第三章 エルピダ地区3
(俺は……俺は空を飛んでいるのか?)
闇の中に消失した意識。それが一瞬だけ浮かび上がる。子供の頃より何度も見上げた空。長年と恋焦がれ続けた空。だが手に入らないと諦めていた空。それが今――
自分のものとなったのだ。
(俺は……こんなにも自由だ)
重力の束縛から解放されて――
土地の束縛から解放されて――
俺は誰よりも自由になれたんだ。
――――
――――
『貴方の望みは叶いましたか?』
――――
――――
奇妙な声が聞こえて――
青年の意識はまた闇に消える。
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「これは一体……」
上空に浮かんだ人影。巨大な翼を生やした男性。それを見上げてアメリアは表情を強張らせた。翼を生やした男が全身をブルブルと震わせる。そして次の瞬間――
「キィイイイアアアアオアオアアオアアアオアオアオアオアオアオアアア!」
男が獣のように吠えた。
「んだ……こいつは?」
クルトが上空を見上げて呆然としている。翼を生やした男が咆哮を止めて視線を不気味に巡らせる。その動きに正常な知性は感じられない。そして無作為に巡らせていた視線が地上にいるクルトにピタリと固定されて――
「キィイイイイイイイアアアアアアア!」
クルトに向けて男が急降下した。
クルトが舌を鳴らしてナイフを構える。自由落下を遥かに超える速度でクルトに突進する翼の男。弾丸のように迫りきたその彼をクルトが紙一重で回避する。そして――
すれ違いざまにナイフを振るい、男の片翼を切り裂いた。
「ギィイイイイアアアア!」
突進速度そのままに翼の男が地面に叩きつけられてバウンドする。通常の人間ならば全身の骨が粉砕してもおかしくない衝撃。だが翼の男は大した怪我もないのか即座に四つん這いに姿勢を立て直した。クルトがナイフを構えて翼の男に向き直る。片方の翼を失ったため男はもう空を飛べない。クルトはそう考えていただろう。だがしかし――
男の切断された翼が瞬く間に再生された。
「――なっ!?」
クルトが驚愕すると同時、翼の男が地面を両手足で蹴りつけて空を駆ける。地面から僅かに浮き上がり滑るように迫りくる男。動揺から回避が遅れたのかクルトが苦い顔で両腕をクロスする。翼の男がクルトに正面から激突、クルトを容赦なく撥ね飛ばした。
地面をゴロゴロと転がり、クルトがどうにか片膝をついて静止する。右腕を力なく落として表情を歪めるクルト。先程の攻撃で右腕を痛めたのだろう。クルトを撥ね飛ばした翼の男がまた上空に飛翔する。上空からクルトを睨みつける翼の男。「ウゥ」と唸るその男からは獣のような獰猛な気配が感じられた。
「一体何が……まさかこれがイザベラさんの話していた神殿の脅威なのか!?」
アメリアの狼狽した問いに、イザベラが「い、いえ」と頭を振る。
「これは私が予期していたことと違います。このような危険は私も報告に受けてない。それにあの翼を生やした男性ですが……私の記憶が正しければあの方は神殿に派遣されて犠牲となった開拓者ですわ」
「な……それは本当か!?」
イザベラがコクリと頷いて、翼の男を見上げながら言葉を続ける。
「直接会ったことはありませんが写真を見たことがあります。しかし彼は神殿の調査中に事故に会い……まさかこれは呪いの……」
イザベラが尻すぼみに声を小さくして沈黙する。翼の男がマイヤーハイム不動産から派遣された開拓者。それが事実なら彼はなぜあのような怪物に変貌してしまったのか。
(呪い……?)
イザベラがポツリと呟いた言葉。その開拓者が変貌したのはエルピダ地区の呪いが関係しているのか。だがアメリアもまたエルピダ地区の呪いに感染している。その開拓者が呪いにより怪物に変貌したというのなら、彼女もまた怪物になっているはずだ。
(私は怪物ではない……だが子供の姿になった……彼と私が同じ呪いを受けたのなら)
この呪いの特性とは何なのか。
翼の男がクルトに向けて急降下する。クルトの動きが鈍い。まだダメージが回復していないのだ。クルトが重い体を引きずるように一歩後退する。翼の男がクルトの目の前を通過して地面に激突。大きな土埃が周囲に舞う。
「――くそ!」
クルトが土埃に向けてナイフを振るう。だがナイフは獲物を捉えられず空を切った。直後に土埃の中から翼の男が現れる。自身の失態に歯噛みするクルト。翼の男が無造作に腕を振るいクルトを殴り飛ばした。
クルトがまたも地面を激しく転がる。クルトの両手に握られていた二本のナイフ。それがクルトの手を離れて地面に落ちた。クルトが倒れたまま動かなくなる。あまりに人間離れした翼の男の怪力。それをまともに受けて無事で済むはずがない。
「――クルトさん!」
走り出そうとしたところ、今度はカタリナに腕を掴まれる。足を止めてカタリナに振り返るアメリア。カタリナが青い瞳を細めて無表情のまま言う。
「見て分からない? あの翼を生やした男は知性のない怪物よ。恐らく目につくものを無条件に襲っている。貴女が出ていけば今度は貴女が狙われる」
「だが放っておくことなどできない! 腹立たしいこともあるが彼は命の恩人なんだ!」
「貴女に何ができるというの? 今の自分が無力な子供だってこと忘れたのかしら」
カタリナの冷静な指摘。それは的を射たものだ。無力な自分にできることなどない。アメリアもそれは理解している。だがクルトが危険だというのにカタリナはあまりに落ち着いていた。それが妙に苛ついてアメリアは口調を強くする。
「それでも――ここで大人しく見ておくことなんてできない! カタリナさんは心配ではないのか!? このままではクルトさんが殺されてしまうかも知れないんだぞ!」
「クルトは負けないわ」
カタリナの発言にアメリアは反射的に出かけた反論を詰まらせる。
クルトは負けない。カタリナの淡々とした言葉。それは願望や期待ではない。彼女の口調には確かな自信に満ちていた。カタリナがうつ伏せに倒れたクルトを見つめる。彼女の視線に倣い、アメリアもまたクルトに視線を向けた。倒れたまま身動きのないクルト。だがここで彼の指がピクリと動いて――
「調子に……乗りやがって……」
ゆっくりとその場に立ち上がる。
クルトの無事を確認してアメリアは胸をなでおろす。しかしすぐに彼女はその安堵させた表情を強張らせた。体を揺らしながら立ち上がったクルト。その彼の全身から――
奇妙な闇色の霧が立ち昇る。
「なんだ……あの黒いモヤは?」
アメリアの背筋がゾクリと凍えた。クルトの全身から立ち昇った黒い霧。その不気味な気配に否応なく体が震える。この感覚は初めてではない。以前にも感じたことがある。それは開拓者になりたての頃、初めて未開拓地に赴いてその怪物と遭遇した時――
呪瘍と遭遇した時の感覚とよく似ていた。
クルトが俯けていた顔を持ち上げる。そしてアメリアはまたも全身を震えさせた。クルトの顔面に不気味な漆黒の文様が浮かび上がっている。まるで全身から立ち昇る黒い霧が皮膚に滲んでいるようだ。クルトが閉じていた瞼を開く。彼の瞼の奥に――
金色の瞳が輝いた。
「テメエを喰らってやる――来やがれ!」
クルトが牙を剥いて吠える。クルトの敵意に反応してか、翼の男が「キィイイアアア!」とこれまでになく興奮した様子で地面を蹴りつけた。
翼の男が地面と水平に空中を滑空する。その速度は道路を走る車と遜色ない。人間がこの速度の物体と正面衝突すれば無事では済まないだろう。だがクルトに逃げる素振りなどない。高速に迫りくる翼の男。クルトが文様の浮かんだ右手を正面にかざして――
男の顔面を無造作に掴んだ。
男の体が急停止する。直後に爆薬が破裂したようにクルトの足元が砕けた。翼を暴れさせて逃げようとする男。クルトの指先が掴んでいた男の顔面にミシリと突き刺さり――
男の頭部を首根っこから引き千切った。
「らぁああああああ!」
頭部を失った男をクルトが蹴り上げる。男の体がくの字に曲がり壊された人形のごとく上空高く飛ばされた。人間を数十メートル上空まで蹴り上げる。明らかに人間の膂力を超えた力だ。非現実的な光景を前にしてアメリアは目を見開いて呆然とした。
「一体……何が起こっているんだ?」
男が翼を広げて空中に停止する。どうやら頭部を失っても死なないらしい。翼の男を金色の瞳で見据えるクルト。全身に不気味な文様を浮かべて牙を剥いている彼のその姿は翼を生やした男と同様に怪物じみて見えた。
「あれがクルトの能力――彼は過去に喰らった呪いを自分の力として扱えるのよ」
カタリナがポツリと呟く。アメリアは強張らせていた表情をハッとさせてカタリナに振り返った。怪物じみた姿に変貌したクルト。その彼を無表情のまま見つめているカタリナ。眼鏡の奥にある青い瞳を僅かに細めて彼女が淀みなく説明する。
「貴女もクルトに呪いを喰らって貰ったでしょ? クルトは呪いの力を喰らい体内に溜めこむことができるの。そして好きな時に溜めこんだ呪いの力を解放することができる」
「呪いを喰らって溜めこむ……だと? どうしてクルトさんにそんな能力が?」
「クルトは貴女と同じ――呪いの感染者よ」
カタリナの衝撃的な言葉に――
アメリアは息を詰まらせた。
「呪いを喰らい溜めこむ。それがクルトの感染した呪いの特性。だから彼は他の呪いに感染することもない。だって彼はすでに感染者なんだから」
クルトの呪いを喰らう力。人間離れした彼のその能力は呪いの特性により得られたものらしい。アメリアはそれを理解してクルトと翼の男との戦闘に再び視線を戻した。
上空に浮かんだ頭部のない翼の男。その男が全身を細かく震えさせている。一体何をしているのか。アメリアがそう考えたその時、男の胴体から新しい頭部が突き出した。唖然とするアメリア。男が生やした新しい頭部。それは人間のものではなく――
漆黒の羽に覆われた鳥の形をしていた。
「キィイイイイイアイアアアアアア!」
大きなクチバシを開いて翼の男が鳴く。男の背中に生えた翼と両腕が一体化して、男の脚が歪に折れ曲がっていく。さらに全身から黒い羽が生えていき――
瞬く間に男が巨大な鳥に姿を変えた。
巨大な鳥に変貌した男がクルトに向けて急降下する。鋭いくちばしを槍の先端のように尖らせる鳥男。迫りくるその脅威を金色の瞳で見据えるクルト。鳥男が翼を畳んで体を加速させる。クルトは僅かに身を屈めると、突き出された鳥男のくちばしを回避、即座に鳥男の首と翼を両腕で拘束して――
鳥男の喉元にかぶりついた。
アメリアの口から小さな悲鳴が漏れる。翼を暴れさせて抵抗する鳥男。だがクルトの拘束が弱まる気配はない。クルトが金色の瞳を輝かせて鳥男の喉元に牙をさらに深くねじ込んでいく。鳥男の抵抗が徐々に弱まり――
鳥男の全身が唐突に白色化した。
クルトが鳥男の拘束を解く。白色化した鳥男が力なく地面に倒れた。翼をもがれようと頭部を千切られようと生きていた鳥男。その不死の怪物が死んでいた。
「ああ……疲れた」
クルトの全身から立ち昇っていた黒い霧が消える。それに伴い彼の肌に浮かんでいた不気味な文様も消えた。クルトが静かに瞼を瞬きさせる。再び開かれたその彼の瞳は――
普段通りの黒色であった。
「……クルト」
カタリナが声を掛ける。彼女の表情は相変わらずの無表情。だがその声には安堵の響きが感じられた。クルトの勝利を確信しながらも、やはり心配だったのだろう。カタリナの声にハラハラと手を振るクルト。戦闘中は狂気的だった彼だが、今はその表情に普段の軽薄な笑みを浮かべていた。
クルトが「さて……」と神殿に向けて歩き出す。休憩もせず開拓を続行するようだ。だがイザベラの話によれば鳥男とは別の脅威が神殿にまだ残されているはずである。鳥男を倒したからと安心できる状況ではないかも知れない。
(……呪い……か)
白色化した鳥男に視線を向ける。自分はクルトに噛まれたことで命を助けられた。だがこの男はクルトに噛まれたことで命を落とした。彼はもう手遅れだったということだろうか。アメリアはそう考えながら――
鳥男の死体に向けて駆け出した。
今度はカタリナとイザベラに腕を掴まれることなく、レストポイントを出てそのまま鳥男の死体へと駆けていく。白色化して地面に横たわる鳥男。その近くに立ち止まりアメリアは鳥男の死体を見下ろした。
(私とこの男の呪いは同じもの……ならば私も呪いが解けなければこうなるのか?)
だがやはり子供に姿を変えた自分と、鳥に姿を変えたこの男とでは、呪いの効果が一致しないように思える。果たしてエルピダ地区の呪いの特性とは一体何なのか。
(呪いが解けてしまえば……どうでもいいが)
アメリアはそう胸中で呟きながらその場に屈みこんだ。そして何の気なしに鳥男の死体に手を伸ばす。白色化した鳥男の死体。その表面にアメリアの指先が触れて――
――――
――――
『貴女の望みを教えて』
――――
――――
奇妙な声が聞こえてアメリアは咄嗟に伸ばした手を引っ込めた。全身にどっと冷や汗をかく。鳥男に触れた指先。細かく震えているその指先をアメリアはじっと見つめた。
(今の声は……?)
ただの幻聴か。だがやけにハッキリと声が聞こえた気がする。白色化した鳥男。物言わぬはずの死体。アメリアは慎重に呼吸を整えると鳥男の死体にまた手を伸ばして――
「――こいつは……」
ここでクルトの驚く声が聞こえた。
アメリアは反射的に手を引くと聞こえてきたクルトの声に振り返った。クルトはすでに神殿の前まで移動しており、神殿の扉を開いてその内部を覗き込んでいた。アメリアは慌てて立ち上がると神殿に向けて駆け出した。
「何があった?」
アメリアはそう声を掛けながらクルトの背後に立ち止まった。クルトが背後を振り返り表情を渋くする。レストポイントでの待機。その指示を無視されたことが不満なのだろう。だが特に文句は言わずクルトが扉の前から横に一歩移動する。アメリアはクルトの隣に並ぶと開かれた扉から神殿内部を見やった。
「これは一体……?」
外人種が残した遺跡。
その神殿内部には――
闇色の霧が充満していた。
「こいつは呪素だよ」
呆然としているアメリアにクルトが冷静に説明する。
「しかも視覚化するほど高濃度の呪素だ。こんな高濃度の呪素に触れちまったら一般人なら数十秒で呪いに感染しちまうだろう。なるほど……マイヤーハイム不動産の派遣した開拓者が何もできずに引き返すわけだ」
「数十秒で……それは防護服を着るなりで対策できないものなのか?」
「無理だな。呪素は力そのものだ。どんな物質も貫通しちまう。呪素は拡散しにくい性質があるからよ。場所によっては高濃度の呪素がこうして溜まり続けるのさ」
「では……どうしようもないのか?」
呪いの根源たる聖剣。それを目の前にして引き返さざるを得ないのか。アメリアはそれを考えて落胆した。だが肩を落とした彼女にクルトが気楽な口調で答える。
「普通ならともかく俺には関係ねえよ。俺は呪いに感染しないからな。どれだけ呪素濃度が高くても鼻歌まじりで通れちまうんだ」
「そうか……それなら良かった」
「つうわけで、お前は安心してレストポイントまで戻ってろよ。ここはまだ大丈夫だと思うが、下手に近づいたら呪素に当てられてお前の呪いが再発しちまうかも知れねえぞ」
「あ……ああ。分かった」
確かにこれでは手伝えることもなさそうだ。アメリアはそれを認めて一歩後退する。レストポイントまで走れば十秒と掛からない。そんなことを考えながら踵を返――
『どこに行くの?』
ここで奇妙な声がまた聞こえた。
アメリアの足が自然と止まる。赤い瞳を見開いてアメリアは表情を強張らせた。神殿内部に満たされた闇色の霧。触れることすら危うい高濃度の呪素。その呪いの源が――
彼女を優しく手招きしている。
「……アメリア?」
アメリアの異変に気付いたのだろう。クルトが訝しそうに眉をひそめる。だがクルトに応える余裕などアメリアにはなかった。全身から汗が噴き出す。呼吸が苦しくなり心臓が爆発しそうなほど跳ねる。体が大きく左右に揺れた。現実から乖離する意識。全ての感覚が曖昧にぼやけていく。だというのに頭に響く声だけはハッキリと聞こえていた。
『こちらにおいで』
(貴女は誰なんだ!?)
アメリアは懸命に叫ぶ。だが頭に響いているその声は問いに応えない。ただアメリアを優しく手招きするだけだ。神殿に満たされた闇。その中に引きずり込もうと――
何者かがアメリアの心に手を伸ばす。
『貴女の望みを叶えてあげる』
――――
――――
「――アメリア!?」
クルトの声が聞こえたのを最後に――
アメリアは意識を失いその場に倒れた。