第二章 無慈悲な修道女
「ジーザスか!コカインか!!!!」
低く唸るような女の声が廃屋に響く。
半裸で後ろ手に縛られた男が震えながら悪態をつく。
「ふ、ふざけるなよ・・・クソがッ!」
次の瞬間、乾いた銃声が反響した。
白目を剥いた男の額には穴が穿たれ、血を滴らせている。
破れた窓から月の光が女の顔を淡く照らす。
煙る銃口と男を交互に見る女の額に”売女”の文字。
鼻の頭は黒く塗られ、右頬に男根が、左目の下に黒い涙が鼻の下にはヒトラー髭が刻まれている。
女は額の汗を拭うと男の屍をつまらなそうに見つめ、股間にもう一発撃ち込んだ。
銃口の煙がフッと掻き消える。
吹き込んだ風に壊れたファンが力なく回るなか、女は廃屋を後にした。
外では、フォルクスワーゲンのバンが待っていた。
女がバンに乗り込む。
運転席のメスチーソの修道女が車を発進させた。
狭く暗い林道を、バンはヘッドライトを揺らしながら進んだ。
「で、エスピ。うまくいったのかい?」
エスピと声を掛けられた女、顔中に刺青を施された女の名前はエスペランサ・ナバーロと言った。
女たちはエスペランサのことを親しみを込めてエスピと呼ぶ。
「ええ、ローラ、うまくいったわ・・・週末には、わたしの思いは果たされる・・・」
林道を抜け幹線道路に出ると、月明かりがバンを照らした。
黒いホルクスワーゲンの車体に、セント・アンジェリカ教会という白い文字が浮かび上がる。
ーーーーー
赤いスーパー・カブが尻を振りながら西の丘を登っていく。
舗装されていない道を、轍を踏まないようにして進む。
時に窪みに、時に石にタイヤが跳ね上がる。その都度、パウロは、カバンから男の腕が飛び出してやしないかとミラーに目をやった。
セント・アンジェリカ教会と名が付いているが、これほど民家から離れて建てられていることを考えると修道院に近いものかとパウロは考えた。
やがて並木道となり、久々の日陰の向こうに白いセント・アンジェリカ教会が見えた。
勾配は緩やかとなり、カブがスピードを増した。
パウロはギヤを上げる。
木陰で湿った地面にタイヤがグッと食い込むのを感じる。
木陰の清涼な空気が頬を撫でるのを気持ちよく感じながら、アクセル全開で並木道を抜ける。
パッと明るくなったその先の光景に、パウロはハッと息を呑み、目一杯ブレーキを踏んだ。
後輪を滑らせながらやっとカブが停車した時には、セント・アンジェリカ教会の門を潜っていた。
教会の前で、メスチーソの修道女がパウロにライフルを向けている。
「なにしに来たッ!?」メスチーソの修道女が叫ぶ。
パウロは訪れた理由を半ば後悔しながら伝え「神父に会いたい」と告げた。
女はライフルを向けたまま首を傾げた。
「あんた、余所者だね?」
「今さっき、この町に着いたばかりだ」
女はライフルを下ろし、首を振って言った。
「この教会に神父はいないよ」
「2ヶ月前に逃げちまった」
女は左手を腰にあて、憐れむような視線をパウロに向けた。
修道女らしからぬ言葉遣いを怪訝に思いながらパウロは考える。
なるほど、酒場で新任の神父と思われた理由だ。
神父のいない教会、それがセント・アンジェリカ教会。
十字架を掲げるのでなく、銃を捧げるのがセント・アンジェリカ教会。
さて、とパウロは思う。
引き返すこともできる、拾った腕をこの女に預けることもできる。
ところが、パウロはそのどちらもしたくない。
なぜしたくないのか、パウロにもわからない。
「ボスに会わせろ」パウロは言っていた。
「あんた、ここに派遣されて来たのかい?」
「いや・・・ただの通りすがりだ」
女は少し考えてから「でも神父なんだね」と言った。
「ああ・・・」
「名前は?」
「パウロ・ガウェイン・・・どの教会にも属していない浪人神父だ」
浪人神父という言葉に女は眉を顰めたが、何も言わず大きな木製の扉をノックした。
小さな覗き穴が開く。
「パウロ・ガウェイン神父が拾った左腕を届けに来たとエスピに伝えな」
覗き穴が閉まり、駆けていく足音が聞こえた。
「えらく厳重じゃないか・・・」パウロはバイクを降りて石段を昇り女の前に立つ。
女はあらためてライフルをパウロに向ける。
「撃ったことあんのか?」とパウロはライフルを指で逸らしながら言った。
女は何も答えない。
駆けてくる足音がして、ガチャガチャ、ギィーと扉が開く。
パウロはメスチーソの修道女の肩をポンと叩いて、薄く開いた扉に体を滑り込ませた。
教会の中に入ると、別の修道女が立っていた。
恐ろしく色の白い、痩せて背の高い女だった。
女は落ち着きのない目をパウロに向けてくる。
「神父のパウロ・ガウェインだ。ボスのところに案内してもらえるか?」
パウロが声をかけると、女は思い出したように奥へとパウロを案内した。
聖堂の裏手が修道女たちの居住空間、作業場となっているようだ。
一番奥の部屋の扉の前に立つと、女は扉をノックした。
「どうぞ」と声がする。
どうやらボスは女のようだ。
痩せた修道女とパウロは中に入る。
部屋は書庫だった。
古い本、羊皮とインクの匂いが漂う書架の間を進む。
昔はそこで写本をしていたと思われる大きなテーブルの隅に座る女がいた。
パウロは思わず立ち止まった。
エスペランサ・ナバーロにとって、怖気づかれることは慣れっこだった。
慣れていても悲しくないと言えば嘘だ。
相手が聖職者ならなおのこと。
姿ではなく、魂を見て欲しいと思うのだった。
とはいえ、魂を見てもらえたとしても、今のわたしでは微笑んではもらえないだろうなとエスペランサは思う。
「腕を拾ったとか?話があるんですよね?」
突っ立ているパウロに、そう言って微笑んだ。
パウロは我に返って、エスペランサが座る大きなテーブルの前に立つと名を名乗って挨拶をした。
「エスペランサ・ナバーロです。この教会にいる女性たちの代表みたいなことをやらせてもらってます」
彼女は右手を差し出した。パウロはその手を握る。
門の前に居た女とは違い、上品な語り口だった。
二人は大きなテーブルを挟んで向き合って座る。
「あなたはシスターなのですか?」
パウロが口を開く。
「こんな格好をしていますが・・・」違いますとエスペランサは言う。
「ここを拠点に活動しているので、まあ、ユニフォームみたいなものです・・・お怒りになりますか?パウロ神父」
「いえ、確認しておきたかっただけです・・・」
「それでは・・・この教会で挙げられた婚儀についてはご存じない?」
「残念ながら・・・それがどうかしましたか?」
「腕を拾ったのです」
「左腕を・・・真新しい結婚指輪が嵌められていました」
「指輪の内側を確認すると、フアナという名前があった」
エスペランサの眉が僅かに上がったのをパウロは見過ごさなかった。
パウロは続ける。
「フアナという女性に届けてやりたくなりました。ショックだろうが、なにも戻らないよりいいだろうと考えました」
エスペランサが小さく頷く。
「で、町の酒場で男たちにフアナという女を知っているか聞いたんです。誰も知らなかった・・・というより全員だんまりです。すると、バーテンダーが言いました『新婚ならば教会に行けばわかるのではないか』と」
「男たちは・・・」エスペランサは大げさに両手を広げ「皆だめです」と言い切った。
「面倒に巻き込まれることに怯えて、酒浸り、ルチャで気を紛らわす・・・何を考えているのやら」
「男はダメですか・・・」
「ダメですね、この町の男たちがドラッグに手を出さないことは認めますが・・・でも、結局、町を仕切っているのはカルテルの奴らですからね」
「女は違う?」
「少なくとも、ここにいる女たちは」とエスペランサはパウロの挑発に腕組みをして応えた。
パウロはその態度を見て、さらに挑発してみたくなった。
「門番の女・・・わたしに向けてきたライフル、安全装置を掛けたままでした・・・」
バツが悪そうにエスペランサは腕を解いて言った。
「叱っておきます」
「ただ・・・銃口からは火薬の匂いがした」とパウロは呟くように言い、エスペランサの目を覗く。
「あなた・・・最近、あのライフルを撃ちましたか?」
エスペランサは少し首を傾げてパウロを見つめ、十分な間を取って言った。
「パウロ神父・・・拾った腕の話をしましょう」
「フアナという娘が、教会にいます。最近、夫が行方不明になっています」
そう言うとエスペランサは先程の痩せた修道女にフアナを呼びにやらせた。
「あなた達は、ここでカルテルと戦っているのですか?」
パウロが問いかける。
その問いかけにエスペランサが力なく首を振る。
「戦うなんて・・・ただ、抗っているのです・・・ここを最後の砦として」
その答えを聞いて、パウロは少し安心した。数十人の女が武装したからといって、カルテルに勝てるはずがないのだ。エスペランサはそこをちゃんと理解しているようだった。
「あなたは銃器に詳しいのですね」
とエスペランサが問いかける。
「以前、軍隊にいました」
それを聞いてエスペランサの美しい瞳が大きく開かれた。
「それで、改心して神父に?」
パウロは自分の手に目をやって「いえ、自分が天国に行けるとは思っていません・・・ただ、救いたいと思う魂があるのです」と言った。
「そう・・・」エスペランサはそれ以上踏み込んではこなかった。
代わりに「わたしたちに訓練をつけてもらえませんか?」と言った。
とても気楽に、食卓で目玉焼きにつける胡椒を取ってくれと言うように。
「わたしは、神父です」とパウロはやんわりとエスペランサの申し出を断った。
エスペランサはパウロの返事を聞いて、とてもチャーミングに口元を歪めた。
「そうでした・・・あなたも男でしたね」と言った。
そこへ、痩せた修道女がフアナを連れて戻ってきた。
「フアナ、ここへ来て」とエスペランサが声をかける。
「こちら、パウロ神父」
フアナは不安そうな目をパウロに向けながらも、パウロの右手を取って挨拶した。
「いい?フアナ、落ち着いて神父さんの話を聞いて」とエスペランサがフアナを席に座らせる。
フアナは席に着き、不安げに両手を胸に当てている。
その指に光る結婚指輪があった。拾った腕のものと同じ型であることをパウロは確認した。
「フアナさん・・・あなたが結婚されたのはいつですか?」
「今年の・・・6月15日です」とフアナが答える。
パウロは椅子に腰掛け直し、少し声を落として言った。
「フアナさん・・・町で男性の腕を拾いました。左腕です・・・」
フアナの目は大きく見開かれ、告げられることを予期して体が震える。
「結婚指輪が嵌められていて・・・そこには”フアナへ永遠の愛を誓う”と刻まれていました」
パウロはそう言って、バンダナに包まれた左腕を丁寧にテーブルに置いた。
バンダナを解いて中身を見せる。
――ウワァアアアァア!!!
フアナは腕を抱きしめ慟哭した。傷んだ腕を愛おしそうに抱きかかえる。
泣き崩れるフアナをエスペランサが抱きしめた。
そして言った「仇を討ちましょう・・・フアナ・・・仇を!」
フアナが泣きながら強く、何度も頷いた。
その後、フアナの夫を弔うために教会の裏手にある墓地に出た。
陽は傾き、暑さも幾分和らいだように感じられる。
パウロ、フアナ、エスペランサ、痩せた修道女の4人で祈りを捧げた。
フアナが落ち着きを取り戻すと、エスペランサは、痩せた修道女にフアナの近くにいるようにと命じ、二人を置いて、パウロに教会へ戻ろうと声をかけた。
その道すがらパウロが一晩の宿を願い出た。
エスペランサは喜んで歓迎すると言って、親しげにパウロの肩に手を掛けた。
その手の重みが、パウロの胸に染み渡る。
パウロはエスペランサの顔を見ることができない。
昔の婚約者、飛行機事故で亡くなったアンジェリカと同じ美しい鳶色の瞳を持つ彼女を・・・