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プロローグ

「はあ……はあ……くそ」


 湿気を含んだ粘り気のある空気。それを肺一杯に吸い込んで彼女は毒づいた。周囲に起立した無数の樹々。天井を覆い尽くす蜘蛛の巣のごとき枝葉。その隙間から覗いた空を見上げて彼女は赤い瞳を鋭くした。


「もうすぐ日が暮れる……急がなければ」


 夜の森を歩くのは危険が伴う。彼女は当たり前の知識を再確認して、止めていた足を再び動かし始めた。目的地は明確だ。森の各所に設けられた活動拠点(レストポイント)。そこにたどり着くことができれば消耗した体力を安全に回復させることができる。


(この先に進んでいけばマイヤーハイム不動産が設置したレストポイントがあるはず)


 方向を誤っていなければの話だが。彼女は自身が抱いた期待に自ら水を差す。如何せん歩き慣れてない森の中だ。どれだけ歩こうと代わり映えしない景色。コンパスを頼りにはしているが、自分が見当違いのところを進んでないという保証はどこにもない。


 彼女の後頭部でまとめられた赤い髪。その長い髪が彼女の歩行に合わせて左右にユラユラと揺れる。まるで獲物をおびき寄せる疑似餌のようだ。そんな想像がふと頭を過ぎり彼女は顔をしかめた。この森の中に存在する()()は獲物などという生易しいものではない。アレは人間が近年になり始めて遭遇した――


 紛れもない怪物なのだから。


「――ッ!?」


 近くの茂みから鳴らされた物音。それを敏感に察知して彼女は足を止めた。ドクドクと早鐘を打つ鼓動。緊張する体を慎重に宥めつつ、彼女は腰に差していた剣の柄にゆっくりと指先を触れた。赤い瞳を細めて茂みの一点を見据える。しばしの間。カサカサと揺れていた茂みから不気味な黒い塊が現れた。


 その黒い塊は一見して巨大な蜘蛛のように思えた。直径一メートルほどの球状の胴体。そこから生えた細長い八本の脚。目や口に類するようなものはなく、まるで威嚇するように闇色の全身を気味悪く震わせていた。


 ここでまた近くの茂みが揺れる。彼女は正面にいる黒い塊に意識を傾けながら視線を左右に移動した。左右の茂みからそれぞれ一体の黒い塊が姿を現す。正面と左右で計三体。黒い塊は個体別に姿形が僅かに異なる。だがその存在は総称してこう呼ばれていた。


「……()()


 この近辺に出没する怪物。未開拓地における脅威。呪われた土地が生み出す天災。彼女は脳裏に浮かんだ黒い塊に対する説明、解釈を意識に留めながらも集中した。目の前にある危機。それを打ち払うべく――


 粛々と戦闘準備を整えていく。


 正面の黒い塊が襲い掛かってくる。彼女はふっと息を吐くと同時、剣を抜刀してその刀身を横に奔らせた。刃物のように細い脚を振るわせる黒い塊。その怪物の胴体を剣があっさりと両断する。分厚いゴムを切断したような感触を覚えつつ、彼女は分断された黒い塊が地面に落ちるのを見届けて――


 即座に身を正面に投げた。


 左右から迫りきていた二体の黒い塊が鋭く脚を振るう。後頭部を掠めたその足先にヒヤリとしながら、彼女は地面を転がりつつも素早く体勢を整えた。前後を入れ変える形で二体の黒い塊を正面に据える。二体の黒い塊が再び襲い掛かってきたところで――


「――はっ!」


 彼女は裂帛の気合とともに刀身を上下左右に振った。


 切り裂かれた二体の黒い塊が地面に落下する。彼女は油断なく剣を構えたまま足元に落ちた黒い塊を見据えた。剣でバラバラにされた黒い塊。その断面には不気味な闇だけが覗いている。そのまま十秒が経過。彼女は構えていた剣をゆっくりと下し――


 ここで彼女の足首に激痛が走る。


「――ぐっ!?」


 彼女は苦悶の声を漏らすとともに反射的に身を引いた。痛みのある右足首に視線を下す。足首を守る分厚い革のブーツ。そのブーツが切り裂かれて足首から出血していた。


 彼女は表情を歪めつつ足元に視線を移動させる。地面に転がる三体の黒い塊。その一体が体を切り裂かれながらも脚を鋭く振るっていた。黒い塊の足先に付着している赤い液体。それを苦々しく見やり彼女は痛恨に呻く。


「――っ……しまった」


 この怪物は不死身だ。体を切り裂かれようと決して死ぬことがなく、身動きができないからと不用意に近づいてはならないのだ。彼女もそれを当然理解していた。だが森の中を一人で歩き続けたことで疲労が蓄積し、判断力を鈍らせていた。


「く……そ……」


 怪我をした右足を引きずりながら彼女はその場を離れる。不死の怪物はバラバラになろうともいずれ再生する。その前にここから少しでも遠くに離れる必要があった。幸いにも右足の怪我は軽傷で、走ることは難しくとも歩くには支障ない。もっとも――


 怪我の痛みなどよりも致命的な問題を彼女はすでに抱えていた。


「――かは!?」


 彼女の全身がドクンと脈打つ。彼女は力なくその場に膝をつくと自身の体を両腕で抱きしめた。凍えるように体がガタガタと震える。それに伴い体から力がこぼれ落ちていく。否。力だけではない。まるで濡れた雑巾を絞るようにして――


 体の内から魂までも抜け出ていくようだ。


「――こ……これは?」


 急速に霞んでいく意識。無数に千切れていく思考を懸命にかき集めて彼女は理解する。薄暗い森。未開拓である土地が宿した力。条理を改竄する不条理。呪い。その異質な力が怪物を介して感染したのだ。そしてこの力に感染したら最後――


 助かる術などない。


(こんな……ようやく……開拓者になり……夢を……叶えられると……)


 痛みはない。ただ圧倒的な喪失感だけが意識を蝕んでいく。周囲から音が消えて森特有の土臭さも感じなくなる。浮遊感が全身を包み込んでいく。彼女は強烈な眠気に襲われながら霞んだ視界を懸命に見開いた。


 いつの間にか目の前に――


 大きな黒い影が立っていた。


 大人の男性ほどもある黒い影。霞んだ視界ではその姿を正確に認識できない。だが影のまとう歪な気配がその正体を告げている。その気配は呪いの力を宿した怪物――


 呪瘍なる存在と酷似していた。


(……ここまで……か……)


 黒い影が近づいてくる。彼女は身動きもできず影を見つめていた。彼女の首筋に黒い影が伸びていく。何をするつもりか。彼女の脳裏に浮かんだ疑問。直後。彼女は首筋に小さな痛みを覚えた。動揺。困惑。そして直感する。黒い影に首筋を噛まれた。体の中に異物が刺さる悪寒。不快感。だがそれは瞬く間に別の()()()()へと変化して――


「ふぅん……ああぅん……」


 意識を失う直前に彼女は――


 アメリア・エンゲルスは――


 甘い吐息を漏らした。




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