…」


 主人が呆けている妻の脇腹を震える手で小突くと、女将は重そうな体を揺すりながら店の奥から金貨5枚を持ってきて震える手でアンに渡した。


「文句、有る、する、〔『生』と『死』と老人と下僕共〕、来る」


「あ、アンタ、「死街地」のもんか?!」


「…ひっ!」


 驚愕の言葉と喉に詰まったような悲鳴をあげた主人夫婦はヘナヘナと床に座り込んだ。


「アンちゃん、バオン、店、ご飯、買う、行く」


「は、はい、ンガロさん」


 アンはンガロの身のこなしに、呆気にとられていた。






 宿を出てから貧民街へ歩を進めるンガロ。

 その巨体に着いていきながら、アンは先程のンガロの動きを褒め称える。


「ンガロさんも凄く強かったんですね。

あんな動きが出来る人を初めて見ました」


「…?

あれ、普通。

アンちゃん、あれ、する、成る。

ンガロとヤゴエモン、訓練、する。

あれ、出来る、成る」


「私があんな事出来るようになる訓練って、どんなですか?!」


 過去にアンは父による訓練を受けている。

 骨折こそ無かったものの、女の手で成人男子と対等に戦うことが出来るほどの腕前になるまでに父にシゴかれた覚えがある。

 そんな厳しかった訓練をこなしてきたアンですら出来ない動きを出来るようにする訓練の内容を想像し、アンはゲンナリする。

 それを後ろ目で見たンガロは、アンを励ます。


「心配、無い。

ヤゴエモン、言う、してた。

“頬骨に沿ったヤモリ”、安心、安心。

アンちゃん、大丈夫」


 ヤゴエモンの国の諺で安心を表す「大船に乗ったつもり」とンガロは言いたかったのだが、アンには伝わらなかった。


「…?」


 疑問符を頭の上に並べたアンを連れ、ンガロが貧民街に入っていく。

 それに伴い、道行く人々の格好も平民街と比べ格段にみすぼらしくなるが、アンは急に居心地の良さを感じるようになった。

 というのも途端に人々の視線が敵意と奇異から好意と親愛へと変じたからである。

 中にはンガロに気軽に挨拶をする者までいた。


 そんな中、ンガロが急に1つの屋台に歩み寄る。

 周りに幾つもある屋台の中で、不思議な雰囲気を持つ屋台だった。

 屋台を一般的な人や馬ではなく、ここら辺ではあまり見ない大角山羊が引いている。

 他の屋台と比べ看板も無い質素な屋台。注意していなければ荷車と見間違いそうな質素さだった。

 そして何より不思議なのが、その屋台の店主と思しき30才前後の男性。

 他の店主のように客を呼び込むでもなく、唯々、野太い腕を胸の前で組んで白目勝ちのドングリ眼で目の前をジッと見ている。

 目の前にンガロが立つと、白目勝ちのため小さく見える茶色の瞳がンガロの顔をチラリと見上げる。


「何だ」


 への字に引き結ばれた口から出たのは愛想の欠片もない野太い声。

 男は大きな鷲鼻をグイと右手の親指と人差し指でシゴくと瞳と同じ色の短く刈り揃えた茶色い癖毛を手櫛で擦った。

 これでは接客ではなく恫喝である。だがンガロはそんな男の様子に気後れすることはなかった。


「朝飯、買う、する、来た」


「そうか、解った。

イジャ、行くぞ」


 朝飯を買いに来たというンガロの言葉から、彼が『死』の言っていたバオンなのだろう。

 ンガロの言葉にバオンは了解の意を呟くと、屋台を曳く大角山羊の角を拳骨で軽く叩き先に歩きだしたンガロに続いて、盛り上がった筋肉で撫で肩になった肩を左右に揺すりながら歩き出す。

 イジャという名の大角山羊もバオンの後を屋台を曳きながら追う。

 一連の遣り取りを呆気に取られて眺めていたアンは慌ててンガロに続く。


「ンガロさん、彼がバオンさんなんですか?

何屋さんなんですか?」


「バオン、売る、する、バオ。

旨い。

凄い、旨い」


「…バオ?

…初めて聞く料理の名前…。

…でもこんな屋台じゃ何を売ってるか解らないよ…」


 アンの呟きを聞き取ったのかバオンがアンに視線を向けた。


「そこの嬢ちゃん、文句は喰ってから言え」


「はい!

ご免なさい!」


 思いもよらない反論にアンは首を竦める。

 その様子を見下ろしながらンガロが小さく笑う。


「ふふっ…。

バオン、言葉、悪い

バオン、悪い、無い。

良い、男」


「…チッ…」


 ンガロの言葉にバオンは舌打ちをした。

 彼なりの照れ隠しなのかもしれない。


「ま゛~っ」


 ガラガラと音を立てて屋台を曳くイジャが鳴いた。











 〔『生』と『死』と老人と下僕共〕に着いてからのバオンの動きは素早かった。

 屋台から組み立て式の食卓を引きずり出すと店内の広間に設置していった。

 折り畳み式の椅子を人数分取り出すと食卓の周りに並べていた。

 今は店の前に止まっている屋台に設置された鉄板で何かを焼いている。

 肉の焦げる良い匂いが店内に流れ込んできて、その場にいた全員の鼻をくすぐる。

『死』は昨日と同じく樽に座り、その左横には無表情なレフォンが座る。

 食卓は『死』の座る酒樽を基準に設置されており、『死』から向かって右側の食卓の辺にいつの間にか帰ってきていたゼフトとヤゴエモンが座り、左側にはンガロが座っていた。

 アンはというと、バオンの出してきた組み立て式の食卓や折り畳み式の椅子の機構が珍しく、食卓の下に潜り込んで組み込み部分を凝視したり床に座り込んで椅子を開け閉めして調べたりしていた。


「…おい、いいかげんにして座れ。

飯の前にバタバタと落ち着きがねぇぞ」


 『死』の言葉で全員の視線が自分に向いているのを今更ながらに気付き、アンは赤面しながらンガロの隣に椅子を開けて座る。

 途端に乱暴な音を立てて開く緑色の扉。

 全員の視線の集まったそこには何かを満載した盆を両手に持ったバオンが立っていた。

 右手の盆を『死』の前に、左手の盆をレフォンの前に置くバオン。

 盆の上には平たく焼いたパンのような者の中を開いて何かの腸詰めと新鮮そうな野菜を挟んだ物が旨そうな湯気を立ち上らせながら載っていた。

 働き盛りの男でも5個も食べれば腹一杯になりそうな質量を持ったそれが、各々の盆に少なくとも50は盛られている。

 その規模に圧倒され生唾を飲み込むアン。

 そんなアンを余所にバオンは同じ大量に載った盆をゼフトとンガロの前に、普通の1人前の量となりそうな3つを載せた盆をヤゴエモンとアンの前に手早く並べて外に出て行く。

 次に現れたバオンは小樽に取っ手を付けた物を6個と、赤く焼けた鉄の棒を6本持っていた。

 皆の視線が集まる中、バオンは器用に6本の鉄の棒をそれぞれの小樽に1本づつ、一度に浸ける。


 ジジジュ~~~~…


 中に何か液体が入っていたのか激しく立ち上る蒸気と辺りに漂う甘い香り。

 音がしなくなると鉄の棒を抜き各々の前に小樽を置いていく。

 アンが小樽を覗き込むと半透明の白黄色の液体が朦々と湯気を上げていた。


「できたぜ」


 それで全てを出し終えたのか腕を組んで目を瞑り緑の扉の横の壁にもたれ掛かるバオン。


「では、各自の祈りで素材に感謝しろ」


 昨日の「妖花」の時と同じ、各々がそれぞれの祈りを捧げる。

 『死』と『生』とゼフトは目を瞑り頭を垂れた。

 ヤゴエモンは右掌を開き指を閉じ体と直角に額に当てた。

 ンガロは両手を握り胸の前で交差させた。

 アンは両手の指を組み肘を机に付けるアフラルン教の祈りの姿勢をとった。

 暫くの静寂の時が流れる。


「さぁて、冷めねぇ内に頂くとするか」


 『死』の言葉を開始の合図として、皆が目の前の料理に飛びかかっていった。





 4半刻後、盆は全て舐めたように空になった。

 全員が満足そうにお腹をさすっている。

 バオンは無言で片付けをしている。

 片付けが終わるとバオンは1脚の折り畳みの椅子を持ってきて、食卓の空いた一辺の真ん中にドッカと腰を下ろす。


「で?」


 白目勝ちの目がギョロリと『死』を睨む。


「で?とは?」


 『死』が隻眼でバオンを睨み返す。


「お前は飯の為だけに俺を呼ぶはずがない」


「…今日のバオと林檎湯は旨かったな。

特にあの腸詰めは旨かった。

何を入れた?」


「…ふんっ、ここまで言ってもハグラカすのか?」


 余裕の表情でさっきの料理の評価をする『死』。どうやらバオン本人もアラウネ同様“その世界”の住人だったようだ。


「…いいだろう。

あれは城や貴族の馬鹿共が捨てようとした牛や羊や山羊や鳥の内臓だ。

奴等は内臓を臭くて不味いものと決めつけている。

だからそれを俺らが貰って腸詰めにした。

味付けは塩のみ」


 興味深そうに小さく頷いた『死』を確認するように見ると、バオンは再び語り出す。


「野菜や林檎もそうだ。奴等は虫食いや少し傷んでいたら捨てる。

それらも貰った。

俺らが必要としたのは小麦の粉と塩と水と料理する労力のみ。

言わばお前等はゴミを喰って旨いと言ったことになる」


「素材も喜んでるな」


「…たくっ、貧民街の奴等でさえ、この話をすれば嫌な顔の1つもするんだが…。

嬉しそうな顔をするのはお前等だけだ」


「光栄だ」


「…けっ、本当の用件を言いな」


「アロウネからの話は通ってるな?」


「あぁ、昨日の内に“兄者”に繋ぎを取っている。

…それだけか?」


「用件はそれだけだ。

だが、本当の用件はお前のバオが喰いたかっただけだ」


「…けっ、フザケやがれ…。

毎度あり、1000リヤル」


 『死』投げた銀貨を受け取ると椅子と食卓を手早く片付けバオンは帰って行った。


「…バオンさんもアロウネさんの一味なんですか?」


「…一味って…。

…お前な、盗賊か何かと一緒にするんじゃねぇよ。

奴は別組織さ。

今回は偶々利害が一致したから協力するだけで、状況によっては敵にもなる。

アンさんよ、覚えときな。

この国は王を頂点とした三角じゃねぇ。

俺らやアロウネやバオンみたいな裏方がわんさといるのさ」


「はぁ…」


「…ったく、朝から覇気がねぇなぁ…。

…まぁいい。

それよりも問題の“物”を見てもらおうか」


 そういうと作業場の赤扉の奥に姿を消す『死』。





 『死』が奥の部屋から取り出したのはアンの細剣。アンの鼻面にそれをズイッと付きだす『死』。


「さっさと確認しろ」


「はい!」


 意を決したアンが細剣を鞘から抜き放った。











 ――蒼い、炎?


 昼でもなお煌々と照らされているシャンデリアの元で、アンの目に飛び込んできたのは細剣の形に形成された蒼い炎だった。

 驚きに剣を凝視すると元の細剣の輪郭が浮かび上がる。

 シャンデリアの光量と白一色の部屋の背景のせいで剣が輝いて輪郭が見えなかったらしい。

 細剣は刀身の全体が鏡面研磨された元の物とは大きく趣を変えていた。

 アンが思い出したのは父シエル=シノギが作った刀だった。

 形は違えども刀身の表面に浮かび上がる青黒い模様はまさに刀と同じ物だった。

 ただ、父の刀と圧倒的に違うものがあった。

 存在感、とでもいうのか。

 父の鍛えた刀を見たときは、道具や武器としか思えなかった。

 それが『死』に研がれたこの細剣はどうだろうか。


 例えば幼い頃、父シエルに連れられてテッコ山を越え道無き道を進みそして視界が開けた場所で初めて見た海に沈み行く夕日。

 例えば1月前、聖王都を目指してリール砦まで来た時に北から北東にかけて広がる大樹林のむこうに神々しく鎮座していた「神々の山脈」。


 人の手で作られるはずのない大自然の神々しき存在感が、人の手によって作られた剣に宿るという矛盾。 その圧倒的なまでの“力”を手にしたアンは一言呟くのがやっとだった。


「…綺麗…」


 アンの一言に『死』がしたり顔で笑う。


「お前の負けだ。

報酬は規定通り、“お前の持てるもの全て”を頂く」


 アンは『死』と取り交わした約束を思いだし臍を噛む。


「…あっ!?

くっ…」


「何だ?

文句あんのか?」


「…いえ、無い、です…」


「ちょっと見せてもらえマスカ?」


 ヤゴエモンに細剣を鞘に納めて渡す。

 昨日と同じく服の合わせから紙と白い布を取り出し、紙をくわえると鞘から剣を抜き放つ。

 真剣な表情で布で刀身を拭い刀身をつぶさに観察する。

 次に刀身に光を反射させるように何度かゆっくりと傾け、最後に切っ先をシャンデリアに向けジッと見つめる。


「ふぅ…、素晴らしい物を見せていただきマシタ。

眼福、眼福♪」


「で最上大業物の感想は?」


 『死』がヤゴエモンに問う。


「いや~、凄いの一言に尽キマス。

切先はふくら枯れる小切先、鎬筋は高く平肉つく、つまり刃の厚みは厚いというこトデス。

鍛肌は非常に珍しい混じり無しの杢目肌デス。

帽子つまり切先の刃紋は火焔帽子で刀身の刃紋は所謂「数珠刃」デス。

こんなに激しい刃紋をしているノニ、地景、湯走り、地斑、打のけ、食違刃、写り、少なイデス。

…あー、つまり驚くほどに細かな特徴が刃に現れていないというこトデス。

まさに豪快にして繊細、伝え聞いた鎬一族の作りし刀の特徴と一致シマス。アト、刀剣鑑定ではあまりこんな事を言いませンガ、この剣より溢れる凄まじい存在感!

それにシノギを名乗る者が先祖の作った剣と証言している事。

それらを全て考えルニ、この一振りは名刀工集団の鎬一族開祖一刀斎が弟、鬼才レンジロウ=シノギの打ち上げたものと断定でキマス!!」


 『死』と『生』以外の人間が恍惚と喋るヤゴエモンをポカンと眺めている。

 その表情達に今にも興奮で抜き身の剣を片手に踊り出しそうだったヤゴエモンは咳払いを1つすると、剣を鞘に納め気不味そうにアンに剣を手渡した。


「さて、研ぎ仕事も終わって嬢ちゃんとの賭にも勝った。

ゼフト、旅の手配は?」


「北の船着き場で手配屋モブラが終わらせてるはずですの」


「『鼠』のモブラか?

またガメツいのに頼んだな」


「昨日の今日でドワーフ達への土産と馬車と馬の手配が出来るのは彼奴位ですの」


「まっ、しゃーねーか…。

さて、嬢ちゃん行くぞ」


 ヤゴエモンから埋葬着を受け取りバサリと羽織った『死』がアンに声をかける。

 そして当たり前のように、またレフォンを肩に乗せると店の緑の扉に歩き出した。

 呆けていたアンもゼフトから鞄や母の毛氈のマントを受け取ると、緑の扉を肩のレフォンに気を付けながら潜る『死』の影を追った。


「ま、待って下さい!」


 アンは駆け出した。

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