永久の償い
「憲明、朝よ」
俺を起こす母の声がする。暗かった視界がいつもの部屋に徐々に切り替わっていく。
――またか
俺は大きく溜息をついた。何度この悪行を繰り返せば俺はここから抜け出せるのだろう。
階段を降りて家族が朝食を取るリビングへ向かった。
「おお、おはよう」
新聞から視線を逸らさずに父は俺に声をかけた。大企業で働く父の、その哀れむような視線を朝から見ないで済むのは幸いだ。
「模試の結果はどうだったんだ?」
テーブルに着くと、いつもと同じ質問が父から投げかけられる。何度「そこそこ」と答えただろうか。今度こそ違う答えをしようと思ってはいるものの、父にそう言われると何故か同じ答えしか俺の口は発してくれなかった。
「今年こそは大学に受かるよね」
母は悪意の無い笑顔でトーストを運んでくる。三浪した俺を蔑むつもりは無いはずだ。だがその悪意の無い態度がどれだけ俺を傷つけてきたのか、母にはわからないのだろう。
「そうだな、あまり遊ばせておく訳にもいかんからな」
父が新聞から目を外した。困ったヤツだ、という想いがありありとその顔に映し出されている。
「わかってるよ」
「あんまりパソコンばっかりして遊んでるんじゃないぞ」
「わかってるって」
出勤前の父に小言をもらうのもいつもの事だ。今度こそは平静に、イライラせずに、乗り切るんだ……。
「うん、今度こそ合格してみせるよ」
「憲明のその台詞、もう何度目だっけ?」
冗談めかした母が俺の顔を覗き込む。その笑顔が俺の中の堤防を壊していく。
――やめろっ!
心の中の俺の叫びとは別に悪意と憎悪が身体を支配していく。力を込めた右の拳を、俺を覗き込む母の頬目掛けて振り抜いた。
「ぎっ!」
言葉とも悲鳴とも判別のつかぬ奇妙な音を出して母は倒れこんだ。いくら俺が非力だと言っても、母親を殴り倒すくらいのことはできる。現に母は殴られた頬の痛みでうずくまったまま怯えた表情を浮かべている。
「お前、何してるんだっ!」
叫んで立ち上がった父にも俺の身体は勝手に反応した。近づこうとした瞬間、躊躇無くその腹部に蹴りを見舞った。
――もう止まらない、か……
自分であって自分でない俺を、諦める俺がいる。そんな想いとは裏腹に、俺は前屈みになった父を蹴り続けている。
「や、やめてぇ」
母が起き上がって後ろから俺に抱きついてきた。その顔面に俺は二度、三度肘を入れて振り払う。
肘にも、拳にも、足にも、嫌な痛みが続いていた。
だがそれに構うことなく、母を払いのけた俺は台所へ向かう。まだ朝食の準備をする際に使ったままの調理器具が並ぶ中、洗ってもいない包丁をひったくるように手にすると、父親目掛けてそのまま突進した。
「ぐ……、のり……あ……」
俺の肩を掴んだ父のその手が徐々に力を失っていく。痛みに震えながら俺を見つめる父は、驚きに満ちた表情を崩すと、いつものような俺を哀れむ表情を作り、そのまま崩れ落ちていった。
包丁を父の胸から抜くと赤黒い血が、Yシャツを染めていく。そして哀れみを向けてきたその目を、真一文字に掻っ切った。
「憲明……お、おまえ……」
母の怯える声で振り返る。様々な想いが混在しているのだろう。母の表情を読み取ることはできない。
夫が殺された哀しみ?
自分も殺されるという恐怖?
殺人を見てしまった驚愕?
息子が人を殺した慄き?
いずれにせよ、俺がすることは決まっていた。腰砕けになったまま逃げることも出来ない母に、無言のまま刃を突き刺した。一瞬見開かれた目が、腹の痛みできつく閉じられ、顔が歪む。
「いっつもうっせえんだよ、ババァ」
何かを言おうとしているのか、口をパクパクさせる母の口元を何度も踏みつける。そして俺は腹から引き抜いた包丁をその胸元に再び突き立てた。
血に染まったリビングに俺はぽつんと立っている。
「いつも……いつも俺を馬鹿にしやがって……」
からん、と音を立てて赤く染まった包丁が足元に落ちた。俺は両親をそのまま放置し、二階の自室へ戻った。途中、父か母か、どちらかの血溜まりを踏んだのだろう。俺の歩みに合わせて血の足跡が刻まれていく。
ごろんとベッドに横になると、大きく息を吐いた。
「眠ろう……後は明日でいいや……」
そう呟いた俺は目を閉じた。
父に掴まれた肩と、母を踏みつけた足裏がいつまでも痛んでいた。
「憲明、朝よ」
俺を起こす母の声がする。暗かった視界がいつもの部屋に徐々に切り替わっていく。
「おお、おはよう」
新聞を読んだまま父が俺に声をかける。
「模試の結果はどうだったんだ?」
そしてまた同じ悪夢を繰り返す。
父が俺に腹を刺され、肩を掴んだまま崩れ落ちる。そしてその父の目を切り裂く。
振り向いて母の腹を突き刺す。口元を何度も踏みつけ、胸元に再度刃を立てる。
二階へ歩み、眠る。
母が起こす。父が声をかける。
父を殺す。母を殺す。
眠る。
母が起こす……
――まだ逃げられないのか
俺はこの迷宮から抜け出せずにいる。何度応対を変えようとしても、笑顔で家を出ようとしても、眠ったまま起きずにいようとしても、俺は定められたシナリオを演技者のように繰り返す。
だがその度に俺の心は痛んでいく。そろそろ両親を殺す事にも慣れてきた。
また眠って、起きて両親を殺すのだ。
そう。今、目を閉じれば、血塗られた手のまま、何度も何度も……
夢を見た。幼い頃の夢だった。
小さな俺が歩いている。母に右手を、父に左手をつながれて。それを俺はどこからか見ている。
「ねえ、嘘ついたら閻魔様に舌抜かれるって本当?」
「本当よ」
若い母は俺に優しく語りかけている。
「怖い……」
「それだけじゃないのよ? 悪い事したら地獄に落ちたり、ひどい目にあったり、いっぱい大変なの」
「ええっ! 僕もうイタズラ一杯しちゃったよ」
それまで微笑んでいた父が声を上げて笑いながら、会話に加わった。イタズラならもう二度としません、って謝ろうね、と。
夕焼けが綺麗だった。実際にこんな事があったような気もするし、なかったような気もする。だが、幸せな夢だった。
「でも」
不意に父が手を離した。母もそれに倣う。第三者のように見ていた俺は、いつの間にか小さな俺になっている。離された手を追い求めるように頭を左右に振って父と母を見る。
「人を殺したり、自殺したりは絶対にダメなことなんだよ。死んでからもずっと成仏できないからね」
そう言うと父と母の姿は急に老け、風景も自宅のリビングに引き戻された。そこには血塗れで転がった両親がいる。
――もうしませんっ ごめんなさいっ
幼い姿の俺はそう祈った。いつの間にか夢の中の俺も血塗れで大人になっていた……。
「憲明、朝よ」
ああ……今日も俺を起こす母の声がする……。
了
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