エピローグ
未開拓地であるエルピダ地区。その土地に発生していた呪いは、呪いの根源である聖剣が引き抜かれたことで解消された。土地を汚していた呪素もその濃度を低くして、呪いの力が具現化した呪瘍もまた姿を消す。人を寄せ付けないその土地は――
人が住める正常な土地に開拓されたのだ。
そして三日後――
外大陸でも有数の大都市。セラピア地区。その住宅地にある一棟の屋敷。そのリビングで一人の女性がソファに腰掛けていた。ポニーテールにされた赤髪。意志の強さを感じさせる赤い瞳。フリーランスの開拓者でありエルピダ地区の開拓に参加した一人――
アメリア・エンゲルスだ。
セラピア地区は『治療』を加護として根付かせた土地であり、その人気から他の地区と比較して土地単価が非常に高い。街には大企業の重役や資産家の屋敷が多数建造されており、一般人には観光や仕事でしか縁のない土地となっている。
因みにアメリアは自他ともに認めるゴリゴリの一般人であり、このような土地に屋敷を建てられるような財力など皆無だ。とどのつまりこの立派な屋敷はアメリアが所有するものではない。アメリアの知り合いである経営者が所有している屋敷であった。
高級家具が揃えられたリビングに落ち着かない気分になりながら、アメリアは対面のソファに腰掛けている人物を見つめていた。黒髪をおかっぱにした少女。細身の眼鏡に青い瞳。しわのない紺色のスーツ。この屋敷の主でありレームブルック不動産の経営者――
カタリナ・レームブルックだ。
「それじゃあ……貴女もここにサインして」
カタリナが茶封筒から一枚の書類を取り出して、それを目の前のテーブルに置いた。アメリアはやや緊張しながら、テーブルに置かれた書類に目を走らせる。細かい文字で色々と書かれているが要約するとつまり――
その書類にはエルピダ地区の一部土地を譲渡する旨が記載されていた。
「……本当に構わないのか?」
アメリアは書類から視線を上げて、カタリナに恐る恐るそう尋ねた。カタリナがちょこんと首を傾げる。質問の意味が分からないらしい。感情の読めない無表情のカタリナにアメリアは表情を沈ませて言う。
「私はマイヤーハイム不動産のスパイとして動いていた。レームブルック不動産を――カタリナさんを裏切ったんだ。そんな私に土地を譲渡しても本当に構わないのか?」
「ああ……その話ね」
カタリナが傾けた首を元の位置に戻す。アメリアはマイヤーハイム不動産の指示により、エルピダ地区を開拓した証拠品である聖剣をレームブルック不動産から奪おうとしていた。結果的にその目論見は失敗に終わるも、カタリナの立場からすればアメリアの裏切りは決して許されることではないだろう。
「確かに……ひどく迷惑をかけられたわね」
カタリナが青い瞳をゆっくりと瞬きさせて淡々と話す。
「信頼していた仲間に裏切られたんだもの。あたしの心は深く傷つけられたわ」
「うぐ――」
「あれから食事も喉を通らないし、毎晩のように悪夢にうなされて寝不足なの」
「はう――」
「重度の人間不信になり、あたしはもう以前のように笑うことができそうにないわ」
「あぐう――」
胸を抉るカタリナの言葉に、アメリアはプルプルと震えながらか細い声で言う。
「ほんと……ご……ごめんなちゃい……」
「冗談よ」
カタリナがあっけらかんと言う。「え?」と目を丸くするアメリア。唖然とするその彼女に、カタリナがどうでも良さそうに手をハラハラと払う。
「不動産業界は熾烈な競争社会よ。マイヤーハイム不動産がその程度の工作を仕掛けてくることぐらい予想済み。そもそも貴女のことも初めから全面的に信頼なんかしてない」
「そ……そうなのか?」
「全面的に疑っていたわけでもないけどね。何より土地は手に入ったんだもの。貴女の裏切りなんて気にするほどのことじゃない。むしろ上手いことやったものだと感心するわ。どちらに転んでも自分の目的を達成できるよう状況を整えたんだから」
「……しかし」
なおも躊躇するアメリアに――
カタリナがさらりと言う。
「お父さんのお墓――作るんでしょ?」
アメリアの胸がトクンと揺れる。相変わらず無表情のカタリナ。だがその無表情に穏やかな微笑みの気配を浮かべて、彼女が抑揚ない口調でアメリアに告げた。
「あたしの気が変わらないうちに受け取れば? じゃないと後悔しちゃうわよ」
アメリアは視線を落としてテーブルに置かれた書類を見つめた。
開拓者を目指した理由。何をしても叶えたかった夢。埋葬されることなく亡くなった最愛の父。その父の墓を作りたい。死んだ父が帰ってこられる『居場所』を自分だけの土地に作ってあげたい。アメリアはテーブルに置かれていたペンに手を伸ばすと――
書類に自身の名前をサインした。
「これでエルピダ地区の一部土地は貴女のものよ。その他の各種書類はこちらの準備が整い次第、貴女のところに郵送するわ。でもとりあえずは――おめでとう」
「ああ……ありがとう。カタリナさん」
「言うまでもないけど、呪いが解けたとはいえエルピダ地区は森に覆われた荒れ地よ。整地してあげないと墓なんて作れない。そして当然それにはお金がかかるわ」
「分かっている。今はまだ大した貯金もないがコツコツと地道に進めていくつもりだ」
アメリアはそう力強く頷くと、サインした書類を茶封筒に入れて自身のバッグにしまった。ようやく自分だけの土地を手に入れることができた。だがこれで夢が叶ったわけではない。土地の整地を含めて、やるべきことはまだ多く残されている。問題はまだ山積みだ。しかし必ず最後までやり遂げて見せる。アメリアはそう決意を新たにした。
「……そういえば」
話が一段落したところで――
アメリアはほんのりと頬を赤らめる。
「クルトさんは……今日はいないのか? 彼にも一言お礼を伝えたいのだが……」
カタリナの眉がピクリと揺れる。もじもじと足を揺らすアメリア。彼女のこの様子に何かを感じ取ったのか、カタリナの無表情が温かなものから急速に冷え込んだ。
「……アメリアさんがここを訪ねてきた時から気になってたことがあるんだけど」
「え……? わ、私がどうかしたか?」
「別に大したことじゃないけど……アメリアさんの今日の恰好……普段と違くない?」
カタリナにそう指摘されてアメリアは自身の恰好を改めて見下ろした。薄手のワンピースにカーキ色の上着。首に巻かれたネックレスに赤いハイヒール。別段おかしなところなどない。少しばかり胸元が開いて胸の谷間が見えていること以外、至って普通の恰好だ。アメリアは自身にそう言い聞かせて引きつり笑みを浮かべた。
「え……えええ? 普段と違う? そ……そんなことないと思うが?」
「そうかしら? それほどアメリアさんのこと詳しいわけじゃないけど、あまりスカートの印象なんてないわ。それにうっすらと化粧もしてるみたいだし」
「そ……それは仕事中は動きやすい服を選ぶし化粧だってしない。しかし私だって普通の女性だ。普段はこうした服も着るし化粧だってする」
カタリナが「……ふうん」と半眼になる。何やら見透かされているようでアメリアはじんわりと冷や汗をかいた。互いが沈黙したまま時間が経過する。カタリナの探るような視線。それに耐えられなくなりアメリアが口を開こうとしたところ――
「ちぃいす……おはようさん……」
リビングの扉を開いて気だるげな声が聞こえてきた。
アメリアの心臓がドキンと跳ねる。聞こえてきた男性の声。聞き覚えのあるその声にアメリアの顔が急速に沸騰した。ドキドキと高鳴る心臓。熱を帯びていく体。アメリアは慎重に息を吐き出して、リビングに入ってきた男性にちらりと視線を向ける。
二十代前半の若い青年だ。首筋まで伸ばした黒髪に鋭すぎる黒い瞳。ラフな白シャツに黒のスラックス。引っ掛けるように履いたサンダル。影法師を彷彿とさせる黒コート姿ではないがその男性は間違いなく――
クルト・ホーエンローエだった。
「んあ……なんだアメリア。お前、家に来てたのかよ?」
クルトがアメリアに気付いてそう声を掛ける。眠たそうに欠伸をしているクルト。その彼の口元から覗いた犬歯。発達した牙。それを何となく見ながらアメリアは「あ……ああ」と顔を赤くしたままコクコク頷いた。
「エルピダ地区の土地を受け取りにな……カタリナさんから聞いてなかったか?」
「ああ……そういや言ってたような……」
ポリポリ髪を掻きながらアメリアをじっと見つめるクルト。彼に注目されている。今の自分の姿を見られている。それを意識するだけでアメリアの体温は否応なく上昇した。
(私は……彼にどう見えているのだろうか?)
クルトとはこれまで開拓者として接してきた。当然ながら女性らしい一面など見せたことない。そんな自分が女性らしく着飾った姿に彼は何を思うだろうか。少しは異性として意識してくれるだろうか。それとも似合わないと冷笑するだろうか。
期待と不安を覚えながらアメリアは顔を俯けてクルトからの言葉をじっと待った。だがなかなか彼からの返答がない。五秒ほど経過して、アメリアはドキドキと心臓を鳴らしながら上目遣いにクルトの様子を確認した。クルトが向かいのソファへと近づき――
カタリナの隣にドカンと腰掛ける。
クルトがテーブルに置かれていた新聞を手にして読み始める。「ふわぁ」と眠たそうに欠伸をするクルト。彼の態度にぽかんと目を丸くするアメリア。しばしの間。新聞を黙々と読んでいたクルトがアメリアの視線にふと気付いて怪訝そうに眉をひそめる。
「……なんだよ? さっきから見てくっけど……何か言いたいことでもあんのか?」
「あ……いや……そういうわけではないが」
アメリアの曖昧な返答にクルトが首を傾げる。クルトの視線は間違いなくアメリアに向けられている。だが着飾ったアメリアに対してクルトから何の反応もない。アメリアは「ああっと……そうだ」とわざとらしく頷くと上擦った口調で言った。
「これまでクルトさんは会うたびに、私にセクハラまがいの発言をしてきたからな。今日はそういった発言がないもので、安心していたところだ」
「……俺そんなことしてたっけ? んん……まあでも今はさすがにそういう気分にはなれねえな。エルピダ地区開拓の疲れが抜けきってなくて体がだりいんだよ」
そう言いながらクルトがまた欠伸をする。
見たところエルピダ地区で受けたクルトの怪我はセラピア地区の加護により完治しているようだ。しかし後から聞いた話では、クルトの能力――喰らった呪いを力とする――は、体に相当の負担がかかるらしい。クルトの疲労がまだ残っているのも、その力を何度も使用した所為なのかも知れない。
(つまりは……私にも責任があるわけだが)
だがそれを理解しながらもアメリアは釈然としなかった。この着慣れない恰好をするのにどれだけの勇気が必要だったか。服を選ぶだけでも何時間かけたことか。それなのに感想の一つもないのか。アメリアは落胆に肩を落とすとともに――
クルトに対する怒りがフツフツと込み上げてくるのを感じた。
「おーーーほほほほほほほほ! ごめんあそばせぇえええ!」
ここでリビングの窓ガラスが華々しくブチ破れる。アメリアはぎょっと目を見開いて割れた窓ガラスに視線を向けた。割れたガラスを踏みながら一人の女性がリビングに現れる。腰まである金色の髪に碧い瞳。これからパーティーにでも出席するのかというド派手なドレスに装飾品。マイヤーハイム不動産社長令嬢にして開拓部部長――
イザベラ・マイヤーハイムだ。
「……イザベラ」
カタリナが無表情を維持しながらも不快感を覗かせる。自宅の窓ガラスを破壊されたのだから不快に思うのも当然だが、恐らくイザベラが玄関から訪ねてきたとしても、カタリナは同じ反応を見せていたに違いない。
「一体何をしにきたの? というか貴女、仕事はどうしたのよ?」
「仕事はお休みを頂いています。今日はとても大事な用がありますので」
カタリナの質問にそう口早に答えて、イザベラがクルトのもとへスタスタと歩いていく。新聞を閉じて眉をひそめるクルト。訝しげな彼の真横に立ち止まり、イザベラがクルトの右腕に自身の両腕を絡めた。
「さあクルトさん。お約束していたデートに参りましょう」
「あ? 今からかよ?」
イザベラの言葉にクルトが眉間にしわを寄せる。イザベラの言うデートとは、ハブポートで行われた茶番劇の協力を見返りに、クルトがイザベラとした約束のことだろう。笑顔を輝かせているイザベラに対して、クルトがどんよりと顔を曇らせた。
「なあイザベラ……デートはまた今度にしようぜ。俺は疲れてんだよ」
「いけませんわ。私もそう簡単には仕事を休むことができませんし、クルトさんも仕事明けぐらいしか休めないでしょう。それに疲れているからこそデートを楽しむのですよ。素敵な劇を鑑賞して美味しい料理を堪能すれば、そのような疲れなど簡単に――」
イザベラがまだ話している途中で、カタリナがクルトの左腕を抱きしめてぐいっと引き寄せる。青い瞳をジト目にしてイザベラを睨みつけるカタリナ。何か言いたげなその彼女にイザベラもまた碧い瞳をジト目にする。
「……どうかしましたか? クルトさんとのデートは正式な手続きにより約束されたもの。この件に無関係な貴女に止める権利などないはずですが」
「……よくそんなことが言えるわね。貴女自分のしたこと忘れたの? 貴女はあたしたちから聖剣を掠め取ろうとしてたのよ? そんな人とクルトがデートするわけない」
カタリナとイザベラが火花を散らす。「だから……俺は疲れてんだが」と力なくぼやくクルト。その彼をきっぱり無視して、二人が彼の腕を右へ左へと引っ張りあう。
「仕事とプライベートは分けるものですわ。貴女もクルトさんにいつまでもへばりつくのはお止めになって、いい機会ですし兄離れでもされたらいかがです?」
「大きなお世話。それに血はつながってないんだから兄離れも何もない。そっちこそいい加減に諦めたら。クルトは貴女なんかに興味なんてないのよ」
「そのお言葉、リボンをつけてそっくりそのままお返ししますわ」
「その返された言葉、リボンを引き千切って貴女に投げつけてやるわ」
カタリナとイザベラによるクルトの取り合い。ハブポートでも見た光景だが今回は疲労からかクルトも心底迷惑そうにしている。だが対面のソファから彼らのやり取り眺めていたアメリアに限ってはクルトのその表情を別の意味に解釈していた。
(なんだ……あんなに鼻の下を伸ばして)
赤い瞳をギリギリと鋭くするアメリア。女性二人に囲まれて満更でもない表情――少なくとも彼女にはそう見えた――のクルトに、彼女は苛立ちをさらに募らせる。
(一緒に夢を叶えようと……あの時、私にはそう言ってくれたのに……)
アメリアはガリッと奥歯を噛むと乱暴な音を立てながらソファから立ち上がった。
「私は帰る。今日は失礼したな」
言うが早いかアメリアは踵を返してリビングの出口へとスタスタ歩いていく。だが履き慣れていないハイヒールに体がふらついた。くそ……誰がこんな馬鹿みたいな靴を履いたんだ。胸中で愚痴をこぼすアメリアに、クルトが少し慌てた様子で声をかける。
「あ、ちょい待て! 折角来たんだからもう少しここにいろよ! な、いいだろ!?」
女性二人と戯れるその姿を見せつけようとでもいうのか。なんと性悪だろうか。アメリアは被害妄想全開にそう考えると、足を止めてクルトに仏頂面で振り返った。
「断る。私は帰らせてもらうぞ。そしてこれを最後にもう会うこともないだろう」
「なんでそんな重い感じになってんだ!? いいからここに残れよ! 今の俺一人じゃこいつら二人の相手はしんどいって! お前が代わりに相手してくれよ!」
「くどい! 私はもうここには――」
クルトの言い訳など無視して声を荒げたその瞬間――
ポンっと軽い音とともにアメリアの視点が急に下がった。
「……え?」
アメリアはきょとんとする。突然下がった視点。だが妙に懐かしい景色。クルトが唖然とした様子でこちらを見ている。カタリナとイザベラもまた呆然とこちらを見ていた。ものすごく嫌な予感がする。アメリアは恐る恐るリビングの窓ガラスに視線を移した。
ガラスには十歳にも満たない子供――幼女時代のアメリアの姿が映されていた。
「ふわぁあああああ!? なななな、なんでだぁああああああ!?」
ぶかぶかの服がずり落ちないよう苦心しながらアメリアは頭を抱えて絶叫した。カタリナとイザベラが首を傾げながらクルトに視線を向ける。二人から回答を求められて、クルトが思案顔のまま自信なさげに言う。
「確かなことは言えねえけど……俺に噛みつかれると一時的に呪いに耐性ができる。その耐性がもしかして呪いを解くほうにも影響したのかもな。つまり俺に噛まれていたことで、本来解けるはずの呪いが中途半端に残っちまった……とか?」
「そそそそ、そんな! それじゃあ私は一生このままの姿なのか!?」
小さな手足をパタつかせて狼狽するアメリアにクルトが軽い調子で肩をすくめる。
「さあ? でもさっきまで元の姿だったわけだし、いずれまた元に戻んじゃねえの? こんなこと俺も初めてのことだから、正直なところよく分かんねえ」
「分かんないって――無責任だぞ! 呪いが解ければ元に戻ると話してたじゃないか!」
「無責任って言われても……俺にどうしろってんだよ?」
嘆息混じりのクルトにアメリアは勢いのまま声を荒げようとした。だがここで唐突に彼女は顔を赤く染める。彼女の異変に首を傾げるクルト。アメリアは怪訝そうな彼を上目遣いに見つめるとモジモジ指を弄りながらポツリと言った。
「どうしろって……男が女に取る責任なんて……ひ、ひとつしかないじゃないか」
思わずそう呟いてからアメリアはハッと我に返る。だが時すでに遅し。クルトの腕を掴んでいたカタリナとイザベラ。その二人から狂暴な殺気が噴き出していた。顔面を蒼白にしてヨロヨロと後退するアメリア。自身の失言を激しく後悔しながら――
「じょ、冗談だよ。てへぺろ」
彼女は一か八か幼女の愛らしさを全開にして誤魔化した。