幕間 星が消えた日
ステラ・ノクティス修道院。
白い石造りの建物は、丘の上から町を静かに見下ろしている。
その一角には小さな孤児院が併設されており、戦争や親の都合などで身寄りを失った子供たちが暮らしていた。
昼下がりの食堂には、硬いパンをちぎる音と子供たちの笑い声が響いている。
「こら! またパン残してる! ちゃんと食べなきゃだめだよ!」
エプロン姿の見習い修道女、セレナが腰に手を当てて声を上げた。
他の修道女は人員入れ替えで不在。今この孤児院を切り盛りしているのは、まだ若い彼女ひとりだ。
「だって! このパン硬いんだもの! もっと柔らかいパンやお肉が食べたいわ!」
頬を膨らませて言い返したのは、最近入ったばかりの少女――ルクス。
金色の髪が陽光を受けてきらりと光る。
「いけません。これは神様からのお恵みなんです。そんな贅沢は教えていません!」
「じゃあ私にちょうだい!」
横からひょい、と手を伸ばしたのはルナだった。
「こら、ルナ! お恵みは全員平等なんだから、一人だけ多く食べちゃだめです!」
「ちえー、勿体ないなあ」
ルナは舌を出しながらも、素直に手を引っ込める。
幼いころからここで育った彼女は、どこかこの場所の空気と一体になっていた。
その様子を、白髭の神父が穏やかな目で見守っている。
「おやおや、元気があって、よろしいですね」
「神父様! ルクスがまた我儘いうんです!」
「私はまだお腹がすいてる!」
「ルナはあっちで遊んでなさい!
ルクス、こっち来なさい!」
渋々立ち上がったルクスは、小さくつぶやく。
「……お家のパンはもっと柔らかくて、良い匂いがしたんです。
なんでこんなに硬いパンを食べないといけないのですか」
その声は、わがままというより、寂しさに近かった。
セレナは一瞬だけ言葉を失い、しゃがんで目線を合わせる。
「いいですか。ここにいる先生やお友達は、みんな同じ。大変な思いをしてここに来たの。神様はね、頑張っている子をちゃんと見てくれているのよ」
ルクスは唇を噛む。
「……お父様もお母様も、絶対迎えに来てくれる!!」
そう叫ぶと、椅子を蹴るようにして食堂を飛び出した。
「あっ、ルクス!」
セレナは立ち上がる。
「神父様。ルクスを連れ戻してきます」
「ええ、頼みましたよ」
修道院の扉が閉まる音が、静かに響いた。
その様子を、ルナは少しだけ眉をひそめながら見ていた。
そして、何事もなかったかのように台所へ向かう。
りんごを手に取り、包丁で器用に皮をむきはじめる。
「ルナ、食べ終わったら一緒に遊ぼ。でももう高い所のぼっちゃダメだよ。あんなところ探せないから」
「ばれた……!」
振り返りもせず、ルナは笑う。
「皆も練習すれば登れるよ!」
「そんなの無理だよ!」
「ルナは一度隠れると、全然見つからないんだ!」
「なんとなく、探されてるのがわかるの。だから、こっそり他の場所に移動すれば見つからない!」
「それズルだよ!」
子供たちの笑い声が、食堂いっぱいに広がる。
その時だった。
「どうも、例の話について、ご報告が……」
入口に立つ男の声に、神父が振り向く。
「こらこら、仲良くしなさい。私はこれから大事なお話をしに行きます。何かあったらお部屋まで来てください」
「わかった!」
無邪気な返事が重なる。
神父と側近の男が廊下の奥へ消えていく。
その背中を、ルナは一瞬だけ、じっと見つめていた。
何かを考えるような目で。
そして、再び包丁を握り直す。
りんごの赤い皮が、くるりと長く、途切れずに落ちていった。
***
「ルクス! 待って!」
修道院の石畳を抜け、町へ続く坂道を、金髪の少女が駆け下りていく。
「やだ! おいしいパンをくれるまで、待たない!」
振り返りもせず叫ぶルクスの足は、子供とは思えないほど速い。
小柄な体が、軽やかに段差を飛び越えていく。
「ま、待って……! もう私……本当に無理……!」
息を切らしたセレナが立ち止まると、ルクスも足を止めた。
しばらく迷うように空を見上げ、それから小さくため息をつく。
「……わかった、わかったから。一人にしないでよ」
夕暮れが町を染めはじめていた。
店じまいをする商人、家路を急ぐ人々。
空は茜色から紫へとゆっくりと沈んでいく。
「もうそろそろ暗くなってしまうわね。夜に子供が出歩くと、魔族にさらわれちゃうんだって。急がなくちゃ」
「魔族なんて、私がやっつけるわ!」
ルクスは胸を張る。
「魔族は勇者様じゃないと倒せないのよ。魔法も剣も効かないのですって」
「それじゃあ、勇者様が助けにくるまで、私が皆を守る!」
その言葉は、無邪気で、まっすぐだった。
セレナは思わず笑う。
「ふふ、まるでルクスが勇者みたいね。頼りにしているわ」
「私はお友達を守るのよ!」
夕陽がその横顔を照らす。
誇らしげで、少しだけ寂しげな顔だった。
しばらく歩いたところで、前方から二人組の男が近づいてきた。
どこか場違いな、よく磨かれた靴。
無駄のない動き。
「お嬢さんがた。この辺りに孤児院があると聞いたのだが、どこにあるか知らないか?」
柔らかい声。
だが、目が笑っていない。
「あ、はい。ステラ・ノクティス修道院に併設されています。
ちょうど行くところなので、ご案内します」
セレナは素直に答える。
「そうか、それは助かる」
男たちは互いに視線を交わした。
一人が、ゆっくりとルクスを見る。
「君もその孤児院で生活しているのかな?」
ルクスは答えない。
じっと、男の顔を見つめている。
「こら。大人に聞かれたら、ちゃんと答えないと」
セレナがやさしく背中を押す。
「ええ、この子も施設の子なんですよ。来たのは最近ですけど」
「ほう、“最近”ね……」
男の口元が、わずかに歪む。
「名は何ていうんだ?」
一瞬だけ、空気が変わった。
夕暮れの色が、急に冷たくなる。
「えっと……ルクス――」
「こいつらは“ダメ”だ!」
ルクスが叫んだ。
次の瞬間、セレナの手を掴み、強引に引っ張る。
「え? ちょ、ちょっと!」
二人は石畳を蹴り、坂道を駆け上がる。
背後で男たちの足音は追ってこない。
「ふふ――ルクス、ね」
静かな声が、風に溶ける。
男たちは追わない。
ただ、逃げる背中を見送りながら、互いにうなずいた。
空の色は、もう紫に変わっていた。
星がひとつ、瞬きはじめている。
***
孤児院の奥、神父の執務室。
重い扉が閉じられ、外の喧騒は届かない。
「……例の件がばれた。刺客が迫っている」
向かいに座る側近の声は低い。
神父は目を閉じ、小さく息を吐いた。
「ふむ……やはり、ですか。
子供達も早くここから避難させねばなりませんな」
「時間がない。今夜中に移すべきだ」
言葉を交わす二人の顔には、覚悟があった。
――だが。
廊下の向こうで、足音が止まる。
次の瞬間、扉が蹴破られた。
木片が飛び散る。
「ずいぶん慌ただしいな、神父様」
見慣れぬ二人の男が、無遠慮に部屋へ踏み込んできた。
もう一人が部屋へ入り込み、背後の扉を閉める。
「……何のご用ですかな」
「用は一つだ」
男はゆっくりと室内を見回す。
「“器”に見当がついているんじゃないか?」
神父は表情を崩さない。
「何のことか、分かりかねますな」
鈍い音が響く。
椅子が蹴り倒され、神父が床に叩きつけられた。
「とぼけるな。勇者の“器”だ。隠せると思うなよ」
「皆、穏やかで良い子たちばかりだ。スキルもまだ発現しておらぬ。
……分かるわけがなかろう」
「さっさと答えろ」
拳が振り下ろされる。
血が床に落ちる。
それでも、神父は首を横に振った。
「ここに、そんな子はおらぬ」
沈黙。
男はゆっくりと笑った。
「なるほど。“ここには”居ないんだな」
神父の瞳が揺れる。
「ついさっき、修道女と一緒にいる金髪の少女を見かけたんだが……」
もう一人が続ける。
「子供にしちゃ足が速すぎるし、やけに勘がよさそうだったぞ」
空気が凍る。
神父は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
それが答えだった。
「……ここまで口を割らないってことは、お前らは完全に“アッチ側”ってことだな」
男は淡々と言う。
次の瞬間、刃が閃いた。
まず、側近が崩れ落ちた。
次に、神父の胸を貫く。
血が広がる。
部屋は静まり返った。
その時だった。
廊下の向こうから、子供の声が近づく。
「ねえ神父様! またルナが見つからないの!」
「どこ隠れてるんだろう……」
無邪気な足音。
扉の前で止まる。
ゆっくりと開く。
「あれ、おじさんたち誰?
あれ、神父様?」
視線が、床へ落ちる。
「……え、血?」
男たちは顔を見合わせた。
「見られちまったか」
「めんどくせえな」
淡々とした声。
「丸ごと消すか」
夕暮れの光が、廊下の奥から差し込む。
子供たちの影が、長く伸びていた。
そして、その影が揺れる。
その瞬間。
修道院のどこかで、何かが壊れる音がした。
***
「嫌な予感がしたんだ」
走りながら、ルクスが言った。
その声は、いつもの強がりではない。
「あの人たち、変だった。目が、冷たかった」
ルクスの勘はよく当たる。
ほとんど外したことがない。
――偶然、ではない。
セレナはそれを知っている。
「……でも、もう大丈夫よ。修道院に戻れば――」
言いかけて、胸がざわついた。
自分が場所を教えた。
「どうしよう……私、孤児院のことを言ってしまったわ」
「表通りは危ない。あの壁の穴を抜ければ修道院まで行ける」
二人は裏路地へ入る。
石壁の隙間をすり抜け、建物の影を走る。
「……煙くさい」
セレナが足を止めた。
「落ち葉でも焼いているのかしら」
ルクスは首を振る。
「違う。もっと嫌なにおい」
嫌な予感が、現実になる瞬間。
路地を抜け、視界がひらけた。
修道院が、燃えていた。
炎が屋根を飲み込み、夜空を赤く染めている。
「な、なんで……!!」
セレナの膝が震える。
「嫌……嫌よ……みんな、みんな居るのよ!
神父様っ!! ルナ……リオ、エアリっ!!」
ルクスの叫びが、炎にかき消される。
その炎の前に、二つの影が立っていた。
「いたか?」
「いや、見失った。まったく、すばしっこい子供がいたものだ……」
ゆっくり振り向く。
「ああ、ルクス嬢。先ほどぶりですな」
「あんたたちが火をつけたの!? 何のために!!
皆は無事なの!?」
ルクスが前に出る。
セレナは声が出ない。
「お友達は皆、無事ですよ」
穏やかな口調。
「孤児院が燃えているのは、火の不始末でしょう。
神父も修道女も、お友達も皆、避難させました」
その言葉に、セレナはすがるように一歩踏み出す。
「……本当に?」
「ええ。避難場所に集まっています。案内しましょう」
ルクスが、セレナの袖を掴む。
「だめ。
その人たち、“修道女も皆無事”って言った」
セレナは一瞬、理解できなかった。
「……ええ、そうね。よかった――」
そこで止まる。
今、この修道院に、私以外の修道女は――。
男の顔から笑みが消える。
セレナの腕を乱暴に掴む。
「放して!」
「安心してほしい。友達はある所に集まっている」
「皆は本当に無事なのか!?」
ルクスが叫ぶ。
「ああ。ただし――」
男の声が低くなる。
「貴女が来てくれないと、助けられない」
炎の音だけが響く。
「ルクス嬢、一緒に来てくれ。早く行かないと手遅れに」
セレナの手が震える。
「だめ……ルクス……」
ルクスは、迷わなかった。
「わかった」
小さく息を吸う。
「そっちに行くから、セレナを放して」
男は手を離す。
ルクスが歩み寄る。
「セレナ。私はこの人たちと、皆の様子を見てくるよ」
炎を背に振り返る。
「大丈夫。ちゃんと守るからね」
一歩。
男の手が動く。
次の瞬間。
刃が胸に沈んだ。
「……え?」
血が噴き出す。
「お友達も、神父も、天国で待ってるからよ」
ルクスの瞳が揺れる。
ゆっくりとセレナを見る。
「そ……んな……皆……」
涙がこぼれる。
「私……守れ、なかっ……」
崩れ落ちる。
炎の音だけが、残った。
「うそ……いやああああ!!」
セレナの絶叫。
「死体はお前が持ってけ。俺は後処理をする」
「ああ」
もう一人の男がルクスの身体を担ぎ、炎の向こうへ消えていく。
残された男が、ゆっくりとセレナへ近づく。
「さて……次は君だ。同じ所に送ってあげるから」
後ずさるセレナ。
足がもつれる。
「嫌……来ないで……」
男が刃を振り上げた瞬間。
鮮血が舞う。
セレナの顔が赤く染まる。
「が……っ」
足音は、なかった。
背後から包丁が男の喉を裂く。
男は振り向く。
そこに立っていたのは、煤まみれの小さな影。
「全部……お前らのせいだ」
ルナの手は震えていない。
血に染まった包丁が光る。
男が崩れ落ちる。
ルナはしばらく動かなかった。
「ルナ……無事だったの……」
セレナの視界が歪む。
意識が途切れる直前、聞こえたのは。
「許さない……」
炎は、夜空を焦がし続けていた。
その夜、星はひとつ、消えた。
***
森の奥で、魔物の血の匂いがまだ残っている。
「ほら、これで全部だ。ルナ? 聞いてる?」
アルスは解体した魔物の牙を袋に放り込みながら振り返った。
ルナは少し遅れて顔を上げる。
「ああ、ごめん。夢みてた」
ほんの一瞬だけ、ルナの目が冷えたように見えた。
すぐに、いつもの笑顔に戻る。
「……帰りの支度は任せるよ。俺はもうくたくただ」
「わかった、ありがとう、アルス!」
軽い調子で返す声は、いつも通りだ。
「って、セレナも寝てるのか」
少し離れた木の根元で、セレナは目を閉じている。
戦闘の緊張が解けたのか、穏やかな寝息を立てていた。
「金級にもなると、依頼以外の仕事も増えるからさ。疲れてるんだよ」
ルナが肩をすくめる。
「アルスも早く金級になれ。そして手伝え!」
「俺はまだ黒鉄級でいいかな……《夜空》からも、まだ教わること多いし」
「あはは! 後見役冥利につきるけどさ!」
ルナは笑う。
いつも通りの、明るい笑い声。
けれど。
火の色が、ほんの一瞬だけ瞳の奥をよぎる。
「セレナ、私たちの目的も、これからね」
小さく、独り言のように。
「そういえば、《夜空》の目標とか聞いたことなかったな」
アルスが首を傾げる。
ルナはにやりと笑う。
「私たちと同じ等級になったら、教えてあげる!」
「ずいぶん先だな」
「努力しろ!」
和気藹々とした空気が戻る。
森の風が葉を揺らす。
アルスは気づいていない。
《夜空》が、なぜ“夜空”なのか。
何を失い、何を背負っているのか。
空を見上げる。
星が、瞬いている。
ルナは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
――あの日から。
私たちは、生き残るために組んだ。
そして。
消えた星を、忘れないために。
幕間までお読みいただき、ありがとうございました。
第一章では、アルスの成長と《夜空》の活躍を中心に描いてきましたが、
この幕間では、ルナとセレナの過去をお届けしました。
次話より、いよいよ第二章に入ります。
第二章では、名声の裏に潜む違和感、
そして世界の歪みが少しずつ表に出てきます。
※現在、二章のプロットを練っている最中ですので、
更新まで少しだけお時間をいただければ嬉しいです。
もし面白い、続きが気になると思っていただけましたら、
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