#5 想定外
鉄背猪が、森を揺らす咆哮を放った。
空気が震え、葉擦れの音が一斉に消える。
重さそのものが、こちらへ向けて圧をかけてくる。
「……撤退よ!」
ルナが、即座に声を張った。
「今の私たちじゃ、決定打がない!」
正面からやり合えば、消耗戦になるだけだわ!」
短剣を構えたまま、間合いを保つ。
その声音に、迷いは一切なかった。
セレナも同意するように、静かに頷く。
鉄背猪が一歩、踏み出す。
分厚い脚が地面を踏みしめ、低い振動が伝わってくる。
「アルス!」
ルナが、こちらを振り返った。
「私とセレナで応戦する!
時間を稼ぐから、その間に――」
一瞬、言葉を選ぶ間があった。
「街道まで抜けて!」
「人を捕まえて。馬車でも、同業でも村人でも誰でもいい
この状況を、外に知らせて!」
(町までは、時間がかかる)
即座に理解できた。
走ってどうこうなる距離じゃない。
「それだと……間に合う保証がない!」
「分かってる」
ルナが、短く遮った。
「あなたは、戻ってくる必要ないわ。
外に知らせること、それだけに集中して!」
セレナが、静かに補足する。
「私たちは、持ちこたえられるわ。
あなたが役目を果たすまで、ね」
胸の奥が、重く沈んだ。
それはつまり、自分だけが安全圏に出る可能性を意味する。
「何か……何か、俺にできることがあるはずだ!
囮でも、足止めでも――」
言いかけて、言葉が詰まる。
具体的な案が続かない。
ルナは一瞬だけ、こちらを見つめた。
その視線は、優しくもあり、厳しくもある。
「あるわよ」
きっぱりと言い切られた。
「それが、今言った役割」
セレナが、穏やかだが逃げ場のない声で続ける。
「あなたが無事に、ギルドへ知らせること。
それがいちばん確実で、いちばん価値があるわ」
胸の奥が、きしりと鳴った。
理屈は分かる。
判断も正しい。
自分は、ただ守られるだけでいいのか。
「アルス」
ルナが、短く呼んだ。
「これは命令じゃない。
役割の分担よ」
一拍。
「私たちは耐える。
アルスは、その先を頼むわ!」
「……分かった」
絞り出すように答える。
「必ず、応援を呼んでくる」
ルナが、一瞬だけ笑った。
「それでいいわ!」
「先に帰って、打ち上げの場所でも探しておいて」
冗談めいた言葉なのに、不思議と胸が軽くなる。
(……戻る前提、か)
「ちゃんと、予約できそうな店を見つけておくよ」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
***
森を駆けながら、アルスは必死に思考を前に進めていた。
(街道に出る)
(人を見つける)
(この状況を外に伝える)
単純だ。
やるべきことは、はっきりしている。
背後から聞こえていた戦闘音が、いつの間にか薄れていた。
金属音も、衝撃も、森の奥へと押し流されていく。
それが何を意味するのか、深く考える余裕はない。
ただ、自分が思っている以上の速さで、状況が動いているという感覚だけが残った。
次の瞬間、足元が揺れた。
地面が抉れ、木々がへし折れる。
まるで山そのものが荒らされているかのようだ。
(……戦ってる、というより)
(動くだけで、周囲を壊してる……?)
敵意の有無すら関係ない。
存在しているだけで、地形が壊れる。
目の前の大木が、道をふさぐように倒れる。
(迂回して、山を抜ける道は……)
記憶を探る。
乗合馬車で来たときに通った道。
街道へ繋がる、あの細い抜け道。
――あのルートだ。
そう思い走り出した瞬間。
視界が、塞がれた。
鉄背猪が、目の前にいた。
戦闘中に繰り返された突進と、
逃走のために選んだ迂回路が、
最悪の形で重なってしまったのだろう。
巨体が、行く手を完全に遮っている。
「アルス!」
なんで、そんなところに!」
聞こえたのは、ルナの声だった。
反射的に視線を上げる。
だが、二人の姿はすぐには見えない。
視界を塞いでいるのは、目の前に立ちはだかる魔物だ。
その向こう側――わずかな隙間越しに、見えてしまう。
短剣を構えたまま、動けずにいるルナ。
その背後で、セレナが唇を噛みしめていた。
二人の顔から、はっきりと血の気が引いていた。
(……まずい)
迂回した結果、自分が一番来てはいけない場所に来てしまったことを理解する。
鉄背猪が、低く身を沈めた。
鋭い牙が、地面すれすれに突き出される。
突進体勢。
距離は、近い。
何も言えなかった。
声も、思考も、追いつかない。
――死ぬ。
その言葉が、冗談でも比喩でもなく、
確定した事実のように浮かぶ。
(嫌だ)
(死にたくない)
(生きたい)
(考えろ、考えろ!!)
心の底から、そう叫んだ瞬間。
世界が、静止した。
音が、遠い。
空気の揺れが、目で追える。
ボアの筋肉の動き。
地面を蹴る直前の重心移動。
(……ゾーンに入った、というやつか)
そんな言葉が浮かぶ。
(それにしても……
ここまで、はっきり認知できるものなのか?)
だが、すぐに思考を打ち消す。
(今は、そんなこと考えてる場合じゃない)
(生き残る方法は――ひとつしかない)
昨日の光景が、鮮明によみがえる。
魔物が、消えた瞬間。
自分が、確かに“やった”と感じた感触。
(再現しろ――)
(……違う)
(条件だ)
(あれは、偶然じゃない)
思考が、加速する。
(生きたいと思った)
(殺すと、はっきり決めた)
(盾を構え、前に出た)
(ただ殴ったわけじゃない)
(結果を、選んだんだ)
(なら――今も、同じ条件を揃えればいい)
逃げない。
躱さない。
――殺す。
その意思を、はっきりと心に刻む。
腕を前に突き出し、
盾の代わりに、拳を構えた。
生きるために。
終わらせるために。
半歩、踏み出す。
体重を前に預け、
衝突する覚悟で、拳を押し出す。
光が、弾けた。
一瞬の閃光。
次の瞬間、鉄背猪の巨体が、空間ごと押し退けられた。
幹が折れ、岩が砕け、その勢いは止まらない。
やがて、山肌の岩壁に激突し、ようやく、動きを止めた。
静寂が、ようやく現実として染み込んできた。
鉄背猪は、動かない。
それを確認して、初めて胸の奥がざわつく。
殴った感触はない。
だが、結果だけが、はっきりと残っている。
心臓が、遅れて早鐘を打ち始めた。
(もし、条件を一つでも外していたら)
(もし、迷っていたら)
背筋が、冷たくなる。
それでも。
思考の奥で、はっきりとした線が引かれた。
(分かった、偶然じゃなかった)
昨日の出来事。今日の失敗。
そして、今の結果。
点だったものが、一本の線になる。
(条件が揃えば――今度は、意図的にできる)
何かを得た、という感覚はなかった。
力が増したとも、新しい何かが流れ込んできたとも思えない。
ましてや、天の声が聞こえることもなかった。
ただ、確かに――“できてしまった”。
理由は分からない。
手順も、説明もない。
それなのに、次に同じ状況を想像したとき、同じ結果に辿り着ける気がした。
(……理屈が、後からついてくる)
それが何を意味するのか、
このときのアルスには、まだ分からなかった。
***
ルナは、目の前で起きたことを、すぐには理解できなかった。
巨大な魔物が――吹き飛んだ。
ただ倒れたのではない。
突進の勢いを殺され、受け流され、という類のものですらない。
結果だけが、唐突に置かれた。
「……なに、今の」
ルナの口から漏れた声は、ひどく乾いていた。
あの距離で。
あの体勢で。
短剣でも、祈祷でもない。
ましてや、重装を砕く術など――
「見えた?」
隣で、セレナが低く問いかける。
「いや……」
ルナは、正直に答えた。
「一瞬、光って……。
攻撃の動作も、衝突の瞬間も……分からなかったわ」
言いながら、違和感が強くなる。
「原因を見た記憶がないのに、結果だけがある。
……すごく嫌な感覚だわ」
(これは、修練場の時と同じ――)
二人の視線が、同時にアルスへ向いた。
彼は、立っていた。
だが、勝者の姿ではない。
膝はわずかに震え、呼吸も整っていない。
何より、自分が何をしたのか完全には分かっていない顔をしている。
「……アルス」
ルナが、慎重に名を呼ぶ。
返事はない。
こちらを見てはいるが、焦点が合っていない。
(放心……?)
いや、違う。
(戻ってきてる途中ね)
そう理解した瞬間、ルナは、はっきりと悟ってしまった。
――これは、彼がやったんだ。
セレナも同じところに辿り着いたらしい。
「えっと……説明できる?」
問いは、責めるためではなかった。
確認だ。
アルスは、数秒遅れて、首を横に振る。
「……少し、整理が、必要だと思う」
その一言で、十分だった。
説明できない。
だが、否定もしない。
「……そう」
セレナは、それ以上追及しなかった。
代わりに、鉄背猪の亡骸へと視線を向ける。
視線の先、木々が折れ、地面が抉れた痕跡の“終点”に、それはあった。
殴られた跡はない。
裂けた皮膚も、折れた骨も見当たらない。
ただ、そこに至るまでの道筋だけが、異様な距離を物語っている。
それでも――命は、完全に断たれていた。
「これは、ギルドに報告が必要ね。
山菜採取どころの話じゃない」
「銀級想定、だったけど。
この状況は想定外ね」
ルナは、ゆっくりと息を吐いた。
――想定、という言葉自体が、もう意味を失っていた。
再び、アルスを見る。
力を誇示する様子はない。
状況を整理しているような顔で、ただ息を整えているだけだ。
それでも、この場で一番“目を離してはいけない存在”に変わってしまったのは、間違いなかった。
(……思っていた以上、なんて話じゃない。
これは――)
ルナは、あえてその先を考えるのをやめた。
今は、彼が無事に立っていること。
それだけで、十分だった。




