第五章 感染者2
「呪瘍が随分増えてきたわね」
「そのようですね」
神殿の周囲を歩き回る呪瘍の群れ。その数は二十体弱。カタリナとイザベラはぼんやりと神殿を眺めながら、徐々に増えていく呪瘍に僅かばかり困惑していた。
この呪瘍は神殿内の呪素を取り込んだアメリアの意思に呼応している。アメリアが生み出した非現実的な世界。その世界を誰にも邪魔されたくないとする彼女の意思が、呪瘍を生み出して神殿を守らせていた。
だが当然ながらカタリナとイザベラはそのような事実を知らない。そもそも神殿内で何が起こっているのかさえ把握していないのだ。ゆえに彼女たちは不気味にわいてくる大量の呪瘍に首を傾げている。もっとも彼女たちにとって呪瘍など二の次だ。彼女たち関心事は当然、神殿に侵入した二人――
クルトとアメリアの進展具合にある。
「それにしても……遅い。遅すぎるわ。クルトたちは何をしているのかしら」
「かれこれ二十分……どうやら本当に神殿内で何かがあったようですね」
地面に座りながら膝を指でトントンと叩くカタリナと、同じく地面に座りながら近くの雑草をむしっているイザベラ。明らかに苛立ちながら二人が会話を続ける。
「昨日の鳥人間みたいな奴が現れて神殿内で戦っている可能性は?」
「否定はできません。しかしそれならば物音の一つぐらいしそうなものです」
「聖剣が見つからないのかも。神殿内部がものすごい複雑な構造になってるとか」
「仮にそうでも、あの小さな神殿をくまなく探すのに二十分はかかり過ぎです」
「そもそも聖剣がなかったとか」
「ならば神殿から出てくるでしょう」
カタリナの推測をイザベラがことごとく否定していく。だがカタリナ自身も否定されることを承知していたのかイザベラにいちいち反論しない。イザベラもまた必要以上には追求しない。しばしの沈黙。二人の瞳が音もなく鋭くなっていく。
「……やはりそうなのね」
「……聞きたくありません」
「そうとしか考えられないじゃない」
「クルトさんに限ってあり得ませんわ」
カタリナの膝を叩いている指が激しさを増していく。イザベラの雑草をむしる手が乱暴に振り回される。カリカリと音を立てて歯ぎしりする二人。苛立ちを顕わにしてカタリナとイザベラが怨嗟のごとくぼやく。
「アメリアさんが強引に言い寄ったのよ。嫌がるクルトを無理やりに」
「そんな……しかしだとすれば、なんて卑劣なやり口でしょうか」
「あの馬鹿みたいに下品で大きな胸でクルトを誘惑したのよ」
「また胸ですか……いえ、確かに彼女はそれをやりかねませんね」
「そんなこと絶対に許されないわ」
「そのようなこと絶対に許されませんわ」
当然これはただの言いがかりだ。しかしカタリナとイザベラはそれを完全に信じ込んでいた。ギリギリと瞳を鋭くして、二人は呪瘍に守られた神殿を睨みつける。
「クルトはあたしのモノなんだから」
「クルトさんは私のモノなのですから」
二人のその呟きには殺意にも似たどす黒いものを孕んでいた。
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呼吸を止めて地を蹴る。クルトが表情を引き締めて懐からナイフを取り出した。素早くナイフを右手に構えるその彼に、アメリアは躊躇なく聖剣を振るう。
ガキンッと聖剣とナイフが刀身を衝突させる。ナイフの腹に左手を添えてアメリアの聖剣を受け止めるクルト。彼の力ならばアメリアの剣を押し返すことなど容易だっただろう。だが聖剣とナイフは拮抗して動かない。クルトの表情に僅かな困惑が浮かぶ。アメリアは止めていた呼吸をふっと吐き出して――
聖剣を全力で振り抜いた。
「――な!?」
受け止めていた聖剣に押される形でクルトの体が後方に弾ける。花畑の上をゴロゴロと転がり片膝を立てて静止するクルト。彼に踏みつけられた花の花弁が周囲にひらひらと舞う。アメリアは静かに呼吸を整えると舞い散る花弁の中を駆けた。
「ちっ!」
クルトが身を屈めた姿勢から横に跳ねる。アメリアの振り下ろした聖剣を躱して、クルトが地面に体を転がしながら素早く立ち上がった。またも花弁が周囲に舞い散る。アメリアは舞い散る花弁をぼんやりと眺めながらポツリと言う。
「ひどいな……せっかく育てたというのに」
「……お前だって花を踏んでるじゃねえか」
「まあいい。どうせ明日には元に戻っている。ここはそういう世界なんだからな」
「お前にとって都合のいい世界……お前の動きがやけに切れるのもその影響ってわけか」
クルトは優れた開拓者だ。未熟なアメリアが本来勝てる相手ではない。だがこの僅かな攻防で彼女の変化を感じたのだろう。クルトが警戒心を強めている。表情を緊張させながらも強気に笑うクルト。ナイフを隙なく構えるその彼にアメリアは淡々と告げる。
「今の私は大量の呪素を――強大な呪いの力を取り込んでいる状態だ。以前とは力も速度も桁違いに増大している。いくらクルトさんが優れた開拓者であろうと、今の私ならば容易に退けられるだろう。もっとも、それに気付いたのはついさっきのことだが」
「……なるほど。どうりで力も動きも化物じみているわけだ」
「これで引いてくれないか。クルトさんに剣を向けるのは私も本意じゃないんだ」
「わりいけど――」
クルトが右手のナイフを振りかぶり――
「女に一度フラれたぐらいで諦めるようなヤワな男じゃないんで――な!」
アメリアに向けてナイフを投擲した。
アメリアは迫りきたナイフを冷静に聖剣で叩き落とす。クルトが横に駆けながら懐からナイフを取り出してそれをまた投擲した。翻弄しているつもりか。アメリアは焦ることなく投擲されたナイフを再度叩き落とす。そしてクルトに意識を戻したところ――
アメリアの眼前に一本のナイフが迫る。
「――!」
二本のナイフが時間差で投擲されていたのだ。アメリアは体を捻じり眼前に迫っていたナイフを紙一重で躱した。アメリアの体勢が僅かに崩れる。その隙を見逃さずクルトがアメリアに接近する。そして肉薄したアメリアに右拳を突き出した。急所を突けば容易に意識を刈り取れる凶器たる拳。アメリアは体勢を崩したままふっと息を吐き――
クルトの右拳を左手で軽々と受け止めた。
クルトの表情が強張る。体勢の崩れた状態で防がれるとは思わなかったのだろう。力や速度だけでなく反射神経さえもアメリアは強化されていた。クルトが動揺している隙に体勢を整えるアメリア。そしてクルトの右腕を無造作に掴んで――
クルトの体を乱暴に放り投げた。
「――がっ!」
地面に背中を打ち付けてクルトが苦悶の声を漏らす。花畑に仰向けに寝転んだまま動きを止めるクルト。背骨が折れてもおかしくない衝撃だ。受け身をしたところで簡単には起き上がれないだろう。アメリアは倒れたクルトを見下ろして静かに嘆息する。
「……もういいだろ。大人しく引いてくれ、クルトさん」
「――げほ! かは……っ……」
クルトが咳き込みながら体を起き上がらせる。ギラギラと眼光を輝かせるクルト。戦意をまるで失わない彼に、アメリアはやや呆れながらも言葉を続ける。
「私にはクルトさんの動きが止まって見えるようだ。クルトさんがどんな奇策を用いようと私は冷静にその対処ができる。そろそろ諦めてくれないか」
「……はあ……はあ」
「……このまま戦い続ければ、私は本当にクルトさんを殺してしまう」
アメリアはその口調を僅かに落とす。
「……クルトさんは、私がいずれ呪いに取り込まれて死ぬと話していたな。ならばそれこそ私にこだわる必要なんてないじゃないか。あと数時間ほどで私は死ぬ。そうすれば私が生み出したこの世界も消えて、聖剣を引き抜くことができる。そうだろ?」
「……それでお前はどうする? 幻の中でくたばってハッピーエンドだってのか?」
クルトの皮肉を込めた言葉に、アメリアは動揺もなく微笑みを浮かべる。
「クルトさんがどう感じるかは分からない。だが私はそれで構わないと思っている。どうせ元の世界に戻ったところで、私の本当の夢は実現しなんだ。それなら短い時間だけでもその夢が実現した世界で暮らしていきたい」
「……本当の……夢だと……?」
クルトがギリッと牙を剥いて――
地面を全力で蹴りつけた。
アメリアは嘆息して聖剣を構える。ダメージを抱えながらもクルトの動きは素早い。だがやはりアメリアには彼の動きを正確に捉えることができた。接近するクルトに合わせて聖剣を振るう。クルトが身を屈めて聖剣を掻い潜りアメリアに肉薄した。
クルトが腰だめに構えた右拳を突き出そうとする。アメリアは即座に地面を蹴りつけて一歩後退した。するとその直後、クルトが大きく足を踏み込んで後退したアメリアに追いすがる。アメリアが距離を取ることを予測していたのだろう。またもアメリアに肉薄したクルトが改めて右拳を突き――
ここで後退しながら振り上げていたアメリアの左足がクルトの鳩尾に突き刺さった。
クルトの表情が歪む。クルトがアメリアの動きを読んでいたように、アメリアもまたクルトの動きを読んでいた。クルトが足を止めたことを確認して再度後退するアメリア。再び距離を空けた彼女にクルトが苦々しく舌を鳴らした。
クルトがまたもアメリアに接近する。アメリアは一度剣を引いてその先端をクルトに向けて突き出した。突き出された刃をギリギリのところで回避するクルト。そして体を回転させながらアメリアの死角へと回り込み、彼がアメリアの右足首を素早く払う。
アメリアの体が前のめりに傾く。体勢を崩した彼女の脇腹めがけてクルトが右拳を突き出した。通常ならば回避不能。だがアメリアは左足を軸に体を回転させると、クルトの右拳を掠めながらも回避した。そして今にも倒れ込みそうな姿勢から聖剣を振り上げる。
クルトが動揺しながらも振られた聖剣をすんでのところで回避した。無茶な回避動作によりクルトに大きな隙が生まれる。アメリアは体勢を立て直してクルトに接近――
クルトの顎を掌底で跳ね上げた。
「――ぐうっ!」
クルトの口から血が飛び散る。アメリアは続けざまにクルトの腹に膝を打ち込み、さらに苦悶に身を屈めたクルトを蹴りつけた。クルトが無様に地面を転がりうつ伏せに倒れる。アメリアは止めていた呼吸を吐き出すと蹴り足を静かに下した。
「……いい加減にしてくれ。私に残された時間は少ない。こんなことで浪費したくない」
アメリアの何度目かになる説得。クルトが体を震わせながらも身を起こそうとして、唐突に激しく咳き込んだ。クルトの口から大量の血が吐き出される。この出血量。内臓をどこか痛めたのだろう。もはや戦える状態ではない。だがそれでも立ち上がろうとするクルトにアメリアは表情を歪めた。
「どうして分からない? 勝ち目なんてないんだぞ。それがクルトさんなりの優しさだということは私も理解している。だがハッキリ言ってその優しさは迷惑なんだ」
クルトがフラフラと立ち上がる。顔を俯けたまま荒い呼吸を繰り返すクルト。満身創痍ながら諦める気はないようだ。それを理解してアメリアは赤い瞳を尖らせた。
「この世界には全てがある。生きている父も居場所となる土地も。元の世界にはないものがここにはある。私の欲しいものが揃っている。ここで生きることが私の望みなんだ。それを邪魔しないでくれ。私を助けてやろうなどと――思い上がるのは止めろ!」
口調が徐々に荒くなり最後は絶叫するようにして、アメリアは言葉を吐き捨てた。沈黙するクルトを睨みつけるアメリア。クルトの行動が優しさであろうと、彼女にとってそれは自身の夢を奪うものに他ならない。想いを理解してもらえない歯がゆさも相まって、アメリアは苛立ちのまま声を荒げた。
「これが最後の忠告だ! この世界から消えろ! さもなくば今度こそ――」
「――うるせえぞ」
ポツリと落とされたクルトの声。その声の響きにアメリアは思わず口を閉ざした。
どれだけ状況が劣勢であろうと、これまでクルトの声にはどこか余裕が感じられた。だが今の呟きにその余裕は感じられない。あまりに短い一言。その呟きには――
猛獣のような荒々しさだけがあった。
「さっきから……ベラベラベラベラと……うっせえんだよ。優しさだあ? 助けようとしている? ざけじゃねえぞ……思い上がってんのはテメエの方だろうが……ああ?」
顔を俯けたクルト。その全身からざわりと黒い霧のようなものが立ち昇る。彼の異変に背筋を凍らせるアメリア。この光景は前にも見たことがある。神殿を訪れた直後。突如襲い掛かってきた翼を生やした男。怪物じみたその男を前にして見せた――
呪いの感染者たる彼の特性。
「喰らった呪いを力に変える……能力」
アメリアはそう独りごちて聖剣を構えた。クルトの全身から噴き出している黒い霧がさらにその勢いを増していく。ドクドクと脈づきながら皮膚に浮かび上がる不気味な闇色の文様。ざわざわと揺れながら逆立つ黒髪。俯けていた顔を静かに持ち上げて――
クルトがその金色の瞳を輝かせた。
「俺はテメエに優しくしたつもりも……テメエを助けるつもりもねえ……俺はただ――」
クルトが牙を剥いて吠える。
「テメエにムカついてんだけだ!」
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「もう我慢できないわ!」
「もう我慢できませんわ!」
クルトとアメリアが神殿に侵入してから二十五分が経過した。悍ましい想像――クルトとアメリアの恋愛模様――をしながらも待機を続けてきたカタリナとイザベラ。その二人の忍耐もついに限界を迎える。淡い光に包まれたレストポイント。そこに腰を下ろしていたカタリナとイザベラが申し合わせたように同時に立ち上がった。
「もう間違いないわね。アメリアさんが強引に神殿へとついて行った目的はクルトと二人きりになるため。初めから彼女は女の本性を剥き出しにクルトを狙っていたのよ」
「どうやらそのようですね。あの『男よりも仕事が大事です』キャラにまんまと騙されましたわ。なんと狡猾でしょう。まさか彼女がそのようなビッチだったとは」
苦々しく爪を噛むイザベラにカタリナがどこか勝ち誇るように胸を張る。
「気付いてなかったの? 私は一目見た時から彼女がビッチだと気付いていたわ。だって明らかに彼女はビッチ顔だもの。彼女はビッチになるために生まれてきたのよ」
「何をおっしゃるのですか。私とて彼女がビッチ顔だとは当然気付いておりました。しかし人を見た目で判断してはならないと自制していたにすぎません」
「それが今回の悲劇を招いたのね。彼女は虎視眈々とビッチの牙を研いでいたのよ」
「そうですね。所詮ビッチ星人はビッチになる宿命には逆らえないのですわ」
本人不在をいいことにカタリナとイザベラが勝手なことを言う。だがこのような愚痴ではもう彼女たちの苛立ちは収まらない。互いを一瞥して頷き合うカタリナとイザベラ。そして二人は神殿に向けて歩き出した。
カタリナとイザベラが待機していたレストポイント。そこから神殿までの間には二十体弱もの呪瘍がうごめいている。この状況でレストポイントから不用意に出るなど開拓者でもまずしないだろう。だがカタリナとイザベラは一切の躊躇もなく――
レストポイントの外に出ていった。
神殿の周囲をうろついていた呪瘍がざわつく。レストポイントから出てきた人間の気配を感じたのかも知れない。騒めく呪瘍を平然と横切りながら神殿へと進んでいくカタリナとイザベラ。そして神殿までの距離が残り半分というところで――
複数体の呪瘍が二人に襲い掛かった。
カタリナとイザベラの足が止まる。迫りくる呪瘍。絶体絶命のピンチ。だが二人が焦る様子などない。ただその瞳に冷たい意志を宿して淡々と戦闘準備に入る。懐から二丁の拳銃を取り出すカタリナ。服の袖から鞭を引き抜くイザベラ。武器を抜いて構えるまで一秒弱。そして次の瞬間には――
カタリナに襲い掛かった呪瘍が無数の銃弾に貫かれ――
イザベラに襲い掛かった呪瘍が振られた鞭に引き裂かれていた。
複数体の呪瘍を始末してカタリナとイザベラはその瞳を鋭くする。未開拓地の脅威である呪瘍。怪物たる彼らが彼女たちの睨みに怯えたように一歩退いた。カタリナとイザベラが武器を構えたままその口を開く。
「そこを退いてくれる?」
「そこを退いてくれませんか?」
穏やかに告げられたカタリナとイザベラの要求。当然ながら人間の言葉を理解しない呪瘍は動かない。だが何らかの気配を感じたのか二人に襲い掛かることもなかった。しばしの静寂。カタリナとイザベラが大きく息を吸い込んで――
「いいから退きなさい! 人の恋路を邪魔すんじゃないわよ!」
呪瘍にそう怒鳴りつけた。