9. コンビニの恵野さん
アパートの近くにあるコンビニのアルバイト店員の名前は「恵野かなえ」という。同じ大学の同じ学部に通う同級生だ。とは言っても、大学に通う学生の数はとても多くて、一つの学部だけでも三百人弱もいる。その中で、ピンポイントに知り合って、仲良くなると言うのは、なかなか難しい。殊に、恵野さんのようにアルバイトに忙しい人とはなおさらだ。そう言う人と知り合いになるには、例えば、同じサークルに所属したり、熊谷のように偶然の出来事でもない限り、同じ学部の同級生と言えども、卒業までの四年間、その名前も、存在すら知らないままで過ごすと言うことだって、珍しくはなかった。
だから、あの禿頭の教授の「ホモじゃないソラくん」発言がなければ、ぼくたちは知り合うことなんかなかったと思う。実際、大学に入って下宿するようになってから、ぼくたちは何度もコンビニで、客と店員というかたちで顔を合わせているのに、同じ大学の同級生ということさえ知らなかった。そういった意味では、禿頭の教授と熊谷には感謝しなくちゃいけないのかもしれない。彼らが居なければ、ぼくと恵野さんは「客と店員」のままだっただろう。
あの一件以来、コンビニへ行く度に、レジで応対する恵野さんと話をするようになった。話と言っても「今日の講義眠かったね」とか「レポート課題終わった?」なんていう、レジ打ちの間にだけ交わす、他愛もない会話だ。
それでも、実家から遠く離れた、知り合いの少ないこの街で、新しい知り合いが出来ることは、とても嬉しいことで、彼女がもしも、ぼくにとって重要なことを教えてくれたのなら、それは、知り合えて本当に良かったと思う……。
柚花の家出を知ったぼくは、新しい母を部屋に残したまま、柚花を捜すためにアパートを飛び出した。目ぼしい心当たりはなかったけれど、新しい母の言葉を借りるなら「名推理」くらいは出来る。
柚花は再会した二ヶ月前のあの日、即ち家出した日から、毎日のようにぼくの部屋にやって来ていた。その理由はよく分からないけれど、今大事なのは、柚花がぼくのところにやって来た理由よりも、柚花が毎日ぼくの部屋に上がりこむようになった、と言う事実の方だ。
高校の授業が終わって、それからいくつも電車を乗り継いだり、バスで通っていたと言うのは、あんまり現実的な考えじゃないと思う。むしろ、柚花はずっとアパートの近くにいたと考えた方がいい。もっとも、ぼくはそのことに、随分前から感付いていた。だけど、それは、柚花が今住んでいる家が近くにあるからだと思っていた。家出していたなんて、露も思わなかった。
きっと柚花は、二ヶ月の間どこかで、寒さをしのいでいたのだろう。そして、ぼくが大学から帰る時刻になる前に、アパートの部屋の前でぼくの帰りを待っていたのだ。
ぼくはとりあえず遺跡アパートの周囲を駆け回ってみた。公園とか、お店。この二ヶ月間の記憶を順にたどって、柚花と行ったことのある場所を巡ってみた。
だけど、当然のように何処にも柚花はいなくて、部屋に新しい母を残して飛び出した時には、まだ夕日に染まっていた空は、いつの間にか夜の帳が下りてしまっていた。昨日と同じように、星の瞬かない夜空を見上げ、途方に暮れたぼくは、アパートへ引き返すことにした。
その帰途、ぼくは恵野さんのバイトする、あのコンビニの前を通った。夜になっても、二十四時間のコンビニは、煌々と明かりを焚く。それを、ぼくは少しだけ憎らしく思った。無表情な蛍光灯の光は、青白くて眩しいだけで、何の温か味もない。そんな人口の光が、星がきらめく夜空を侵していく。そして、ついには夜空から星を一つ残らず消し去ったのだ。
もしもあの時、アパートの屋根の上に、目が奪われるほどの星空が広がっていたとしたら、柚花は今日もアパートの部屋の前で待っていてくれたのかもしれない。
そう思えば思うほど、コンビニの光が憎らしい。こんな場所はさっさと通り過ぎてしまおう。そう思ったときだった。
「あっ、此木くん。こんばんわー」
コンビニの入り口を清掃するために、自動扉から出てきた恵野さんが、うな垂れて家路を歩くぼくを、目敏く発見して声を掛けてきた。コンビニのユニフォーム姿の恵野さんは、普段愛想のない店員とは思えないくらいの笑顔でぼくの方に近づいてくる。そして、ぼくの背後で蠢く、暗いオーラに気付いた。
「あれれ、どうした?。元気ないじゃん……」
無視するわけにも行かず、ぼくは「風邪気味なんだ」と適当な嘘をついた。きっと、それが嘘であることは、恵野さんもすぐに分かったに違いない。それでも、恵野さんは、ぼくの嘘に付き合ってくれた。
「そりゃ大変だっ! 風邪は万病の元だって、わたしのお婆ちゃんが言ってたよ。そうだ! 此木くんの下宿先って、この近くだよね? わたし、看病しに行ってあげようか? あっ……、でもそんなことしたら、あの可愛いカノジョに殺されちゃうね」
コンビニの前の往来で、恵野さんが随分と物騒なことを言う。「カノジョ」って、もしかして、熊谷のことだろうか……。でも、熊谷は良き友人であって「カノジョ」なんかじゃないし、そもそも熊谷には喜多野さんという恋人がいる。もしも、勘違いしているのなら、今のうちに訂正しておかなきゃいけない。
「キャンパスではよくつるんでるけど、熊谷はただの友達だ。むしろ、彼女なんていったら、熊谷の彼氏にぼくが殺されるよ」
と、ぼくが冗談めかして言うと、恵野さんは強く頭を左右に振った。
「違う違う、熊谷って人じゃなくて。ほら、ときどき高校生くらいの女の子と買い物に来るじゃない。あの娘、此木くんの彼女じゃないの?」
どうやら、恵野さんは柚花のことを言っているらしい。確かに、恵野さんとこんな風に話しをする前から、何度か柚花と一緒にこのコンビニに買い物に来たことがある。でも、残念ながら、柚花も「カノジョ」なんかじゃない。
「ああ、あいつはぼくの妹だよ」
「ふーん、なんだ、そうなんだっ。いやぁ、すっごく仲よさそうだったから、もしかしたらって思ったんだけど……。そっか、そっかぁ」
まるで、ぼくに「カノジョ」が居ないことが嬉しいと言わんばかりに、恵野さんはニコニコしながらぼくのことを見つめた。熊谷ほどじゃないけれど、恵野さんも結構美人だ。特に、ぼくを見据えるキラキラした瞳は大きくて可愛らしい。ぼくは、そんな恵野さんの視線にちょっと恥ずかしくなって、視線を逸らした。
「あっ、そう言えば」
何故かぼくに視線を送り続けていた恵野さんが、突然何かを思い出して言った。そして、ちょっとだけ深刻そうな顔をする。
「もしかすると、見間違いかもしれないんだけど……。この前、偶然その妹さんを見かけたのよ。まだお昼なのに、高校生が何人かたむろしてて、何だろうって思ったの。まあ、人のこと言えないけどね。わたしも講義サボって、友達と繁華街に遊びに行ってたワケだから」
「柚花を見たって、何処で!?」
「へっ? 確か繁華街の方。アーケード抜けたところに広いロータリーがあるじゃん。白十字通りって言う。そこの中央にある噴水のところだったと思う」
恵野さんの言葉に、希望の光が見えた。
「ありがとう、恵野さん。助かったっ! 今度なにかお礼するよっ」
ぼくは手早くお礼を言うと、いても立っても居られなくて、アパートとは逆に伸びる、繁華街への道に向かって走り出した。
「期待しないで待ってるねーっ」
ぼくの背中に向かって、大きな声で恵野さんが言う。ぼくは振り返らずに手を振った。
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