英雄
魔法、矢、剣戟が同時にドラゴンへ殺到した。
だが――
手応えは、ない。
鋭い光弾は鱗に弾かれ、
矢は火炎に呑まれ、
剣の一撃すら、巨体に触れる前に押し返される。
攻撃は次々と無力化されていった。
次の瞬間。
ドラゴンが尾を振るった。
それだけで、前衛の隊列が崩壊する。
盾ごと宙を舞う。
身体が石畳へ叩きつけられ、動かなくなる者が次々と地面に転がった。
瓦礫が四方へ飛び散る。
その余波だけで、後衛の数人が吹き飛ばされ戦闘不能に陥った。
――圧倒的だった。
《夜空》の面々は、逃げ遅れた住人を見つけては避難路へ誘導していた。
その最中にも、ドラゴンのブレスが街路を薙ぎ払う。
安全圏にいるはずなのに、肌がひりつくほどの熱が容赦なく襲ってきた。
「……これは……」
アルスの声が、震える。
「ひどいなんてものじゃないわ」
ルナが即座に言い切った。
「災害よ。しかも、よりによって上位のドラゴンみたいね」
「今も被害は増え続けてる」
セレナは前線から目を離さず、淡々と告げる。
「討伐隊は隙を狙ってるようだけど……
このままじゃ、消耗が先に来るわね」
前線から離れた場所では、傷ついた冒険者たちが次々と運び込まれていた。
治療は追いつかない。
倒れる人数だけが、ただ増えていく。
それは戦いではなく、街が一方的に削り取られていく光景だった。
***
ドラゴンが再び飛び上がろうと翼を広げた。
その動きを見逃さず、討伐隊の指揮官が叫ぶ。
「今だ!
お嬢様! お願いします!」
守られる位置にいたミラが、すぐに前へ踏み出した。
詠唱が始まる。
――なるほど。
アルスは、思わず息をのんだ。
相手は爬虫類型の魔物。
体温を下げれば動きは鈍り、翼を凍らせれば飛行は封じられる。
落下によるダメージ。
そして、大きな隙。
遥か上空にいた時には、魔法の効果範囲外だったのだろう。
だからこそ――この距離、この瞬間。
討伐隊は、ここまで機を伺っていた。
合図とともに、陣形が一斉に切り替わる。
魔術師が詠唱を強め、弓兵が狙いを定め、前衛が構えを固めた。
ドラゴンが地を蹴る。
飛び立つ、その瞬間。
「いきますわ!」
ミラの声が、戦場に響いた。
蒼緑の光が、ドラゴンの翼へと絡みつく。
魔力は確かに集束し、凍気を孕んだ輝きが、翼の輪郭を縁取った。
――いける。
誰もが、そう思った。
ひときわ強く光った次の瞬間、
蒼緑の輝きは、霧が晴れるように掻き消えた。
「……え?」
ミラの声が、空気に溶ける。
「なんで……!
どうして、発動しないのよ!!」
声が裏返る。
動揺は、瞬く間に周囲へ伝播した。
魔術師の詠唱が乱れ、
前衛の足が止まり、
後衛の一部が、我先にと逃げ出した。
陣形が、崩れた。
空を舞うはずだった希望は、何事もなかったかのように消えていた。
***
「……失敗?」
アルスの口から、かすれた声が漏れた。
「……あれは……」
隣で、ルナの目がわずかに細くなる。
前線の惨状ではなく、もっと別の――
見えない何かを探るような視線だった。
「ごめん」
短く言い残し、ルナは振り返る。
「ちょっと、気になることがあるから行ってくる!」
次の瞬間、彼女の姿は信じられない速さで街の外縁へと走り出していた。
「ルナ!?」
思わず追いかけようとしたアルスの腕を、セレナが強く掴む。
「待って」
低く、落ち着いた声だった。
「こういうとき、ルナは結構考えて動いているの。
……信じましょう」
セレナはそう言って、再び住民の避難誘導へと戻っていった。
その間にも、戦場は悪化する一方だった。
ドラゴンは上空を旋回し、広範囲にブレスをばら撒いている。
灼熱が降り注ぎ、前線は完全に混乱へと沈んだ。
指揮は意味をなさず、前衛は盾を焼かれて前に出ることができない。
後衛は、ただ逃げることに必死だった。
その中心で――
ドラゴンスレイヤーは腰を抜かしたまま、場違いな檄を飛ばしている。
「立て! 立つんだ! ここで引くな!」
声だけが、虚しく響いていた。
そのすぐ傍で、ミラだけが、立ち続けていた。
与えられた役割を、手放そうとしない。
何度も詠唱を紡ごうとする。
だが――声が出ない。
唇が、かすかに動くだけ。
喉から漏れるのは、音にならない息だけだった。
それでも。
ミラは、詠唱をやめようとしなかった。
***
ブレスが放たれた。
空気が、焼ける。
灼熱が一直線に、ミラへと迫ってくる。
それでも――
ミラは、音のない詠唱を止めなかった。
逃げれば、街は。
領民は。
その考えが、胸をよぎる。
たとえ、自分が囮になろうとも。
ここで踏みとどまらなければ、この一瞬を逃せば――すべてが崩れる。
貴族として。
この街を預かる者として。
最後の瞬間まで、与えられた役目を果たす。
(……皆は、避難できたでしょうか)
視界の端で、炎が膨れ上がる。
熱が、肌を刺す。
もう、声は出ない。
――私は、立派に戦いましたわ。
誰に言うでもなく、
そう言い聞かせるように。
ミラは、静かに目を閉じた。
***
「諦めるな!」
アルスの叫び声と同時に、衝撃が走った。
彼は、ミラの身体を強く引き寄せる。
次の瞬間、二人の視界が回転し、地面を転がった。
灼熱が、すぐ背後を通り過ぎる。
「……え?」
遅れて、息が戻った。
「大丈夫?」
セレナの声。
同時に、温かな光がミラを包む。
傷が、熱が、引いていく。
「まだ希望はあります」
セレナは、そう言い切った。
《束縛》
光の鎖が、ドラゴンを絡め取る。
ほんの一瞬。
だが、確かに――巨体の動きが止まった。
「今!」
その隙を、逃さない。
鋭い音とともに、短剣が飛んだ。
刃は一直線に、ドラゴンの片目へ突き刺さる。
悲痛な咆哮が、戦場を揺らす。
「油断してるからよ!」
ルナの声。
二本目の短剣が放たれるが、
それは硬い瞼に阻まれ、弾き返された。
それでも。
十分すぎるほどの隙が、生まれた。
「今よ、ミラ!」
ミラは、息をのむ。
「で、でも……
何度もやってるのに、今日に限って成功しないのよ!」
「大丈夫。次はできるよ」
アルスの声だった。
その一言に、ミラは顔を上げる。
――彼が、そう言うなら。
「……信じますわ!」
再び、詠唱。
蒼緑の光が、ミラの周囲に集まっていく。
(……うそ)
さっきとは、違う。
魔力の通りが、はっきりと感じられる。
詰まりがなく、淀みがない。
(これなら……!)
放たれた輝きが、再びドラゴンの翼へと絡みついた。
「おい、そこのキンキラ男!」
ルナの怒号が、戦場を切り裂いた。
「そろそろあんたの見せ場でしょ!
ぼさっとしてないで、準備しなさい!」
「ぼ、ボクに命令するな!」
ドラゴンスレイヤーは喚き散らしながら、
巨大な大剣――ドラゴンキラーを引きずるように前へ出る。
「くそっ……覚えていろ!
必ずお前は、ボクに惚れてしまうからなァ!」
彼は、ドラゴンの真下辺りまで歩を進めた。
その直後。
「できました!
いつでも、いけます!」
ミラの声が、戦場に響く。
「キザ男! 構えて!」
ルナが叫ぶ。
「命令するなと言っただろうが!
――宣言ッ!」
ドラゴンスレイヤーは、息を荒げながら大剣を構えた。
その言葉に、アルスは一瞬だけ胸が熱くなる。
(……宣言するところから口に出すのか。
これは中々、良いんじゃないか?)
「いきます!!」
ミラの叫びとともに、ドラゴンの翼がひときわ青緑色に輝いた。
《蒼碧の奔流》
エメラルド家にのみ許された、渾身の氷魔法。
凍気が翼を包み込み、表面を分厚い氷が覆う。
ドラゴンの巨体が重力に引きずり落とされる。
地面へ激突する轟音。
苦悶の咆哮。
そして。
その眼前に立つのは、
いかつい大剣を構えた、白金級冒険者。
「この瞬間を、待っていた!」
宝石が、大剣の鍔で輝きを増す。
「刮目せよ!!」
「絶技――
"究極混沌龍殺斬"!!」
振り下ろされた剣戟は、スキル名とは裏腹にひどく地味だった。
誰もが、息をのむ。
無音の空間。
次の瞬間――
金属が、弾ける音だけが響いた。
***
……折れた。
大剣は、無残にも刀身の途中から砕け散っていた。
「……え?」
間の抜けた声が、戦場に落ちる。
次の瞬間、ドラゴンが怒りの咆哮を放った。
凍りついていた翼が震え、ひび割れた氷が、音を立てて剥がれ落ちていく。
「そんな……」
ミラの顔から、血の気が引いた。
「どうして……何故……」
その様子を、ルナとセレナは冷めた目で見ていた。
「あいつ……やっぱりね!」
「装飾品の剣じゃ、当然でしょう」
二人の視線の先で、ドラゴンスレイヤーは折れた剣を握ったまま、完全に腰を抜かしていた。
「ち、ちがう!
ドラゴンの卵は、これで割れたんだよ!!
本当だ!!」
意味不明な言い訳が、虚しく響く。
「退避!!」
指揮官の絶叫が、戦場を貫いた。
「皆、逃げろ! 作戦失敗だ!」
再び、混乱。
氷が砕ける音が、はっきりと聞こえた。
ドラゴンの翼が、完全に自由を取り戻す。
「……この街を……守れなかった……」
言葉の途中で、声が途切れた。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
溢れ始めた涙は止まらなかった。
――やっぱり、ダメだった。
そう思った瞬間、心の中で何かが、音もなく折れた。
――役目は、果たせなかった。
「まだよ!」
ルナの声が、即座に返った。
だが、ミラは答えなかった。
視線は地面に落ちたまま、震える肩だけが、かろうじて動いている。
焼け焦げた街。
立ち上る煙。
倒れ伏したままの人影。
それを見て、ようやく――
「もう……」
掠れた声が、零れ落ちる。
「もう……どうしようもないではないですか……!」
その言葉を掻き消すように、ドラゴンの口内に、再び灼熱が凝縮されていく。
赤く照らされた顔。
誰もが理解していた。
――次は、耐えられない。
逃げ出す気力すら、もう残っていなかった。
そのとき。
「昨日のおもてなしの、お礼をしてなかったわね!」
場違いなほど軽い声で、ルナが言った。
「……え?」
ミラは、何を言われたのか分からず、目を瞬かせる。
セレナは、ドラゴンから視線を逸らさないまま、口元にわずかな微笑みを浮かべた。
「あんなに豪華なお料理、なかなか食べられませんから」
《束縛》
見えない力が、再びドラゴンを縫い留める。
頭部が、地面へ引き倒された。
だが――弱い。
最初のものとは比べものにならない。
ブレスを止めるには、到底足りなかった。
「いいよ!」
ルナが叫ぶ。
「やっちゃって!」
――誰に?
ミラは、ルナの視線を追った。
ドラゴンの喉元。
そこには、誰もいない。
……はずだった。
空間が、わずかに揺らぐ。
目を凝らすと、赤褐色のスカーフがはためいている。
拳を振り上げる、少年の姿。
《致命撃》
世界が、白に染まった。
轟音。
衝撃波。
大地がうねるように揺れ、家々の壁が悲鳴を上げる。
通りに面した窓という窓が、時間差で弾け飛んだ。
割れたガラス片が、雨のように降り注ぐ。
思わず、目を逸らした。
轟音が、遠ざかっていく。
――静寂。
耳鳴りだけが、いつまでも残っていた。
やがて、それすらも消えたのを感じてから――
恐る恐る、再び目を開ける。
ドラゴンの頭があった場所に、一人の少年が立っていた。
はるか先。
建物をいくつも貫き、外壁にめり込む巨大な頭部。
その光景を前に、
言葉を持てる者は、誰一人としていなかった。




