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第三章 鷲の王子 クアウトリ・ピリ

 ――ウワアァァァアアアア!!!

 地下闘技場を埋め尽くす男たちの咆哮が、コンクリートの壁に反響する。

 パウロがセント・アンジェリカ教会で一夜の宿を得たその日。

 400戦無敗の王者、フェニックス・へメロが、またひとつ伝説を刻んだ。


 若い挑戦者の執拗な猛攻に追い詰められ、ロープに振られたフェニックス。

 場内に、ひやりとした空気が走る。

 無敵の男が……ついに倒れるのか。


 観客が息を呑んだその瞬間、赤い双頭の鷲のマスクが閃く。

 フェニックスはその名のとおり蘇る、挑戦者の頭上を軽やかに飛び越えた。

 さらにロープに身を預け、強烈な反動を得ると、獣のように挑戦者の背後へ襲いかかる。


 挑戦者は、何が起こったのか分からずにあたふたと辺りを見回す。

 もう遅い・・・

 フェニックスは左腕で挑戦者の頭を抱え込むと、反転しながら身体をねじ込み――

 その体重ごと叩きつける。


 ――バッバーンッ!!

 挑戦者の脳天が、地鳴りのような音を立ててマットに沈んだ。


 観衆は、見たこともない荒技に一瞬声を失う。


 挑戦者の足がけいれんし、フェニックスはすかさずフォールに入った。

 静寂の中のスリーカウント。


 勝利の鐘が鳴る。


 赤いコーナーポストの上に立つフェニックスは、胸を張り腕を組む。

 英雄のその立ち姿に、男たちが声を合わせた。


「フェニ!」「フェニ!」「フェニ!」

 ルチャ・リブレの真髄が、そこにあった。


「クソッタレがぁ!」

 地下闘技場を埋め尽くす喝采の中で、ひとりバレラの怒声が響いた。

 二階席から見下ろすリングの中で、フェニックス・へメロが勝者として観客の歓声に応えている。


 サン・ルトを牛耳るカルテルのボス、リカルド・バレラ。

 “エル・カルニ”、肉屋の息子にして屠殺者――その二つ名に違わぬ男の顔が、怒りで歪んでいた。


「クソが……クソが、クソが!」

 葉巻を握りつぶし、手すりを蹴り上げる。


 打倒フェニックス・へメロのために、メキシコ・シティから勢いのある若いレスラーを大枚叩いて連れてきたにも関わらず、また敗けた。


「エル・カルニ、落ち着いてください・・・たかがルチャ・リブレじゃないですか・・・」

 バレラの右腕、巨体の伊達男フリオがなだめにかかる。


「たかが?」

 聞きづてならないとバレラがフリオを睨みつける。

 そのひと睨みで若い奴らは縮み上がるところだが、ガキの頃からの付き合いであるフリオは動じない。

 親愛のこもった目でバレラを見て「トランキーロ・・・落ち着けよ」と言うのだった。


 バレラは深く息を吐いた。

 フリオの手をつかみ、荒い息を整える。

 そうだ……“たかがルチャ・リブレ”。

 そう言い聞かせると、笑いが込み上げる。

「……ああ、そうだな」


 そして、取り巻きたちに目線を向け、一番若い手下にこっちへ来いと手招きした。

 バレラは若い手下に耳打ちする。

「へメロを片付けろ・・・わかったな?」

 若い手下が青ざめて、助けを求めるようにフリオを見た。


「いや・・・エル・カルニ・・・」

 フリオが、それはまずいとばかりに声をかける。

 バレラは指を突き出してフリオの言葉を遮る。

「たかがルチャ・リブレだろ?」

 フリオは言葉を飲み込むしかなかった。


 バレラは葉巻の火を無造作に消すと、そのまま観客席を後にする。

 残響のように響く「フェニ!フェニ!」の声が、耳障りで仕方がなかった。


 忌々しげに、潰れた葉巻を階下に放り投げる。


 ーーーーーーー


 エル・カルニことリカルド・バレラは鬱々とした気分のまま、ハイヤーで屋敷に向かっていた。

 ハイヤーの後部座席で窓に映る自分の姿を見ながらバレラは呟いた「たかがルチャ・リブレ・・・」されどルチャ・リブレと続けそうになる自分の言葉を飲み込んだ。


 社内の陰鬱な空気を断ち割るかのように、フリオのスマートフォンがけたたましく鳴った。

 フリオが電話にでる。


「あ・・・どうした・・・なに⁉」

 フリオは電話に出ながら、バレラを見る。


「エル・カルニ」

 そう言って、フリオはバレラにスマートフォンを向けた。


 バレラがスマートフォンを受け取って、電話に出た。

「エル・カルニ・・・」電話の相手が口ごもる。


 バレラは葉巻を一口吸って「なんだ?」と答える。

「ホセの野郎が何者かに殺られました・・・ブツは見つかっていません」

 バレラの目元が痙攣する。

 バレラは怒りを懸命に抑えて言う。

「ホセを殺ったやつを突き止めろ」

「・・・はい」

 電話の向こうで手下は呼吸を整えて「もう一つ、ご報告が」と言った。

 バレラはハイヤーの天井を憎々しげに見つめながら「なんだ」と言った。


「神父が町にやってきたそうです」

 その知らせに、バレラの顔から険しさが幾分減じた。

「今、どこにいる?」

「セント・アンジェリカ教会です」

「よし、明日の朝、屋敷に連れてこい」

「はい」

「以上か?」

「はい」

 通話を切って、スマートフォンをフリオに突き出して返した。


「よかったですね」

 フリオが言う。

「何がだ?なにがよかった?」とバレラはフリオの胸を手で抑えて言う。

「良いわけあるかよ、どっかの誰かにホセは殺られて、マントは戻らねぇ・・・なにが良かった?」

 フリオは胸に当てられた手を取って、もう一方の腕をボスであるバレラの肩に回す。

「マントは屋敷に戻るって、インディオの占い師が言ってじゃないですか」

 安心しろと微笑む。

「それに、神父がやって来た」

 そういうフリオをバレラは黙って見つめる。


 ーーーーーーー


 フェニックス・へメロを殺れと命じられた男は、レスラーたちの出待ちをしている熱心なファンを遠巻きに見ていた。


 出待ちのファンたちの歓声が一段と大きくなる。

 フェニックス・へメロが出てきたのだった。

 彼は愛想よくサインに応じている。

 男はその列に加わりたい衝動をグッと抑える。

 サン・ルトに生まれ、サン・ルトで育った男にとって、フェニックス・へメロは神に近い英雄だったのだ。

 今夜、自分は英雄殺しになるのだと、そう思うと男は武者震いを覚えた。


 サインを貰い満足したファンが三々五々に散っていく。


 闘技場の照明が落ち、駐車場は暗闇に包まれる。


 男はフェニックス・へメロが車に乗り込んだのを確認する。


 男はゆっくりと歩みだす。

 闇に砂利を踏み躙る音が、男の幼い思い出を遠くに追いやっていく。


 フェニックス・へメロが乗る旧型のトヨタ・カローラがのろのろと動き出す。

 男はカローラの前で両手を広げ立ちふさがった。



 ”フェニ!フェニ!フェニ!”

 男の耳にこだまする。


 ”フェニ!フェニ!フェニ!”

 男の記憶が呼応する。


 ”アディオス・・・フェニ・・・”

 男は腰に挟んだ銃を取り出し、運転席のフェニックス・へメロを撃った。


 銃声は虚しく響く。

 今や、男に武者震いを覚えた時の高揚感はない。


 ひび割れたフロントガラスを見ながら、男は運転席に向かう。

 そして、静かに留めの銃爪を引いた。


 男は歩いて町へ戻る。

 自分の寝蔵までここからどれだけの距離があるかもわからないが、ただ歩く。


 男は思い出す、フェニックス・へメロが乗っていた型落ちのカローラ・・・

 あの車を何処かで見やしなかったか・・・


 男は考えることを止める。


 ーーーーーーーー


 明かりが落ちた闘技場脇の駐車場。

 フロントガラスがひび割れた型落ちのカローラが停まっている。


 ”フェニ!フェニ!フェニ!”

 星明かりだけがカローラを照らす。


 ”フェニ!フェニ!フェニ!”

 カローラの運転席のドアが開く。


 ”フェニ!フェニ!フェニ!”

 男が車外に姿を現した。

 銀の布地に赤い双頭の鷲の刺繍。

 フェニックス・へメロの姿が星明かりに浮かび上がる。


 ーーーーーーー


「ところで、エスペランサ・・・」とパウロが声をかける。

 夜中に目が覚め、用を足そうとトイレに向かう途中、明かりが漏れる部屋を覗き込むとエスペランサが一人ワインを飲んでいるの見つけたのだった。

 エスペランサと目が会い、彼女に飲まないかと誘われたのだ。


 うんっとエスペランサがパウロの瞳を覗くように見てきた。

「いや・・・」と口ごもるパウロ。

「なに、なんでも聞いて下さい・・・神父さん」


 パウロはワイングラスを脇にどけ、エスペランサの目をまっすぐに見つめた。

「あなたは、なぜここに?」

 この問いかけをエスペランサは予期していたのだったが、すぐには語りだすことができなかった。

 エスペランサはグラスに残ったワインを一口で飲み干す。そして新たに注いから「わたしの前職を当ててみて」とパウロに問いかける。


 パウロは出会った時から、エスペランサが何者であるのか気になっていた。

 話し方に品がありながら、少々柄の悪いメスチーソの門番を含め多くの女性を束ねてもいる。

「学校の先生?」

 学校の先生、それは婚約者のアンジェリカが夢見ていた職業だった。

 フッと笑って「違うわ」とエスペランサが指を振る。


 違うことはパウロにも分かっていた。学校の先生が銃の扱いを知っているとは思えない。

 ただ、言わずにはいれなかっただけだ。


「刑事・・・だろ」パウロは確信を持って言った。

 ヒュ~ッと口笛を吹いて「当たり」とエスペランサが言った。


 そしてエスペランサは語り始める。

「わたしは刑事だった・・・そして、夫も・・・」

「わたしたちは優秀な刑事で、仲睦まじい夫婦だった」

 その口ぶりからエスペランサが、まだ、夫を強く愛していることが分かる。


「3年前に子を授かったの・・・」

「しばらく休職して子育てに専念したわ」

「わたしは息子・・・そう、子供は男の子・・・オムツが外れたら直ぐにでも職場に戻るつもりでいたのだけど・・・」

 エスペランサは夫の名も、子どもの名も告げずに語る。それが、逆に思いのを強さを語っていた。


「夫がね、戻るなって・・・時期が悪いって」

「カルテルの奴らが急激に力を伸ばしていて、警官狩りが始まっていたのよ」

「信じられる?白昼堂々、警官を射殺して回ったのよ」

 パウロは知っている、メキシコだけではなく南米各地で起こった、起こっていることだった。


「そして、さらに信じがたいことが起こったわ・・・」

「やつら警察署を攻撃したの、それだけじゃない、警察の家族にも手を掛けた」

「その時に、夫と息子は殺された」

 エスペランサはきっぱりと言いきった。その瞳に涙は浮かばない、もう、枯れ果ててしまったのだろう。


「わたしは散々、凌辱された・・・この顔の刺青を挿れられたのも、その時・・・」

 と言って、鼻の下に彫られたヒトラー髭に指を当ててみせた。


「見せしめのつもりなんでしょうね・・・殺されなかった」と残念そうに言う。

 そしてエスペランサはワインを呷った。


「体にはね、もっとひどい刺青があるのよ・・・」と言って微笑んだ。

「教会にいる娘達には見せたわ・・・」

「首のない死体が見つかっても、わたしだって分かるようにね」

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