黒い思惑
ドゥマより遙か離れた場所。
カビ臭くジットリと水気を含んだ淀んだ空気が辺りに満ちている。
暗い階段を長身の男が明かりも灯さず下りて行く。
男は足音も無く体を揺らすことなく、まるで影が滑るように階段を下り続けている。
差し込む星灯りに照らされ、周りの様子をわずかながら伺い知ることが出来る。
長い長い石積みの階段と男の左側の同じく石積みの壁の表面を苔が黒々と覆い隠し、男が下りている階段は歴史ある建造物の内部の様相を呈していた。
真っ直ぐに下に続く階段の右側は、僅かな星灯りでは照らすことの出来ない漆黒の闇が広がっている。
まるで冥界「リーベルデルド」のようだ。
突然、静寂の闇の中から微かな叫び声が聞こえてきた。
まるで断末魔の叫び、いや、“まるで”ではなく命が絶たれる時の最後の抵抗の声そのものが辺りに小さく響く。
そんな恐ろしい状況の中でも、男は立ち止まることなく黙々と階段を下り続けていた。
やがて終わりが無いように思えた階段も遂に終わり、男は星灯りも届かない石畳の広がる広間らしい場所に下り立った。
上、右、左、前、見える範囲には壁どころか何も見えず、男が背を向けた階段とその壁、男の立つ石畳周辺以外では広間の様子を見当付ける要素はない。
立ち止まっていた男は溜息をその薄くて形の良い唇から小さく漏らすと、目の前に流れ落ちてきた金色の髪をささっと撫で挙げ、迷う素振りも見せず足早に闇の中を進み始めた。
階段の時と変わらず足音もせず体も上下しない。
その動きは亡霊や幽霊の類に見間違いそうな滑らかさで石畳の上を滑るように進んで行く。
暫く進むと無表情であった男の黄色の両瞳に喜びの色が浮かんだ。
男の唇の両端も小さく上がり喜びの表情を示す。
涼やかさを含んだ美しい笑顔といえる表情なのだろうが、どことなく端正だが無機質な男の顔ではまるで笑っているお面のような印象を受ける。
暗闇の中、笑う男はぴたりと歩みを止めた。
ぬちゃり…
粘液質な音がして男の前に誰かが立ち上がる。
それはとても奇妙な人だった。
いや、人だった物と言った方が正確かもしれない。
それは胸の筋肉が大きくせり上がった逞しい体に、幾つもの頭と幾本もの腕と幾組もの下半身を付けた生物だった。
自然に生まれ落ちた生物でない証拠に、それぞれの部位は糸で縫いつけてある状態が見える。
老若男女を問わない無差別な部位の数々、よく見れば人とは種が違う部位も見られた。
鱗で覆われ両側からエラらしき物がある男性の頭。
長い白金色の髪から長く尖った耳が突き出ている端正な女性の顔。
規格外に大きく伸びた鼻を持つ老人の顔。
子供ほどに小さな大きさながら老婆の特長を持つ顔。
成人の男の太さの腕ながら爪が獣のように鋭く伸びている腕。
白い鳥の羽毛が生え鳥の脚のように3本の指を持つ細い腕。
姿形は人間の腕ながら規格外な大きさの腕。
針金のような硬い毛に覆われた牛のような蹄と尻尾を持つ下半身。
ヒレと鱗と指の間に水掻きを持つ下半身。
短すぎて地に着かず、バタバタ動く毛深い脚が空を切る下半身。
すらりと伸びた綺麗な脚と美しいラインを描く尻部を持つ女性の下半身。
子供の悪戯で作られたようなデタラメな生物。それの表面は自身が分泌しているのか、ヌラヌラとした粘液で覆われていた。
突如、数々の頭がグリッと動き、意思の無い無数の虚ろな目がギロリと男を見つめる。
普通の者であれば腰を抜かしかねない状況に、男は笑顔を湛えた顔のままで一言呟く。
「道を空けろ」
男の黄色かった右の瞳が妖しく虹色に輝いたように見えた。
意思の無いように見えた生物は脅えるようにビクン震え少し後ずさると、複数の下半身を器用に動かし男の前から意外にも素早い動きで退く。
男は笑顔から無表情に戻ると金色の髪を撫で挙げ、再び滑るような歩みを進める。
その時には、彼の目はもう元の黄色の瞳に戻っていた。
どれ位歩いただろうか。
どれ位の数の同じ様な奇怪な生物を一言で退けただろうか。
男の目の前の暗闇の中から扉が現れた。
質素な木の扉だった。
重厚で歴史を感じる石積みの建物と比べ、この木の扉はあまりに地味で質素で新しかった。
男は戸惑うことなく扉を引くと中に入った。
奇怪な生物しか居なかった暗く巨大な広間と比べて、男の入った部屋はユラユラ揺れる黄色いランタンの光に照らされ、物で溢れ雑然としていた。
天井の梁から吊されたあらゆる種類の植物の乾燥させた葉や花や実や根。
入り口から向かって左の壁には雑然と積み上げられた紙やなめした皮や木板や粘土板の書物や資料や巻物の山が出来ている。
右の壁にはあらゆる生き物の木板にピン留めされた物や干からびたミイラや妖しげな溶液に浸けられ半透明のガラス瓶に入れられた標本が天井まである棚に所狭しと並べられている。
正面の壁には薬研や天秤や匙や陶器製の計量容器や空の薬瓶などの数々の実験用具が、壁際に置かれた横長の机に並べられていた。
部屋の床には開いたままの本や何かを砕いた粉を盛り上げた紙や何かをクツクツと煮詰める小さな竈や色んな布切れや様々な色の鉱石が散乱している。とくに部屋の真ん中に据えられた、大人1人が十分に入る梯子の架かった大きな水瓶が異様な存在感を放っていた。
まさに足の踏み場もない状態だった。
「やはり、ここに居ましたか」
誰の姿も見えないはずの部屋の中で、扉の前に立つ男は誰かに声をかけた。
「出てきて頂けませんか?
姿が見えないと報告しづらいのですが…」
顔に垂れてきた金の髪を撫で挙げながら、男は姿が見えない誰かに語り続ける。
突然、大水瓶の中からクグモった声が聞こえてきた。
『…この場所に居る事は誰にも言ってなかったはずじゃが、お主、どうやってつきとめた?』
「簡単です。
いつもの通り、貴男が“ここ”に隠る時期だったと思って来ただけですよ」
『…簡単に言いおるわい。
“警護者”達がおったじゃろうに…』
「問題は有りませんでしたよ。
彼等は通して下さいました」
『相も変わらず食えん奴じゃな。
…さて、報告を聴こうか』
大きな水音がして大水瓶の縁に長くて細い指が掛かる。
次に一際大きな水音がすると、瓶の縁に全裸の切れ長の目が印象的な若くて細い男がずぶ濡れのまま腰掛けていた。
濡れた薄茶色の長髪から尖った耳が飛び出ている。
森の民、エルフである。
「今は“そのような体”なのですね」
「以前に会った時は違うかったかの?
アールブの体は2回目じゃが、やはり人間の体の方がシックリくるの。
…まあ、贅沢は言えんか。
さて、報告とやらを聴こうか」
奇っ怪な会話を交わす男とエルフ。
男は報告を始める。
「目標に接触、契約出来ました」
「ほう!
それは朗報じゃて。
して、やったのは何処の何奴じゃな?」
身を乗り出し感情を露わにしながら話を聴くエルフに対し、男は無表情をぴくりとも動かさず報告を続ける。
「シノギ村、『武器嫌い』の娘です」
「…ほほっ♪
これは何とも…。
1番期待していなかった奴が接触を果たすとは…」
喜びの声を挙げたエルフはまるで子供のように瓶の縁に座ったまま、局部が見えるのも気にせず両足の裏をパンパンと軽快に打ち合わせた。
「しかし、小娘が接触に成功したなら次への準備が不十分ではないかの?」
「確かに十分ではありません。
恐らく私の施した術は今夜中に解術されるでしょう。
ですが、目標を引っ張り出す事が出来たのです。
今はそれで良しとして、次の策を巡らす事にしましょう」
「引き続き頼むぞよ。
報告は以上か?
ならばもう行け。
儂はこの体の“処置”を続けねばならんのでな。
ほれ、そう言うとる内にもう乾いてきおったわい」
エルフの言葉に同調するように、エルフの両手や両足の先の白いきめ細やかな皮膚がカサカサでシミだらけの老人の皮膚に変じていく。
「そうですか。では、失礼します」
男は扉を押すとスルリと部屋を出て静かに扉を閉める。
「…危険な男じゃ。
…事が済めば亡き者にする気なのだが、奴に適う物は我が手の内におるまいて。
いざとなれば儂が出ねばならんかの」
エルフは呟くと大水瓶の中にスルリと身を投じる。
再び起こる大きな水音。
そして部屋には何かを煮詰める小さな竈に掛けられた鍋のクツクツて沸く音がするだけとなった。
誤字、脱字、表現の解り難い所、その他有りましたらお手数ですがご連絡頂ければ幸いです。
次回更新は今月中にもう1話書けたらと思いますが、亀の如き歩みなのでどうなるか解りません。
期待せずにお待ち頂ければと思います。