嗤う瘴気
――ズシンッ、ズシンッ、と大地を打つような重低音。
木々を押し分けるように走ってきたレオンたちは、開けた一角に足を踏み入れた瞬間、血の匂いと緊張感に満ちた空気を感じ取った。
「うっ……これは……」
リリスが鋭く目を細めた。そこには、既に戦闘の爪痕が刻まれていた。
クラリス、ヴィクター、ラウル――3人が無惨にも地面に倒れていた。魔法による焼け焦げ、裂けた防具。呻き声も出せないほどの重傷だ。
その中で唯一立ち向かっていたのは、剣を手にしたエドガーと、弓を構えるフェリシアの二人だけだった。
「フェリシア、逃げろ!!先生を呼んできてくれ!!」
エドガーが怒鳴った。その額には汗と血が滲み、肩口はすでに裂かれていた。それでも目はまだ、獣を睨み据えている。
「でも……!」
フェリシアは迷った。その一歩を踏み出せない。今この場から自分が離れてしまえば、エドガーは――
そのわずかな躊躇の間だった。
ドゴォォォォ――!!
凶悪な瘴気を纏った巨体――デスグリズリーが咆哮と共にその巨大な腕を振り下ろす。反応が一瞬遅れたフェリシアの目に映ったのは、突風のように動いたエドガーの背中だった。
「えっ――エドガーっ!!」
ごぉっ、と音を立てて振り下ろされた一撃が、エドガーの体を地面に叩きつける。
「ガッ……!は、っ……!!」
それは一目で分かる致命傷だった。鎧ごと砕かれた腹部から血が噴き出す。
フェリシアは目を見開き、硬直する。その場にへたり込みそうになる足を、どうにか立たせるのが精一杯だった。
「……どうして、なんで……!」
苦悶に顔を歪めながら、それでもエドガーは笑った。
「お前が……無事なら……それで、いい……だろ……?」
血飛沫が飛び散る中、倒れたエドガーの姿に一瞬硬直するレオンたち。
だが、次の瞬間――
「リリス、いけるか!?」
「やってやるわ!」
リリスの手が掲げられ、次の瞬間――彼女の掌から紅蓮の火球が放たれた。
ゴウッ!!
火球がデスグリズリーの横腹を焼き、獣は怒りの咆哮を上げて振り返る。鋭い眼光がリリスに向けられた瞬間、狙いは完全に切り替わった。
「今のうちに!レオンはやつの視線を取ってくれ!ティアはエドガーたちに回復魔法を!」
カイルの叫びにレオンが頷き、フェリシアの腕を掴んで声をかける。
「ここは俺たちに任せて、今すぐ先生たちを連れてきてくれ!」
「でも……っ!」
「彼が命をかけた意味を無駄にするな!行け!!」
その一言にフェリシアの瞳が揺れる――そして、決意の色が宿った。
「……お願い、絶対に生きてて!」
そう言い残し、彼女は森の奥へと駆け出した。
入れ替わるように、レオン、カイル、リリス、ティアが前線に立ちふさがる。
――そのとき。
「ま、待った待った待った!」
空中から飛び出すように現れたスフィラが姿を小さく変えながら、バタバタとレオンの肩に飛び乗る。
「なによあれ、瘴気が濃すぎるって! あれ、ただの魔獣じゃない!間違いなく“魔界の瘴気”に汚染されてる……!」
「スフィラ、落ち着け。今ここで俺たちが引けばこいつらは死ぬ。俺たちで食い止めるしかない」
「それはわかるけど無茶だよ!正直、私がいても分が悪いってレベルじゃないんだから!」
焦燥と怒気を滲ませながら、スフィラは続ける。
「瘴気に触れすぎると、精霊でも精神が侵される……このままじゃ、“うち”も……!」
「けど、それでもやるしかないんだ。スフィラ、君はどうする?」
レオンの静かな声に、スフィラはぎゅっと眉を寄せた。
そして――
「……ったく、仕方ないな!うちはレオンの“ともだち”でしょ。やれるとこまで付き合ってやる!」
デスグリズリーが歩く度に大地が呻く。標的をレオン達に切り替えたその巨獣は、彼らをその瞳の中心に捉えた。
「リリス!もう一度炎を頼む!」
カイルの合図と共に、リリスは相棒のムチをデスグリズリーの右腕へと巻き付ける。
「燃え尽きなさい!」
その叫びとともに、彼女はムチへ魔力を流し込んだ。ムチが炎を纏い、獣の腕がたちまち紅蓮に包まれる。
「スフィラ、風を!」
「ちょっと急すぎ!……でも、はいよっ!」
スフィラが風を巻き起こし、炎を一気に煽る。
「私もいく!」
エドガーたちへの応急処置と最低限の回復魔法を施し終えたティアが弓を引き、風の精霊の加護を宿した矢を放つ。火柱を裂いて射抜かれた矢が中心で爆ぜ、炎はさらに激しさを増した。
――紅蓮の炎が風に煽られ、渦を巻きながらデスグリズリーを包み込む。火と風が一体となった“炎の竜巻”が巨獣の影をかき消し、焼き尽くすかに思えた。
「これで少しくらい……弱ってくれよな……頼むから……」
カイルが額の汗を拭いながらつぶやいた。
――だが。
ゴォォォォッ!!
怒りの咆哮とともに、炎が爆ぜて吹き飛ばされた。毛並みは焦げていたが、瞳の奥に宿る瘴気の光は、一切衰えていない。
「はは、こりゃ……すごいな……」
カイルが乾いた声でつぶやく。
デスグリズリーはゆっくりと頭をもたげ、レオンたちをまっすぐに見据えた。
その双眸には、獣の本能ではない“明確な意思”が宿っていた。
――逃げ場はない。
――抗うことに意味などない。
言葉などないはずなのに、確かに“告げられた”ような気がした。
そして、そいつは――嗤った。
獣とは思えぬ、不気味な嗤いをその口元に浮かべながら。
絶望が、牙を剥く音がした。




