第六章 月のマント
パウロは呻きながら目を覚ました。
体のあちこちが痛い。全身打撲といったところだ。
頭痛に胸焼けがひどく、完全に二日酔いだった。
薄目で辺りを見渡す。どうやらセント・アンジェリカ教会のベッドに寝かされているらしい。
だが、なぜここに? 昨晩の記憶が曖昧だ。
遺跡に行ったはずだ……その先が思い出せない。記憶がぽっかりと抜け落ちていた。
ただ、怒りと諦めに似た感情の残滓が、頭の中に不快な響きを残していた。
鈍い響きに耐えながら天井を見上げていると、乾きと尿意が同時に襲ってきた。
身を捩ってベッドから転げ落ちるように抜け出し、廊下へと向かう。
「お早いお目覚めですね……パウロ神父」
声の主は振り向かずとも分かった。エスペランサだ。
パウロは返事もせずトイレへと向かう。
「挨拶もなしですか? パウロ神父」
エスペランサが追いかけてくる。勘弁してくれとパウロは思う。
「昨日の晩、っていうか早朝ですよ」エスペランサは黙らない。
「へべれけになって・・・あなた神父でしょ?」
「男たちに担がれて・・・情けない」
「それに、あの大金はなに?」
パウロは後にしてくれと力なく手を挙げる。
「はぁ?なんですか、黙れって言うんですか、え?そうなんですか」
男が自分に気があることを知っている女の口調だった。
勘弁してくれとパウロは思う。
エスペランサもさすがにトイレの中まではついて来なかったが、ドアの前で愚痴を並べ立てていた。
それを聞きながら、パウロは勢いよく放尿した。聖書の天地創造を読み終えるくらいの、とても長い放尿だった。
「天地万物は完成された」
陰茎を振って尿を切りながら、そう呟く。
手を洗い、顔を洗って出てくると、エスペランサがグラスを差し出してくる。
一口、また一口……パウロは一気に飲み干した。それは、よく冷えたレモネードだった。
素敵な女性だ、とパウロは改めて思いながら礼を言った。
「教会に泊めてもらいたいんですって?」
エスペランサの問いに頷くパウロ。
「条件があります」
小首をかしげるパウロ。
「訓練をつけてもらいます」
パウロは考えるのも億劫そうに頷いた。
上手くいったとばかり笑顔になったエスペランサが、再び神妙な顔で言う。
「そうと決まれば、とっととシャワーを浴びてください。本当にひどい顔してますよ」
顔を顰めながら二度頷くパウロ。言われなくてもそうするつもりだったのだ。
「フアナに軽い食事を用意させておきますから、それを食べ終わったら中庭にきてくださいね」
そういうとエスペランサは踵を返して、去って行った。
パウロは頭の重さに耐えかねて俯き、彼女が去っていく足音だけを聞いていた。
まだ覚めきらない意識のまま、浴室に入りシャワーの蛇口をひねる。
――グワッ!
パウロの口から声にならない呻きが漏れた。左胸に激痛が走ったのだ。
恐る恐る確認すると、そこには火傷のような痕跡、双頭の鷲の刻印がまざまざと焼きついていた。
「ああっ……」
その瞬間、昨晩の記憶が堰を切ったように押し寄せてきた。
ーーーーーーー
「で、婆さん」とエル・カルニことリカルド・バレラはインディオの占い師に額を寄せて、詰め寄る。
ちょうどパウロが教会で目を覚ました頃のことだ。
「マントはいつ、俺の手元に戻るんんだ?」
辟易した様子で婆さんが答える。
「近うちさね・・・この屋敷にマントが返ってくると、精霊が言うておる」
「その精霊にもうちっと詳しく教えてくれるように言っちゃもらえないか」
老婆は、白内障か白く濁った瞳を向けて、口をへの地に曲げると呆れたように首を振る。
そこへ、伊達男の大男フリオが部屋に駆け込んできた。
「エル・カルニ」呼びかける顔が明るい。
「奴らの居所がつかめました」
それを聞いて、バレラの顔がほころぶ。
ポケットから100ドルを取り出すと、老婆の前に突き出した。
「婆さん、あんたは本物の占い師だぜ」
ーーーーーーー
パウロは女たちに訓練をつける間、とにかく水を飲み続けた。
水を飲み、汗をかき、水を飲み、汗をかくを繰り返し、体からアルコールを抜こうと努めた。
その甲斐あって、夕方頃には体調を取り戻した。
が、訓練の成果はというと散々だった。
武器弾薬は揃っていないし、まともに銃を撃てるのはエスペランサぐらいと来ている。
なので、パウロは最後に女たちに向かって「命があるうちに降伏しろ」と忠告した。
「わたしたちに男たちの慰みものになれと言うの」とエスペランサが挑むように言う。
女たちから刺すような視線がパウロに向けられた。
パウロには返す言葉がなかった。
その訓練からどのくらい経ったろう。
パウロはベッドに寝転んで天井を見つめていた。
これから、どう訓練を続けるべきか?
パウロは腕を頭の後ろで組もうとして、左胸に痛みを覚える。
烙印を押されたことを嫌でも思い出させる、鋭い痛みだった。
一体、自分に何が起こったのか?この烙印に何の意味があるのか?フェニックス・へメロとは何者なのか?疑問が次から次に湧き上がってくる。
自分が何に巻き込まれ、自分に何が待ち受けているのか知りたいとパウロは思う。
そして、もう一つ、男たちに立ち上がるつもりがあるのか、ここの女たちの力になるつもりがあるか確認せねばと、いや、男たちに女たちの力になってくれと頼み込もうと思った。
「男たちの慰みものになれと・・・」エスペランサの言葉が耳に蘇る。
男たちが女たちの力になってくれれば・・・パウロは、そう思い至ると居ても立ってもいられなくなり、再び遺跡に向かおうと身支度を整え、部屋を出た。
教会の扉を開けたパウロの目の前に、教会の黒いバンがあった。
4、5人の女達が乗り込もうとしているところだった。
異様なのは女たちが武装していることだった。
「エスペランサ・・・何のつもりだ」
女たちの中にエスペランサを見つけ、パウロが声をかける。
助手席に乗り込もうとしていたエスペランサが腰に腕を当ててパウロに向き直る。
「復讐よ」
「無理だ・・・訓練が足りない」
「それは残念・・・でも、今晩なのよ、今晩しかチャンスはないの」
意は決しているとエスペランサが見つめてくる。
「なぜ、わたしに声をかけない?」
「これ以上、巻き込ませたくなかったのよ」
「十分、巻き込まれている」
「そうね・・・なにかあったら・・・そう、この教会をお願いしたかったのよ」
「ごめんだね」
パウロがはねつけるように拒否すると、エスペランサの目に失望の色が浮かんだ。
「ローラ、フアナ、車を降りろ・・・わたしが代わりに行く」パウロは言っていた。
銃の扱いが拙い二人を車から降ろすようにエスペランサに求めた。
エスペランサは唇をすぼめ頷くと、ローラとフアナに目で降りるように促す。
ローラは余計なことをとパウロを睨み、フアナはどこかホッとしたような表情を浮かべて車を降りた。
空いた後部座席にパウロが乗り込むと車は静かに町へ向かって走り出す。
町に入って、薄暗い通りでバンが止まった。
しばらくすると女が一人、バンに乗り込んできた。
姿よりも先に強い香水が鼻を刺す、肌を露出した服に、派手な化粧、娼婦だ。
娼婦はパウロに目をとめると眉を顰めたが、エスペランサに向き直り。
「奴ら、揃ったよ、4人だ」と言った。
それを聞いて、車を降りようとするする女達をパウロは押し留めた。
「部屋の位置と、間取り、男たちの位置を確認したい」
娼婦が何なんだと眉を上げて、エスペランサを見やる。
エスペランサは頷きながら、娼婦に話すように促した。
部屋は東西に出入り口があり、二間、奥が寝室で、手前がリビング、今、男達はリビングでなにやら話し合っているとのことだった。
「で、十字架はベッドの枕元よ」と娼婦はニヤリと唇を歪めて見せた。
パウロへの当てつけか皮肉のつもりなのだろう。
「ありがとう、大事なことだ」とパウロは応じ「では」と女たちに指図する。
三人に裏手、寝室側の出入り口で待機し、そこから出てくる者があれば撃ち倒すように命じる。
パウロとエスペランサでリビングに突入すると告げる。
女たちが頷いた。
寝室側に回った女たちから、「位置についた」とのメッセージが届く。
エスペランサがパウロに目配せを寄越す。
指が、3本。
2本。
1本。
――バァーン!
パウロがドアを蹴破った。
その足元をすべり込むように、エスペランサが突入する。
室内には4人の男たち。
ソファで煙草をふかしていた男が、咄嗟に立ち上がるよりも早く、エスペランサの銃声が響く。
最も近くにいた男の胸を、銃弾が抉った。
「クソッ! なにもんだ!」
もう一人が怒鳴り、腰のホルスターに手を伸ばすが、間に合わない。
パウロがライフルを横に払うように振りながら、弾丸を撒き散らす。
ガラスが砕け、壁が穿たれ、血飛沫が舞った。
銃弾を逃れた男が、床を這うようにして寝室に逃げ込もうとする。
エスペランサがそれを追って駆ける。
そのエスペランサの背に、手負いの男が銃口を向ける――
パウロの銃声。
男の肩口に弾が突き刺さる。血煙と共に、銃が床に落ちた。
「グハッ!」
直後、パウロの背後から、筋骨隆々とした男が襲いかかってきた。
極太の腕が首に巻きつき、パウロの足が床から離れるほどの力で締め上げてくる。
パウロは体を反らし、反動をつけて背負い投げの要領で男を床に叩きつけた。
テーブルが跳ね飛び、皿や瓶が割れる音が響く。
男は倒れたまま、パウロにしがみついてくる。
腹から血を流しながらも、なおも足と腕でパウロの動きを封じようと足掻く。
近すぎてライフルが使えない。
パウロは腰の拳銃を抜くと、もつれる体の隙間に銃口を押し込み、二発、三発と撃ち込んだ。
男は目を剥き、痙攣し、そのまま動かなくなった。
裏手の方で銃声が響いた。
パウロは、死んでなお襟首を掴んでいる男の腕を振り解き、よろめきながら立ち上がる。
壁際に、胸を撃たれて息も絶え絶えな男が恨めしげな目を向けてくる。
パウロはその男の頭を撃ち抜いた。
裏口へと向かうと、銃を構えたまま震えている女の姿があった。
寝室側を任せた3人のうちの1人だ。
エスペランサが落ち着くように声を掛けていた。
初めて人を撃ったのだ、冷静でいられるはずがない。
裏口に顔を出したパウロに「終わった?」と声を掛けてくるエスペランサ。
頷き返すパウロ、エスペランサはそれを見届けると皆に「行きましょう」と声を掛けバンへと返した。
エスペランサの手には何やら布のような物が握られていた。
バンが暗い町中を静かに走る。
「その手にしているものは何なんだ?」とパウロはエスペランサに声をかけた。
エスペランサは助手席から振り抜いて布を広げてみせた。
クリーム色の布地に、金色の不思議な文様が刺繍されている、古いマントのように見える。
「アイツラが、これをまだ持っていたなんてね」
エスペランサはその布地を大事そうに胸に抱き直し、言った。
「これは夫の家に代々伝わっていた家宝なの・・・アイツラに襲われた時に、持ち去られて・・・諦めていたんだけど・・・本当に良かった」
目を閉じて幸せそうに布に頬を当てる彼女の姿を、パウロはバックミラー越しに見つめ、深い溜め息をついた。
バンが西の丘を登り始めると「ここで、降ろしてくれ」とパウロは言った。
「どこへ行くのよ」とエスペランサ。
「ここから歩いて帰るよ、頭を冷やしたい・・・少し、散歩して帰る」
「そう・・・」 エスペランサは少し考えるような間を取ってから「昨晩みたいなことはないようお願いしますね」と言った。
パウロは、黒いバンが、轍に嵌りながら車体を揺らし丘を登って行くのをしばらく見送った。
エンジン音が届かなくなる頃、足元で虫が鳴き始める。
月明かりの下、パウロは遺跡へと向かった。