長い帰り道
こんにちは、Hanzoです。
前の投稿よりエラく時間がかかりました。
申し訳ありません。
では、お楽しみ下さい。
ドゥマの北部地区で1番大きな店構えの「妖花」を始めとする高級な店々で構成される上流階級御用達の高級歓楽街。
豪奢な店構えが続く大通りの真ん中を、自分の店のある「死街地」の方向の西に向かって進む『死』の黒い大きな背中と銀髪を見つめながら、一団の最後尾に付き従い左手の杖を突き歩くアン。
彼女達の一団や周りを歩く人達の呼気は白く煙り、夜の冷え込みが増してきたのを表していた。
彼等の異様な風体のせいか、はたまた巷に出回る噂のせいか、夜半を回った寒空の下にもかかわらず熱気に包まれた大勢の人々の流れは、白い美女を肩に担ぐ黒い大男を先頭に進む6人の一歩先を活気の温度を下げながら忌み避けるように割れていっていた。
非番であろう若い兵士か傭兵らしい体格の良い男達が酒場から集団で賑々しく出てきて、『死』と鉢合わせになり酔いも冷めた顔で慌てて道を譲る。
陽気な調べを木製の笛や革の張った片手持ちの太鼓や金属製の鐘やリュートやハープ等の弦楽器で踊り奏でる派手な衣装の吟遊詩人や旅芸人達は、一斉に演奏と踊りを止め静々と道の端に寄る。
美しく着飾った女や取り巻きの男達を従えた、貴族か城仕えの役人らしい立派な身なりの壮年の男が豪華な馬車から降りたった集団は、『死』を目視するやいなや全員が恐怖に顔色を染めながらも、出来る限りの威厳を取り繕いながら、出来る限り素早く店の中に逃げ込んでいった。
酒や果物の汁が入った沢山の瓶や、酒のつまみになる羊肉の串焼きや、色んな餡入りの饅頭や、干し魚の焼いた物や、砂糖や小麦の菓子、色とりどりの果実等の食べ物を載せた屋台を押したり引いたりして売り歩く路上の商売人達は、何時もの事らしく顔色も変えずに道を譲るが、よくよく観察すると彼等全員の目は『死』を見ると汚れるかのように目線を斜め下に逸らし、その姿を視界に入れないようにしていた。
商談をまとめたのか、路上で杯を酌み交わし飲み物で自身の口髭を濡らす南方の商人風の白を基調としたゆったりとした服装の男達は、周りの様子と『死』達の雰囲気とに会話を忘れ、口と目を見開いて目の前を通り過ぎる6人を呆然と眺めていたのを周りのドゥマの人々に小声で注意されていた。
上客を自分達の店に連れ込もうと、道行く財布の豊かそうな男共に狙いを付けて、甘い声を出し、袖を引き、頭を下げ、お愛想を並べ、わき腹を抓り誘惑する娼館の呼び込み女達は『死』が視界に入ると警戒心の強い野良猫のように、顔に嫌悪という文字を浮かび上がらせながら路地裏に隠れる。
盛り場の警備のため、物々しい鎧姿で斧槍を携えながら馬に乗り行進していく騎士の隊列は、道を譲ろうとはしない『死』の一団に不自然に隊列を乱し、心持ち自分達の乗馬を早足にさせるように馬のわき腹に鐙を当てながら慌ててその場を離れていった。
美酒に酔ったり、珍味に舌鼓を打ったり、話しに夢中になったり、自分の仕事に一生懸命だったり。
そんな人々が『死』を先頭にする集団を視界に確認すると、近付くと祟られるか呪われるかのような恐怖や嫌悪の様子で道を譲るため彼等自身や彼等の車や馬や屋台を『死』の進路から退かしていく。
そして『死』が通り過ぎた後は、道に唾を吐いたり、アフラルン新教や自分達の守護神の祈りを素早く天に向かって捧げたりして、何事も無かったかのように道を空ける前の動作に戻っていくのだった。
そんな状況を「妖花」に行く往路の間こそ珍しげにキョトキョトと眺めていたアンだったが、2度目となる復路になると物珍しさも薄れた。
それだけでなく、アンは自身の中に何かもやもやした疑問が大渦を巻いているという状況に表情を曇らせ、悶々としていたのだった。
前を行く『死』の後ろ姿を見つめながらその自身の疑問の事を考え続けている。
アンは自分の前を行く5人を改めて見た。
先頭を行く『死』は「妖花」で飲み干した7樽の火酒の酔いなど微塵も感じさせず、夜の闇よりなお暗い生地に夜空の星々よりも煌びやかな銀糸の刺繍の施された黒の埋葬着の裾を冷たい空気にはためかせながらズンズンと道の真ん中を進んでいく。
『死』の肩の上には深夜の暗闇の中、店の軒先に吊されたランプの灯りで未だ分厚く古めかしい革本を読み続ける、純白と金糸の清らかな衣装を纏った神々しい美女の『生』。
彼女の深夜の闇と同色の長い髪と白いケープが一陣の寒風にさらりとかき乱されるその様が、アンにはそれだけで幻のような光景に見えていた。
まるで何かの間違いのように『生』の周りだけが明るく見えるのは気のせいか?
その『死』と『生』の後ろに従うは小柄な助平老人にして〔『生』と『死』と老人と下僕共〕の自称職人ゼフト。
彼の白髭と白い長髪とそれに結わえられた緋色のリボンが、道化のようなひょこひょことした歩みに合わせて揺れている。
ゼフトの右側には長い黒髪を後頭部に馬の尻尾のように結んだ異国の“侍”と名乗る男ヤゴエモンが摺り足で体を揺すらない独特の歩き方で歩を進める。
左側には毛皮の衣服で丸い塊のようになっている、濃褐色の肌を持つ、これまた異国の大男の戦士ンガロが着膨れて歩きにくいのか心なしかふらふらしながら進んでいる。
更にアンは歩きながらこの場には居ない、「妖花」の主人で老いてなお美しくも危険な薫りを漂わせる『大耳』の2つ名を持つアロウネと、そしてそのアロウネの右腕にして麗しく華麗な乙女な外見ながらも実は男性というアロウネの腹心であるカリナを思い浮かべだ。
――不思議な人達…。
黒かと思えば白、白かと思えば灰色。
善かと思えば悪、悪かと思えば中立。
ことごとく欺かれ、逆をつかれ、想像を遙かに超えていく彼等の存在が、1つの国の端から端まで女1人で旅をするという無謀な事をやり遂げた信念を、あっという間に骨抜きにしてしまった。
疑問が疑問を呼び、何時の間にやら自身の父を助けるという自分の行動の根幹であるアンの立ち位置さえアヤフヤになってしまっている。
――…私、…お父さんを助けたい…のかな?
アンは疑問を解決すべく意を決して「妖花」で行われた話し合いでの疑問を『死』にぶつけてみる事にした。
「あの…、『死』さん、ちょっといいですか?」
アンは杖を小脇に挟むと、小走りに前の3人を追い抜き、『死』の横に並んで歩きながら言葉をかける。
「あぁっ?
何だ?」
相も変わらず不機嫌そうな『死』の声。
アンの方を見ようともしない。
その重い声と歩みを緩めもせずアンの事も気に掛けない様子に怯みながらも、アンは疑問を喉から何とか押し出す。
「…カシエさんが呪言師って何の事なんですか?
あの、私って操られてるんですか?」
横から見上げる『死』の眉間の皺が少し浅くなり、眉尻から険しさが薄れる。
「…俺達の話を聞いて今までの自分の行動が信じられなくなったんだな…。
…お前、操られてるって実感があるか?」
穏やかで優しささえも含んだ、今までにない『死』の声色にアンは少し驚きながらも答える。
「…あの、あの、そんな感じは無いですけど…?」
「…だろうな。
呪言師っていうのは普通の会話の合間合間に魔力を練り込んだ言葉、つまり“言霊”を織り込み、会話をした相手の意思の選択を操作する“特殊”な魔法使いの事だ。
操られた相手は操られている事に気付く事はすら出来ない。
ネチっこくて、陰険な奴等さ」
「…魔法を使えるのって魔導師や魔導士や魔術師や魔術士や教会関係者だけじゃないんですね」
『死』の肩の上の『生』の肩がピクンと小さく動き、感心するアンをチラリと横目で見てから、また魔導書に視線を戻す。
『死』の説明は続いていた。
「呪言師は特別な存在だ。
人を操るという能力で歴史の闇で暗躍してきた特殊な存在の1つさ。
そんな存在、知らなくて当たり前だ。
ただな、呪言師は会話をすれば無条件で操れるって訳じゃねぇんだ。
操りたい対象の思いや考えを利用し、術者の導きたい方向に被術者の考えを導く。
だから今お前が選択した事は、元々お前の頭の中に有った選択肢だ。
行動全てをカシエって野郎に自由に操られているわけじゃねぇ。
そこは安心しろ」
「…そうなんだ。
よかった」
『死』の言葉に安堵の表情を浮かべ、安心の小さな溜息を吐くアンに『死』が前を向いたまま警告の言葉を繋ぐ。
「安心するのは早ぇぞ。
腕の立つ呪言師は1度の会話で術の対象者の選択決定権を握り続ける事が出来る。
可能ならば、対象者の命の有る限りずっとな…」
「…どういう事ですか?」
アンの表情が再び不安に曇る。
「簡単に言うとだな…。
長い時間がかかるが、呪言師の決めた結果に術対象者の行動を操っていく事が出来るって事だ。その呪言師が腕が良ければ良いほど、それは顕著になる。凄腕ともなれば、操られた人間は呪言師に人生を握られると言っても過言じゃねえ。
そして、残念ながらカシエって野郎は“凄腕”に分類される呪言師と思って間違いない」
「そんな…!
それじゃあ操られているのと一緒じゃ…!」
『死』の淡々とした言葉に、アンは不安に歪めていた顔を泣き顔に変じて『死』に詰め寄る。
チラチラと様子を遠巻きに見守っている周りの人々から、アンが『死』に詰め寄った瞬間、小さな悲鳴とざわめきと息を飲む音が聞こえ、辺りが軽く騒然となる。
『死』の肩に乗った『生』が黒い瞳を魔導書からアンに視線をチラリと移しまた魔導書に戻す。
「…誤解すんな!
それは違う。
選択肢はあくまで術対象者の考えの中から選択される。
無い選択肢は出ない。
求める結果が複雑なほど長い時間がかかる。
数十年単位の時間が必要って事もあるんだ。
呪言師が対象者に無茶な結果を望んだら、時間がかかりすぎて結果が出るまでに対象者が『アフラ・シン』の身許に召されるほうが早いって事になる」
涙目で詰め寄るアンの頭を右手ガッチリ掴んで制しながらも、前を向いたまま歩みは緩めず『死』は説明を続けた。
「じゃあじゃあ今回、私が『死』さんの店を訪ねた事は、私の選択した事という事になるんですよね?!」
頭をゴツい右手で押さえられ歩みを止めてくれない『死』と併走しながらも、アンは怯まずに更に額を右掌、疑問を『死』にぶつけ続ける。
涙目で鼻息荒く、更にグイグイと詰め寄ってくるアンに、この男には珍しく軽く狼狽していた。
「くっ、ちょっ、や、止めろ、鼻息が荒いぞ!
ったく、…そう考えるのが自然だ。
だが安心は出来ない。
だから今晩すぐに『生』にカシエの術を解いてもらう。
それとな、……………………………………………………………鼻毛が出てるぞ」
『死』の貯めに貯めた言葉に詰め寄るのを止め、慌てて鼻を隠したアンは視線を感じ、ふと『死』の肩の上の美女を見る。
『生』が自分の名を呼ばれたのに反応し、『死』の肩の上からアンに向けて神々しいまでに美しい微笑をアンに向けて降り注がせていた。
アンは鼻毛が出ているであろう鼻の穴を隠しながら、美しいその微笑に同性ながら吸い込まれるように見惚れてしまう。
「あっ、あの、私の話を聞くだけで、カシエさんが、凄腕の呪言師って、何故解ったん、ですか?
あの、その、ゼフトさんが言ってた、“世界の目”とかいうやつで、調べたんですか?」
はたと気付き、『生』の微笑から無理矢理に視線を引き剥がしたアンは、何故か動揺し頬が紅潮する自分を隠すように次の疑問を『死』に投げかける。
その間、親指と人差し指で鼻の穴を摘んで鼻毛が出ていないのを確認していた事は誰にも言わない秘密だ。
――『生』さん見てると、ドッ、ドキドキして目を離したくなくなって恐い…。
――…そう、『生』さんは恐いくらいに綺麗なんだ…。
アロウネの店の食事の時も、アンは意識して『生』を見ないようにしていた。
アロウネもカリナも綺麗だったし、今まで沢山の綺麗な女の人を見てきたけど、こんな気持ちになる女の人にアンは初めて会った。
初めて顔を合わせた時から受けていた印象。
隠して祀られなければならない美しい神を見てしまったような背徳感という蛇と、それをもっと見たいと思う欲望の蛇の2匹共にアンの心が巻き付かれてギュウギュウと締めあげられているような感じ。
このまま『生』を見続けていたら自分がどうにかなりそうで、必死に『死』に意識を向ける。
そんなアンの様子の変わり様を怪しむように、チラリと一瞥した『死』は歩みを進めながら答える。
「…“世界の目”の事はお前が知らなくていい事だ。
お前が親父さんをさらわれてから精神を病んだ時、カシエって奴との会話で回復したんだよな?」
「は、はい。
…多分ですけど…」
『死』の疑問に、動揺が納まらないアンが自信なさげに答える。
「病んだ精神を癒すのは時間か薬か魔法だけだ。
精神を癒す魔法はいくつか存在する。
だが、魔法陣もなし、呪文も無し、会話で一瞬に精神を癒す。
そんな芸当できるのは呪言師だけだ。
それも“凄腕”のな。
まあ、呪言師の場合は癒すというより、正気に戻る選択をさせるんだがな。
心の傷は癒されずに残ったままになる」
「ふぅん…。
カシエさんって凄いんだ…。
あの、あの、じゃあ、カシエさんが偽名だって思ったのは何故なんですか?」
この際、疑問は全て聞いてしまおうと質問を繰り出すアンに『死』の不機嫌な顔が苦痛の形に軽く歪む。
「…根掘り葉掘り聞く奴だな…。
お前の話の中で、カシエって野郎が俺の店でリュートを作ってもらおうと探したって言ってたろう」
「はい、本人がそう言ってましたから」
「俺は自分の店を探している奴の情報を全て把握するようにしている。
普段からいろんな奴に金を払って情報を買ってな。
実際に来ようと来まいと関係なくだ。
その記録の中にお前から聞いたカシエ=エラという名前と容姿が一致する奴がいなかった」
嫌そうに顔を歪めながらも律儀に答えている『死』を見て、後ろに続くゼフト、ヤゴエモン、ンガロがソワソワしだすが、そんな事は目に入らないアンは歩きながらの質問を更に続ける。
「…という事は、私が『死』さんのお店に来ることを『死』さんは事前に知ってたんですか?
やっぱり知らせたのはアロウネさんですか?
それにアロウネさんって何者なんですか?
カシエさんの事もアロウネさんに頼んでたし…。
『死』さん達の仲間とはちょっと違うみたいだし…。
どういう関係なんですか?」
続けざまのアンの質問の言葉だが、それに答えようとはせず「妖花」を出てから初めて立ち止まる『死』。
「…?
『死』さん?」
立ち止まった『死』の顔を不思議そうに見上げるアン。
その表情は奥歯を噛みしめて、隻眼を瞑り、眉間は小さく盛り上がり皺を深く刻み、今にも怒鳴りだしそうな様子だった。
握った両の拳も小さくワナワナと震えている。
そんな沸点間近の自分の雇い主を爆発させまいと、ゼフトがアンと『死』の間に無理矢理割り込んできて、『死』の変わりに答えだす。
「た、確かにアンちゃんが来るのを知らせたのはあの女だの!
あの女の使いの男ときたら、あっしに10リヤルもせびりやがったからの!」
いつの間にやら話がずれだしたゼフトに変わり、今度はヤゴエモンが慌てて割り込んで来て答えだす。
「ア、ア、アロウネさんは「妖花」の主人であると共に、『大耳』と呼ばれるあらゆる情報を売買する組織の頭デスネ!
裏の世界では有名な方なノデ、お付き合いの仕方には色々と注意して下サイネ!」
「アロウネ、店、飯、美味い!
今日、無い、豚、肝臓!
羊、血、腸詰め!
残念!」
ンガロまでが長い手をバタつかせながら「妖花」の今日の料理で食べたい物が無かったという、どうでもいい事をアンに向かって大声で話し始める。
「…ふんっ…。
……特にお前は彼奴に気に入られたらしいから注意しろ。
……今までアロウネに“気に入った”と言われて良い人生を送った奴を俺は知らねぇ。
……もう、質問の時間は終わりだ…。
帰るぞ」
3人の男達の自分の不機嫌さへの慌てように、『死』は一瞬だけ眉を八の字にして鼻から小さく息を吐き肩をすくめると、元の不機嫌そうな顔に戻り、アンに詰め寄る3人を右手で制する。
途端に3人はそれぞれに安堵の表情を顔に浮かべ、再び歩き出した『死』に付き従う。
相変わらず前を向いたまま、アンの続けさまの質問責めに終わりを宣言した『死』の発した不吉な言葉に、膝の本に目を落としたままの『生』が真剣な顔でコクコクと頷いていた。
「えっ…、は、はい、気を付けます」
一連の男達のドタバタとした動きにや言葉に呆気に取られていたアンが腑抜けた声で返事をし、再び『死』に並ばんと歩き出した。
「ふっ…。
まぁ、俺らと契約した時点で不幸だわな」
鼻で笑って『死』が自嘲気味に発したその言葉にアンは小首を傾げる。
『生』が『死』の肩の上で悲しそうに首を左右に小さく振っている。
「…不幸…なのかな…?」
アンは歩きながら後ろの3人の反応が気になり、右足を軸に反転し両足が義足とは思えない器用さで後ろ歩きし始めた。
後ろを向いたアンの目には、ンガロの表情は覆い被さる髪の毛で見えないが、ゼフトとヤゴエモンがアンに向けて苦笑して首を小さく横に振っているのが見えた。
表情が解らないンガロも首は左右に振っている。
『死』なりの冗談か戯言のようなものと理解しアンは小さな安堵の溜息を吐いた。
突然、後ろを向いたままのアンの視界の中のヤゴエモンの雰囲気が、にわかに強ばる。
さきほど『死』とアロウネが「妖花」の奥の部屋で作り出した空気。
“殺気”と呼ばれるピリピリした感じ。
ヤゴエモンよりも遅れてそれを感知したアンは慌てて周りを見渡すが、それらしき人物は見あたらずヤゴエモンに問うような視線を向ける。
ヤゴエモンの細い目が心持ち見開かれ、鋭い視線は『死』達一団の進行方向をじっと見つめた。
その僅かな様子の変化に、アンが慌ててヤゴエモンの視線の先を見ようと前を向くと、店々のランプの橙の灯りに照らされた人混みの中、人々の流れの割れた先に濃灰色のマントとフードの人物がただ1人で『死』達の行く先に立ち塞がっていた。
殺気の出所はその人物でのようだ。
いつの間にか先ほど「妖花」に向かう際、兵士達と一悶着あった「死街地」との境目辺りまで来ていた。
『死』がいつもの不機嫌な表情から一転、邪悪な笑顔を隻眼の顔に浮かべ、嬉しそうに小さく呟く。
「…こんな所でお客様とはな…。
…どのようなご用件でしょうか♪」
人を食ったような口調ではあるが、『死』の纏う雰囲気は決してふざけておらず、むしろ戦場の熟達した兵士のそれを感じさせるものであった。
道をさっさと譲る他の住人達とは違い、明らかに道を塞ぐように立つ濃灰色のフードの人物。
『死』と変わらない背丈と広い肩幅から男性と思われる。
近付く『死』の一団に怯む様子もなく、道の真ん中で一行を待ち構えている。
“殺気”は出しっぱなしで、そんな空気に疎い平和ボケしたドゥマの人々も違和感を感じ、マントの男からも距離を置き始めていた。
『死』はマントの人物から7歩位手前の所で歩みを止めた。
途端に今まで忌み嫌うように道を空けていた周りの人々が、強い興味の視線を向けながら灰色のマントの男と立ち止まった『死』の一団の周りを囲み出す。
あっという間に『死』とマントの男を囲む円形の人垣が出来た。
「喧嘩か?」
「無謀な奴も居たもんだ」
「彼、殺されるわよ」
「わざわざ奴等に喧嘩をフッカケるヤカラじゃ。
何かヤラカすかもしれんぞい」
「おい、押すなよ!痛ぇよ!」
「ちょっ、ちょっと、お尻触らないでよ!」
騒然とした周りの様子の中、『死』が笑顔の形に歪めた口を開いた。
「何処の何方さんで?」
放たれた『死』の言葉に合わせるように、男はフードを脱ぎマントの留め金を外しその場に脱ぎ捨てた。
そこから現れたのは30代半ばの男。
先ほど道を封鎖していた兵士達と同じ型の上半身のみの鎧を着て、これも同じ形のブロードソードを腰から下げていた。
ただ兵士達の被っていたような兜は被っておらず、日に焼けてくすんだ赤いボサボサの髪がフードを脱いだ左手で掻かれて余計にボサボサになっていた。
その髪の下で光る敵意に満ちた黄色い瞳が『死』を捉えて鋭い目線で睨みつけている。
「待っていたぞ、この悪党め!!
我が国を蝕む、獅子身中の虫め!!」
芝居がかった言葉を吐きながら、「ビシリ!」という効果音が付かん勢いで『死』を指さす男。
途端に『死』の体からは力が抜け、纏っていた荒々しい戦士のような気配も消え失せる。
「…何だ、お前か…。
…めんどくせぇ」
男の顔を見て残念そうに言葉を吐き捨て明らかに落胆した様子の『死』に、アンは疑問を投げかけた。
「お知り合いなんですか?」
「おろ、解らんかの?
アンちゃんもさっき会ってるの」
ゼフトの声にアンが振り返ると、「解らないのか?」と言いたげなゼフトの顔と首を傾げるヤゴエモンとンガロの姿があった。
「ええっ、そうなんですか?」
先ほどからの会った人物を思いだしても該当する人間はいない。
必死で記憶を捻りだすが、誰も思い浮かばない。
「…………誰ですか?」
いくら考えても解らない物は解らないので、アンは申し訳なさそうにもじもじしながらゼフトに答えを求める。
「アンちゃんを襲った連中を引き渡した兵隊の隊長さんだの」
「あっ、そう言われれば!」
両手をパチンと顔の前で打ち鳴らし納得顔をするアンに、ゼフトは呆れ顔で肩を竦めアンに歩み寄る。
「まったく、こんな事も解らんようでは先が思いやられるの…」
「…うぅ、ごめんなさい、ゼフトさん」
攻めるような厳しいゼフトの言葉にアンが謝罪の言葉を呟きながらうなだれる。
「謝る必要はないの。
能力は磨けるもんなんだの。
1番手っ取り早いのは、失敗には罰を与えて次回には失敗しないように心に刻むという事を続ける事だの」
講釈をタレながら頭を垂れたアンの周りをゆっくりと歩き回り始めるゼフト。
「はい」
ゼフトの勿体ぶった講釈にも真剣に耳を傾けるアンの背後でゼフトは足を止める。
ゼフトの目がだらしなく緩み、口髭の下に隠れた口が笑みの形に歪む。
頭だけ後ろを向いたアンの死角からゼフトはアンの臀部にそっと掌を当てた。
「ということでアンちゃん、解らんかった罰としてお尻を触らすの」
「きゃあっ?!
何だかんだ言ったって、お尻を触ることが目的じゃないですか!
女の子の体を何だと思ってるんですか!
さっきは兜を被ってたから、解らなかったんです!
ンガロさんとヤゴエモンさん、何か言って下さいよ!」
臀部に走る不快感に、お尻を押さえて飛び退いたアンはンガロとヤゴエモンに助けを求める。
「…アンちゃん、観察、する、眼、無い。
…厳しい、訓練、する、必要」
「そうデスネ。
少しはマシかと思ってましタガ、勘違いみたいデスネ。
…殿が義足を作ったら忙しくなりそうデスネ」
ンガロとヤゴエモンはゼフトがアンを追い回すのを余所に、頭を突き合わせて何やらボソボソと話をしている。
「あ、あの、…ンガロさん、ヤゴエモンさん?」
アンの呼びかけに反応しない2人に、逃げ回る足を止めて困惑顔で呼び掛けるアン。
逃げ足が止まった彼女に緩みきった顔で両手をワキワキしながらゼフトが迫る。
「さあ、その小さな桃尻をあっしにコネクリ回させるの!
ハァ、ハァ、ハァ…♪」
「…ひっ!きゃー!」
再び逃げまどうアン。
イヤラシい目で追うゼフト。
「非常時の動きも、全くなってまセンネ。
これは鍛えがいが有リマス」
「鍛える、大変、アンちゃん、大丈夫?」
「何とかするのが我々の役目デスヨ、ンガロ」
『死』を指さしたまま固まった隊長と、それを受ける形で立ち尽くす『死』を余所に、アン、ゼフト、ヤゴエモン、ンガロの4人で大騒ぎしていた。
周りを取り囲む野次馬はそんな様子に呆気に取られて、全員が汗を流しながら口をアングリと開けていた。
「……おい、お前等、しょうもねぇ事グダグダ言ってねぇでさっさと帰るぞ」
まるで指をさされた事など無かったかのように、後ろの4人に声をかけ歩きだそうとする『死』に隊長は慌てて行く手を阻む。
「…き、貴様!
人を無視するな!!」
「…あぁっ?
何だ、まだ居たのか?
今消えるなら見逃してやる。
だからさっさとお家に帰りな、隊長さん」
羽虫でも追い払うかのように右掌をパタパタと振る。
「う、五月蝿い!
我が名はアクセルト=ルーベント!
副宰相ルーデン=バルエ=ロンサム様直属、王都治安部隊第2隊「草の短剣」隊長を務める騎士である!
貴様に!
『死』に決闘を申し込む!」
バタバタと騒ぐ周りを余所に、決闘という物騒な事を『死』に対して大声で叫ぶアクセルトに、騒いでいた『死』の一団も含め、その場の全員の視線が集まる。
その視線のほとんどは驚愕と期待と興奮に満ちていた。
だが少数だが、侮蔑と嘲笑と疑問に満ちた目線を放つ者もいる。
その1人は『死』。
「…はぁ?
決闘?
時代錯誤な物言いだな。
…決闘の理由は?」
『死』の声は疑問に侮蔑を混ぜ込んだ声色なのだが、頭に血が昇り熱くなったアクセルトはそんな感情の温度差に気付きもせず、またもや芝居がかった身振り手振りで熱く語り始める。
「知れた事を!
貴様が副宰相様の弱みを握り、この王都にて悪の限りを尽くしているからだ!
先程もお前に言ったはずだ!
私はお前等を認めないと!」
「…悪事ねぇ。
勘違いが甚だしいな、血気盛んな隊長さん。
この決闘はお慕いする副宰相様の命令かい?
それでなくても迷惑は掛かるぜ?どうすんだ?」
完全にからかう事が目的の『死』の言葉に、真剣な様子で熱く答えるアクセルトの口角から泡となった唾が飛ぶ。
「私の名はアクセルトだ!
お前に脅されているあの方は、深く悩み傷つかれている!
それを早くお助けしたいだけだ!
この決闘自体は私の独断!
あの方は関係ない!
さあ、決闘を受けろ!」
一歩進み出て更に『死』に指を指すアクセルト。
その両の瞳は真剣を通り過ぎ、幾らかの狂気を含み始めていた。
「…“あの方”、“あの方”って五月蝿ぇな…。
…同性愛者かっつぅの…。
この決闘は俺への利点がねぇ。
帰る。退け」
アクセルトにかまう事に飽きたのか、狂気じみてきた言動に嫌気がさしたのか定かではないが、『死』は立ちはだかるアクセルトを避けて「死街地」に向かって歩き始める。
「ま、待て!
そ、そんな事は駄目だ!」
「それはお前の都合だ。
知らん」
慌てて両手を広げて再び行く手を阻むアクセルトだが、拒否の言葉と共に簡単に振り払われてしまう。
「…くっ!
…!?
そっ、それならば貴様の連れの小娘を斬るぞ!!
斬られたくなければ決闘を受けろ!」
帰ろうとする『死』に付き従い共に行こうとしていたアンにアクセルトの指が指される。
「…えっ、わ、私!?」
厄介事に巻き込まれまいとコソコソと『死』に続こうとしていたアンに驚きと緊張が走る。
急に額に脂汗が流れ、アクセルトから離れようと後ずさる。
「…隊長さんよ、断られる事を想定していなかったろ?
…まったく、…阿呆だ…。
仮にだ。
この決闘に俺が勝ったらどうしてくれる?」
「我が名はアクセルトと言っただろう!
…ふんっ、もう勝つ気でいるのか、図々しい奴め。
…いいだろう。
お前が勝てば、私の全てをくれてやる。
だが、私が勝った時はお前達はこの国から出て行け!
この国に、ルーサンに2度と干渉するな!」
『死』がアンの命と引き替えに決闘を受けると思ったのか、再び熱の込もった口調で全身黒色の不吉な名の男に向かって唾を飛ばす。
「ふんっ、…青くせぇ…。
綺麗事だけで国は回ってねぇぞ、隊長さん」
鼻でアクセルトを笑い飛ばす『死』の肩の上で『生』がコクコクと頷く。
「だから、隊長ではなくアクセルトだと言っている!
世迷い事を言うな!
他の人間ならともかく、副宰相様は違う!
あのお方は清廉潔白だ!
ルーサンの未来を明るい方へと導く偉大な方だ!」
再びアクセルトの黄色の瞳に強い狂気が宿る。
「政をやる人間は最低でも、いや、最高でも清濁併せ呑むもんだ。
清いだけの政は毒だぜ。
しかも、猛毒だ。悪政よりも質が悪い」
『死』の灰色の右の瞳に嘲りの色が浮かぶ。
それを感じてか、アクセルトの表情はなお険しく、そして瞳に宿る狂気も一段と増す。
「人の弱味を握って操らんとする外道が政を語るな!!」
石畳の上にアクセルトの口から飛んだ唾が小さなシミを作る。
「なら聞くが、俺に握られてる副宰相殿の弱味ってのは何だ?
俺は盗みや人質を捕るなんて陰湿な事でお前さんの副宰相様を脅してねぇぞ。
あくまで俺は“職人”だ。
悪党じゃねぇ。
商売目的さ。たぁんと儲けねえとな。
ウチにはバカスカ喰う奴が沢山居るんでな」
自分に付き従う4人を『死』がチラリと振り返る。
「副宰相様の方が間違いを犯してるとは思わねぇのか?」
アクセルトに灰色の視線が戻ると、その鋭い眼差しにアクセルトは狼狽しだした。
「そ、それは…、し、知らん!
…貴様、嘘を言ってるだろう!」
狂気をはらんだ黄色の瞳から一転、動揺を表しうろうろとアクセルトの目が泳ぐ。
「嘘は嫌いでね」
いけしゃあしゃあと言い放つ『死』に対し、アクセルトは口角から泡を飛ばし、目を泳がせ、体全体で力説する。 その様子は彼の肩書きたる王都警備隊長たるものからはほど遠く、狂人や変人と言われても可笑しくないほどの乱れ振りである。
「嘘だ、嘘に決まっている!
あのお方は、副宰相様は立派な御仁だ!」
「まだ言うのか、このホモ野郎。
…お前を放っといて帰ってもいいんだぞ」
「た、頼む、決闘を受けてくれ!
でないと、私の立つ瀬が無くなる!」
アクセルトの乱れ振りに釘を刺すように放たれた『死』の呟きは、アクセルトの態度を驚くほどに卑屈にさせた。
もはや周りの野次馬の視線も気にならないほどにアクセルトの精神の揺れ幅は大きくなっていった。
元々脆弱な精神力しか持ち合わせがなかったのかもしれない。
副宰相に心酔するあまり、人目のある町中でこんな愚行を起こす辺りで、この男の考えの底の浅さが伺える。
そんな男を相手に『死』は諦めの大きな溜息を吐く。
「脅しの次は泣き落としかよ…。
…今後ウロチョロされても目障りか…。………しゃあねえ、受けてやる」
「よし、では勝負だ!」
仕方なしに決闘を了承した『死』の言葉に、瞳を涙で潤ませ『死』の足下ににじり寄らんとさえしていたアクセルトは一気に態度を傲慢な物へと変ずる。
そんなアクセルトに銀髪に覆われた頭をガシガシと掻き毟りながら『死』が突っ込む。
「…お前、部下に嫌われてるだろ」
「うっ、五月蝿い!!」
図星だったらしく、『死』の突っ込みにアクセルトがジタンダを踏む。
「大当たりか」
「五月蝿い、五月蝿い!!!」
アクセルトの逆上振りを楽しむかのように『死』が悪戯小僧のような笑みを浮かべて放った一言がアクセルトの神経を更に逆撫でた。
完全に頭に血が昇り腰の剣を抜いたアクセルトは、『死』との間合いを詰めて彼の顎先にその切っ先を突きつける。
ヤゴエモンとンガロが身構えて前に出ようとしたのを、『死』の右手が制した。
野次馬からは悲鳴や歓声が挙がり、辺りの緊張感がいやがおうにも高まる。
その中に居て、ただ2人、『死』と『生』は冷静さを崩さなかった。
というより『死』は自身に突きつけられたブロードソードをジッと見つめているし、『生』はアクセルトをチラリと見て再び手元の革表紙の本に視線を落とした。
「…何だ、この剣は?」
「今から貴様を叩き伏せる正義の剣だ!!」
『死』の疑問に対し、芝居がかった口調で叫ぶアクセルト。
刃傷沙汰まで起こそうとしているほど逆上しているにもかかわらず、ここまで芝居がかった台詞を吐ける彼を見事というべきか…。
「そういう事じゃねぇ。
…誰の作った剣だ」
「…はぁ?!」
再びの『死』の疑問にアクセルトは戸惑いの声を挙げる。
――此奴、何を言っているんだ?
アクセルとの目がそう言っていた。
「この剣は誰が作った!!」
『死』の一喝に騒いでいた野次馬はピタリと黙り、アクセルトはジリジリと後ずさる。
「なっ、何なんだ…」
「こんなクソみたいな剣を作ったのは誰だと聞いている!!!」
『死』の大喝に夜の冷えた空気がビリビリと震えた。
灰色の隻眼に睨まれ、アクセルトは腰が完全に退けてしまっている。
「何か言え、クソ隊長」
『死』の促す言葉にアクセルトはドモりながら必死で言葉を繋ぐ。
「ひっ、こっ、これは、くっ、国からの、しっ、支給の、その、物で…」
「で?!」
「ふっ、副宰相様管轄の、か、鍛冶場の、しょ、職人の作った物と、き、聞いています…」
今まで経験したことのない程のドス黒い重圧を前にして何とか喋り終えたアクセルトに、先程とは一転して静かな口調で『死』が語りかける。
「…分相応…って言葉を知っているか?」
「…分…相応…?」
アクセルトの声が震えて裏返る。
「この剣は人に向けられる資格はない。
剣の形をしているというただの鉄屑だ」
アクセルトがまだ何とか構えているブロードソードの刀身を『死』の右手が掴んだ。
パキ…
どういう力の加減か、震える手に握られたブロードソードの刃の根元から軽い音と共に折れた。
『…!』
『生』以外の周りの人々全てが声にならない驚きの声を発する。
折れた刀身を握る『死』の手の甲の血管と筋肉が膨れ上がる。
途端に刀身に変化が現れた。
メリ……パキ……シャリーン…
ガラス細工のように鋼の刀身が粉々になり、『死』の足元でキラキラと光る。
震える柄を握り締め、アクセルトは言葉にならない言葉を発する。
「…あっ、あ、う」
アクセルトはガクガクてその場に座り込んでしまった。
「鋼の品質が悪い。
硫黄が多いから脆いし、スも多い。
しかもそのスを叩いて潰さず、鑞で埋めてやがる。
最低の仕事だ。
鍛冶を舐めるじゃねぇ。
…さて、決闘だったな。
こっちは無理を聞いてやったんだ。
こっちの無理も聞いてもらおう。
殺しは無しで、他は何でもあり、相手が動けなくなるまでだ。
これでいいな?
さあ、立て。
そして誰が良いか選びな」
「…え、選ぶ?
なな何を?」
未だにガクガクと震えながらゆっくりと立ち上がり、目を泳がせながら疑問を投げかけるアクセルトに、『死』は淡々と答える。
「お前の決闘相手だ」
「し、『死』殿ではないのか?」
「お前は馬鹿か?
あれだけの物見せられて、まだ俺と戦る気か?
俺はお前の体の何処かを掴めば潰せるんだぞ?
それに俺は職人で戦士や騎士じゃねぇ。
お前が選んだ奴が負けたら俺が負けた事にしてやる」
若干の呆れ顔で淡々と自分の行く末を大きく左右しかねない決闘の説明する『死』を見るアクセルトの黄色の瞳に希望の色が宿る。
「…そ、それは本当か?」
「嘘は嫌いだと言ったよな?」
「そ、そそその爺と女達も選んでいいのか?」
怖ず怖ずとアンとゼフトを指さすアクセルト。
未だに指先は小さく震えている。
「…お前、クソだな…」
小さく呟いた『死』の言葉にアクセルトがビクンと小さく体を震わせ、恐怖に身を縮込ませる。
「…まあいい。
その爺は俺と同じ職人だから、こいつは勘弁願おう。
俺の肩の上のは、知ってるとは思うが魔導士で、そっち娘は職人の娘だが腕は立つ。
お前等に引き渡したチンピラ共をノしたのはその女だからな。
後ろの野郎2人は戦士だ。
4人から選びな」
今まで『死』とアクセルトの遣り取りを見守っていたヤゴエモンが不服そうに反論し、ンガロが胸を張る。
「私は戦士じゃないデス、侍デス」
「俺、戦士♪」
「解った、解った。
ハシャぐな。
…?
アンさん、どうした?
口を阿呆みたいにパクパクして。
酸欠か?」
ヤゴエモンをなだめ、ンガロをたしなめた後、餌を求める魚のように口を開け閉めしているアンに話しかけた『死』は、詰め寄ってきたアンからの抗議混じりの唾を浴びた。
「ちょっ、し、『死』さん?!
私も入るんですか?!
何故!?
何故ですか!?」
「汚ねぇな。
鼻毛出したり、唾飛ばしたり…。
お前、本当に女か?」
「う、嘘をいわないで下さい!
鼻毛は出てませんでしたし、唾を飛ばすのは『死』さんが変なこと言い出すからじゃないですか!」
「嘘は嫌いだと言ってるだろう。
ほれ、まだ鼻毛が出てるぞ。
左の鼻の穴だ」
「えっ…!
嘘っ?!」
騒ぎ立てる『死』とアンを余所に、アクセルトはアンが逃亡傭兵2人を捕まえたことに驚愕している。
「なんだと!?
あのマーカスとゼノをこの娘が!?
……色仕掛けか?」
あらゆる可能性を元にアクセルトの出した答えにアンは顔を赤らめ、前半は大声で、後半は消え入るような小声で反論する。
「色仕掛けなんて!
…してません…」
アクセルトの遠慮の無い視線がアンの体をマントの上から、頭の上から足の先まで舐め回す。
「………………その体付きでは無理だな」
「…な、な、な、な、なな何て失礼な!
わわ私だってその気になれば、お男の人の1人や2人、ゆゆ誘惑して見せます!」
アンの女としての部分をある意味全否定するアクセルトの発言に、アンは顔を真っ赤にしてワタワタと不思議な動きをしながら、ドモリながらも言葉を吐き出す。
「それはないガブッ!!」
アクセルトは奇声と共に派手に後頭部から路上に倒れ込んだ。
アクセルトが言葉を言い終わる前に怒り心頭のアンの力一杯投げた杖がアクセルトの額を直撃したのだ。
倒れ込んだアクセルトは、今まで握り締めていた折れたブロードソードを放り出して額を両手で押さえ込んで悶絶している。
「大馬鹿!
これから成長するんです!!」
「その年からの成長は無理だの、アンちゃん」
アンの精一杯の虚勢の叫びはゼフトの乾いた突っ込みに脆くも崩れ去っていった。
「…アンさんよ、俺は別にかまわんが、こいつはルーサンに仕える24貴族の1家、ルーベント家の次男坊様だ。
平民風情が手を挙げると罪に問われるぞ」
「アンちゃん、杖、ぶつける、した。
遅い。
アンちゃん、処刑」
何故か小さく笑いながらアンに警告する『死』と右手で首を斬る仕草をするンガロの言葉に、今更ながら自分のしでかした事の重大さに青くなるアン。
「…へっ?
あぁっ!!
ご、ご免なさい!!
つ、つい体が勝手に…」
「ならば、我々の誰かが勝てばアクセルトさんは殿の物ですから問題ありまセンネ。
大丈夫デスヨ、アンさん♪
勝てばよいノデス♪」
いつの間近付いたのか、青ざめて頭を地に擦り付けようとするアンの動きを止めるように、アンの肩をヤゴエモンがぐいっと握る。
「ヤ、ヤゴエモンさん…」
「…ぐっ!
くそっ、そ、そこの女!
平民の娘風情が!!
貴様を痛めつけて『死』の奴等を王都から追い出してくれるわ!!」
言っている事は威勢がよいが、その額には赤い髪にも負けないほどの杖の当たった赤い跡が丸く付いていた。
どうやら杖の先端がまともに額を捉えたらしい。
アクセルトの顔は憤怒の表情に歪みアンを睨む。
怒りの感情に任せ決闘相手にアンを指名したアクセルト。
その指の指し示す先には、さらに青ざめるアンの泣きそうな顔。
翠の瞳に涙が浮かんでいる。
シノギ村では、ほとんどの男に喧嘩を挑んできたアンだが決して全ての喧嘩に勝ってきたわけではない。
どちらかというなら、負けた回数の方が多いくらいだ。
内容としてはからかわれたり罵られたアンが先に手を出し、殴り蹴り掴み投げひっかきと多彩な攻撃でほぼ互角にやり合ったものの、やはり体格と体力に劣るアンが負けるという事が多かった。
ましてや今回は兵士として訓練を積んで、あまつさえ騎士の称号を持つ男が相手だ。
負けることは確定していると言っていい。
絶望で目の前が真っ暗になるアン。
膝がカクカクと笑いだし、目から涙が溢れ出しソバカスだらけの頬を伝う。
そんなアンとアクセルトの間を遮るように黒い影がスッと割り込んできた。
『死』である。
「おい、隊長さんよ、こんな小娘負かして俺らを追い出して、清廉潔白の副宰相殿に報告出来るのかい?」
「アクセルトだと言っているでしょう!
『死』殿、さっきと言っている事が違いますぞ!」
『死』に恐れをなしたのか、アクセルトの言葉遣いが丁寧になっていた。
「別に違わない。
平民の小娘を痛めつけて『死』を追い出したという騎士として恥ずかしい報告を“あの方”に出来るのかと聞いてるだけさ。
別に恥ずかしくなければこの女を指名すればいい。
ほれ、早く指名しな」
何時になく真面目で真っ直ぐな灰色の瞳でアクセルトを見つめる『死』の物言いに、下唇を色が変わるほどに噛みしめるアクセルト。
「…くうっ…!
ならば、そこの髪の長い男!
お前が私と勝負しろ!」
アクセルトの指した指の先は顎を右手の人差し指でポリポリと掻いているヤゴエモンがいた。
「あらら、私デスカ?
いいデスカ、殿?」
決闘相手に指名されたのにまるで緊張感の無いヤゴエモン。
自分より一回りも大柄なアクセルトが相手にもかかわらずにだ。
「あぁ、存分に相手してやれ。
…そうだな、ついでにアンさんに実戦を講義しながらやってみな」
「講義デスカ?
また殿は無理難題をおっしゃいマスネ…。
…まあ何とかシマス」
どことなくこの状況を楽しんでいる『死』の要望にヤゴエモンは溜息を吐き、口を軽くへの字に曲げる。
しかしそんなヤゴエモンもどこか楽しげに見えるのはアンの気のせいだろうか?
ヤゴエモンは外套を脱ぎ、ンガロにマフラーと一緒に手渡すとその場で軽く手足腰首をブラブラと解す。
そのまま散歩にでも出かけるような軽い足取りでアクセルトに歩み寄る。
ヤゴエモンと『死』の会話に指を指したままでいたアクセルトは、慌てて両拳を握り込み身構えた。
「アンさん」
「は、はい!」
涙を拭っていたアンは突然のヤゴエモンの呼び掛けに飛び上がり、『死』の影から顔を出し返事をする。
「体の大きいのと小さいの、どちらが強い人デスカ?」
「え?
えーっと、大きい人?」
「では、力の強いのと弱いの、どちらが勝ちマスカ?」
「…強い人?」
「では、アクセルトさんとやらと私、どちらが大きくて力が強いでショウ?」
「…アクセルトさんです」
「はい、3問全て正解デス。
それをふまえて今からの戦いを見てて下サイ。授業はもう始まってマスヨ」
アンとヤゴエモンの遣り取りが終わるまで律儀に待っていたアクセルトは、ヤゴエモンの格好を上から下まで観察していた。
他国に対して多少の知識のあるアクセルトが、見るのも初めての格好だった。
筒のように太い袖の濃紺のガウンのような足首まである着物を首元まできっちりと合わせ、腰の濃紺の太い紐で止めている。
裸足の足には麦藁で編んだ変わった履き物を履いている。
オマケに頭の黒髪を女のように長く伸ばし、後頭部の高い位置で結わえている珍妙な髪型。
体格的にはルーサンの平均的な成人男子と比べて一回り程小柄な男である。
大柄であるアクセルトと比べると二回りも小さいだろうか。
――この勝負、勝った!
剣は折られたとはいえ、無手の訓練もそれなりにこなしているし、荒事を好む兵士達をまとめる役にも就いている。
刃傷沙汰には出来ない場も、この任に就いてから何度も経験し、治めてきた。
目の前の男には覇気が感じられず、たいした武器も隠せる格好ではない。
内心ほくそ笑むアクセルトは平常を装いヤゴエモンに語りかける。
「貴様、獲物は?」
「貴様ではありません、ヤゴエモンと申シマス。
私は武器を使う必要はありマセン。
と言ウカ、持っていマセン。
貴男は腰の短剣を使っていただいても構いまセンヨ」
ヤゴエモンは無造作にアクセルトの腰の後ろに差してある短剣を指さす。
――この男、無手か?
――隠してるんじゃないのか?
「……まあいい、来いよ。
お前を倒してお前等を王都から放り出してやる」
アクセルトから放たれる殺気が濃度を増す。
「では、お言葉に甘えマシテ♪」
そんな殺気にも怯まず、ゆらりとヤゴエモンが無造作な動きでアクセルトの拳の間合いに1歩踏み込む。
「しゅっ!」
小さく息を吐いたアクセルトは右拳に腰の回転の力を乗せ、ヤゴエモンの頭に向けて突き出した。
アクセルトはこの一撃で終わったと思い、早くも笑みを浮かべていた。
しかしその渾身の力を込めた拳は空を切る。
伸びきって動きの止まったアクセルトの右手首を何かが掴み、踏み出していた左足が右から何かに払われる。
舞い上がる土煙の中、掴まれた右手首と地に着いた右足を軸にアクセルトの体はクルリと一回転し、仰向けに道に倒れ込むのが見えた。
ドスンというアクセルトの背中が路上に叩きつけられる鈍い音の後、ヤゴエモンの強烈な気合いの声が辺りに響く。
「豪!!」
一陣の寒風により舞う土煙が吹き払われると、左手でアクセルトの右手首をガッチリと極めて、苦痛に歪むアクセルトの鼻の先に右拳を突きつけたヤゴエモンの姿があった。
「はい、お終イデス♪」
にっこりとアクセルトに笑いかけるヤゴエモン。
その表情には先程の腹の底にずしりと響く声を出すような面影は無い。
背中を強打して咳混んでいるアクセルトが、空いている左手で路上に吹き溜まっていたの砂を掴みヤゴエモンの顔めがけて放る。
ヤゴエモンはそれを予期していたのか、砂が届くより先に極まっていた左手を離し素早く飛び退いていた。
「往生際が悪いデスヨ。
降参して下サイ」
再び睨み合う2人。
極めたられていた右手首をブラブラ振りながら身構えるアクセルトは咳混んで息も既に荒いが、対するヤゴエモンは先ほどと変わらず自然な立ち姿で衣服の乱れもない。
「ゲホッ、…何だよ、ガフッ、今の…?
見えな、かった、ケンッ、ぞ…」
「貴男に勝ち目は有りまセンヨ。
引いて下サイ」
「五月、ゴホッ、蝿い!
まだ、ゲホッ、負けてはいない!」
「強情デスネ…。
では、行キマス♪」
この勝負、嫌々戦っているような発言をしながらも、その表情は戦いの場にそぐわない晴れやかな笑顔をうかべるヤゴエモンは、ふらりと歩き出しアクセルトの拳の間合いに再び入って行く。
あまりにも無造作で何気ない動きに、待ち構えていたはずのアクセルト本人でさえ期を外され対応が遅れた。
まるで散歩途中に何か興味があるものを見つけて、それを手に取るかのようなヤゴエモンの殺意無き右手が、アクセルトの首元にゆるりと伸びる。
あまりの自然な動きに呆けていたアクセルトが、ハタと気付いて体を捻り膝蹴りを繰り出す。
ふらりと飛び退くヤゴエモン。 ここが勝負所と判断したのか、こみ上げる咳をかみ殺し、アクセルトがヤゴエモンに肉薄し左右の拳を小振りに振り回す。
先程の大振りな一撃よりも遙かに避けにくいはずのその拳の弾幕は、ゆっくりと軽やかに動くヤゴエモンの前に何故か虚しく空を切る。
当たるはずの拳が当たらぬ事に業を煮やしたのか、今度はアクセルトが巨体に任せて掴みにかかる。
体格差で押し切ろうとする動きを見せたアクセルトより先に、アクセルトの首の部分の鎧にふらりと近付いたヤゴエモンの右手指が掛かかる。
次の瞬間には地面に大きな物を叩きつける鈍い音が再び響き、土煙を派手に舞い上げていた 。
「勢っ!!」
「…ぐっ…」
またもや裂迫の気合いが響きわたり、それに続きクグモった呻き声と打撃音が聞こえた。
寒風により再び土煙が晴れると、そこには仰向けに倒れ伏したアクセルトと左拳を握り締め立ち姿のヤゴエモン。
「倒したついでに奴の鼻っ柱、殴りやがった」
『死』の呟きを示す通り、咳混みながら顔を上げたアクセルトの鼻筋は左に微妙に曲がり、鼻の穴からは2筋の血の流れが噴き出していた。
「ゴボッ、ゲンッ、…ぐっ、ガフッ、ぐあぁ―!」
かみ殺しきれない咳を発しながら、アクセルトが吠える。
その顔を怒りと酸欠に赤く染まり、憤怒の表情をうかべている。
アクセルトはヤゴエモンに素人地味た動きながら、激しく荒々しい足払いを見舞い、ふらつきながら立ち上がる。
元々が立ち上がる時間稼ぎのような足払いを、ヤゴエモンは難なくかわし先ほどよりも広めの間合いでこの戦い3度目の自然な立ち姿を見せる。
「それ以上痛い思いをしたくなけレバ、負けを認めて下サイ」
「…ぐっ、…ぐがっ!!」
諭すようなヤゴエモンの呼びかけに対し獣のような雄叫びで答えたアクセルトは腰の短剣を抜き去り右手に構える。
「あっ、危ない!」
息を呑み思わず叫んだアンの横で『死』がニヤリと笑って呟く。
「彼奴、完全に負けたな」
「ゲフン、じ、じね!!」
獣じみた狂気をはらんだ眼をギラギラと輝かせながら、両手で短剣を体の前で構え直したアクセルトがヤゴエモンに体ごと体当たりをしようと突っ込む。
その動きからは決闘が始まる前に『死』が提示した“殺しは無し”という事を守ろうという気は微塵も感じられなかった。
そんな危険を前に、何故か動きを見せないヤゴエモン。
アクセルトの巨体を受け止める構えをしているようにさえ見える。
数瞬後、2人の体が激しい音と砂煙を発しながら重なる。
――ヤゴエモンさんが刺された!
両手を握り締め口を覆うアン。
翠の眼には涙が浮かんでくる。
何かを言いたいのに口腔内は乾き、喉は痺れたように声が出ない。
体は強ばり、まるで他人の体のように動かない。
しかし周りの『死』や『生』やゼフトやンガロの表情に変化は無い。
重なるアクセルトとヤゴエモンの2人の人影のうち、片方がその場にゆっくりと崩れ落ちた。
「ヤ、ヤゴエモンさん!!」
無理矢理捻り出した、かすれたアンの叫び声が寒空に響いた。
「あービックリしマシタ。
まさか矜持を捨てて刃物を出すとは思っていませんデシタ」
ニコニコ笑いながらヤゴエモンは外套をンガロから受け取り羽織る。
傍らには白目を剥いてだらしなく舌を口からはみ出させ、おまけに泡を吹いてぴくりとも動かないアクセルトの横たわる姿があった。
「大丈夫ですかヤゴエモンさん!?
怪我してませんか?!
刺されてませんか?!」
「心配には及びまセンヨ。
このとおり無傷デス♪」
涙を流しながら駆け寄ってきたアンの言葉に、ヤゴエモンはマフラーを巻きながらその場でクルッと一回転すると、おどけた様子で両手を広げて見せる。
「よかった~。
でも職人さんなのに、ヤゴエモンさんは強いんですね!
スゴいです!」
「…“侍”は戦うものデスヨ…?」
刀専門の鍛冶職人か何かと思いこんでいたアンの見当違いの言葉に、ヤゴエモンが困惑の色を顔にうかべる。
「…職人さん?」
「“侍”デス」
「……職人さん?」
「“侍”でスッテ」
不思議な間の遣り取りが続く。
「………つかぬ事をお伺いしますが、“侍”って刀専門の職人か何かですよね?」
今更ながら嫌な予感に襲われているアンが、問題を解決すべくヤゴエモンに疑問を投げかける。
「勘違いしているようですから説明しますケド、“侍”とはエンスの支配階級に位置する者の称号デ、ルーサンでいうところの騎士のようなもノデス。
まあ、騎士と一緒でピンからキリまでいますケドネ。
私は“キリ”の方ですけどね♪」
“支配階級”、“騎士”と聞いたアンは、3歩ほど跳び下がると、卑屈な態度で頭を下げた。
「…………も、も、申し訳ありません…。
数々の無礼、し、失礼しました。
勘違いしてました、ご免なさい…」
そのあまりの身のこなしの速さと動作の滑稽さにヤゴエモンは噴き出していた。
「ぷぷっ…、いいえ構いまセンヨ。
気にしないで下サイ。
先程も言ったように私は“キリ”ですカラ、今まで通りの畏まらない間柄でいきまショウ♪」
頭を下げ続けるアンに歩み寄り、肩に手を置いて頭を上げさせているヤゴエモンに『死』が労いの声をかける。
「よく勝った。
…しかし、当て身とかじゃないな。
どうやって倒したんだ?」
訝しげな『死』の疑問にヤゴエモンが申し訳なさそうな視線をアクセルトにチラリと向けると、苦笑い混じりの表情で我が主人に答える。
「あの、それが、……短剣を避けたとたんに私の膝がアクセルトさんの股間にがっちりと入ってしまいマシテ…。
あは、あはは…」
「…そいつはご愁傷様なこって」
『死』が遠い目線で夜空を仰ぐ。
「…哀れだの…。
…今後、使い物になることをアフラ=シンとルン=サンに祈ってやるの…」
小さく呟き、祈りの姿勢をとりながらもゼフトは両足をモゾモゾしながら顔を痛そうに歪める。
「あれ、痛い、大変、痛い、凄い、痛い、同情、する…」
ンガロも顔に掛かるもっさりした前髪を両手でかき分けて、倒れ伏したままのアクセルトを見ると口をへの字に曲げる。
周りの男達の様子を疑問の顔で眺めていたアンは誰にでもなく問いかける。
「そんなに痛いものなんですか?
…私には解らないですけど…」
私もと言いたげに「生」が白く小さな右手を怖ず怖ずと挙げた。
アンの素朴な疑問にゼフトが熱を込めた言葉を吐きながらアンに詰め寄り唾を飛ばす。
「何を言うかの!
痛いんだの!
取り敢えず痛いんだの!
これだの、これだの、ここが当たると特に痛げぶっ!!」
「…大衆の面前で小汚いモノをみせるな」
熱烈に語り出しズボンを脱いで自分のモノで説明しようと腰布を解き始めるゼフトの尻を『死』が盛大に蹴飛ばす。
「きゃっ!?」
アンに詰め寄っていたゼフトは『死』の容赦ない蹴りの勢いでアンに向かって飛び上がっていた。
ズボンを脱ぎ掛けの老人が自分に迫ってくるさまに、アンは思わずゼフトの頬を張り顎を蹴り上げていた。
「ぱぉ、げぐっ?!」
奇声を放ち小柄な体が空中で後方一回転したのち、ゼフトの体は土埃をあげて腹から路上に叩きつけられた。
「蹴りは中々デスネ。
傭兵2人を蹴りで気絶させたのも頷ケマス」
「アンちゃん、心、弱い、ンガロ、思う。
ヤゴエモン、思う?」
「多分そうでしょう。
体の動かし方と場数と心の有り様に問題があるようデスネ。
それさえ掴めば中々の使い手になるでショウ」
馬鹿騒ぎを余所にンガロとヤゴエモンが、また何やら密談を始める。
「…お前等、くっちゃべってねぇでそろそろ帰るぞ!
…たくっ、今から1本研ぎ上げなきゃなんねぇ時に限って厄介事が次々と湧いてきやがる」
「…痛たた…。
旦那、此奴はどうするんだの?」
赤く手形の付いた左頬と痛む顎、そして蹴られた尻を撫でながらゼフトが転がったままのアクセルトに視線を落とす。
「その内気が付くだろうよ、放っとけ。
…だがそのままってのも尻の座りが良くねぇな…。
ゼフト、『禿頭』まで伝言を頼む」
「何と伝えましょうの?」
「そうだな…、『暑苦しいが、こういう馬鹿は嫌いじゃない。罰するな。近いうちに会いに行く。』とだけ言っとけ」
「…解りましたの」
解きかけた腰布を素早く巻き終わると、ゼフトは野次馬の中を城の方に走って消えて行った。
老人らしからぬ回復力とその素早い身のこなしの小男を、アンも野次馬も口を開けて見送った。
「さて、帰りに随分暇を喰っちまった。
さっさと帰るぞ」
『はい』
ヤゴエモン、ンガロ、アンの声が揃う。
『死』の肩の上で本に目を落としたままの『生』が小さく頷いた。
一行は歩き出す。
野次馬達は静かにそして速やかにさらに僅かに残念そうに道を開け、そして倒れ伏すアクセルトをそのままに、元の喧騒と欲望と音楽の渦巻く歓楽街の様相に戻って行った。
「アンさん」
「はい、何ですか?」
『死』の隣で歩き出したアンに、後ろを歩くヤゴエモンから声が掛かる。
アンが歩きながら振り向くと、ヤゴエモンの薄く開いた糸目から覗く黒い瞳と目が合う。
「今さっきの決闘は体格や力で劣る人ガ、如何にして勝つかを知る要素が沢山有りマシタ」
「…でも、よく解らなかったです…。」
「今は解らなくていいンデス。
頭の隅にでも留めておいて下サイ」
「はい、解りました」
「私やンガロは体に覚えさせる方法を採りますカラ、覚悟して下サイネ。
さあ、前を向かないと転びマスヨ」
「はい、宜しくお願いします」
ヤゴエモンに対しにっこり笑って礼を言い前を向いたアンだが、後に“体に覚えさせる方法”に血反吐を吐く事になるのを今は知る由もなかった。
「死街地」に入ると人通りも灯りも野良犬の気配さえも無くなる。
そんな静かな町並みを、行きとは違い無言で歩く5人。
辺りには5人の足音とアンの突く杖の音が響いていた。
そんな静けさの中、意を決した様子のアンが口を開いた。
「…『死』さん、あと1つだけ質問いいですか?」
「質問はもう受けねぇと言ったはずだがな。
…。
……。
…ちっ、1個だけだぞ。
さっさと言え」
小さく舌打ちをした不機嫌な顔の『死』にアンは問いかけた。
「『禿頭』って誰ですか?」
「……アンさん、お前、馬鹿なのかお利口なのかどっちだ?
今までの俺等の会話で解らねぇか?」
「お城の偉い人なんですよね?
それくらいは解るんですけど…」
「…やっぱり馬鹿だな」
「やっぱりって何でですか!
そりゃぁ、頭はあんまり良くないかもしれませんけど…」
「副宰相だ」
「…えっ?」
「ルーデン=バルエ=ロンサムだよ」
「『死』さん、やっぱり、その、脅してるんですか?」
思わずしてしまった約束を破る2つ目の質問に、不機嫌そうな素振りも見せず、何故か少し遠い目をして答え出す。
「…脅していないと言えば嘘になる。
だが、そのネタは彼奴が、『禿頭』が犯した失敗じゃない。
奴の先祖が犯した過ちだ。
この国の存亡に関わるほどのな。
奴等は先祖代々、その過ちをずるずる引きずって生きてきた。
考えれば哀れな奴等さ。
過ちの内容は教えねぇぞ。
狙われるのは俺と『生』だけで十分だ」
未だ遠い目をしている『死』の銀髪を『生』の白くほっそりとした手が優しく撫でた。
『生』の眉尻は心なしか下がり、『死』を気遣うような素振りをみせる。
「…すまん…大丈夫だ…。
…さあ、着いたぜ。
お前はとっとと寝ろ。
部屋は向かって左側の扉の先の階段の上だ。
6部屋全部空いてるから好きな部屋を使いな。
鍵は締めろ。
ゼフトに夜這いかけられても知らねぇぞ」
『死』が小さな声で『生』に礼を言った直後、〔『生』と『死』と老人と下僕共〕の店の前に到着し、何処からともなく鍵を取り出した『死』はアンに泊まる部屋の説明をしながら鍵を開け店の中に入る。
「では殿、お姫様、アンさん、我々は失礼シマス。
ゆっくりとお休み下さいませ」
「ご主人様、お嬢様、アンちゃん、お休み」
ヤゴエモンとンガロが頭を垂れる。
「あぁ、ゆっくり休めよ。
俺はこれから研ぎ仕事だ。
最上業物、楽しませてもらうかね」
『死』の肩の上で『生』が頭を垂れる2人に小さく手を振る。
「ヤゴエモンさん、ンガロさん、おやすみなさい」
アンはヤゴエモンとンガロに小さく頭を下げて、店のドアを閉めた。
ドアに掛けた白い小さな看板がカランと小さな音を立てた。
扉が閉まると2人は顔を見合わせ小さく頷き、暗闇の中に音もなく消えた。
「死街地」は静けさに包まれた。
空には月のない〔アフラ・シンの夜〕が広がり、天空に住まう神の覗き穴と考えられている星々が、寒空に震えるようにチカチカと瞬いた。
星灯りに白々と浮かび上がる北の神々の山脈と、星灯りにもなお黒々と輝くドゥマの城は、何時もより少し騒がしかった世界を見下ろしている。
明日も何時もと同じと考える大半の生物と、大きな変革の焦臭さを嗅ぎ分けた少数の人々の1日が静かに終わろうとしていた。
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では、また次回♪