第三章 エルピダ地区1
「こら! すぐにそこから降りてきなさい!」
そんな声が聞こえて少年は見上げていた視線を下した。少年の足元のさらに下。密集した建物の隙間を縫うように張り巡らされた道路。そこに恰幅の良い女性がいた。頭上を見上げて表情を怒らせている女性。その彼女を見て少年はひどく狼狽する。
「やっば! 母ちゃんに見つかった!」
少年は今、古びたアパートの屋根の上にいた。少年はそのアパートの住民であり、自身が入居しているアパート最上階の、その屋根裏部屋にある天窓から屋根の上に出たのだ。
アパートは二階建てで周囲の建物と比較すると背が低い。だが屋根の上ともなればそれなりの高さがある。少年は慎重に屋根の縁まで移動して通りにいる母に言い訳する。
「ああっと……違うんだよ、母ちゃん。これはその……昼寝していて気づいたらここに居たんだ。ほら、俺ってば寝相悪いじゃん?」
「なに下らない嘘ついてんだい! 馬鹿なこと言ってないでさっさと降りな!」
一瞬にして嘘がばれる。まあそれはそうなのだが。えらい剣幕でこちらを睨みつけている母。少年もさすがに不味いと感じて慌てて屋根を移動しようと――
ここで足元の屋根がバキンと陥没する。
「――げ!?」
このアパートは築四十年でろくに整備もされていない。屋根が老朽化しており少年の体重を支え切れなかったのだ。バランスを崩した少年はあっさりと屋根の上から転落した。
「うわぁああああああああ!」
悲鳴を上げながらアパート一階の庇に落下する。そして庇の傾斜をゴロゴロと転がり落ちて地面に激突した。全身を痺れるような痛みが襲う。だが奇跡的に大きな怪我はなかった。一度庇に落下したことで衝撃が分散されたのだろう。
「ちょっと――アンタ大丈夫かい!?」
母が青い顔をして駆け寄ってくる。少年はどうにか上体を起こすと、心配している母に「ま、なんとか」と無理に笑って見せた。明らかに表情をほっとさせる母。だがすぐにその表情を怒りに染めて、母が少年の頭に拳骨を喰らわせた。
「このバカ息子が! 下手したら死んでたところじゃないかい! 二度とこんな危ない真似をするんじゃないよ! 分かったね!」
「いてぇえええ! ふ、普通死にかけたばかりの息子の頭を殴るかよ!?」
「自業自得だろ! それより返事は!?」
「わ……分かったよ」
渋々ながら少年は頷いた。もっともこの約束は過去にも何度かされてきたもので、その都度破られてきた。ゆえに母も息子の言葉などろくに信じてないのだろう。「はあ」と嘆息して母が呆れたように腰に手を当てる。
「まったく……アンタはどうしてそう聞き訳がないのかね。遊ぶにしても他にやりようがあるだろ。わざわざ屋根になんか上らなくてもいいじゃないか」
「他にってどうするのさ? この街に子供の遊べるような場所なんてないだろ? どこもかしこも馬鹿みたいに建物が密集していてさ。そこにいるだけで息が詰まるよ」
「だからって屋根に上っても何もないだろ?」
「あるよ――そこには自由があるんだ」
母がきょとんと目を丸くする。少年の言葉の意味が理解できないのだろう。少年は痛みを堪えながら立ち上がると、母から視線を外してまっさらな空を見上げた。
「空には自由がある。狭い場所に無理やり建物を押し込めた窮屈な地上と違ってね。うちのボロアパートの屋根なんて大した高さじゃない。それでも開放感が全然違うよ。屋根から空を見上げているだけで俺はどこまでも飛んでいけそうな気がするんだ」
「……そういうものかね?」
「母さん。俺さ――開拓者になるよ」
少年は唐突にそう告げた。少年の夢を聞いて母が驚いたのか目を瞬かせる。少年は再び母に視線を戻して、その瞳に決意の眼光を輝かせた。
「俺はこんな窮屈な場所で一生を過ごすなんて御免だ。もっと広い場所に行きたいんだ。開拓者なら未開拓地に入ることができる。未開拓地は危険な場所だけど、誰にも邪魔されずどこにだっていける。世界を見て回ることができる。そこには自由があるんだよ」
「……そうかい」
母が微笑んで少年の頭を優しく撫でる。
「私は開拓者の仕事に詳しくないけど危険な仕事なんだろ? 母親の立場としては複雑だけど、それでもアンタが決めたのなら母さんも応援するよ。頑張りな」
「ありがとう、母さん」
「ただし――それは大人になってからの話だ。子供のうちは母さんの言うことを聞きな。まずは危ない遊びを止めること。アンタだって夢を叶える前に死ぬのはイヤだろ?」
「それは……分かってるって」
少年は苦笑しながら空をまた見上げた。青い空をゆったりと流れていく白い雲。その雲の動きを目で追いかけながら、少年は改めて自身の決意を胸中で呟く。
(そう……俺は開拓者になるんだ)
深刻化する土地不足。大勢の人が窮屈な土地に縛られて生きることを余儀なくされている。だが開拓者だけは土地に縛られず広い世界を自由に生きている。少なくとも少年にはそう感じられた。だから開拓者を目指すことに決めた。少なくともそれが――
現実的な夢だろう。
(……でも本当は)
頭上に広がる青い空。どこまでも際限のない世界。その世界を飛び回ることができたら、どれほど気持ちいいだろうか。どれほど自由だろうか。開拓者になること。それは少年の夢だ。だが少年にはもう一つの夢があった。現実的な開拓者とは異なる――
非現実的な夢。
(俺は……鳥になりたいんだ)
それから十年の月日が経過する。
かつて少年だった青年は今――
その生涯を終えようとしていた。
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視界を塗りつぶした光が消失し――
目の前に鬱蒼とした森が現れる。
「――っ」
セラピア地区にあるハブポート。そこから未開拓地であるエルピダ地区への転移。数百キロはあるだろうその距離を一瞬で移動して、アメリア・エンゲルスは赤い瞳を瞬きさせた。体が僅かにふらついている。転移後によくある軽いめまいだ。アメリアは慎重にバランスを整えて周囲に視線を巡らせた。
森に覆われたエルピダ地区。そこに設置された活動拠点。それは淡い光により包まれた空間であり、範囲はおおよそ直径十メートル、未開拓地に発生する呪素を退ける特性を有しており、この中にいる限り呪瘍に襲われる心配はない。
(そうと理解しても……やはり緊張するな)
アメリアは赤い瞳を細めると鞘に納められた剣を強く抱きしめた。頭上に張り巡らされた不気味な枝葉。太陽光を遮るその天蓋が周囲の森を薄闇色に染めている。見える範囲に動くモノの気配は感じられない。だが樹々の隙間などに沈殿した闇の中から、何者かがこちらを覗き込んでいるような気がして、アメリアはじんわりと冷や汗を浮かべた。
(情けないが……私は怯えている)
開拓者として未開拓地を訪れることは当然のことだ。二年目の新米開拓者とはいえ、アメリアもまた未開拓地に何度か赴いている。普段ならここまで緊張しないだろう。だが今は事情が異なる。開拓者であるアメリアは今、エルピダ地区の呪いにより――
無力な幼女の姿に変えられているのだ。
「ま……そんな緊張すんな」
アメリアに気楽な声が掛けられる。アメリアはいつの間にか険しくしていた表情をハッとさせて声に振り返った。視線の先に周囲の薄闇よりも濃厚な一つの影が立っている。黒い髪に黒い瞳。黒のロングコート。口元から鋭い牙を覗かせて――
クルト・ホーエンローエが軽薄に笑った。
「そんなナリのお前にあくせく働いてもらおうなんざ考えちゃいねえよ。お前は安全な場所に隠れながら賑やかしでもやってろ」
クルトのからかい発言に、アメリアは「ば、馬鹿にするな」と反射的に反論する。
「私だって開拓者だ。たとえ姿が変わろうとも立派に戦ってみせる」
「よせよ。変に張り切られるほうが迷惑だ」
クルトが肩をすくめて苦笑した。
「本当ならお留守番させても良かったんだ。だがお前がどうしても連れて行けと駄々をこねるから仕方なく同行を許した。これ以上は余計な手間をかけさせないでほしいね」
「私の体の問題だ。私が行くのは当然だろう。それに迷惑になるつもりもない。もし私に危険が及ぼうと、その時はきっぱりと見捨ててもらって構わな――きゃあああああ!」
大見得を切っていたところで大きな蜘蛛が足元を横切り、アメリアは思わず悲鳴を上げた。顔面を蒼白にして大きく飛び退くアメリア。蜘蛛が森の奥に消えていく様子を慎重に確認してアメリアはほっと安堵の息を吐く。そして遅まきながらハッとした。
「なるほど……こいつは頼りになる開拓者だ」
クルトが意地の悪い笑みを浮かべてアメリアを見ている。表情を渋くするアメリア。不満顔の彼女にクルトがハラハラと手を振りながら軽い口調で言う。
「ま……今回は大人しくしてろよ。必要な時はお前にも協力してもらうからよ」
言いくるめられてしまった。だが実際問題この姿でやれることは限られている。意地を張るだけ滑稽だろう。アメリアはそれを自覚して肩を落とした。
「ところで……このレストポイントはレームブルック不動産が設置したものですか?」
そんな疑問を呟いたのは金色の髪を腰まで伸ばした美しい女性だった。碧い瞳に赤い唇。華やかな白スーツ。周囲を包み込んでいる光の膜をぐるりと眺めてその女性が――
イザベラ・マイヤーハイムが淡々と呟く。
「レストポイントには固有識別子となるIDが付与されています。ハブポートではそのIDを入力することで転移先となるポートとの接続をするわけですが……転移するより前に転移先となるIDを確認したところ、私たちの会社が所有するIDに思えましたが?」
イザベラは大手不動産――マイヤーハイム不動産の令嬢であり、その開拓部部長でもある。自身の会社が所有しているレストポイントのIDを彼女が把握していてもおかしくない。イザベラの探るようなこの呟きにひどくあっさりとした返答がされる。
「当然でしょ。ここは貴女の会社が設置したレストポイントなんだから」
イザベラの疑問に答えたのは黒髪をおかっぱにした無表情の少女だった。青い瞳に細身の眼鏡。しわのない紺色のスーツ。イザベラが一度目を瞬きさせてその少女――
カタリナ・レームブルックを鋭く見やる。
「それは奇妙なことですね。未開拓地に設置されたレストポイントのIDは基本的に社外秘です。レームブルック不動産はどのようにしてここのIDを調べたのですか?」
カタリナはレームブルック不動産の社長でありマイヤーハイム不動産とは競争関係にある。その競争相手が自社のレストポイントのIDを把握していたことにイザベラは不信感を抱いたようだ。イザベラのこの質問にカタリナが「別に」と軽い口調で答える。
「他社が保有するレストポイントのIDなんて調べようと思えば調べられる。それにレストポイントは国の共有資産であり、各不動産はそれを国から借りているに過ぎないわ。他社が設置したレストポイントだろうと、それを利用すること自体は違法でないはずよ」
「そのようなこと申しておりません。確かに緊急避難場所の観点からも他社の設置したレストポイントの使用は禁じられておりません。しかし未開拓地のどの位置にどのIDのレストポイントが設置されているかまでは分からないはず。まさか行先も分からぬまま適当なIDに転移したとは申しませんよね?」
「それって答える必要がある質問かしら?」
カタリナが面倒くさそうに嘆息する。
「仮にその理由が貴女の推測通りのものであろうと、それは情報漏洩を起こしたそちらの失態でしょ? 別に訴えるのは勝手だけど世間に恥をさらすのはそちらも同じよ」
その情報漏洩の片棒を担いだ――というより実行犯――のアメリアに言えた義理ではないが、カタリナの主張はひどく身勝手に思えた。訴えられようと証拠など上がらないとタカを括っているのか。或いはただのハッタリか。しばしの無言が続いて――
「……まあ良いでしょう。この場でそれを話したところで詮無いことですしね」
イザベラが肩をすくめる。どうやらこれ以上の追及は止めたらしい。カタリナが安堵するように息を吐いて――やはりハッタリだったか――イザベラをじろりと見やる。
「そんなことより……どうして貴女まで付いてくるの? これはあたしたちレームブルック不動産の開拓作業よ。マイヤーハイム不動産は無関係でしょ?」
嫌悪感を隠そうともしないカタリナに、イザベラがあっけらかんと答える。
「もちろん敵情視察です。ここは私たちが狙っている未開拓地でもあるのですからね。貴方がたに先を越されぬよう見張っておかなければなりません」
「そんなお邪魔虫、一緒に連れて行けるわけないでしょ」
「でしたらハブポートでの騒動……あれを茶番ではなく事実であると主張しましょうか」
ハブポートで繰り広げられたイザベラ人質の茶番劇。もしイザベラが役を降りればカタリナたちはただの凶悪犯罪者だ。イザベラの脅迫めいた言葉にカタリナが舌を鳴らす。
「納得したところで、本日はよろしくお願いしますね」
イザベラが勝ち誇るように微笑む。無表情ながら悔しさを滲ませるカタリナ。だが言い返すようなことはせず「邪魔はさせないから」とだけ呟いて彼女がそっぽを向いた。
「何だか大所帯になっちまったな」
カタリナとイザベラのやり取りを静観していたクルトが他人事のようにそう呟く。
未開拓地への侵入は基本的にライセンス所持者のみに許可されている。だがライセンス所持者の同行ならば、ライセンス未所持でも限定的にその侵入を許可されていた。開拓に専門家の知識が必要なこともあるためだ。つまりライセンス未所持のカタリナとイザベラが開拓に同行すること自体に問題はない。
だがそれは当然危険な行為である。特に今回はまともな戦力がクルト一人だけなのだ。無力な三人を抱えたこのチームで果たして開拓を成功させることができるのか。
「……そういえば、クルトさんは普段は誰と組んで開拓をしているんだ? カタリナさんの屋敷では他の開拓者を見掛けなかったが」
アメリアのふとした疑問に、クルトが髪をポリポリと掻きながら答える。
「特別な事情でもねえ限りは一人だな。うちの会社に開拓者なんて俺しかいねえし」
「いつも一人なのか? 専属でなくともフリーの開拓者を募集したりはしないのか?」
「あまりしねえな。どこの誰かも分からねえ奴と組むより一人の方が気楽だろ?」
軽い口調でそう話すクルトだが、実際のそれは彼が言うほど簡単なことではない。
未開拓地の開拓。それは一言で言えば土地の呪いを解くことだ。そして呪いを解くことそれ自体は開拓者一人でも十分に可能だろう。だが問題はその過程にこそある。
呪いを解くためには未開拓地のどこかにある呪いの根源を探し出す必要があった。だが未開拓地には呪瘍を始めとして様々な危険が潜んでいる。そのような危険を切り抜けながら広大な土地を一人調査して、呪いの根源を見つけることは容易でないだろう。
(今回はその場所がおおよそ判明しているからまだしも……いや……それでも通常は少数精鋭のチームを組むものだが、彼は調査から呪いの解放まで一人でこなしてきたのか)
イザベラが自身の会社に開拓者のクルトを引き抜こうとするのは、彼のそのような実績からなのかも知れない。クルトが自身の腕時計をカチカチと操作して、「さてと……」と全員に聞こえる声で話を始める。
「目的地はここから徒歩一時間ぐらいだ。目的地にさえ着いちまえば呪いを解くこと自体はすぐに終わる。まあ問題が何も起こらなければの話だがな」
「すでに問題が発生しているけど」
カタリナがそう呟きつつイザベラをちらりと一瞥する。ふてくされているカタリナに「まあまあ」と宥めるように手を振り、クルトが自身の腕時計に視線を落とした。
「ポートは二十四時間開いている。今が午後の三時だから明日の午後三時までだな。もしその時間までにこのレストポイントに戻ってこられねえと、このだだっぴろい土地に俺たちは置き去りにされるってわけだ」
「それはゾッとしませんわね」
言葉とは裏腹に勝気な微笑みを浮かべるイザベラにクルトもまたニヤリと笑う。
「まあその時はヒッチハイクでもして帰ろうぜ。こんな森深くに車が通り掛かるかは知らねえけど。念のため一日分の食料と水はこのリュックサックに詰めてある。とりあえずそうだな……アメリア。お前がこれを持っとけ」
クルトが背負っていたリュックサックをアメリアに向けて放り投げる。剣を抱えていたため両手が塞がっていたアメリアは投げられたリュックサックを掴めずに顔にぶつけた。ジンジンと痛む鼻頭。アメリアがつい文句を言おうと口を開いたところ――
周囲から無数のうごめく気配を感じた。
アメリアは表情を強張らせて周囲に視線を巡らせた。薄闇に満たされた森の中。その木の陰や茂みの中から、不気味な黒い物体が無数に這い出てくる。昆虫に酷似した闇色の怪物。それは未開拓地に発生する呪いの象徴とも呼べる存在であった。
「呪瘍どもが俺たちの気配に感づいたか」
淡い光に包まれたレストポイント。その周囲を闇色の怪物――呪瘍が取り囲む。現れた呪瘍は全部で十体。レストポイント内部に呪瘍が侵入することはない。そう理解しながらもアメリアは寒気を覚えた。
だがクルトに焦る様子などなかった。周囲の呪瘍をのんびりと眺めながらクルトが懐から何かを取り出した。その何かとは肉厚のナイフだった。ナイフを二本両手に構えてコキコキと首を鳴らすクルト。そして散歩でもするような軽い足取りで――
「とりあえず――こいつら片してくるわ」
彼がレストポイントの外に出ていった。