玻璃の静謀6
6️⃣
真夏の太陽が東の空を照らし始めた早朝。
木々を渡る朝の風は清涼だったが鳴き始めた蝉の声は既に今日も1日暑くなることを予感させた。
成城からほど近い帖公園ー美術館なども臨接する広い公園の中を雪臣と恭四郎が肩を並べて歩んでいた。その足許にゴールデンレトリバーが一心にじゃれている。
「おい、わかったからカイザー…やめろよ、くすぐったいーフハハッ!!」
犬に飛びかかられて顔中舐め回された雪臣はこらえ切れずに顔を背ける。タンクトップの上にダンガリーシャツを羽織り、白いグルカショーツという軽装の彼は、リハビリを兼ねて犬の散歩に出ていた。
彼は被っていた帽子を示すと、力いっぱいそれを遠くへ投げた。
追いかけていく犬の姿を眺めながら雪臣は近くのベンチに腰をおろした。
傍らの恭四郎がすかさず声をかける。
「お疲れになりましたか、雪臣様ー」
「いや…」
首を振る雪臣のまなざしがふと遠くなる。恭四郎はそっとその横に座った。
「…なぁ、恭四郎ー俺、そんなにあのおばさんを苦しめる存在だったのかなぁ? 気にくわないのはお互い様だったんだし、俺が出てきゃそれで済むと思ってたのにー」
雪臣とは正反対に、この暑さの中でYシャツをぴったりと着こなした恭四郎は、胸のポケットからタバコを取り出し火をつけながら答えた。
「女性の心は複雑なものですからねぇーましてあの方は先生のお側にいらしてあなたへの愛情をつぶさに眺めておられたんです。先生の親バカぶりは度を越されてますしねーあなたも既して誤解を招き易いタイプですし…かわいい息子とはね、とてもとてもー」
「悪かったなあっ!!」
頬杖を解いて、ムッとしたように睨みつける雪臣の視線を感じながら恭四郎は口の端に微笑を浮かべた。
「ま、そんなあなただから放っておけないのですけどー」
クスリと笑った恭四郎は、からかうようなまなざしで雪臣を覗き込む。
「知ってますか、雪臣様? あなたを許せない人間がいるのも事実です。けれどもそういうあなただからこそ愛せると思う人間もー確かに存在するんですよ」
だからあなたはそのままでいいんですー冗談とも本気ともとれない恭四郎の言葉に雪臣は思わず言葉を失った。心の中の弱気さを見透されたような気がしたのだ。
「バッ…放っておけねえのはそっちだろうが。飯も満足に炊けねぇくせに」
その時ちょうど戻ってきたカイザーから帽子を取り返して雪臣はそれを目深に被ってしまった。しばしの沈黙ー蝉の大合唱だけがやけに大きく響いた。
雪臣の誘拐未遂事件から1週間が経とうとしていた。
あの夜、横浜から戻ったその足で入院してしまった雪臣が、山内と伊達賢章の汚職スキャンダル騒動を知ったのはだいぶ後になってからのことだった。
隼人はこのスクープにどうやら全身全霊を傾けたらしかった。
新聞を始めとするマスコミ関係は、こぞってこの汚職問題を取りあげた。ここまで広まってしまったものはいくら山内の幅広い人脈を駆使したところで揉み消せるものではなくなっていた。
世間の非難を一身に受け止めざるを得なくなった山内の行きつく先は”議員引退”という場所しかなかった。
そしてもう1人、松平夫人はあの日の翌日、柱之介に離婚届を残し家を出た。桂之介はまだ承知していなかったが理由が理由だけに夫人には充分な財産を分け与え、早急な手続きがなされるはずだった。
おかげで退院した雪臣は早々に、成城の本宅に縛りつけられる羽目となったのであった。
「ーお前は…どっちなんだー恭四郎…?」
「えー?」
カイザーの頭を撫でていた恭四郎には雪臣のつぶやきが聞こえなかったらしい。繰り返すことを要求している恭四郎の瞳を前に、雪臣はゆっくりとかぶりを振った。
「なんでもないー」
”さぁ、とちらだと思います?"
かすかなささやきを聞いた気がして雪臣が顔を上げた時だった。
「雪臣ちゃぁぁんー」
『へ?』
聞き覚えのある声と呼び方に、雪臣と恭四郎は顔を見合わせ、バス通りの方に目をこらした。
やっぱりー恭四郎は内心ため息をついた。赤いロードスターから降り立ったのは綾だった。両腕にさげたバスケットや紙袋をブンブン振り回しながら雪臣達の方へと近づいてくる。
「ヤッホー!!元気そうじゃない、雪臣ちゃん」
「…綾さん…どうしてここが?」
呆気にとられた雪臣と恭四郎の目の前で、綾はバスケットの中身を広げ始めた。
「ああ、雪臣ちゃんちに、成城のお宅に伺ったのよ。そうしたらここだって聞いたんで来てみたの。はい、これお見舞いね。朝ごはんまだでしょ?」
そう言って綾が差し出したのはイギリスパンのサンドウィッチと缶コーヒーだった。
雪臣が意外そうに軽く目を見張る。
「へ…えぇー綾さんが作ったのこれ?」
「そうよ、こう見えても私、家事はひと通りこなせるんだからね」
胸を張る綾に恭四郎の不審げな視線が注がれる。
「綾様がーですか…?」
「なぁぁによその目つきはぁ?」
身構えた綾を恭四郎は平然と見返した。雪臣が間に入って苦労するのは常のこと。
「あっ!まぁまぁ綾さん落ちついてよ、綾さんの自信作、さっそく食べさせてもらうからさーおい、恭西部っ!お前そのエラソーな態度をとうにかしろよっ…だから綾さんがー」
怒っちゃうんだよ、と言いかけて雪臣はいつもと勝手が違うことに気がついた。
多分に不満げではあるものの、綾はいつもの功撃を飲み込んで、バスケットの中からもうひとつサンドウィッチを取り出して恭四郎の鼻先に突きつけたのである。
「そんなに不安だったらまずあんたが食べてみればいいでしょっ、但馬!私、あんたなんか大嫌いだけど、今回はちょっと見直したからあんたにもあげるわよ!! 」
上目使いに睨みつける綾を見る恭四郎の瞳が軽く見張られた。
だがそれもほんの一瞬、次の瞬間にはいつもの皮肉な笑みを浮かべて 恭四郎は口を開いた。
「それは光栄です、お嬢様ーしかしお気持だけを受け取っておくことにいたしましょう。そろそろ出勤の時間だ」
くわえていたタバコをもみ消しながら、上着を片手に恭四郎は立ち上がる。
「なにさっ、敵の塩は受けないっての!度量が狭いわよ但馬ー!!」
わめく綾のことなど一向に介さずに恭四郎はポツリとつぶやいた。
「綾様... 今日は学校は?」
「夏休みよ!学校なんてあるわけないでしょ」
「じゃ、責任もって雪臣様を成城のご本宅まで送り届けて下さいよ」
「ちょっとまて、恭四郎、お前はー?」
「私はこのまま永田町に行きます。今朝は朝一の会議があるので先生より先に行って準備をしておかなければなりませんから」
「ひっでぇー俺を見捨てていく気かよ?」
ふくれた雪臣に恭四郎は振り返りざま、深い笑みを投げた。
「一人の恋路を邪魔する何とやらにはなりたくありませんからね……」
遠離っていく恭四郎の背中が陽炎に揺れる。そしてまた暑い1日が始まろうとしていた。
(終)
「玻璃の静謀」(略してハリボー)、これにて完結となります。
最後まで読んで頂きました皆様には厚く御礼申し上げます。
さて完結と言いながらもこの「玻璃の静謀」実は続編がございます。
続編ではまたまた事件に巻き込まれる雪臣、恭四郎の過去等が明らかに!!「玻璃の静謀ー赦しー」と銘打ちました続編もご一読頂けましたら幸いです。
最後になりましたが、皆様よりのこの作品に対するご感想等を頂けますとより一層の励みとなります。
心よりお待ち申し上げておりますので、何卒よしなにお願い申し上げます。




