第三章 エルピダ地区2
ここは一体どこなんだ。俺は何をしているんだ。何も思い出せない。何も感じられない。ただ意識だけが置き去りにされている。意識だけが俺を繋ぎとめている。
俺には大切な使命があった。やり遂げなければならない役割があった。そんな気がする。だがその使命も役割も思い出せない。ただぼんやりと理解する。俺はその使命も役割も果たすことができなかった。果たすことができなかったがゆえに――
俺はここに在るのだろう。
器からこぼれ落ちた記憶。すでに大部分が失われてしまった。それでも失われず残されたものがある。水を抜いた浴槽に僅かな水滴が残るように、こぼれ落ちた記憶にも失われず残されるものがある。その記憶を意識に染み込ませるように思い出す。
恰幅の良い女性が思い浮かんだ。一体誰だろうか。いつも俺を怒鳴りつけている。まれに俺を叩いたりもした。だが決して不快ではない。女性を思い浮かべると心が安らぐ。感情のない意識が小さく震える。きっとこの女性は俺にとって大切な人なのだろう。
ふと空の景色が思い浮かぶ。俺はよくそれを眺めていたような気がする。空を眺めていると気持ちが高揚する。何時間眺めていても飽きる気がしない。どうしてそれほど空に執着したのか。まるで恋焦がれるように空に惹きつけられたのか。
俺は自由になりたかった。
誰にも邪魔されず――
土地にも縛られず――
自由に空を飛びたかった。
翼を広げて空を駆ける――
一羽の鳥のように。
――――
――――
『それが――貴方の望みなのですね』
――――
――――
奇妙な声が聞こえたと同時――
青年の意識は闇に落ちた。
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(つ……強い)
アメリアは赤い瞳を見開いて胸中で呟く。
未開拓地であるエルピダ地区。その森の中。アメリアを含めた四人は目的地を目指して進んでいた。未開拓地には呪瘍なる怪物が存在している。呪いを感染させる未開拓地を代表する脅威だ。油断すれば開拓者でも簡単に命を落とす。そんな恐ろしい怪物を――
「――よっと」
クルトが軽々とナイフで引き裂いた。
胴体を分断された呪瘍が地面に落ちる。一般的な生物ならば致命傷となる傷。だがその呪瘍の脚はまだ獲物を求めて動いていた。呪瘍は不死の怪物だ。体をバラバラにされようと時間が経てば再生する。もがいている呪瘍をクルトが無造作に蹴りつけ脇に退けた。
ここで樹の陰から二体の呪瘍が現れてクルトに襲い掛かる。呪瘍の奇襲に悲鳴がこぼれかけるアメリア。だがクルトはそれを予見していたように、死角から迫りきた呪瘍をさらりと回避して両手のナイフを走らせた。二体の呪瘍が細切れにされて地面に落ちる。
一体の呪瘍が足元からクルトに迫る。呪瘍の攻撃を受ければそれがかすり傷であろうと呪いに感染する。しかしあろうことかクルトは足元の呪瘍をサッカーボールのように蹴り上げた。そして空中に浮かんだ呪瘍をナイフで躊躇なく串刺しにする。
クルトがナイフを振るい串刺しにした呪瘍を森の奥に放り捨てる。そしておもむろに一歩後退した。その直後、クルトの頭上から一体の呪瘍が降ってくる。クルトの目の前を通過して地面に着地する呪瘍。クルトが右足を大きく振りかぶり――
呪瘍を蹴りつけて森の奥に飛ばした。
「きゃああああ! さすがですわ! クルトさん! 素敵ですぅうううう!」
陰鬱とした森に似つかわしくない黄色い歓声。その声の主はイザベラだった。一体どこから取り出したのか、クルトの顔が描かれたタオルを景気よく振り回すイザベラ。興奮している様子の彼女を横目に見ながらカタリナが冷めた口調でぼそりと言う。
「この程度のことクルトなら当然よ。いちいち騒いだりしてみっともない」
そう言いながら、カタリナの両手にもクルトの似顔絵が描かれた団扇がしっかり握られていた。ほんのりと頬を赤らめてクルトの活躍に心躍らせている二人。まるでアイドルの舞台を見に来ているようだ。アメリアがそう呆れていると――
投擲されたナイフが彼女の髪を掠めて背後に突き立てられた。
アメリアは慌てて背後を振り返る。彼女の髪を掠めて投擲されたナイフ。その刃が呪瘍を串刺して樹の幹に突き立てられていた。どうやら死角に呪瘍が潜んでいたようだ。背筋を凍えさせながら視線を正面に戻すアメリア。クルトが新しいナイフを懐から取り出しつつ彼女に軽薄な笑みを浮かべた。
「ぼんやりしてんなよ。お前だって開拓者なんだろ?」
クルトのからかい口調にアメリアはドキンと心臓を鳴らした。確かに油断していた。というより見惚れていた。レストポイントを囲んでいた十体もの呪瘍を殲滅し、道中で出没する呪瘍を蹴散らし、さらには周囲のフォローにも対応する。同じ開拓者としてその手腕には心惹きつけられるものがあった。
(ちょっと……かっこいいかも)
脳裏にふと浮かんだ感情。だがここでアメリアはハッとした。カタリナとイザベラがこちらを半眼で睨んでいる。二人の恨みがましい視線に困惑するアメリア。カタリナとイザベラがそれぞれのクルト応援グッズを握りしめながら唇を尖らせる。
「クルトさんに助けて貰えるだなんて……新入りのくせに少し生意気ではなくて?」
「ぽっと出のくせに……先輩であるあたしたちに遠慮というものがないのかしら?」
何やらクルトのファンクラブ(?)に勝手に入会させられていたようだ。アメリアは頬を紅潮させながらコホンと咳払いする。見直したのは確かだがそう言う感情ではない。
「そ……それよりもまだ目的地には到着しないのか。もうだいぶ歩いたと思うが」
呪瘍を一通り片付けて歩みを再開したクルト。その彼について歩きながら、アメリアはこの空気を誤魔化すため尋ねた。彼女の問いにクルトが腕時計を一瞥しつつ答える。
「そろそろかな。思いのほか呪瘍の数が多くて手間取らされたから少し予定も遅れたが」
「確かにこれほど多くの呪瘍に襲われることは私もこれまで経験ないな」
「例の場所に近づくほど呪瘍は増えていくからな。それだけ目的地が近い――っと?」
クルトがニヤリと笑う。
「タイミングがドンピシャだな。どうやら到着したみたいだぜ?」
森の中を歩くこと一時間強。密集していた樹々が突如開ける。アメリアは開けたその場所に出ると足をピタリと止めた。膝丈の雑草が生い茂る円形状の空間。その中心に――
古びた神殿が立っていた。
「これが……外人種の遺跡か」
アメリアは赤い瞳を細める。人間が外大陸に上陸した五十年前。その時にはすでに姿を消していた先住民族。外人種。未開拓地には外人種の遺跡が多数残されており、その遺跡からこれまで数多くの優れた知識と未知の技術が発見されてきた。
森の中に隠れるように立つ神殿。これもまた外人種が残した遺跡だ。材質は光沢のある石材。ひび割れた外壁とそこに絡みついた植物のツタ。外観からして古びた廃墟だと分かるが、そこに侘しさのようなものはなく、むしろどこか神々しささえ感じられた。
神殿正面にある左右開きの扉。その扉を挟むようにして立てられた二体の石像。外人種が崇拝していたとされる女神――ウルズとスクルドの像だ。劣化の激しい神殿本体と異なり二体の女神像は比較的損傷が少ない。このことから外人種が建物本体よりも女神像を大切に扱っていただろうことが窺えた。
アメリアは遺跡を見るのが初めてだ。しかし遺跡の知識がないわけじゃない。写真も何度か見たことがある。だが実際にこうして目にすると現実離れしたその雰囲気に圧倒された。百年以上前の文明が築いた建造物。それを意識してアメリアは自然と息を呑む。
「エルピダ地区にはこの神殿の他に集落と思しき遺跡がいくつか報告されています。恐らくこの神殿はその集落で暮らしていた外人種の祈りの場であったのでしょう」
イザベラが神殿をそう解説する。イザベラの説明に「なるほど」とただ頷くだけのアメリア。しかしクルトは何かが引っかかったのか怪訝そうに眉をひそめた。
「その口振りからすると……イザベラ。お前はここに神殿があることを知ってたのか?」
クルトの指摘にハッとする。確かにここに神殿があると事前に知らなければ先程のような説明はすぐに出てこないだろう。イザベラがふと考え込む仕草をしてニコリと笑う。
「社外秘の情報ですが――まあ宜しいですかね。ええ、把握しておりましたわ。思いのほか早くこの場所を特定できましたので、腕利きの開拓者をここに派遣しました。貴方がたが手に入れたわが社のリーク情報は、少しばかり時期の古いものだったようですね」
「リーク情報については言及を避けるが……なるほどな。だがまだ呪いが解けていないことを考えると、マイヤーハイム不動産は開拓に失敗したということか?」
「仰るとおりです。わが社が派遣した開拓者は開拓に失敗、さらに残念なことに開拓者一名を犠牲にしてしまいました。開拓部部長として大きな責任を感じておりますわ」
少数精鋭の開拓者。その彼らが失敗するほどの危険な何か。それがこの神殿には隠されているということか。アメリアの緊張が一気に膨れ上がる。クルトが黒い瞳を鋭利に細めて珍しく真剣な面持ちでイザベラに尋ねた。
「神殿で何があったんだ?」
「……口で説明するより一度その目でご覧になられたほうが早いかと」
勿体つけるというよりイザベラはそれを真面目に話しているようだ。クルトが眉間にしわを寄せたまま沈黙し、しばらくして「はあ」と大きく溜息を吐いた。
「こいつはちと面倒なことになるかもな……だがまあ、それはそれとして――」
クルトが愚痴るように呟きながら懐から何かを取り出した。それは長さが二十センチほどの棒状の物体で、太い釘のように片側が平たく逆側が鋭利に尖っていた。クルトが取り出した棒状の物体を、鋭利な先端を下にして地面に落とす。棒状の物体が地面に突き刺さったところでクルトが物体の平たい面を足で踏みつけた。するとその直後――
地面に突き立てられた物体を中心に、直径十メートルの光が展開される。
「このペグはハブポートの転移先であるレストポイントで使用されていたもんだ。このレストポイントをここに設置して置けば帰りは森を通る必要もないぜ」
「……このレストポイントはわが社が国より貸し出されているものです。レストポイントの利用自体は違法ではありませんが、他社のレストポイントを無断で移動する行為は、立派な業務妨害として扱われるのですが……」
ポツリと呟いたイザベラを、クルトが「ああ?」と声を低くして睨みつける。
「この俺に逆らうのか? テメエは俺のやることにただ頷いてればいいんだよ」
「ふぁあああん! なんて横暴なのでしょうか!? 承知いたしましたわぁあん!」
ブルブルと全身を震わせてイザベラが幸せそうに何度も頷く。まあよく分からない。クルトが険しい表情をあっさり軽薄に変えて「さてと」と腕を組む。
「休憩がてら、具体的な開拓のやり方について少し話しておくか」
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レストポイントを展開する道具。それは一般的にペグと呼ばれている。形状は太い釘に酷似したもので平たい面にはスイッチが組み込まれている。スイッチの動作は押された間隔により異なり、五秒未満の場合はレストポイントの展開及び収納、五秒以上の場合は接続されたポートを開くことができる。まれにレストポイントで用を足している途中スイッチを踏み続け、そのままハブポートに転移されるという珍事も起こっているという。
そんな話も聞いていたため地面に突き立てられたペグから気持ち離れて、アメリアはクルトに視線を向けた。呪瘍との連戦でやはり疲労していたのだろう。クルトが地べたに座り込んだまま話を始める。
「説明するまでもないが……開拓者の役割は土地の呪いを解くことだ。呪いを解くことで未開拓地を人間が住める土地に開拓する。そしてその呪いを解く方法ってのが――」
クルトの黒い瞳が静かに細められる。
「呪いの根源――大地に突き立てられた『聖剣』を引き抜くことだ」
カタリナとイザベラが黙したまま頷く。二人は開拓者ではないが不動産関係者だ。この程度の知識は当然把握している。クルト同様に地面に腰を下ろしているカタリナとイザベラ、そしてアメリアの三人。彼女たちを順番に眺めてクルトが説明を再開させる。
「未開拓地の土地は突き立てられた聖剣により呪いが発生している。その聖剣を引っこ抜くことで土地の呪いを解いてやるわけだ。聖剣は地区単位に存在してその形状も様々だ。中には剣の形をしてないものもあるが便宜上その全てを聖剣と呼んでいる」
「私も話には聞いていたが……本当にそんな簡単なことで呪いが解けるのか?」
アメリアもまた開拓者であり、これまで未開拓地の開拓に赴いたことがある。だが新米の彼女が任されるのは調査ばかりで本格的な開拓作業――聖剣を引き抜くという仕事はこれまで経験がなかった。アメリアのこの疑問にクルトがニヤリと笑う。
「まあ信じがたいのは分かる。こんなバカでかい土地の呪いを生み出している根源が、一本の剣だってんだからな。だが実際にそれを抜くことで確かに呪いは解けている」
「それに聖剣を抜くことそれ自体が簡単なものであろうと、そこにたどり着くまでが大変な労力なのです。聖剣は土地の力が集中している場所に突き立てられています。ゆえにその近辺には呪瘍が大量発生しやすく、その力も通常より高い傾向にあります。実績の少ない開拓者に聖剣を引き抜く仕事を任せないのはそれら危険性のためですわ」
イザベラがそう補足説明する。彼女の言葉を証明するように、この神殿までの道中に現れた呪瘍の数はこれまでの経験にないほど多かった。クルトはそれを軽々と突破したが並の開拓者では全滅していてもおかしくなかっただろう。
「ついでの話だが、聖剣を引き抜くことが言うほど簡単じゃねえこともある。やけにがっちりと地面に固定されて、どんなに力を入れても聖剣を地面から引き抜けねえんだ。んで、つい力を入れ過ぎて聖剣の刀身をへし折っちまう」
「刀身を……それは大丈夫なのか?」
目を丸くして尋ねるアメリアに、クルトが「大丈夫じゃねえよ」と肩をすくめる。
「刀身が地面に残っていたら呪いが解けねえんだ。でも刀身が折れたら聖剣を掴むこともできねえし。だからまあそういう時は、刀身が突き立てられている地面を爆薬かなんかで破壊すんだよ。地面が砕けちまえば刀身が引っこ抜けたことと同じってわけだ」
「随分と乱暴だな。しかし聖剣をそんな荒っぽく扱っても大丈夫なのか?」
「特に問題なんかないわよ」
カタリナがポツリとそう答えて、無表情をそのままに青い瞳をアメリアに向ける。
「未開拓地の開拓に成功した場合、企業はその証拠として国に引き抜いた聖剣を渡すことになっているわ。無傷であることに越したことはないけど柄だけでも受理される。聖剣自体に使い道はないから初めから聖剣ごと地面を破壊するやり方もあるぐらいよ」
説明を終えてカタリナの青い瞳がまたクルトに向けられる。もしかするとイザベラの説明に対抗したのかも知れない。何にせよこの四人の中で開拓の知識が一番不足しているのはどうやら自分らしい。それを自覚してアメリアはやや憂鬱となる。
「それで念のための確認だが……その聖剣があの神殿にあることは間違いないんだな」
アメリアの疑問にクルトが軽薄に笑いながら自身の腕時計をかざす。
「間違いねえよ。聖剣を探すやり方は色々とあるが、その一つに大気中の呪素濃度の計測がある。聖剣がある場所は周囲よりも呪素濃度が極端に高いからな。濃度変化を計測することで聖剣がある場所の方角をおおよそ推測できるわけだ。森を歩きながら呪素濃度を一応確認していたが、この近辺の呪素濃度は明らかに異常値。聖剣がある証拠だ」
どうやらここまでの道中、自身の腕時計で呪素濃度を逐一確認していたらしい。呪瘍との戦闘の最中で一体どこにそのような余裕があったのか。つくづく彼には驚かされる。
「――って、待ってくれ! 呪素濃度が高いだと!? それは大丈夫なのか!?」
呪素とは呪いを構成する力だ。大気中の呪素濃度が高ければ強力な呪瘍が大量発生しやすくなる。だがそれ以上に恐ろしいことは、高濃度の呪素に触れると呪いに空気感染してしまう危険性があることだ。狼狽するアメリアにクルトが気楽に答える。
「心配すんな。異常値だが数十年と触れ続けでもしねえ限り人体に影響なんざねえよ」
クルトの説明に安堵するアメリア。だが即座に「とはいえ」とクルトが言葉を続けた。
「稀にそんな余裕こいてられない馬鹿げた呪素濃度の場所もないわけじゃないからな。呪素濃度は常に警戒しておく必要がある。こんなこと開拓者の常識だぜ?」
「わ、悪かったな。どうせ私は未熟者だ」
「おん? お前でも拗ねることがあるんだな。可愛いところあるじゃねえか」
クルトの不意打ちにアメリアは思わず顔を赤くした。その手の言葉に耐性がないのだ。そしてふとアメリアは気付く。こちらを見据えているカタリナとイザベラの視線が親の仇かというほどに憎悪に満ちていた。
「どういうことですの? あのチミタンが可愛いなどと……まさかクルトさんはロリコンの気があるのですか?」
「きっとあの幼女姿も彼女の計算に違いないわ。何てあざといのかしら。卑劣よ。正義はどこにあるというの?」
カタリナとイザベラの凶悪な視線にアメリアは冷や汗をかく。ギクシャクする女性陣を他所に、クルトが「少し話が逸れたな」と何事もないように話を本筋に戻した。
「これから神殿に向かいそこにあるはずの聖剣を引っこ抜くわけだが……その作業は俺一人だけでやろうと思っている」
クルトの驚きの言葉に、アメリアは「なっ」と狼狽の声を上げた。
「クルトさん一人だけで!? どうして!?」
「イザベラが話していただろ? ここエルピダ地区はマイヤーハイム不動産の連中が開拓者を派遣したにもかかわらず開拓に失敗してんだ。相応の危険があるってことさ」
イザベラがニコリと笑う。クルトの言葉を肯定しているのだろう。クルトがイザベラの微笑みに苦笑しつつ、三人の女性陣に向けて言葉を続ける。
「ここまではお前らの同行もギリギリで許せる範囲だった。だが何が起こるか分からねえ場所にお前らを連れ行くわけにもいかねえよ。万が一の時はお前らだけでもセラピア地区に帰れ。このレストポイントはセラピア地区のハブポートに接続されているからな」
「私たちだけって……それではクルトさんはどうするんだ?」
「俺だって死ぬのは御免だから危険を感じたら尻尾巻いて逃げるさ。問題はそれさえもできない状況もあり得るってことだ」
アメリアの質問にそう答えて、クルトがゆっくりとその場に立ち上がる。
「見たところ神殿はさほど広くない。探索には十分もかからないだろう。もし三十分以上も俺が戻ってこねえなら、その時はセラピア地区に戻ってポートを開いたままにしていてくれ。まだ生きてたら自力で帰るからよ」
「ちょ――待ってくれ!」
「つうわけで、ちと行ってくるわ」
クルトが踵を返して歩き始める。空間に展開された光の膜。それを無造作に通過してクルトがレストポイントの外側に出た。彼を追いかけようと立ち上がるアメリア。だがその彼女の腕をイザベラがガシリと掴んだ。
「お待ちなさい。クルトさんが言うように聖剣を引き抜くのは彼にお任せしましょう」
「しかし――」
「ご心配をおかけしたようですが……ご安心してくださいね」
イザベラが碧い瞳を細めて微笑む。
「あの神殿は確かに危険です。しかしそれはあくまで私たち一般人での話。クルトさんには何ら危険もないので、私たちはここで彼が戻ってくるのをお待ちしていましょう」
イザベラは開拓者からの報告で神殿の危険が何かを把握している。ゆえにイザベラの言葉には一定の信頼が置ける。だが一般人には危険だがクルトならば問題がないとは――
(まるでクルトさんが一般人ではない……特別な人間だとでも言っているようだ)
困惑するアメリアに、イザベラが形の良い唇を笑わせながら静かに近づいた。
「焦ることはありません。まだチャンスはありますから」
アメリアの肌が粟立つ。イザベラが体を離してニッコリと笑顔を浮かべた。二人の様子を怪訝に見ているカタリナ。彼女にはイザベラの声が聞こえていないらしい。アメリアは乱れた呼吸を整えながら思考する。イザベラ・マイヤーハイム。彼女はやはり――
あの事実を知っていた。
「そう……だな。クルトさんを信じよう」
アメリアは慎重に息を吐いてクルトに振り返った。神殿に向けて歩いているクルト。彼の両手にはすでに肉厚のナイフが握られている。呪瘍を警戒しているのだろう。
神殿までの距離が半ばを過ぎる。何事もなく淡々と歩いていくクルト。今のところ呪瘍の気配もなく危険は感じられない。アメリアは自身が抱いていた剣を何の気なしに一瞥し、再び視線をクルトに戻したところ――
突如神殿の屋根が爆発した。
アメリアはぎょっと神殿を見やる。クルトもまた足を止めて神殿の屋根を見上げた。もうもうと立ち込める土煙。そのさらに上空。そこに一つの影が浮かんでいる。
それは若い男性だった。短く刈られた黒髪。やや浅黒い肌。ワイシャツにジャケット、ジーンズに革のブーツを着用している。一見して平凡な青年だ。街で見かけたのなら気にも留めないだろう。だがその青年は平凡な人間では決してない。波に揺られるように上空で小さく上下している青年。その彼の背中には――
漆黒の翼が生えていた。